番外編②(前編) 三浜渚という女性
「もー、ほんとやれないっての!」
ふた部屋分のベランダに響く、愚痴の声。
「撮影のスタジオ、変えてくれないかなあ」
「あはは……お疲れさま、モモちゃん。今日も大変だったね」
5センチの壁越しに、仕事の疲労を労わる。10月になって、夜風もずいぶん冷たいものになってきた。
そして私たちは同時にお酒を飲む。
「ほんと、ナギさんがいてれくれてよかったよー。でないと、私のイライラ溜まりっぱなしだもん」
「いろいろある仕事だもんね。こんなんでよければ、いくらでも付き合うよ」
「ありがとー、やっぱナギさんと話してると落ち着くなー」
彼女の声音は、テレビでも、ライブでも、握手会でも聞いたことのないもの。だからこそ、本心で言ってくれているのがわかる。
「私も」
そのつぶやきはあまりにも小さくて。夜の中に溶けていく。
「私もモモちゃんがいてくれて、ほんとによかった」
たぶんあなたは、気づいていないだろうけど。
私の平日は、朝8時30分のアラームから始まる。
30分くらいかけて家事、それに化粧をそこそこで済ませ、家を出る。
春から所属することになった大学の研究室は、電車でひと駅。4か月が経過し、ようやく慣れてきた。
道中、イヤホンから流れるのはもちろん、大好きなアイドルの歌。少し前にリリースした新曲も彼女の清純、そして元気なイメージとぴったりで、すぐにハマった。
気分上々。歌声を聞いているだけで、私の世界は晴れやかになる。
だけど私の世界を覆う膜はあまりにも薄くて、すぐに現実という名の薄暗いものたちが侵食してきて。
「う~ん、三浜君の研究はいまいち進んでいないねえ」
「はい……すみません……」
進捗を報告するゼミでは、教授からの厳しいコメント。
「あと、発表のときはもう少し声をハキハキとしないと、誰も聞こえないよ」
「はい……」
ゼミという名のダメ出し以外では、ずっとパソコンと向かい合い。来る日も来る日も計算ソフトに数値を入力し、トライ&エラーのくり返しだ。
「三浜さーん。お昼、一緒にどう?」
「あ、その……私は……」
研究室が男ばかりなのに気を遣ってか、先輩のひとりが声をかけてくれる。
「すみません……大、丈夫……です」
「そっか、また誘うねー」
そうして他の学生はみんな食堂へと旅立つ。ドアの向こうからは、うんざりしたような声。
「お前もよくやるよな。俺もう関わらないことにしてるぞ」
「ほっとけよ。あの人、いつ誘ってもあんなんだし」
「まあ、教授が学生同士仲良くって言うから、一応な」
彼らの声が聞こえなくなってから、引き出しからパンを取り出してもそもそ食べる。
私がうまくやれてないのは、わかってる。
和を乱していることも、わかってる。
けど私には、どうしていいか、わからないんだ。
「ふうー」
私が家に帰るのは、いつも夜8時をまわってから。
コンビニで買ってきたお弁当で、遅めの晩ごはん。
少し前まではいろんな種類のお弁当を食べ比べたりもしていたけど、今はそれをする気すら起きなくて、安いのり弁一択。
食べ終わったころに、スマホが震えだした。電話だ。
「なに? お母さん」
『渚? ああ、よかった。今日はすぐに出れたのね』
「今日はバイトなかったから」
『コンビニだったかしら。都会のコンビニは変な人が多いみたいだし、気をつけるのよ?』
「大丈夫だって」
せいぜい酔っ払ったオジサンや学生が来るくらいだ。
『ごはん、ちゃんと食べてる?』
「食べてるよ」
『掃除も洗濯も、ちゃんとやるのよ?』
「わかってるってば」
連続する小言に、少しだけイラっとして、
「お母さん、それが言いたくて電話してきたの?」
『ああ、そうだったわ』
苛立ちを少しばかり口調に出したつもりだけど、お母さんにまったく気にする素振りはなく、
『あなた、これからのことをどう考えてるかしらと思って』
「……どう考えてるっていうのは?」
『将来のことよ。ほら、就職とか……結婚とか』
ああ。そういうことか。
『ほら、女の子が大学院に行くのって珍しいじゃない? そりゃあ、あなたが行きたいって言ったのはわかるんだけどね? でも、やっぱりお母さん心配で』
「つまり、何が言いたいの?」
『今からでもいいから、こっちに戻ってきたらどう、と思って』
回りくどい前置きを終えてようやく本題に入れたからか、電話口の声は饒舌になり、
『就職先のことなら心配ないわよ? ちょうど、お父さんの知り合いの会社が事務員さんを探してるって言ってたから』
「お母さん」
『そこなら同年代の男の人もたくさんいるから、結婚相手を探すには申し分ないし、なんならお母さんの友だちに聞いてお見合い相手を探してもいいし――』
「お母さん!」
ぱりん、とガラスが割れたような気がした。バイト先でもこんな大きな声を出したことはなかった。
「心配してくれるのはうれしいけど……そういうの、いいから」
『渚……』
「私、ちゃんとやってるから。大丈夫、だから」
『そう……』
ようやく私の気が立っていることを察してくれたのか、口調は落ち着く。それを聞いて、私も少し冷静さを取り戻すことができた。