番外編① いつの日か、ファーストキス
「お前のことが……好きだ!」
彼の告白。その言葉だけで、私の胸は高鳴った。
「私、も……」
ちゃんと言ってくれた。だったら、私も自分の気持ちを伝えなきゃ。
「私もっ! あなたのこと……好き!」
がばっ!
瞬間、私の身体が彼に包まれる。私も腕を回して、抱きしめ返す。
そして、見つめあう。
「――」
「――」
ふたりの間に言葉はない。
だけど、すべてが通じ合っているように。お互いの顔は吸い寄せられるように近づいて。
唇が、重なる――
「――っていうシーンが今度あるんだよね」
チューハイ片手に、ぼやくように私は言った。
「それ、最近出てる深夜ドラマの話?」
「まーねー」
答えて、ぐびりと缶をあおる。今日は桃のチューハイだ。
「てことはモモちゃん、今日はドラマの収録だったんだね」
「うん」
渡された台本にばっちり「キスシーン」と書いてあった。
「ていうかナギさん、やっぱり見てるの?」
「そりゃあもう大ファンですから」
声だけで自慢げにしているのがわかる。なんで自慢げなのかは知らないけど。
いつもは、ひとりのアイドルと、ひとりのファン。だけど、夜のベランダ――5センチの壁を隔てたこの場所で、紆余曲折ありながらも私たちは本音を言い合える関係になった。
「にしてもすごいよね、モモちゃん」
「なにが?」
「ドラマの主演だよ? 一流芸能人ってやつだよ」
「そんなことないよ」
ダメ元でいいからと、事務所に受けさせられたオーディション。私自身もどうせ落ちるだろうと思っていたのに、なんの間違いか、私はヒロイン役で合格してしまった。
「このまま大女優の階段をかけ上がっちゃうんじゃない?」
「ははは、ないない」
いつものアイドル活動だって演技してるようなもの。これ以上演技が増えたら収集つかなくなりそうだ。
――それに。
「ま、ファンの私としてはありがたいけどね」
「……」
「なんてったって、テレビでモモちゃんを見れる機会が増えるんだし」
「……」
「モモちゃん?」
ぐいっとチューハイをあおる。お酒の力を借りるなんて、私も悪い大人になったなあ。
「ねえナギさん」
そして、今日の本題に入る。
「ナギさんは――キス、したことある?」
「キス?」
「うん、キス」
ちゅー。口づけ。ベーゼ。接吻。
ナギさんは「あー」となにか納得したように声を出して、
「キスシーン、やっぱり緊張してるんだ?」
「そりゃまあ、ね」
そもそもドラマの撮影なんてものが初めてだし。
「相手はやっぱりあの人? 主人公役の若手俳優の」
「うん、そうそう」
「人気急上昇らしいね」
「って言っても、今回のドラマで会ったばっかで、ぜんぜん知らないんだけどねー」
聞けば、デビューして間もないのに、深夜ドラマとはいえもう主役に抜擢された新進気鋭の人気若手俳優らしい。実力派らしく、間違いなく私なんかよりも演技慣れしている。
「ていうかモモちゃん。私のことなんか聞いてもしょうがなくない?」
「あるよー。だって私、ほかの人のキス事情とかぜんぜん知らないし」
「なにさキス事情って」
ナギさんは笑う。缶ビールをひと口飲んだんだろう、ぷはあと息を吐くのが聞こえて、
「私のことなんかより、モモちゃんの方が気になるけどなあ」
「わっ、私?」
「そりゃそうだよー。アイドル佐倉桃華のファンとしても、『モモちゃん』が好きな人としても、ね」
「……」
からかわれている気がする。いや、気のせいじゃない。
この壁があると、ナギさんは本当に自信のある女性だ。くそう、この間のサイン会に来たときはめちゃくちゃオドオドしてたのに。
「で、どうなの?」
「え?」
「キス、したことないの?」
「それは、その……」
あらためて訊かれると、なんと答えていいものか。いや、答えはわかりきってるんだけど。
「キスもなにも、だいたい私まだ付き合ったこととかないし……ごにょごにょ」
もういい歳だし、こんな仕事をしているんだから、ファーストキスは好きな人と……なんて幻想は捨ててしまうのがいいに決まっている。
なのに、こういうところはちゃっかり女々しい自分が嫌になる。
だからこういう話題は苦手なんだ。
「そっかそっかー。モモちゃんのファーストキスはまだなのかー」
「なんでナギさんがうれしそうなのさ」
どうせ私は経験の足りない女ですよーだ。
「それじゃあさ」
「ん?」
「私と――しておく?」
「え……え!?」
ベランダにいるということを忘れて、思わず大きめの声を上げてしまった。
今この人なんて言った?
キス? 私と? ナギさんが?
「な、な、ナギさんってばなにを」
「いや、ね? 初めての相手があんまり知らない俳優さんになるくらいなら、まだ知ってる人の方がいいかなーって」
「ナギさんの言うこともわかるけど」
いいの? 女の子同士だよ?
いや、たしかにここでこうしてるときのナギさんは好きだし、気持ちも伝えたし。ナギさんも私のこと好きだって言ってくれてたし。
でもでも、だからって今ここで? キス? そんな、誰かにあげちゃうくらいならとりあえず安心・安全な方にあげちゃえ、とかそんな――
「なーんてね」
「……へ?」
「冗談だよ、冗談」
「じょ、じょうだん?」
「あははは、モモちゃんが慌てるのがおもしろくて、ついね?」
「も、もおおお!」
「あはは、ごめんごめん」
人が悩んでるのに!
「でも、ほんと冗談だから」
「ナギさん?」
「トップアイドルのモモちゃんとキスなんて、私なんかが相手じゃおこがましいよ」
モモちゃんの唇を奪うなら、その人気俳優くらいじゃないと、相手は務まらないよ。
なんてナギさんは言う。
自分とじゃ、身分が、住む世界が、違いすぎる。
つまりはそういうこと。
だけど――
「いいよ」
「え?」
「いいよ、ナギさんとなら」
この場所でなら、話は別だ。
ここを離れればナギさんの言うとおり、私たちはアイドルとファン。
だけどここでなら。
私たちは、好きな人同士なんだから。
「……」
黙って、私はもう一度、缶を傾ける。
それを、壁の外側からナギさんの方へと渡す。
「はい」
「え?」
「受け取って」
「これって、モモちゃんの」
「そう。私が口、つけたやつ」
缶を持ったナギさんが、少しきょとんとした声で、
「これって、つまり間接キス?」
「うん。だから、ナギさんが飲んでるやつもちょうだい」
自分でも硬い声になっているのがわかる。
と、しばしの静寂。
あれ、もしかして変に思われた?
なんて考えていると、
「ぷっ」
聞こえたのは、笑い声だった。
「あははっ! いやー、そうきたかー」
「な、なんで笑うのよ!」
「だってモモちゃんがすっごい乙女だから……」
「お、乙女?」
いやだって壁があるからキスなんて難しいし、そもそもいきなりキスなんてハードルが高いし……。
あーもう! やっぱりこの手の話は調子狂うなあ!
「じゃあお返しにこれ。私が飲んでたやつ」
今度はナギさんの方から、缶を渡される。
「ビールだから、おいしくなかったら飲まなくていいからね」
「……いい。飲む」
銀色のラベルが、きらりと光る。そして、飲み口の部分も。
ナギさんが……さっきまで飲んでたやつ。
ええいっ!
意を決して、私は口をつけ、飲む。
「ぷはっ」
感じたのは、ただただ炭酸と苦みだった。
あーやっぱり苦いなあ。ビール、まだ慣れないかも。
「ありがと」
と、壁の向こうから小さく返ってくる。
「いいよ取り繕わなくて。どうせ私、恋愛はお子ちゃまだから」
あと舌も。
「ううん、そんなことないよ」
ナギさんは言う。
「モモちゃんの気持ち、うれしいな」
「……」
恥ずかしくなって、お酒をぐいっと飲みたい衝動に駆られる。
けれど、私の手にあるのは苦手なビールだけで、ただただ顔の熱が引くのを持つことしかできなかった。
それから1週間は、仕事が忙しくてナギさんと話せなかった。
ようやく夜に時間ができたので、いつもの合図――3回のノックをしてから、ベランダに出る。
「それで、どうだったの? 収録」
他愛のない話もそこそこに、ナギさんが訊いてきた。
「一応、無事に終わったよ。再来週に放送の予定かな」
自分で見ようとは思わないけど。
「いや、それもそうなんだけど、さ」
「ん?」
「どうだったのかなーと思って」
「なにが?」
「その、キスシーン」
ナギさんの言葉は、いつもより歯切れが悪い。顔を合わせているわけでもないのに。
「どう、っていうのは?」
「その……本当にしたのかなあって……キス」
あー、なるほど。
「……気になる?」
「そ、そりゃあ気になるよ。いちファンとしてはさ」
「えー、それだけ?」
訊くと、壁の向こうから呼吸を整えるような吐息が聞こえてきて、
「ううん、モモちゃんをひとりの女の子として好きだから、気になります」
「……そっか」
少しだけ胸が高鳴るのを抑えるように、私は息を吐く。
「あっ、そうだ。今日は私がお酒買ってきたから」
「え?」
「ほらほら。渡すから手、出して?」
「う、うん」
戸惑う声が聞こえつつも、壁の外側からきれいな白い手が出てくる。指先には、見慣れた艶のある真っ赤なネイル。
私はその手をつかむと――
ちゅ。
彼女の腕に、キスをした。
「え……えっ!?」
「あははは! ナギさんてば声大きすぎー」
「いやだって、モモちゃん、今……」
「へっへー。はいこれ、いつも飲んでるやつね」
得意げに笑い、私は今度こそナギさんに缶ビールを渡す。
「かんぱーい」
「ちょ、モモちゃん」
そして、自分用の缶チューハイを開けて勢いよくあおった。
「ぷはー。仕事終わりのお酒はやっぱりおいしー」
「それよりも、どうだったのさ。教えてよ」
「えー、どーしよっかなー」
私はチラ、と壁の方を見る。その向こうでナギさんがハラハラしているのが、雰囲気で感じ取れた。
「それはねー」
「それは?」
「ひみつ」
「えええー」
「この前笑われた仕返しだよー」
「そんなー」
「放送見たらわかるかもねー」
私の笑い声が、夜の中に溶けていく。そうして夜も、ふけていく。
いつか私も、好きな人に面と向かって好きだと言って。
好きな人とちゃんと、キスができる日がくるんだろうか。
そんなことを思いながら、私はレモンチューハイを傾けた。
最終話のあとがきにも書かせていただいたとおり、後日談の番外編になります。本編が思いのほか読んでいただけてるので、味をしめて早速書いてしまいました。
僭越ではありますが、もし「こんな話が読みたい」といったご要望がありましたら、ぜひお教えいただけるとありがたいです。(決してネタに困っているわけではないです、、汗)
他の作品ともども、今後ともよろしくお願いします!