三番目の母が来た。
死んだと思っていた二番目の母が、本当は耕耘機の営業マンと駆け落ちをしたのだと知ったのは十一のとき。子ザル達は含み笑いで、その残酷な真実を私に告げた。
いや、残酷なんてのは大人になった私が自分の人生をドラマティックに語るときに付ける、アクセサリーのようなもんで。
「うちのお母さんが言いよったもん」
と小鼻を膨らませるその小ザルより、大人達の嘘が私の自尊心を傷つけた。
実母は私が生まれて直ぐに、この世を去った。しかしこの実母につての話も、どこか嘘臭い。二番目の母が嘘だったのだから、一番目だってどうだか分からないじゃないか。
私の中にいつもいつも燻る疑問はそのことで、実際三十歳を超えた今でも、踏みつけて、踏みつけて、いくら踏みつけて消そうとしたって燻る火は消えやしない。
真実は、あの二千人足らずの閉鎖的な村に、今もある。
だからと言って、私が語るのはこの実母についての話ではない。
三番目の母である、路代さんについてだ。
彼女と初めて会ったのは、小学校の最後の夏休み。実はその時に、一悶着あった。
縁結びの実績を買われた、岡本さんと言う年配の女性から渡された写真と、実際現れた路代さんが全くの別人だったのだ。
三度目こそはと慎重になった父は、彼女と一年近く文通を続けていた。時々「さやかちゃんへ」と、若干右に傾いた、癖のある文字で書かれたカードが届いた。そこに挟んであったのは、数枚のスナップ写真。中年の域に差し掛かった大福みたいな彼女が、成人式の時に来たであろう派手な着物で微笑んでいる。
容姿のアラを探せば、幾らでも見付かった。でも私と祖父母はお互いに頷きあって、「良さそうな人のごたるね」と微笑んだ。
父は四十を過ぎていたし、結婚は三度目で多感な時期の娘が一人。そして年老いた両親と同居しているのだから、贅沢は言ってられなかった。
あの日、村では滅多に見ないタクシーが玄関先にとまっていた。私は自分の部屋で大人しくしていなければならず。また新品のワンピースに皺を付けてはいけなかったから、不自然な格好で窓際に寄りかかっていた。
タクシーのドアが開いて、草履がすっと地面に降りた。
彼女が、陽射しを手で遮る仕草をする。
あぁ綺麗な人だ。と、思った。
彼女の細く長い首。
それを少し傾げて、うなじの汗をハンカチで押さえる仕草。
私はその一連の動作を、うっとりと眺めた。
「写真の人じゃなかね!」
そんな私を、祖母の苛立った声が現実に引き戻す。
私は磨き上げられた長い廊下を、慌てて玄関まで走った。
「清佳ちゃん?」
黒髪をゆったりと纏め上げた路代さんが、膝を曲げて私に視線を合わせる。
「誰ね?」
無邪気さとずうずうしさで祖母の着物の袖を引くと、乱暴に振り払われた。
「今、何て言うたと?」
路代さんが左の耳に手を添えて、にっこりと微笑む。大きな瞳は潤んでいて、キラキラと光っていた。子供の頃に患った熱病で右耳は聞こえず、左も難聴なのだった。これは、彼女に付き添って来た岡本さんの説明だ。
「暑か、暑か」
岡本さんは大袈裟に扇子をパタパタとさせて、その陰で祖父母の反応を狡賢そうな狐目で窺っていた。
「路代さんは、ぎゃん綺麗かけんー。見た目だけで判断されたくなかて、写真は路代さんのお宅の女中さんのば送ったったい。路代さんは家柄も申し分なかし、ちゃんと躾けられたお嬢様やけん」
「かもしれんけど……。耳のことは……、聞いとらんですよ!」
気性の荒い祖母が、雉のように鳴いた。私は反射的に、ぐっと息を止める。
「生まれつきって訳じゃなかしねぇ、もし子供が生まれても遺伝せんけんー。そぎゃん心配せんでも良かですよ、奥さん!」
岡本さんはそう言って、大きく張り出した臀部を擦りつけるようにして玄関先に腰掛けた。
「上がって貰いなさい」
祖父はいつもと変わらぬ、まるで庭の鯉のようにゆったりと落ち着いている。祖母は怒りを隠そうとせず、同時に恥じているように見えた。
父には、三度目の結婚をなんとしてもしなければいけない理由があった。それは幼い私がいたことと、村長である祖父の跡を継ぐ必要があったからだった。
二度も結婚に失敗し、家庭すら人並みに築けない男が、村を仕切れる筈がない。
祖父の後援会からそんなを意見が出ていると知った祖母は、青ざめた。だからプライドを脇に置いて、岡本さんに嫁探しを依頼したのだ。しかし、その屈辱は報われなかった。
私は父を見上げた。
父も祖母と同じように、さぞや怒っているだろう。
しかし父は真夏だと言うのに、寒さに悴んだように小刻みに震えていた。餌を前にした兎のような真っ直ぐな視線で、路代さんを見つめている。その視線の意味は、子供の私にでさえ理解できた。
父は路代さんに、一目惚れしたのだ。
その夜から、父と祖父母達の話し合いが初められた。真夜中にトイレに起きると、必ず居間の電気が付いており、気配を素早く感じとった父があからさまに声のトーンを落とす。祖母は路代さんとの結婚を反対し、恋に落ちた父が説得を繰り返す。
これは私の想像で、実際はどうだったのだろう?
あれから二十年近く経つのに、父は路代さんの話題を避けるし、祖父母は亡くなったし、岡本さんも……、今では聞くこともできない。
結局、路代さんは私の三番目の母になった。
嫁いで直ぐに、路代さんは祖母を攻略した。全てにおいて完璧にこなせて、それはいつも祖母が満足いくものだったから。
「お義母さんの言う通りにしとるだけですけん」と、謙虚で控えめな路代さんは祖母の理想の嫁で、美しく水密糖のように甘く柔らかい彼女を、父は満足気に眺めた。
私は路代さんが洗濯物を畳む姿が好きだった。すこし崩れた正座をして、どれもこれもきっちり畳む。
靴下は二足合わせて履き口を少し折り曲げる。
下着はお握りのように小さな三角に握られていた。
私はそんな路代さんにひっそりと近づいていって、微かに聴力を有する左耳の傍で、「わっ」と大きな声を上げる。路代さんは大袈裟に驚いたふりをして、私の話を聞こうと補聴器を耳に当てるのだ。でも本当は、補聴器を付けない路代さんの耳に唇を付けて話すのが好きだった。唇が、私の息が、路代さんの耳の柔らかな産毛を揺らす時、「清佳ちゃん、くすぐったかよ」と笑って、柔らかく抱き締めてくれるから。
程なくして、路代さんは男の子を身籠もった。祖母は発狂せんばかりに喜んで、岡本さんにお礼の電話を掛けた。
「あら、そりゃぁ何も知らずに……、お悔やみ申し上げます」
チンと、黒い受話器を置いて、路代さんを振り返る。
「岡本さんは酔って歩いとって、崖下に落ちなったとげな」
「え?亡くなったとですか?」
「うん、何日も見付からずに、警察の捜索しとったって……。新聞に、そぎゃん事件の載っとったかなぁ?最近、路代さんのことのあったけん、気にしとらんやったけん」
「岡本さんが?」
青ざめる路代さんの肩を、父が抱き寄せて祖母を責める口調になった。
「お母さん!そぎゃんこと、今の路代に言わんでも良かろ?ただでさえ……、辛かとに」
あぁ、男の人の傍にいる時の路代さんは、本当に綺麗だだった。
路代さんは流産をしかけて、退院して来たばっかりだった。妊娠してからも、祖母の期待に応えようと無理をしていたのだ。
「お義母さん、すみません」
父に体を預けるようにして寝室に消える路代さんの背中を、祖母が不満そうな顔で見つめている。もうすぐ「私達の時代だったら」と、言い出すだろう。皺の寄った口を大きく開けた瞬間、祖父の声が響いた。
「少しは、路代さんの体を気遣ってやらなきゃいけないよ」
祖父が珍しく意見した。祖母は尚も口を開こうとしたが、祖父が新聞の一文字一文字を指で追って読み込んでいる姿をちらと見て、押し黙った。私はそんな祖父の横から首を突き出し、新聞のインクの匂いを嗅ぐ。
「清佳も、お母さんを困らせちゃいけないよ」
「はい」
うん、うん、清佳は本当に賢い良い子だ、知恵が升から零れ零れあるな。と、私の頭を両手で撫でる。祖父は独特な褒め言葉で、母のいない孤独な私を励まし続けた。
「清佳ちゃん、ごめんね。清佳ちゃんの世話もでけんけん」
「大丈夫ばい。私は今まで一人で何でもして来たっやけん。お祖母ちゃんの手伝いもしよるし。路代さんの分まで、すっけんね」
ベッドに横になった路代さんは、目に涙を溜めて私を抱き締めてくれる。
「ありがとう、清佳ちゃん」
私にとっての母親は、実母でも、二番目でもない。
路代さんだった。
彼女だけが私を子供扱いし、甘やかしてくれた。あの時ほど私は良い子、良い人間だったためしはない。
路代さんは何度か入退院をくり返し、最後の退院からは暫く家で寝込んでいた。
退院して来たのに、喜んでいるのは私だけ。私がはしゃいで路代さんに抱きつこうとするのを、父が怖い顔で遮った。普段であれば、笑顔で両手を広げてくれる路代さんも、その日だけは青白い顔で俯いている。表情が消えた陶器のように鈍く光る頬が、とても怖かった。
それから暫くして、私は弟を失ったことを知った。
それでも路代さんは、祖母の期待に答える為に良い嫁であろうとし、良い母であろうとしていた。
その頃からだったろうか、村を怪しい男がうろついていると噂になった。小さな村では余所者は目立つ。黒いサングラスをかけて真っ黒な窓の車に乗っている男は、学校ではまるで怪談のように語られていた。今でいう、都市伝説に近い感覚だ。子供を掠うだの、若い女を酷い目に合わせるだの、男なら魂を奪われるんだの、子ザル達の話はどれも幼稚でバカバカしかった。
もちろん、私は信じちゃいなかった。
私の家には、祖父を訪ねて来る怪しい後援会の男達がいたのだから。私の住む世界は、こんな百姓家庭に育った貧乏人達とは違うのだ。
「清佳さん、一緒に帰ろう。変か男のうろうろしよっとやけん」
だから級友にそう言われても、ふん、と鼻で笑う。
「一人で帰るけん、ついて来んで」
私は図書館で借りた本を開いて、それを読みつつ足を速めた。岡の上にある学校へ続く道には、滅多なことでは車は通らない。私は夢中になって、ページを捲る。そんな私のランドセルから頑なな拒否感を感じたのか、子ザル達も一定の距離を保って後ろからついて来た。
大きな川を渡り、田圃の中の真っ直ぐな一本道をゆるゆる歩く私の横を、鋭い風が駆け抜けた。顔にかかる髪を振り払うと、視線の先に黒い車の尻が見える。
「あ、誘拐される!」
あんなに子ザルを馬鹿にしながら、私の思考回路も子ザル達と同じ鈍さで動いているのか。そんな自分に苦笑して、また、本に視線を戻した。
そして、はっと思い出す。
今日は祖母が婦人会の会合に出席しているせいで、家には路代さん一人しかいないことを。
嬉しさが込み上げてくる。
「何か、おやつば用意しとくけんね」
今朝、私の髪を三つ編みにしながら路代さんが呟いた。けれど視線は不安げに泳いでいて、さっきの言葉も私にではなかったような、部屋にもう一人いるような、不思議な感覚を覚えた。死んでしまった弟に、語りかけるんだ。そう納得した私は、できるだけ、彼女の世界を壊さぬように、息を止めて気配を消した。
路代さんが退院してから、初めて二人で過ごせる時間だった。
私は本を乱暴に閉じて、家へと駆け出した。
しかし、私の足は門の前に停められた、あの、黒い尻を見てから、た、た、と鈍くなって行く。
いや……、その時までは、あの車はやはり祖父の後援会の人達だったんだ、小ザルどもめ、と、笑う余裕があった。
門を潜り、玄関へ続く飛び石を一つ、一つ、飛び越えるうちに、玄関先の二人が目に入った。
それは一瞬だった。
私を見付けた路代さんが、短く悲鳴を上げたから。けれど。彼女が気付く前から、私は二人の姿を瞬きもせず見つめていた。
男が玄関先で、柔らかく崩れて座る路代さんの耳へ何か囁いていて、だらしなく開いた両足の付け根、捲れ上がったスカートの奥へ手を差し入れていた。
「あんた、誰ね!なんばしよっと!」
子供の私にとって、あの黒い背中はとてつもなく大きかった。
それなのに、私は路代さんを守る番犬のように、低い唸り声を上げた。
「じゃ、今度来る時までに、必ず用意しとけよ」
男は乱暴に路代さんを突き放すと、砂利を蹴散らしながら帰って行った。
「清佳ちゃん、清佳ちゃん」
私の腰に絡み付いた路代さんの真っ白な腕の内側には、注射の後が青痣として沢山残っていた。それは田圃に住む、通称「赤腹」というヤモリに似ていたので、私は路代さんの腕を掴んでその部分を凝視した。
「ごめん、ごめんね、怖かったろ、ごめんね、ごめん、奈津、ごめん、ごめん、奈津」
路代さんは、玄関先に頭を擦りつけながら、両手をこちらに差し出して、奈津、と私を呼んだ。
奈津、奈津、ごめん。
差し出した両手の指が、蜘蛛の足のように私を捉えようと怪しく動く。
「路代さん。私は奈津じゃなかよ、清佳よ、なんば言いよっと?」
「あ、清佳ちゃん。お帰り、おやつのあっけん、ね、台所に来なさい、ね」
すとん、と、何かが落ちた。路代さんは顔を上げ、乱れた髪を後ろに纏め上げた。今のは何だったのだろうか。あの男のせいで、路代さんが一瞬おかしくなったのだろうか?私はいつもの路代さんに戻ったことが嬉しくて、台所に向かう彼女の横に寄り添った。
「はーい。どうぞ。蒸しパンよ」
テーブルの上には、確かに蒸しパンがあった。賽の目切りにされた薩摩芋が、白くふっくらと膨らんだ中に宝石のように埋まっている。
「さ、食べて。オレンジジュースば飲むね?」
私は頷けないでいた。
何故なら、その蒸しパンにはまち針が沢山刺さっていたのだから。