10-5 焦燥の雨音
──クレアが『保安兵団』の屯所の敷地を出た直後、本格的に雨が降り始めた。
迂闊だった。雨が降るとなれば、ブルーノの船も昨日より早く戻って来るだろう。
陸にいてはわからないが、既に海は荒れ始めているかもしれない。そうでなくとも、エリスはにおいで雨を予測できるのだ。とっくに帰っていたって、おかしくはない。
降りしきる雨の中、クレアは船着場を目指し走る。
なんだか、胸騒ぎがした。
急がなければ、取り返しのつかないことになりそうな……そんな得体の知れない不安が、胸に押し寄せる。
路地を抜け、クレアは最短ルートで船着場へと辿り着いた。
案の定、海は濁り、高い波を打ち付けている。停泊している無数の漁船が、ギィギィと音を立てながら大きく揺さぶられていた。
彼はその中にあるであろうブルーノの船を探す。すると……
「……あった」
いつもと同じ場所に停泊しているのを見つけた。帆も畳まれ、固定用のロープがしっかりとビットに括り付けられている。
やはり天候が荒れることを見越して、早めに戻ってきたのだろう。
三人とも、先に家に帰っているはずだ。刺客が来ないとも限らない。自分も、急いで戻らなければ。
と、クレアはブルーノの家の方へ駆け出そうとする……が。
「………?」
ブルーノの船の近くに、本のようなものが落ちているのに気が付く。
こんなところに、本の落し物……?
と、不思議に思いながら覗き込み……
それを、はっきりと瞳に映した瞬間。
ドクンっ、と。
クレアの心臓が、大きく脈打った。
茶色い革製のカバー。
背表紙部分から伸びる肩紐。
そして……『魔導大全』の文字。
その本には、あまりにも見覚えがあった。
クレアは震える手で、恐る恐るそれを拾い上げ……
パラパラと、中をめくってみる。
そこには、大量の付箋が貼られていた。
雨に濡れ、所々ヨレたりインクが滲んだりしているが……
その中には、『クレア』という文字が、確かにあって。
クレアは、足が、臓腑が、恐怖に竦むのを感じる。
これは、間違いなくエリスのものだ。
それが、ここにこうして……肩紐が千切れた状態で、落ちている。
いつも肌身離さず持っていた、この大事な"メモ帳"を、こんなところに落として、気付かないわけがない。
つまり……つまり、それが意味するのは……
「……………ッ」
パシャッ、と水を跳ねながら、クレアは地面に膝をつく。
襲われたのだ。恐らく……『ジーファ』という人物が手引きする、あのチンピラたちに。
本の肩紐が切れるような攻撃を受け、そこからどうなった? ここにいないということは、連れ去られたのか?
或いは……
もう既に、殺されて…………
想像しただけで吐きそうになり、クレアは口を押さえる。
自分のせいだ。自分が、判断を見誤ったから。
早く任務を完了させたいという焦りがあった。
ある程度の相手なら、エリスだけでも対処できるだろうという驕りがあった。
そう。これは、自分の過失。
自分が……彼女の側にいたなら、こんなことには……
彼はエリスの残した『魔導大全』を抱え、ギリッと歯軋りする。
絶望していても状況は変わらない。エリスが無事である可能性だってある。
エリスだけではない。一緒にいたはずのシルフィーとブルーノの行方も心配だ。
兎にも角にも、今できることをやらなければ。
クレアが前を向き、立ち上がった……
………その時。
「──………か……! ……れか……!!」
風と、雨の音に紛れて。
声のようなものが聞こえてきた。
クレアは耳を澄ませ、辺りを見回す。
誰かが、何かを叫ぶような声。
それは……荒れた海の方から、聞こえてきていた。
船着場のふちから身を乗り出し、クレアは海を見回す。
すると……
「……シルフィーさん!」
ブルーノの船の横──高波がうねる海の上に……
シルフィーが、座り込んでいた。
ブルーノの船と隣の船にくっつくようにして氷が張られており、彼女はその上にいたのだ。
シルフィーはクレアに気付くと、憔悴しきった顔で、
「クレアさん! 大変です! エリスさんと、ブルーノさんが……!!」
と、打ち付ける波に濡れながら必死に叫ぶので、
「話は後です! そこを動かないでください!」
そう返してから、クレアはブルーノの船に上がった。
どんどん高くなる波を浴び、シルフィーは今にも海に落ちそうである。
クレアは船の上にあったロープを手に取ると、シルフィーの方へと投げる。
彼女は寒さに震える手でそれを掴み……
なんとか、船の上へと引き上げられた。
二人は雨を凌ぐため、船着場から離れ適当な建物の屋根の下に入った。
びしょ濡れになった服の裾を絞りながら、クレアが尋ねる。
「……一体、何があったのですか?」
口調はいつも通りだが、その声は微かに震えていた。
シルフィーは、今にも泣きそうな顔で彼を見返して、
「あいつらです。この間のチンピラたちがやってきて……奇妙な剣で攻撃をしかけてきて……エリスさんとブルーノさんが、連れ去られてしまいました」
やはりか……
と、クレアは拳を握り締める。
シルフィーは、震える声で続けて、
「海に落とされた私を助けるため、エリスさんが魔法で海を凍らせてくれました。エリスさんも、攻撃を受けていたのに……私のせいです。私たちを庇って、エリスさんは……」
「シルフィーさんのせいではありません。私がちゃんと、側にいれば……その奇妙な剣というのは、エリスですら苦戦するほど、強力なものだったのですね?」
「はい。電撃を無限に放つ剣で、それこそ伝説の武器みたいでした」
電撃を、無限に放つ剣……
そんなものを、あいつらが持っているとは……
シルフィーが続ける。
「あいつらのバックにいる魔導士が、その剣を作り出したようです。確か……"フードの旦那"、と呼んでいたような……」
「フードの……?」
そのワードを聞き、クレアは目を見開く。
"フードの旦那"。
それは、彼が"水瓶男"について調べる中で辿り着いた、ヤツの二つ名だ。
ついに。
ついに、尻尾を掴んだ。
恐ろしい武器を用いて、人々の悪意を煽り。
ジェフリーを死に追いやった、張本人。
エリスが連れ去られた先に……
ヤツは、いる。
「……行きましょう、シルフィーさん」
クレアは再び、雨の中へと足を踏み出す。
それにシルフィーは、不安げな表情を浮かべながらも、
「……はい。やつらの住処……カライヤ山ですね」
決意を固めるように言うと。
クレアと共に、目的の山へと、目を向けた。
* * * *
「………ん……ぅ……」
ぼんやりとした意識の中で。
エリスは、小さなうめき声を上げた。
なんだか、身体に違和感を感じる。
寝ている自分を……誰かが、まさぐっているような。
……あれ。あたし、なんで寝ているんだっけ?
…………そうだ、たしか……
あのチンピラたちに、連れ去られて……
「………………!!」
がばぁっ! と、エリスは起き上がる。
そこは、薄暗い場所だった。
湿った土のにおいが漂う……洞窟のような空間。
そこにエリスは、後ろ手に縄で縛られた状態で床に寝ており。
目の前にいる人物に…………
胸を、揉まれていた。
しかしエリスは、悲鳴を上げることもなく。
慌てて手を引っ込めるその人物を、ジトッとした目で睨みつけた。
そして。
「……こんなところで何してんのよ……………チェロ」
低い低い声音で。
その人物の名を、呼んだ。