10-3 焦燥の雨音
その、数時間前──
海に浮かぶ、ブルーノの漁船の上で。
「ぬぅぅ……またハズレかぁ」
釣り竿の先、リールに巻き上げられた魚を眺め。
エリスは、眉間に皺を寄せた。
その横で、別の竿を持つブルーノが「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「だから言ったじゃろ。モノイワズなんかそうポンポン釣れるモンじゃないと。大人しく市場で買った方が早いわ」
「むぅ……だってだって、自分で釣りたくなっちゃったんだもん!」
エリスは悔しそうに手を振り、持っている竿をびよんびよんとしならせた。
──モノイワズは、水深五〇〇メートル程に生息する深海魚である。
その漁法はいくつかあるが、ブルーノの小さな漁船でできるのは竿を使ったシンプルな釣りのみ。
ただし、『釣り』と言っても通常のそれとは道具も手順もまるで違う。
まず、糸には針が八つもついており、それぞれにエサを付ける。そして、糸の先端に付いた錘を海に投げ入れ、沈めていくのだ。
錘が海底へ到達するまでには数分かかる。さらに、そこから魚が食らい付くのをひたすら待ち……
竿に反応があったら、ゆっくりと糸を巻き上げていく。ここでも、全て巻き上げるのに十分ほど時間がかかる。
そうしてようやく針にかかった魚と対面するわけだが……当然、それがお目当ての魚であるとは限らない。
エリスたち三人は、このやたらと時間のかかる釣りを、既に三回繰り返していた。
しかし……モノイワズの釣果はゼロ。
エリスの後ろで、一匹もかかっていない釣り糸を巻き上げたシルフィーがため息をつく。
「やっぱり無理ですよ、エリスさん。そんなに食べたいなら、もう一度こないだのお店に行きましょう? お金はかかるけど、確実に食べられますよ?」
と、早朝から釣りに付き合わされ、うんざりといった様子で投げかけた。
それにエリスは、「それはそうなんだけど…」と、口ごもる。
ブルーノとシルフィーの言う通り、市場や料理店に行けば簡単に手に入るだろう。
……けど。
思ってしまったのだ。せっかくなら、自分で釣った新鮮なモノイワズを……
クレアに、食べてもらいたいと。
昨夜のことがあってから、いろいろと考えてみた。
これが"恋愛感情"なのかは、正直まだわからない。何せ、初めての感情だから。
しかし、クレアのことを特別だと……大切だと思っていることは確かだ。
……で? そっからどうする?
あたしは、あいつと……どうなりたい?
そう考えた時に。
……クレアと、一緒にいたい。
一緒に美味しいものを食べて、笑い合っていたいと、シンプルにそう思ったのだ。
そこで思いついたのが、先日一人で食べてしまったモノイワズを、自分の手で釣ってクレアに食べてもらうこと。
お金を出して買った方が早いことは、重々わかっている。
それでも自分で釣りたいと思ったのは……単なる自己満足だ。
クレアのためにやったことで、彼が喜んでくれたら……たぶん自分も、嬉しいから。
……あれ? それじゃあ結局、自分のためにやっていることになるのか?
うーむ、クレアを喜ばせるつもりが……なかなか難しいなぁ。
……と、エリスは小さく首を捻る。
これまで自分のためだけに生きてきた彼女にとって、他人を喜ばせたいと本気で思ったのは、これが初めてだった。
だからエリスは、名状し難いこの感情を隠すために、
「わ、わかってないわね、シルフィー。自分で釣り上げるっていう過程そのものが、味を倍増させるのよ! あたしは、苦労の末にようやく手に入れたモノイワズが食べたいのっ!!」
……そう、言い訳した。
シルフィーがジト目になる一方で、ブルーノは「だっはっは!」と笑い、
「よくわかっているな、お嬢ちゃん。確かに、苦労して釣り上げた魚ほど美味いモンはねぇ」
「ほらーっ! 一端の漁師もこう言ってる! シルフィーだって食べてみたいでしょ? モノイワズっ」
「まぁ……興味なくはないですけど……」
「だったら諦めない! 針にエサを付けて! 海に沈める! はい、やって!!」
ビシビシとエリスに言われ、シルフィーは「うぅ……」と涙を浮かべながらエサを付け始めた。
それを見届け、エリスも自分の竿の準備をする。
と、その横で、
「諦めないのは良いことじゃが……あまり時間がないぞ、お嬢ちゃん」
ブルーノが、神妙な面持ちで呟いた。
シルフィーが「え……?」と顔を上げるが……エリスはすぐに頷き、
「わかってる。雨、降りそうだもんね」
「ああ。もってあと一時間……釣り針を下ろせるのも、あと二回が限度じゃろう」
「え……え? 待ってください。空を見る限り、全然降りそうもないんですが……」
エリスとブルーノのやり取りに、困惑するシルフィー。見上げた空は確かに薄雲が広がっているが、切れ間から日が差しており、とても雨が降るようには見えなかった。
しかしブルーノとエリスは、至って真面目な顔で、
「漁師のカンじゃ。海を見てりゃ、だいたい分かる」
「あたしは"におい"で。風に乗って、水の精霊が増え始めたから。これは間違いなく降るわよ」
……などと、常人離れしたことを揃って言うので。
凡人を自覚するシルフィーは、「そ、そうですか……」と返し、それ以上何も言わなかった。
三人は「次こそは」と、糸に付けた錘を海に投げ入れる。
そうして、釣り針が海底に到達するのを待ち……
そこからさらに魚がかかるのを待ち……
反応があったら、また地道に糸を巻き上げ……
一投に三十分ほどかけて、ようやく釣り上げた魚を確認する。が……
やはり、モノイワズの姿はなかった。
雨雲が迫っている焦りもあり、エリスは「うがぁぁあっ!」と頭を掻き毟る。
「もーっ! 他の魚は釣れるのに……一体何がいけないの?!」
「モノイワズは普段、岩陰や海藻の間に隠れておる。そうして、エサとなる小魚が目の前に現れるのをじっと待っとるんじゃ」
「えぇっ?! ってことは、モノイワズの目の前にエサを落とさなきゃ一生釣れないんじゃん!!」
「そうじゃ。だから簡単には釣れんと言っただろう。それでも、この下にはちょうどモノイワズが身を隠すのに適した岩場があるから、比較的かかりやすいはずなんじゃが……」
ブルーノの言葉に、ガックリ肩を落とすエリス。
その後ろで、シルフィーが苦笑いをして、
「隠れている魚を後ろから『わっ!』って脅かせば、こっちの方に逃げて来てくれるかもしれないですけどね。ま、そんなこと出来っこないですし……やっぱり無理ですよエリスさん。大人しくお店で食べましょう?」
……なんて、冗談混じりに言うのを聞いて。
エリスは、何故か目を輝かせ、
「それだっ!!」
「えっ?! どれ?!」
「あたし、ちょっと魚を脅かしてくる! あっ、これよろしく! あと、あたしの釣り糸も垂らしておいて! ウォルフ! キューレ!!」
と、シルフィーに『魔導大全』と釣り竿を押し付け、二つの魔法陣を素早く描く。
現れた暖気・冷気それぞれの精霊を混ぜ合わせ風を生み出し、それを自身の身体に纏わり付かせると……
ドボン! と、躊躇いもなく海に飛び込んだ。
「な……何しとるんだ!! 流されるぞ!!」
身を乗り出しブルーノが叫ぶが……エリスにはもう届かない。
彼女は風を纏いながら、海の底へと深く深く潜ってゆく。
濡れることはないが、真空に近い状態を保っているため、息は出来ない。
何より、魔法をこのように使うこと自体初めてなので……どこまでコントロールが続くのかも、わからなかった。
そうしたリスクを冒してでも。
エリスはクレアに、モノイワズを持って帰りたかったのだ。
『釣ってきたよ!』って見せたら、あいつ、どんな顔するかな。
新鮮な刺身や、クリーミーな白子を食べたら……あいつもきっと、あまりの美味しさに口を閉ざすはずだ。
その顔が、早く見たい。
『美味しいですね』って、笑ってほしい。
嗚呼、なんで。
あいつの笑顔を思い浮かべるだけで、こんなにワクワクするんだろう。
これが……ひとを好きになるってことなのかな。
美味しいものを食べること以外に。
こんなにも、胸が高鳴ることがあるだなんて。
エリスは、そのこそばゆい感情に少し口元を緩め。
薄暗い海の底に見えてきた、ゴツゴツとした岩場を前に、一度進行を止める。
そして……
その間を縫うように、勢い良く突っ込んだ!
纏った風が海水を掻き分け、ゴポゴポと音を立てながら渦を巻く。
それに驚き、岩の陰に隠れていた魚たちが一斉にブルーノの漁船の方向へと逃げて行った。
この中にモノイワズがいるかは分からないが……これで少しは、釣り針にかかる可能性が上がるはずだ。
よし、と一つ頷くと、エリスは海面を目指し上昇する。息を止めているのも、そろそろ限界だった。
ザバッ! と海面に顔を出すと同時に魔法が解け、精霊たちが見えない存在へと還る。
途端にエリスの服は海水を吸い、ずしっと重くなり……波に身体を攫われそうになる。と、
「ほれ! これに掴まれ!!」
船の上から、ブルーノがロープ付きの浮き輪を投げてきた。
エリスはそれに掴まり、それこそ魚釣りのように引っ張られ……無事に船の上へと引き上げられた。
「まったく……無茶しおる。溺れるところだったじゃないか」
「でも、魚をこっちに追いやることには成功したわ。そろそろ竿に反応があるはずよ。ふふ、楽しみっ♪」
前髪からポタポタと水を垂らしながらも嬉しそうに笑うエリスを見て……ブルーノとシルフィーは呆れたように顔を見合わせる。
「ほんと……何があなたをここまで突き動かすんですかね。食欲?」
ため息混じりに言うシルフィーの言葉に。
エリスは無言のまま、ニシシッと笑っておいた。
そうして、待つこと数分。
エリスがタオルで髪を拭き、服の裾を絞っていると……
彼女の竿に、反応があった。
「きたっ!!」
エリスは逸る気持ちを抑え、ゆっくりと慎重に釣り糸を巻き上げてゆく。
その様子を、ブルーノとシルフィーも固唾を飲んで見守り……
およそ十分後。一番最後に巻き上がった釣り針に……その日初めて見る魚がかかっていた。
黒と銀色の、まだら模様の鱗。大きな口。鋭い双眸。
エリスが、「これは……」と見つめると、ブルーノが横で喉を鳴らし、
「………モノイワズ……」
「……え?」
「モノイワズじゃよ……お嬢ちゃん!! よかったな! ついに釣ったぞ!!」
エリスの背中をバンバン叩き、ブルーノは自分のことのように喜ぶ。
シルフィーも、「すごい……ほんとに釣っちゃった」と唖然としている。
エリスは、口を開けてしばらく放心してから……
「…………やった。やったぁぁああっ!!」
釣り上げたモノイワズを高く掲げて。
大海原の真ん中で、勝利を叫ぶのだった。
* * * *
喜んだのも束の間、ブルーノは急いで残る釣り糸を回収し、港に向けて船を出した。
雨雲が、もうすぐそこまで迫っているのだ。次第に風が強くなり、波も高くなってきた。
降り始める前に帰らねばと、ブルーノの小さな漁船は荒れ始めた海を懸命に進んでゆく。
「間一髪だったわね……最後に釣れてよかったー!」
「うぅ……波荒すぎ……いよいよ酔いそうです、私……」
という、エリスとシルフィーの声を乗せて。
船はなんとか、港へと帰り着いた。
「──さて、問題はそいつをどう捌くかだが……」
船着場に船を停め。
ビットに船のロープを固定しながら、ブルーノが言う。
それに、箱の中のモノイワズを満足気に眺めていたエリスが振り返り、
「おじいさん、モノイワズは捌いたことないの?」
「あるにはあるが……何しろ脂が乗り過ぎていてな、包丁が滑っちまうんだ。知り合いのカミさんが上手いから、頼んでみるか」
「わーいっ! おじいさんってほんと、なんだかんだ優しいよね。ありがとっ♡」
エリスの微笑みに、ブルーノは慌てて「ふ……ふんっ!」と顔を逸らした。
「そういえば……クレアさん、今日は迎えに来ていませんね」
と、シルフィーが船を降りながら船着場を見回す。
エリスもモノイワズが入った箱を持ち上げながらそれに続き、
「昨日よりだいぶ早く戻ってきちゃったからね。まだ家にいるんじゃない? んふふ。あいつ、これ見たらきっと驚くぞ〜っ。早く食べさせたいなーっ♪」
なんて、上機嫌で船を降りるので。
シルフィーは、「はっはーん」と眼鏡の端を光らせる。
「なるほど……そういうことでしたか。クレアさんに食べてもらいたくて、あんな無茶な真似を……」
「へ?! いや、別にそういう訳じゃ……! そもそも自分が食べたかったの! ついでに、あんたもクレアも食べてなかったから、どうかなって思って……」
「ふーん。『ついで』、ねぇ……まぁ、ついででもクレアさんは大喜びでしょうね。エリスさんがわざわざ釣ってきてくれたんですから」
「えっ、ほんと? あいつ、喜ぶと思う??」
そう言って。
目をキラキラさせて、詰め寄って来るので。
シルフィーは、ぷるぷると身体を震わせ……
「ほーら! やっぱりクレアさんのためじゃないですか!!」
「むみゅぅううっ!?」
エリスの両頬を、むぎゅっ! と手で挟んだ。突然のことに、変な声を上げるエリス。
「やっぱり昨日、何かあったんですね?! あなたが急にこんな乙女思考になるはずないですもん! つーか何そのカオ! 仔犬か!! これはもしや……キスでもされちゃいました?! それでその気になっちゃったとか?!」
「はぁ?! ンなワケないでしょ?! ていうかあんた何気にめちゃくちゃ失礼なこと言ってるからね!?」
……と、二人がギャーギャー騒いでいると……
「おーおー。随分とお元気そうじゃねぇか。魔導士のお嬢さん」
後ろから、そんな声がして。
エリスはパッと振り返る。
そこにいたのは……
「………こないだの借り、返しに来てやったぜ」
先日、ブルーノに乱暴を働いた………
あの、チンピラたちだった。