5-3 エリシア・エヴァンシスカちゃんの自意識
──水平線の向こうに太陽が沈む頃。
エリスたちは予定通り、イリオンの街に到着した。
カナールと似ているが、より華やかな雰囲気の漂う大きな港街である。
海の反対側には山が連なっている。かつては鉱業でも栄えていたそうだ。
山と海とに囲まれ、特産品も多いことから、旅人が立ち寄る宿場街としても人気らしい。
そのため、今晩の寝床の確保には困らなかった。三人は建ち並ぶ宿の中から手頃な場所を選び、納屋にプリンの荷車を置かせてもらってから、それぞれの部屋に荷物を置いた。
そこからエリスが下調べをしていたレストランを訪れ……
いざ、夕食を食べ始めたのだが。
「(……ダメだ。この後またプリンを食べなきゃいけないかと思うと、心置きなく楽しめない……!!)」
エリスは、昨日から続くプリン無限地獄により、せっかくのディナーに集中できずにいた。
頭の中は、プリンに対する責任感と義務感でいっぱいである。
元はと言えば自分が強く所望していたものなのだから、腐らせてしまう前に、なんとか食べ切らなきゃ。
でも……
いくら最高に美味しいプリンとはいえ、何個も食べていればそりゃ飽きてくるよ!!
けど、今さらそんなこと言えないし!!!
あぁ……朝ご飯を予定外に食べ過ぎちゃったのもいけなかった。お腹が常に満腹状態。
目の前の食事に専念できないなんて、無念すぎる。
「(うう……今日は一日、から回ってばっかりだなぁ……)」
……と、珍しく浮かない表情で食事をするエリスに、向かいに座るクレアが声をかける。
「そういえば、エリス。"モノイワズ"という魚をご存知ですか?」
「……ものいわず?」
それは、エリスの知らない名前だった。
「このイリオンで獲れる深海魚だそうです。鮮度が落ちやすい上に稀少なので、他所へは流通していないようですが……かなりの絶品らしくて」
「稀少……絶品……」
それらのワードに心を掴まれ、エリスは眉をぴくりと動かす。
クレアが続ける。
「脂がこれでもかと言うほどに乗っていて、食べ過ぎると早死にするとまで言われているそうですよ。中でも、通の間で美味とされているのが、白子。食した人間はそのあまりの美味さに口を閉ざし、無口になることから『物言わず』の名が付いたらしいです」
「へぇー。そのまんまですね」
と、シルフィーが気の無い相槌を入れる。
今日一日エリスたちに合わせ、腹が空く前に何かしらを食べ続けていたので、もう食べ物の話などウンザリなのだ。
しかし、同じ満腹でもエリスは違う。
彼女は見開いた瞳をキラキラと輝かせ、クレアの方に身を乗り出し、
「食べたいっ! 絶対に食べたいっ!!」
「ぜひ、そうしましょう。明日、例の漁師さんに会いに行く前にでも。食べられる店をいくつかピックアップしてありますので」
「さっすがクレア! 仕事が早いっ♪」
「ありがとうございます。イシャナについてはその漁師さんに聞いてみなければわかりませんが、モノイワズは数は少なくとも確実に獲れているそうなので。せっかくイリオンに来たのですから、珍しい魚を食べていきましょう」
「わーいっ! 楽しみーっ♡」
クレアの提案に、エリスは両手を上げて大喜びする。
嗚呼、やっぱりクレアは、最高の『食べ友』だ。
食に対して、あたしと同じくらいの熱量で向き合ってくれる。
そりゃあ、たまに変態っぽいこともしてくるけど……そこはもう職業病と割り切るしかない。
……そうだ。ヘンに意識する必要はないんだ。
『可愛い』って言われたことも……キスされそうになったことも、クレアにとってはいつもの冗談なのだから。
そう思うことにしよう。その方が、楽しく、気兼ねなく、一緒にいられる。
今までみたいに自然に、美味しいものを半分こできる。
……うん。やっぱり、その方がいい。
そう、自分に言い聞かせてから。
「(しかし、モノイワズかぁ……その前にプリンをなんとかしなきゃなぁ……)」
宿の納屋に預けた大量のプリンを再び思い出し、小さなため息をついたのだった。
♢ ♢ ♢ ♢
レストランを出て、宿に戻った三人は、明日に備えて早めに自室へ戻ることにした。
「それじゃあ明日、頑張って漁師のおじいさんにアタックしましょーね」
「うう……ユウウツです……朝日が一生昇らないことを祈って。おやすみなさい」
エリスの言葉に、シルフィーはどんよりとした空気を纏いながら、ゆっくりと自分の部屋へ入っていった。
……さて。あたしもここから、プリンへのアタックを再開しなきゃ。
そう考えながら、エリスも自室のドアを開け、
「じゃ。クレアもおやすみー」
軽く手を振り、彼に背を向ける。
しかし、
「待ってください、エリス」
彼に、引き止められた。
心臓が少しだけ、どきっと跳ね上がる。
「な、何?」
それを悟られないよう、何食わぬ顔で振り向く。
するとクレアは、エリスに近付き……
まるで内緒話でもするかのように、
「……寝支度が整ったら……一階の食堂まで、来ていただけませんか?」
耳元で、そう、囁いてきた。
エリスは驚いて彼を見上げるが、クレアはただ穏やかに微笑んで。
「待っていますね」
とだけ言って。
自分の部屋の中へと、消えていった。
廊下に残されたエリスは。
「………………………」
突然の誘いに困惑しながら、しばらく立ち尽くしていた。
こんなこと、初めてだ。
就寝前に、クレアに呼び出されるだなんて。
晩ご飯を食べ終わったらそのまま各々の部屋に入って寝るのが、いつもの流れなのに。
……なんの用だろう。あらたまっちゃって。
シルフィーがいるところでは話せない内容なの?
……まぁ、なんでもいい。あいつとは、ただの『食べ友』なんだから。
ヘンに構える必要なんてない。
そんな風に言い聞かせながら、彼女はシャワーを浴び、魔法で髪を乾かし。
パジャマに着替えてから部屋を出て、一階へと降りていった。
そろ……っと食堂を覗くと。
他の宿泊客のいない薄暗いその場所で、クレアが一人、椅子に腰掛け待っていた。
彼はエリスに気がつくと立ち上がり、
「すみません、遅い時間に」
「べ、別にいいけど。なんの用?」
目を泳がせるエリスに、クレアはにこっと笑って、
「こちらへ。ついてきてください」
案内するように、食堂の奥の方へと歩き始めた。
エリスは怪訝そうな顔を浮かべつつも、とりあえずそれについていく。
暗い廊下を少し進むと、のれんがかけられた明るい場所が見えてくる。
クレアに続き、のれんをくぐると……そこは、厨房だった。
大きな冷蔵庫。山積みにされた野菜や卵。ピカピカ光る調理器具。
思いがけない場所への招待に、エリスが頭に疑問符を浮かべていると、
「宿の方には話を通してありますので。入っても大丈夫ですよ」
言いながら、クレアは冷蔵庫を開け、牛乳の入った瓶と……例のプリンを十個ほど取り出し、調理台に置いた。
「……プリン、冷蔵庫に入れてたの?」
「はい。と言っても、全部は入りきらなかったのでほんの一部ですが」
それから彼は、戸棚から食パンを一斤取り出した。昼間、パン屋で買ったものだ。
さらに、壁にぶら下がっていた小鍋を取ってコンロに置く。
そこで一度、彼はエリスに向き直り、
「……エリス。プリンをどう減らすかで、頭がいっぱいなのでしょう?」
──ぎくっ。
「な、なんでそれを……」
「見ていればわかります。今日の貴女は、いつもと様子が違いましたから。考え事をするように俯いたり、食事のペースを乱したり……手に入れてしまったプリンに責任を感じて、それを消化せねばと考えるあまり、目の前の食事に集中できなかったのですよね?」
……まったくもって、その通りであった。
まぁ、クレアのことをヘンに意識してペースを乱した部分もあったが……
彼は、冷蔵庫の横にかけてあったエプロンを身につけながら、
「あれだけ食べれば、さすがに飽きてくる頃でしょう。そこで、私から提案なのですが……」
プリンの瓶と小鍋を手に取り、掲げてみせながら、
「──このプリン、フレンチトーストにしてしまいませんか?」
そう、言った。
思いがけない提案に、エリスは瞬きを二回してから、
「……フレンチ、トースト?」
「はい。今日、パン屋を訪れた時に思いついたのです。プリンを牛乳と合わせて鍋にかけ、溶かしてしまえば、卵液と同じようなものが作れるはずです。それを食パンに浸して、一晩寝かせれば……甘味のたっぷり染み込んだフレンチトーストの種の出来上がりです。明日の朝、私が焼いてさしあげますので……」
クレアは、プリンと鍋を置き、エリスに近付いて。
彼女の身長に合わせるように、少しだけ屈んで。
「……いかがでしょう。絶品プリンを贅沢に使用した、"背徳のフレンチトースト"…………食べてみたくはありませんか?」
口元に人差し指を当て。
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、囁いた。
瞬間。
──ずきゅぅぅうんっ!!
……と、エリスは、自分の中に何かが刺さる感覚をおぼえる。
しかしそれは、胸のあたりはなく……
……彼女の身体の最高司令部である、"胃"のど真ん中で……
「(な、なに……なんなの……この、大量のプリンを、フレンチトーストに……? そんな発想が浮かぶだなんて……しかも、それを作れちゃうだなんて……)」
エリスは顔を赤くし、身体をぷるぷると震わせる。
そして。
「(……そんなの、かっこよすぎる……っ!!)」
自身の胃がきゅんきゅんときめく感覚に、お腹を押さえぎゅっと目を閉じた。
そんなことはつゆ知らず、クレアは再び口を開く。
「もちろん、それを『プリンに対する冒涜だ』と考えるのであれば、無理強いはしません。あくまで、提案です。プリンのまま消化するなら、それはそれでお手伝いしますので……」
「……食べたい」
エリスは、クレアの言葉を遮って。
「……"背徳のフレンチトースト"。作って……食べさせてほしい……っ」
湧き上がる欲望に、ときめきに、息を上げながら。
振り絞るように、言った。
その必死な返事に、クレアはまた微笑んで、
「……わかりました。では、喜んで作らせていただきます」
令嬢に仕える執事のように美しく一礼をして、調理を開始した。
──たっぷりのプリンと、牛乳を適量。鍋に入れて、火にかける。
弱火でとろとろ、焦がさないように。
プリンを優しく、滑らかに潰しながら。
そうして鍋をかき混ぜるクレアの手を、エリスはぽー……っと見つめていた。
と、
「……なんだか、イケないことしているみたいですね」
「へっ?!」
「だってこんなに美味しいプリンを潰して、牛乳で伸ばしているわけですから。本当に、背徳感があるというか……罰当たりなかんじがしませんか?」
「……んまぁ、確かに。でも……」
ぐつぐつ煮立つ、カスタード色の鍋の中。
それを瞳に映し、エリスは、
「…………すっごく、いい匂い」
「……そうですね。甘くて、いい香りです」
夢の中にいるみたいに幸せな香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。
やがてプリンが完全に溶けると、クレアは鍋を火から下ろし、パンを手頃なサイズに切り分ける。
それをバットに並べて敷き、プリンを溶かした卵液を贅沢に流し入れる。
甘い液体を吸い、白いパンの断面がみるみる内に染まっていった。
料理ができないエリスにとって、それらすべてが"魔法"のようで。
彼女は、半ば無意識的に、
「……すごい。クレア、魔法使いみたい」
なんてことを、呟いていた。
クレアは、ふっと笑って、
「超一流魔導士の貴女にそう言っていただけるとは、光栄の極みです」
卵液の最後の一滴を垂らしながら、そう返した。
甘い液体に漬け込んだパンを冷蔵庫にしまい、クレアはエプロンを外す。
「これで明日の朝、フライパンで焼けば出来上がりです」
「うぅ、どうしよう……楽しみすぎて眠れる気がしない」
「おや。では私が添い寝して、子守唄でも歌ってさしあげましょうか」
「いや、それは結構」
「ですよね。残念」
などといういつものやりとりに、エリスは何故だか安心してしまう。
彼女の表情が和らいだことに気がついたクレアは、少し笑みを浮かべて、
「……エリス。残ったプリンは、この宿へ引き渡しませんか?」
そんな提案を持ちかけた。
エリスは驚いてクレアを見返す。
「ここに、引き渡す……?」
「はい。いくら貴女が頑張って食べても、傷む前に全てを食べ切ることは物理的に難しいでしょう。ここなら冷蔵庫がありますし、何よりお客さんがいるので、消化要員には困りません。美味しい内に美味しく、誰かに食べてもらうことができます。エリス一人が責任を感じて苦しむよりもずっといいと思うのですが……いかがでしょうか?」
その言葉に……エリスの心が、一気に軽くなった。
確かに、その方が絶対にいい。せっかくのプリンを無駄にしないで済む。
「……うん。そうする。厨房を借りたお礼にもなるもんね」
「よかった。では、そうしましょう」
「……あの、クレア」
そこで、エリスは。
少し俯きながら、躊躇いがちに、口を開き、
「……ありがとう。プリン運んでくれたことも、フレンチトースト作ってくれたことも。あたし……自分と同じくらい、食べることに真剣に向き合ってくれるクレアに出会えて………本当に、よかった」
と、胃のあたりがきゅうっとなるのを抑えながら。
今の、ありのままの気持ちを、素直に伝えてみた。
クレアは、驚いたように目を見開いてから。
すぐにいつもの優しい笑みを浮かべて、
「……ありがとうございます。そう言っていただけるだけで、この上なく幸せです。しかし……誤解のないように言わせていただくと」
彼はエリスに近付くと。
そっと、その頬に手を触れ。
「……私は、貴女の喜ぶ顔を見るために"食"を真剣に考えているのです。もちろん私も、食べることは好きですよ。貴女に出会ってからは特に食事が楽しいし、きちんと向き合うようになりました。ですが……それはあくまで、"貴女がいるから"。私の行動の起点は、いつだって貴女なのです」
そう、告げた。
その言葉の意味を、エリスは頭の中で懸命に処理する。
じゃあ、クレアがご飯を大事に食べているのも。
美味しいものの情報を集めているのも。
全部、あたしのため……
それって……つまり………
「つまり、"下心"です」
「しっ、下心っ?!」
爽やかに放たれたクレアの言葉に、エリスは思わず声を上げる。
しかし彼は怯むことなく、彼女の頬に手を触れたまま、
「そうです。だから……笑顔と同じくらい、貴女の余裕のない顔や、恥ずかしがる顔も、見たいと思っています。願わくば、このまま……」
つぅ……っと、その指で、彼女の唇を撫でて。
「………昨日の続きがしたい、などと考えているのですが……あの蕩けた表情をもう一度、私にだけ、見せてくれませんか……?」
囁くように、言った。
そのセリフに。
唇に触れる、指の感触に。
エリスは胃のあたりが、かぁぁっと熱くなるのを感じて……
「……で、できるわけないでしょっ!? そんなのっ!!」
反射的に、そう叫んでいた。
するとクレアは、「はは。ですよね」と指を離し、あっさり引き下がる。
そして、頬を染め睨みつけるエリスに向かって、
「いつもの貴女に戻ったようで安心しました。今日みたいに空回っている貴女も可愛いですが……やはりいつもの、美味しそうに食べている笑顔が一番貴女らしいと思うので。明日からはまた、食べたいものを食べたいように食べましょう。朝食はフレンチトースト。昼食は、モノイワズ。夕食は……何がいいですかね。どれもとても、楽しみです」
にっこり笑って言うので。
エリスは、いまだ熱を持った胃と、ドキドキ暴れる心臓を持て余したまま。
こんな気持ちにさせた彼を、恨みたっぷりな目で見つめて。
「………ぜんぶ、半分こなんだからね……っ」
呪いをかけるような気持ちで、小さく呟いた。
♢ ♢ ♢ ♢
廊下でクレアと別れ、エリスは自室へと戻る。
そのままベッドにダイブし、冷たいシーツの感触に暫し身を委ねた。
それから、もそっと半身を起こし、枕元に置いていた『魔導大全』を開く。
今日は、何を書こうかな。
食べ過ぎた朝ご飯。
昼間のタルタルサンド。
不完全燃焼な晩ご飯。
そして……プリンの呪縛。
そういえば、シルフィーがこれを見て妙な顔をしていたっけ。
そんなにおかしなこと、書いていただろうか。
彼女はパラパラとそれを見返してみる。
すると、
『ポテトサラダの隠し味は"ピーナッツ"! クレアはそれを当ててみせた…すごい』
『ケチャップとデミグラス、両方のオムライスを注文! こんな贅沢が出来るなんて……クレアが半分こしてくれて、本当によかった』
『一日百個限定のシュークリームを、クレアがぜんぶ買い占めてくれた! すごく嬉しい……この感動は、一生忘れないと思う』
そこには、いつの間にか。
クレアとの思い出が、いくつも記されていて。
「……………もうっ!」
エリスは、ばふんっと枕に顔を押し付ける。
鼻に残った、フレンチトーストの香り。
その甘さに、また胃が切なくなるのを感じながら。
「………………」
分厚い『魔導大全』を、胸にぎゅっと抱いて。
彼女は静かに、瞳を閉じた。
エリスちゃんの自意識編、これにて完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回から、いよいよ物語の根幹に関わるパートへと突入します。
引き続き、よろしくお願い致します!