5-2 エリシア・エヴァンシスカちゃんの自意識
「く、苦しい……」
やってしまった。完全に、食べ過ぎた。
限界まで膨らんだ自分の胃を押さえ、エリスは激しく後悔する。
ああ、もう。何をやっているのだろう。せっかくの美味しい朝ごはんを、『苦しい』という感情で終えるだなんて。
食事のペースをここまで乱してしまうとは……なんたる不覚。
「(それもこれも、クレアがこっちを見過ぎなのが悪い……っ!)」
……と、チェックアウトを済ませ、宿の外で地図を確認中のクレアを睨む。
すると、その視線に気付いたクレアは、エリスの方を向き、
「心配しなくても、このプリンはちゃんと私が運びますから。イリオンでも思う存分、お召し上がりくださいね」
そう言って、にこりと微笑む。
そんな彼の後ろには……夥しい数の瓶入りプリンを積んだ、荷車があった。
言わずもがな、『頂上祭』の優勝賞品である、絶品☆塩キャラメルプリン一年分だ。
三人で少しずつ食べたものの、昨日一日で食べ切れるわけもなく……荷車ごと譲り受け、持ち運ぶことにしたのである。
こちらが意図するところとは違う返答が返ってきて、エリスが少し面食らっていると、
「……優しいですね、クレアさん。普通あんなの、運ばないですよ?」
シルフィーがこそっと、耳打ちしてくる。その口元が、意味ありげにニヤついている。
エリスは何か言い返してやりたい気持ちになるが、クレアのいる前であまり変なことを言うわけにもいかず。
「…………あ、ありがと」
とりあえず、プリンを運んでくれることに対して、素直にお礼を述べておいた。
──ガラガラと荷車を引きながら、一行はカナールからイリオンの街を目指す。
海沿いの道を真っ直ぐに進めば、夕方には到着する見込みだ。
晴天の下、右手に臨むのは、果てなく広がる凪いだ海。
少ししょっぱい潮風を吸い込み、エリスは「んーっ」と伸びをする。
そして。
「さ。プリン食べよ」
「えぇぇっ?! さっき朝ごはん食べたばかりなのに、まだ食べるんですか?!」
「だって、早く食べなきゃダメになっちゃうじゃない。手に入れた食べ物は、責任を持って胃に納める。ということで、シルフィーも食べる?」
「うぇ……まだぜんぜんお腹空いていないんですけど……」
シルフィーはげんなりとうな垂れるが、エリスが荷車からプリンを一つ手に取り、目の前に「ん」と差し出してくるので……仕方なく受け取る。
正直なところ、エリスだって満腹状態だ。しかし、自分のせいで手に入ってしまったプリンを無責任に捨てることなどできるはずもなく……
そうしてエリスは歩きながら、プリン二個を平らげた。
シルフィーの方は、食べてはみたもののなかなか手が進まず、やっとの思いでひと瓶を空にした。
「もう。無理なら食べなくてもよかったのに」
「だって、悪いじゃないですか。これが手に入ってしまったのは、私のせいでもあるんですから。うぅ、昨日から散々食べてるから、口の中が激甘ぁ……」
「それなら……はい。コレあげる」
と、エリスはスカートのポケットから何かを取り出し、シルフィーに渡す。
「ハッカ飴。舐めると口の中がスッキリするわよ。最後の一個だから、大事に舐めてね」
「あ、ありがとうございます。でも、いいんですか? もらっちゃって」
「いいのいいの。イリオンに着いたらまた買うし。これ、魔法使う前とかに舐めると便利だから、常に携帯してるんだ。精霊のにおいや味が、よくわかるようになるから」
シルフィーはおずおずと包み紙を外し、中から現れた飴をそっと頬張る。
「んん、確かに口の中がスースーしまふ。それにしても、エリスさんのその特異体質って本当にすごいですよね。今みたいに普通に過ごしていても、精霊の味とかがわかるんですか?」
そう聞かれ、エリスは「ううん」と首を振る。
「それなりに意識して判別しないと、細かな種類や数まではわからない。だから魔法を使う時は、こうして……」
『舌を少し出すの』。
……と、言いかけて、やめる。何故なら。
『魔法を使う前、ぺろっと出す舌が可愛い』
……昨日、クレアに言われた言葉を、思い出してしまったから。
だから彼女は、代わりに、
「……こうして、においをめっちゃ吸い込むの! そうすると、だいたいわかる!」
鼻からスゥゥッ! と息を吸って、深呼吸してみせた。
が、慌てて吸ったものだから、「げほげほ!」と咽せてしまう。
その様子を見たシルフィーが少し心配そうに、
「だ、大丈夫ですか? 大変なんですね意外と……そういえば、エリスさんが肩からかけてるその本、『魔導大全』ですよね? それも魔法と何か関係があるんですか?」
「え? あぁ、これはただのメモ帳」
「……メモ帳?」
「そ。今までに食べた美味しいものの記録を、付箋に書いて貼ってるの。紐がついてるから持ち運べるし、ページ数多くて便利でしょ?」
そう言って、エリスはそれをシルフィーに差し出す。
「学生時代からコツコツ書き溜めてきたんだ。この本のページがぜーんぶ付箋で埋まったら、自分の料理店を出すのがあたしの夢なの」
などと、誇らしげに言うので。
シルフィーはぽかんとした表情でそれを受け取り、中をパラパラとめくってみる。
「うわ、ほんとに付箋だらけ……これ、結構貴重な文献ですよ? なんて罰当たりな……」
……と、言いながら。
エリスが最近書いたと思われる付箋をいくつか眺め。
「……ふふ。美味しそうな記録が、いっぱいですね」
口の端をニヤつかせながら、エリスにそれを返した。
妙な笑みを浮かべるシルフィーをエリスが不審に思っていると、荷車を引くクレアに呼びかけられる。
「エリス。お昼ご飯はどうしますか?」
「へっ?! そ、そうね……この先に、何か食べ物屋さんはあるのかな?」
「それが、この先しばらくは飲食店も何もない道が続きそうなのですよ。今のうちに、何か買っておきませんか?」
「そうしよう! あたし、パンがいい! サンドイッチとか買って、途中で休憩がてら食べない?」
「いいですね。では、パン屋を探しましょう」
そう言って、海沿いの道から街中へと入っていく二人。
その後ろ姿を見つめ、シルフィーはため息をつき、
「……この人たちほんと、食べ物のことばっか……」
ウンザリとした様子で、そう呟いたのだった。
♢ ♢ ♢ ♢
カナールの街外れに運良くパン屋を見つけた三人は、そこでそれぞれの昼食を購入した。
金貨のしまい方まで『可愛い』と言われていたエリスは、クレアに財布の中身を見られないようそそくさと会計を済ませるが、
「………………」
当のクレアは、美味しそうなパンが並ぶ棚を真剣な表情で見回し、
「すみません。これもください」
と、サンドイッチの他に食パンを一斤、ドンっと会計カウンターに置いた。
「って、クレア。あんた素パン一斤買ってどうすんの?」
横からエリスが驚き混じりに尋ねるが、クレアは相変わらず爽やかに笑って、
「好きなんですよ、素パン。何にでも合うので」
そう返すので、エリスは不思議そうに首を傾げた。
シルフィーはと言えば、まったくお腹が減っていない中、クレアのその買い物にドン引きしつつ、小さなスコーンを一つだけ購入した。
♢ ♢ ♢ ♢
再び、イリオンへと続く道を、一行は大量のプリンと共に進む。
途中、太陽が最も高く昇った頃に足を止め、先ほど購入した昼食を摂ることにした。
海を眺めながら、プリンの乗った荷車の端に腰掛け、三人並んでパンの袋を開ける。
エリスが買ったのは、サーモンのフライと味付けしたほうれん草をバンズで挟んだ、タルタルサンドだ。
一口齧ると、サクッ、というフライの小気味いい音が鳴る。刹那、口の中に止め処なく広がる幸福感。
期待通りの味に、エリスは思わず瞳を閉じ……自分の世界へと浸った。
嗚呼っ、美味しい……っ! バンズの中のすべての具材が、絶妙なハーモニーを奏でている……っ!
脂の乗ったサーモンをフライにしている上、こってりタルタルソースが塗りたくられているこの重さを、ほうれん草が見事に中和……否、その旨味をさらに引き立てている……っ!!
バンズに練り込まれた胡麻の風味も最っ高にいい仕事をしていて……鼻に抜ける香りまで美味!!
くううっ、これはぜひ、クレアにも……!!
……と、いつもならここで迷わず彼にもお裾分けをするのだが。
「………………」
エリスは初めて、それを躊躇した。
代わりに、チラ……っと隣にいる彼を盗み見る。
クレアは、エリスとは別のサンドイッチを食べていた。エリスも買おうか迷った、海老と炒り卵とオニオンフライの、オーロラソースサンドだ。
それを、大きな口でがぶりと頬張っている。普段はヘラヘラしているくせに、こういうところは男らしい。そのくせ、食べ方が綺麗だ。美味しさに驚いたのか、口をもぐもぐしながら齧った断面をまじまじと眺めていた。
その、ソースのついた唇を見て。
「…………………」
昨日の、穴の中での出来事を思い出し。
エリスは一人、顔を赤らめた。
それから小さく息を吐いて、自分の食べかけのサンドイッチに目を落とす。
『これ、美味しいから食べてみて!』
……なんで、たったそれだけの言葉が出てこないんだろう。
あたしはただ、クレアと一緒に。
楽しく、気兼ねなく、美味しいものを食べたいと。
そう、思っていただけなのに。
一体何が、変わってしまったんだろう。
自分自身の心の変化に戸惑い、エリスが再びため息をつきかけた……
その時。
「エリス」
ふと、隣にいるクレアに呼ばれた。
ぱっとそちらを見上げると、
「これ、とても美味しいので、エリスにもぜひ食べていただきたいのですが……一口、いかがですか?」
そう言って。
自分が食べているサンドイッチを、エリスに差し出してきた。
その眼差しは、悩んでいるのが馬鹿らしくなるくらいに優しくて。
「………っ、うんっ。あの、コレもすっごく美味しいから、食べてみて!」
少し声を上擦らせ、エリスも自分のを差し出す。
そうして交換こしたサンドイッチを、じっと見つめてから。
彼女はそれに、がぶっと、噛り付いてみた。
「……んんっ! これ、おいしいね!」
思わず、満面の笑みを浮かべてクレアに言うと。
彼もにこっと微笑んで。
「はい。エリスがくれたコレも、すごく美味しいです」
そう、返してくれた。
その、今まで何度も当たり前にやってきたはずのやり取りが。
エリスには、なんだか妙に嬉しく感じられた。
自分と同じ気持ちでいてくれたことに、胸の奥がきゅんと高鳴るようで。
照れ臭くなったエリスは、彼の視線から逃げるように目を逸らす。
それから、彼にもらったサンドイッチを、もう一口だけ。
大事に大事に、頬張った。
…………という、二人の会話を。
「(私、隣にいるんだけどなぁ……)」
完全に空気と化したシルフィーが、スコーンをちびちび食べながら、見つめるのだった……