5-1 エリシア・エヴァンシスカちゃんの自意識
ここから三話ほど、エリスの心の変化にフォーカスした内容をお届けします。
話の流れとしては、純粋に前回からの続きです。
第6話からはちゃんとクレア視点メインに戻りますので、そのおつもりで。
それでは、エリスちゃんの自意識編、スタートです。
独りでいるのが、当たり前だと思ってた。
父さんはいない。母さんも、いなくなった。
大切な人たちは、いつまでも隣にいてくれるとは限らない。
だから、独りでも大丈夫なようにしなきゃって。
生きていくために、食べていくために、独りで頑張らなきゃって、そう思ってた。
なのに。
『これからも一緒に、美味しいものをたくさん、分かち合わせてくださいね』
そんなことを言ってくれるヤツに、出会ってしまった。
食べたいものを半分こしてくれて。
一緒に「おいしいね」って笑ってくれる。
あいつがいるだけで、ご飯が美味しく、楽しく感じられた。
独りでいた時よりも、ずっと。
そうしてあいつは、あたしの世界に、いつの間にか入り込んでいた。
ひとり分しかない穴の底みたいな、あたしの世界に。
そう。ここは、暗くて狭い穴の中。
『番犬だ』なんて言ったクセに、あいつは。
あたしの両手を押さえつけて。
……首筋に、牙を立ててきたのだ。
彼に噛まれる度。舌を這わされる度。
自分の身体が、脳が、とろとろした甘いなにかに変わっていく。
あいつの匂いに、体温に包まれて、自分の輪郭がわからなくなってゆく。
まるで、あいつとあたしが、一つに溶け合ってゆくような感覚──
どうしてそれを、心地いいと感じてしまうのだろう。
こんなのヘンだ。自分じゃないみたい。
胸がきゅうっと、苦しくなる。
それを吐き出すように、声を漏らしていたら、
「……そんなはしたない声を出すお口は…………塞いでしまいましょうか」
あいつが、言った。
その言葉の意味を、考えようとする。
けど、頭が全然、動いてくれない。
目の前にある、茶色い瞳。
心の奥まで覗かれそうなほど真っ直ぐに見つめられて、鼓動が速くなる。
なんだかこのまま吸い込まれちゃいそうだなぁと、どこか他人事のように思っていると。
その瞳が、ゆっくりと、近づいてきた。
それでようやく、言葉の意味を理解する。
でも、あれ。これって、いいのかな。
抵抗しなきゃいけないやつなんじゃないかな。
今ならまだ、止められる。
けど、身体が動かない。
……ううん、違う。
たぶん、あたし……
このまま、クレアに……
……………食べられたいと、思っている……?
♢ ♢ ♢ ♢
「──………っ!!」
がばぁっ!!
と、エリスはベッドから飛び起きた。
心臓がバクバク暴れている。身体が、すごく熱い。
「…………夢……?」
周囲を見回す。白を基調とした、小綺麗な部屋。カーテンの隙間から陽の光が漏れている。
ここは、『かもめ旅館』の宿部屋。
昨日の『頂上祭』で手に入れた宿泊券を使って、一泊している宿だ。
……そう。昨日。
レース中に落ちた穴の底で、クレアとあんなことがあって。
さらに、風呂の中でシルフィーからいろいろと質問攻めを喰らったものだから……
………とんでもない夢を、見てしまったらしい。
「………………」
エリスは、熱くなった顔を両手で覆う。
嗚呼……なんてザマだ。
昨日のことは、一刻も早く忘れたいのに。
しっかりしなさい、エリシア。クレアにヘンなことされるのなんて、これまでにだってあったじゃないか。
それでも次の日にはけろっと忘れて、美味しくご飯を食べられていたのに。
なのに、なんだって急に、こんな……
エリスは、夢の余韻を振り払うようにぶんぶんっと首を横に振り、ベッドから降りる。
カーテンを開けると、窓の外には抜けるような晴天が広がっていた。
今日も、美味しいものをいっぱい食べよう。
仕度をして、宿で出される朝食を食べに行かなくては。
……よし。
一つ頷き、エリスは洗面台へと向かう。
顔を洗って、歯を磨いて。鏡を見ながら、髪を梳かし……
いつものように、耳の横だけ三つ編みに結い上げる。
こうすると、食事の時に髪の毛が邪魔にならないのだ。
ふと、彼女はその手を止め。
鏡に映る自分の姿を、じっと見つめる。
"食べるのに邪魔だから"という理由で、肩の位置よりも長く髪を伸ばしたことはなかったが……
「………もうちょっとだけ、伸ばしてみようかな」
昨日してみたポニーテールは、なかなかに楽だったのだ。
動きやすいし、食べやすい。
それに……
『……そのポニーテール。可愛すぎです。初めて見た時から、ずっと思っていました』
「……………」
いや、違う違う違う! あいつに言われたからとかじゃない!! 断じて!!!
などと首を振っていたら、せっかく結った三つ編みがぐしゃぐしゃになってしまい。
彼女はもう一度最初から、髪を結い直した。
「──あ、エリス。おはようございます」
部屋を出て、一階の食堂へ降りると、昨日夕食を食べたのと同じ席にクレアとシルフィーが座っていた。
昨日のことなどまるで気にしていないような、爽やかな笑顔で挨拶をするクレアを一瞥して。
エリスは、定位置である彼の正面の席に座る。
「おはよ。ごめん、ちょっと寝坊しちゃった」
「いえ、私たちも今来たところです」
「昨日あれだけ走りましたからね。疲れは取れましたか?」
シルフィーに続きクレアがそう尋ねるので、エリスはジトっとした目で見返し、
「……そう言うあんたは、結局どうしたの? あのまま廊下で寝たの?」
「はい。主人の命令でしたので、廊下に這いつくばっていました。しかし、夜中見回りに来た宿の方に『怖いから部屋に戻れ』と言われてしまい……仕方なく、部屋で寝ることに。最後まで言いつけを守れず、申し訳ありませんでした」
「って、謝るとこソコじゃないから! あんたホントわかってんの?!」
クレアの的外れな謝罪に、エリスは思わず声を荒らげる。
その隣で、シルフィーが苦笑いをしながら、
「まぁまぁ、エリスさん。さっき宿の方から聞いたのですが、朝食もお魚づくしらしいですよ。今朝、港で水揚げされたばかりのお魚をさばいたお刺身も出るそうで……」
「おさしみっ?!」
途端に、きらんっと目を光らせ、ご機嫌になるエリス。
どうやらシルフィーは、エリスの扱いを徐々に理解し始めているようだった。
程なくして、三人のテーブルに朝食が運ばれてきた。
焼き魚に煮魚、あら汁にお刺身……シルフィーの言った通り、お魚づくしのメニューである。
港街ならではの朝食に、エリスはうっとりよだれを垂らし、
「きゃーっ♡ 美味しそーっ♡ いっただっきまー……」
手を合わせ、そう言いかけたところで……はっと気がつく。
向かいに座るクレアが、こちらを見つめ、にこにこと微笑んでいることに。
『ご飯を食べる前の、「いただきます」と手を合わせる仕草が可愛い』
「……………」
昨日、彼に言われたセリフが頭をよぎり。
エリスは、合わせようとしていた両の手を………ぐっ、と握りこぶしに変えて。
「……イタダキマス」
「さすがエリスさん、朝から気合いが入っていますね」
謎のファイティングポーズを取る形になってしまったエリスに、シルフィーは驚き混じりにそう言った。
──朝食を食べながら、三人は今日の予定について話し合う。
宿をチェックアウトしたら、すぐに隣街のイリオンに向けて出発だ。半日もあれば到着するので、今夜はイリオンで宿を取り、明日の朝一で例の老いた漁師を訪ねることにする。
「投網がないのに訪ねてしまって、本当に大丈夫でしょうか……」
「だぁいじょぶだって。なんとかなるなる。辛気臭い顔してたら、せっかくのご飯が美味しくなくなるわよ?」
いまだ不安いっぱいなシルフィーを、エリスはもりもり食べながら励ます。
事実、目の前の朝食は暗い顔して食べるのがもったいない程に美味しかった。
さすがカナール随一の高級旅館、味付けが抜群だ。魚の旨味を損なうことなく、絶妙な加減で調理されている。
そして、なんと言っても刺身。これが美味すぎる。引き締まった身の食感。舌の上で蕩ける脂。どれも鮮度が高いことを如実に表している。
嗚呼……これでは、米がいくらあっても足りない。焼き魚で一杯・煮魚で一杯・刺身で一杯食べてもいいくらいだ。
しかし、エリスは美食家ではあるものの大食いというわけではない。だから、ご飯とおかずの配分をよく考えて食べる必要がある。
最後まで美味しく食べるには、満腹の限界を超えないよう量を見定めなければならないのだ。
そんなことを考えながら、刺身を一口頬張り、「ん〜♡」とうっとり唸っていると……
──はっ!
再び、正面のクレアがじっと、こちらを見つめていることに気がつく。
その視線は……愛おしいものを眺めるように、優しげで。
『食べている時の、蕩けるような笑顔が可愛い』
『美味しさに悶えながらも、米とおかずのバランスをきちんと計算して食べているのが可愛い』
……こいつ、本当に見ているんだ。あたしのこと。
今まで全然、気付かなかった。
うう……気づいたら急に恥ずかしくなってきた……もう、人のこと見てないで、自分の食事を進めなさいよ!
だいたい、『食べているのが可愛い』ってなんなの?! 完全にナメてるよね?! 馬鹿にされてるよね?!
くそぅっ。こうなったら……
こいつに絶対、『可愛い』って思われないように過ごしてやる!!
そう決意したエリスは、しゅばっ! と手を上げて、宿の配膳係の人に向かって、
「すみません! ご飯おかわりください!!」
と、元気に呼びかけた。
そこから彼女は、笑顔を消して黙々と、米とおかずのバランスを無視した豪快な食事を進め……
隣で見ていたシルフィーは、その気迫に押され、
「……エリスさん。本当に、ご飯がお好きなのですね…」
箸を持つ手を止め、唖然として呟いた。