確かな感情
――アルフレドは、とある農家の末っ子として生まれた。
上には六人の兄姉がいて、子供たちみんなで両親の仕事を手伝いながら暮らしていた。
生活は貧しく、その日食べるのがやっと。
それなのに、父親は賭け事を好み、母親は夜な夜な酒に溺れ、稼いだ金はそれらに消えていった。
だから、子供たちは生活を支える働き手に徹し、まともな教育すら受けられずにいた。
アルフレドは生まれた時から身体が小さく、兄や姉に比べて発語や一人歩きをするのが遅かった。
当然、家の仕事を手伝い始めるのも遅れる。両親は「産まなければよかった」とがっかりし、アルフレドを邪険に扱った。
ある時、父親が賭け事で大負けした。
ただでさえ嵩んでいた借金が、いよいよ返しようのない額にまで膨らみ、取り立て屋が連日家に押しかけるようになった。
父親は金貸しの男に縋り、返済期日を延ばしてくれと泣き付いた。
すると……金貸しの男が、こう提案した。
「借金をチャラにする方法が一つだけある……子供を一人売れ。良い買い手を紹介してやる」
自分の命が惜しかった父親は、二つ返事で承諾し……
一番幼く、一番役に立たないアルフレドを差し出すことにした。
見知らぬ男たちに連れ去られ、アルフレドは泣いて抵抗した。
しかし、「言うことを聞かないと父親を殺す」と脅され、泣くのをやめた。
そうしてアルフレドは、犯罪組織の隠れ家へと連れて行かれた。
真っ暗な廃墟の地下牢に放り込まれ、「引き渡しの日までここにいろ」と閉じ込められた。
暗くて、寒くて、怖かった。
何より、心が痛くて堪らなかった。
自分は、役立たずの出来損ない。
愛される価値がないから捨てられた。
その事実に、幼い心が張り裂けそうで……今にも壊れてしまいそうだった。
……お願い、誰か。
いい子になるから。
役に立てる人間に、きっとなるから。
どうかここから……連れ出してください。
暗い地下牢の中、震えながら祈っていると……
――ドカァアアアンッ!!
けたたましい音と共に、天井の一部が崩れ落ちた。
続けて聞こえてくる男たちの怒号。
突然のことに、アルフレドは怯えて縮こまる。
と、
「――いたぞ! 子供だ!!」
そんな声がして。
ハッと驚きながら顔を上げると――一人の男が、崩落した天井の穴から降り立った。
闇に溶ける黒のアーマー。
大きな身体に、怖そうな顔。
そして……月明かりを反射するスキンヘッド。
男はアルフレドに近付き、地下牢の鍵をあっさり開けると……ニカッと豪快に笑って、
「よう。待たせたな。さ、こんな陰気臭いところはさっさとおさらばしようぜ」
そう言って、手を差し出した。
それが、ジェフリーとの出会い。
彼が隊長を務める特殊部隊が人身売買をする犯罪組織を奇襲し、アルフレドを助け出したのだった。
助かった……祈りが通じた。
これで家族の元に帰れる。
これからは、両親の役に立てるように頑張ろう。
兄姉に負けないくらい、いい子になろう。
もう二度と、捨てられることがないように。
アルフレドが、そう決意していると……
「実はな…………お前が帰る家は、もうないんだ」
アルフレドを抱き上げるジェフリーが、言葉を選ぶように言う。
その意味がわからず、「え?」と聞き返すと……彼はアルフレドを真剣に見つめ、
「……お前の家は燃やされた。組織の奴らが人身売買の事実を隠蔽するために、家族もろとも燃やしたんだ。駆け付けた時にはもう、遅かった」
そう、悲痛な面持ちで言った。
幼いアルフレドには、人身売買や隠蔽という言葉の意味が理解できなかったが……
家と家族が燃やされ、なくなったことだけは、理解できた。
アルフレドの頭が、真っ白になる。
……死んだ。
父さんも母さんも、兄姉たちも。
なんで、僕だけが生き残った?
僕が一番、いらない子なのに。
なんで……なんで…………
帰る場所をなくしたアルフレドは、そのまま軍部の養成施設『箱庭』へと送られた。
感情を捨て、その命を国に捧げよ。
そんな教えの下、優秀な戦士となるべく、厳しい訓練に晒された。
教官に怒鳴られ、木刀で殴られ、毎日くたくたになるまで走らされる。
もう無理だと、このままでは死んでしまうと泣き叫んでも、指導は止まるどころかより激しくなる。
だから、ここにいる子供たちは皆、無感情な目をしていた。
感情を捨てたのではない。感情を出せばより酷い目に遭うと学習したから、隠すのが上手くなったのだ。
アルフレドも、次第に周囲の子供と同じになっていった。
けれど、悲しみが消えたわけではない。
むしろ、彼の小さな心では抱えきれないくらいに膨れ上がっていた。
両親に「産まなければよかった」と言われたこと。
役立たずだからと売られたこと。
捨てられたはずの自分だけが生き残ってしまったこと。
国の奴隷になる以外に、生きていく術がないこと。
夜になると絶望に襲われ、狂いそうだった。
実際、狂ってしまう子供もいた。
そうなった彼らは教官たちに連れて行かれ、二度と戻って来なかった。
……きっと僕も、いずれああなる。
でも、その方がいいのかもしれない。
その方が……楽になれるのかもしれない。
そんなことを考え、ベッドの中で丸まっていると、
「……アルフレド」
誰かの声が、暗い部屋に響いた。
それは、『箱庭』に入った時に付けられた新しい名前。だから彼は、呼ばれているのが自分であると気付くのに少し時間がかかった。
「は……はい。ここにいます」
「こちらへ。何も持たなくて結構です」
その声は、僅かに開いた扉の向こうから聞こえていた。
アルフレドは同じ部屋に眠る他の子供たちを起こさないようそっと歩き、廊下に出た。
声の主は、背の高い大人だった。
白衣に身を包んだ女性。しかし、仮面を着けているため、どのような顔をしているかはわからない。
彼女は手を差し出し、優しい声で言う。
「おめでとう。あなたは名誉ある実験の被験者に選ばれました。さぁ、私と一緒に行きましょう」
奇妙な仮面に、得体の知れない『実験』。
一体どこへ連れて行かれるのだろうと、アルフレドは怖くなるが……
それ以上に、誰かの優しい声を聞くのが、本当に久しぶりで。
泣きそうなくらいに、嬉しくなってしまって。
彼は、その手を……そっと握った。
――そこから先のことは……よく、わからない。
『箱庭』から別の建物に連れて行かれ、地下へと繋がる扉を見た後、目隠しをされて……
「アルフレドくん。右手を伸ばして……これを、握ってみてくれ」
その指示に従い、何かに触れた。
瞬間、
「…………あ……」
彼の心を蝕んでいた絶望が……消えた。
悲しみが、苦しみが、傷みが、孤独が。
触れた手を伝い、何かへと吸い取られてゆく。
その感覚に呆けていると、周りの大人たちから歓声が上がった。
「おめでとう! これは選ばれし者の身体にのみ刻まれる"印"だ」
……直後。
首の後ろに、激痛が走り……
アルフレドは、悲鳴を上げた。
その出来事が、一体何だったのか。
わからないまま、時が過ぎた。
絶望を"何か"に吸い取られた後、アルフレドは泣かなくなった。
どんなに怒鳴られても、どんなに殴られても、訓練を辛いとは思わなくなり……
気付けば、同年代の中で最も優秀な戦士になっていた。
けれど、それを誇らしく思う感情もまた、彼の中から消えていた。
何があろうとも悲しくはないし、嬉しくもない。
そんな"空っぽ"な人間に成り果てていた。
――十三歳になるのと同時に、アルフレドは特殊部隊に引き抜かれた。
隊長は、あの時自分を救ってくれたジェフリーだ。
彼の元で、アルフレドは様々なことを学んだ。
尾行のコツ。
潜入捜査の極意。
相手に取り入るための話術。
アルフレドはジェフリーや先輩たちの言動を観察し、真似した。
それができるようになると、今度は相手の言動から最適な返答を予測し、好かれる人物を演じられるようになった。
特殊部隊の任務は過酷だ。
だが、アルフレドが経験したことのない程に親密で、結束力の強い組織だった。
隊士は皆、アルフレドと同じ『箱庭』出身者ばかり。
けれど、凍らせたはずの彼らの心は、ジェフリーという太陽に溶かされ……
知らず知らずの内に、人間らしさを取り戻しているようだった。
……ここにいると、楽しい。
成功すれば讃え合い、失敗すれば助け合う。
生まれて初めて、自分の居場所ができたような感覚だ。
そう思う一方で、アルフレドは、それが自分の本当の感情なのかわからなくなっていた。
あまりに"空っぽ"で、誰かを演じることでしか感情表現をしてこなかったから、これも『仕事仲間と良好な関係を築く自分』を演じているだけなのではないかと、そう思っていた。
しかし……
ジェフリーが死んだ、あの時。
自分の胸に、なくしたはずの悲しみが押し寄せてきて。
心にぽっかり、穴が空いたような感覚になった。
そこで、ようやく気付いた。
ジェフリーたちに抱いている親しみが、本物だったこと。
そして……それを教えてくれたジェフリーに感謝を伝える術が、永久に失われたことに。
――ジェフリーを亡くしてから、数ヶ月後。
アルフレドの暮らす寮のベランダに、猫が現れた。
母猫と、生まれたばかりの子猫が三匹。どうやらここで出産したらしい。
寮では生き物を飼うことが禁止されている。
何よりアルフレド自身、生き物には興味がない。
(……まぁ、しばらくすれば他所へ行くだろう)
そう考え、彼は放っておくことにした。
しかし……数日後。
彼が任務から帰宅すると、ベランダから「ミィミィ」というか細い鳴き声が聞こえた。
まだ猫がいるのかと、窓を開けると……子猫が一匹だけ、そこにいた。
母猫や兄弟の姿はない。独りになってしばらく経つのか、子猫は痩せ細り、見るからに弱っていた。
……その姿を見て。
アルフレドの胸が、切なく痛んだ。
この子は…………まるで、昔の自分のようだ。
「……お前も、親に捨てられたのか?」
アルフレドはそっと、子猫を抱き上げる。
命と呼ぶにはあまりに軽く……しかし、確かな温もりがあった。
「……大丈夫。今日から俺が君の家族だ。俺は君を捨てたりしない。どんなに遅くなっても……必ず、帰って来るから」
そう言って――
彼はその猫に、名前をつけた。
* * * *
――ウィンリスから帰還し、ジークベルトと情報を共有した、二日後。
アルフレドは、クレアとエリスの家に向かっていた。
"水球"を消滅させ、『飛泉ノ水斧』を回収したことを国の上層部に報告したが、クレアの描いたシナリオとジークベルトの手回しにより、アルフレドが"水球"を生んだ責任に問われることはなかった。
……で。
今日はエリスの言っていた『決起集会』とやらにお呼ばれしているわけだが……
「……まさか、『呪術が込められた危険物』と称して高級ワインを二本も押収していたとは……さすがエリスちゃんだなぁ」
と、彼女のしたり顔を思い出し、苦笑いする。
ウィンリスの街でエドガー祭司の悪事を資料にまとめた際、エリスは「祭司が呪いを込めた可能性がある!」などと嘯き、保安兵団からウィンリス・テロワールを回収していたのだ。
その内の一本はチェロへの土産に、もう一本はクレアが作るビーフシチューの材料となった。
五十年ものの最高級ワインで二日間じっくり煮込まれた背徳のシチュー……
それを共に食べ、これからの英気を養おう! ということらしい。
「……プライベートでの食事会なんて、いつぶりかな」
そんなことを呟きながら、アルフレドは二人の家へと続く外階段を登る。
そして、見慣れた扉をノックすると……すぐに開かれた。
「お待ちしていました、アル。みなさんお揃いですよ」
出迎えたのはクレアだ。料理の支度をしていたのか、エプロンを身に付けている。
すっかり所帯じみた先輩の姿に、アルフレドは思わず笑みを浮かべ、手土産を渡しながら家の中へ足を踏み入れた。
リビングは、シチューの良い香りで溢れていた。
赤ワインの酸味と果実味、そして、とろけるような肉の匂い……食にこだわりのないアルフレドでもよたれが込み上げるようだった。
テーブルには先客がいた。
シルフィーとレナード。そしてエリスが、「遅いじゃない、弟!」と文句を言う。どうやら、早くシチューを食べたくて堪らないようだ。
そして……その隣に座るチェロが席を立ち、アルフレドに歩み寄る。
手には、見慣れたキャリーバッグが握られている。
「あなたの気配を感じたのか、中で暴れて大変だったのよ? さぁ、早く開けてあげて」
そう言って、チェロはバッグを差し出す。
アルフレドはそれを受け取り……バッグの口を開けた。
すると、灰色の影が中から飛び出した。
猫のマリーが、アルフレドの肩にぴょんと飛び乗ったのだ。
彼女は、再会を喜ぶように彼に擦り寄る。
そして、「なぁーう」と甘えた声で鳴いた。
『――おかえり』
その声が、そう言っているように聞こえて。
アルフレドは、無事に帰って来られたことに安堵する。
『俺は君を捨てたりしない。どんなに遅くなっても……必ず、帰って来るから』
それは、言葉のわからない猫に向けた一方的な約束。
けれど、アルフレドの中で、譲れない誓いとなっていた。
マリーに寂しい思いをさせないために、絶対に帰って来る。
そうすれば……あの日、捨てられて泣いた自分も、救われるような気がするから。
アルフレドは、マリーを抱き締める。
そして、目尻に涙を浮かべて、
「…………ただいま、マリー」
その胸に確かに宿る温かさを感じながら……
小さく、小さく、呟いた。
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
――ウィンリス、保安兵団屯所内の留置部屋。
エドガー祭司が勾留されているその部屋に、突如として、一人の男が現れた。
その姿を見て、エドガー祭司は動揺する。
「貴様……王都へ帰ったんじゃなかったのか? もう話すことはないと言ったはずだ!」
それに男は……くすりと、優美に笑う。
「おや? もしかして、"彼"と間違えているのですか? ふむ……そんなに似ているとは。やはり血縁なのでしょうか」
「何を訳のわからないことを……」
顔を顰めるエドガー祭司に、男は近付き……
彼の首をガッと掴み、顔を覗き込んで、
「薄情なお人だ……僕の顔をお忘れですか? エドガー祭司」
囁く。
暗がりの中、妖しく光る瞳の色に、エドガー祭司は……
何かに気付いたのか、みるみる内に顔を青ざめさせる。
「お、お前……生きていたのか……?!」
「その表現には少し語弊がありますね。僕はもう、あの頃とは違う……まったく別の人間に生まれ変わったのですから」
……そして。
男は、首を掴むのと反対の手で、魔法で生み出した氷の刃を握り、
「"彼"が持つ出生の記憶の抽出には失敗しましたが……"彼女"を素体へと高めることには成功しました。あなたはもう、用済みです」
にこっ……と、穏やかな笑みを浮かべて。
「――さようなら、エドガー祭司。娘さんによろしくお伝えください」
そう、囁くと――
冷たい氷の剣で、エドガー祭司を貫いた。
ー第四部 完ー
第四部はこれにて完結です。
お読みいただきありがとうございました。
この続きにあたる間章を近々……少なくとも年内には書いて掲載するつもりですので、しばらくお待ちください。
連載再開をわかりやすくするため、ステータスを一旦『完結』にさせていただきますが、お話はまだ続きます!
少しでもお楽しみいただけましたら、ぜひページ下部から評価(★印)、感想をお寄せください。レビューも大歓迎です。本当に励みになります……
応援いただきありがとうございました。
引き続きよろしくお願いします!