6 空っぽだった二人
――溶解したシノニム湖を後にし、クレアとエリスは濡れた身体を乾かす間もなく、保安兵団の屯所へと急行した。
説明を求めるシルフィーに「話は後で!」と返し、アルフレドがいる部屋に飛び込んだ。
格子付きの窓に、分厚い鉄の扉。
犯罪者を一時的に留置するための狭い部屋だ。
その簡易的なベッドの上で、アルフレドは未だ気を失っていた。
見張りとして部屋にいた保安兵団のサーヴァが三人の訪問に驚き、顔を上げる。
「みなさん、お揃いで。どうかされましたか?」
「アルの容体は……医師は何と言っていましたか?」
「呼吸は少し浅いですが、体温は正常。脈にも異常はないそうです。ただ、随分と深い眠りに就いているようで……」
「そうですか……ありがとうございます。確認したいことがあるので、一度席を外していただけますか?」
サーヴァは「わかりました」と言って、部屋を出て行った。
エリスは一度クレアと視線を交わすと、アルフレドの状態を観察し始めた。
その忙しない雰囲気に、シルフィーはますます狼狽える。
「えぇと……一体、何がどうなっているんです? この人が『飛泉ノ水斧』を悪用した犯人だったんじゃないんですか?」
「いいえ。彼は操られていただけだったの」
「あ、操られていた?」
「洗脳魔法……それが実在することが、解放した精霊の情報により明らかになりました」
「え……!」
二人の説明に、絶句するシルフィー。
その間にも、エリスはアルフレドの身体を嗅ぎ回るように調べ……
「…………ここね」
そう呟くと、彼の額に神手魔符をペタッと貼り付け、閉じられたままの瞼を無理やり指でこじ開けて……
そのままじっと、静止した。
そのシュールな光景に、シルフィーは目を点にする。
「……これ、本当に緊急事態なんですよね?」
「しっ。静かに」
エリスは、何かに集中するように沈黙し……
やがて、神手魔符を発動させる祝詞を唱えた。
「──招詞・水御霊!」
瞬間、アルフレドの両目から、粘度のある水が「ズリュリュリュリュッ」と吸い出された。
そしてそれは、神手魔符の上に集まると、手のひら大の水の玉となり……
そのまま彼の顔へ、パシャリと落ちた。
顔に水を浴びた衝撃で、アルフレドがガバッと跳び起きる。
「ぎゃぁあああっ! な、何なんすか?!」
ぷるぷる顔を振り、水を飛ばす彼。
そして……傍に立つエリスたちに気付き、
「あ、あれ……? エリスちゃんに、クレアさん? なんで……っていうか、ここドコ??」
などと、緊張感なく首を傾げるので……
クレアは、無言のままツカツカと歩み寄り、
――ゴッ!!
……と、後輩の顔を、無遠慮に殴った。
突然の横暴にシルフィーは「えぇーっ?!」と驚き、エリスは「おぉ」と他人事のような声を上げる。
「へっ? く、クレアさん……?」
殴られた頬を押さえ、アルフレドはなおもきょとんとする。
クレアは彼の胸ぐらを掴み、ぐっと引き寄せると……こう質した。
「……名前は?」
「ぅえっ?」
「いいから。名を名乗ってください」
「あ、アルフレド・グリムブラッド、です……」
「所属は?」
「アルアビス国軍の特殊部隊……アストライアーの隊士です」
「今任されている任務は?」
「エステルア領のタブレスに潜伏している密売組織の調査を手伝えと、ジークベルト隊長に言われました」
傍から見れば突飛な問答だが、この二人にとっては馴染みのあるやり取りだった。
演じる役に没入するあまり、潜入捜査からなかなか帰還しないアルフレドを殴り、本来の目的を思い出させる――洗脳が解けているかを確認するため、クレアはいつものやり方を講じたのだ。
アルフレドからは嘘の気配は感じられない。
夢から覚めたばかりのような冴えない顔で、頭に疑問符をいくつも浮かべている。
先ほど"水の精霊"に見せられた通り、洗脳されていた間の記憶はないらしい。
本当に……クレアを裏切ったわけではなく、ただ操られていただけなのだ。
そのことを確信し、クレアは胸ぐらを掴んでいた手を緩める。
そして……ほんの少し、顔を歪めて、
「まったく……あなたと言う人は。どれだけ心配をかければ気が済むのですか」
呆れと安堵が混ざったような、そんな声で言った。
クレアのその表情に、アルフレドは……心底驚いたように目を見開いて、
「えッ……クレアさんがそんなカオするなんて……もしかして俺、とんでもないことやっちゃいました?」
「えぇ。結論から言えばこの街を、ひいては世界を滅ぼしかねないことをやらかしました」
「うそっ?! 俺が世界を……?! どうしよう、まじでなんにも覚えてない!!」
「っていうかエリスさん! さっきその人の目からドゥルルルルルってなんか出ていましたけど、なんだったんですか?!」
「えぇぇっ、俺の目からなんか出てたの?! キモッ! つーかこのメガネちゃん誰?!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐアルフレドを、クレアは「うるさい」ともう一度殴る。
アルフレドは何故か少し嬉しそうに「あんっ」と鳴いて、おとなしくなった。
エリスはやれやれと息を吐き、アルフレドの額から落ちた神手魔符を拾い上げる。
「水の魔法が彼の脳に留まっていたの。まるで寄生生物みたいにね。それを目から出したってワケ」
「の、脳に……?!」
「そう。原理はわからないけど、かなり高度で精密な魔法よ。こんなの見たことがない」
「エリスさんにもわからない魔法だなんて……一体、誰がそんなことをしたんですか?」
シルフィーにそう問われ……エリスは言葉を詰まらせる。
そして、「どうする?」と投げかけるようにクレアに視線を送った。
ルカドルフ王子や、その裏にいるかもしれないカレルのことを話せば、シルフィーを完全に巻き込むことになる。
だから、どこまで話すべきか、エリスは迷っているのだ。
クレアはその視線を受け止め……意を決したように頷いて、
「……情報を共有しましょう。あちらが洗脳魔法を使う以上、今後は誰がどうなるかわかりません。知っておいた方が、かえって対策ができるはずです」
「……そうね。そんじゃ、シルフィー」
あらたまったように呼ばれ、シルフィーは「へっ?」と答える。
エリスに続き、クレアも「アル」と呼びかけ、
「お二人を護るため、そして、力を貸していただくために……私たちが知っていることを、共有します」
――そうして。
クレアは、二人に語った。
国の上層部は、既に二つの"禁呪の武器"――『天穿ツ雷弓』と『炎神ノ槍』を保有しているが、その事実を隠していること。
さらに、呪いの力を解放せずに"武器"を回収せよと命じる誰かがいること。
前回のオゼルトンの一件で、その誰かが国の最高司令官の息子・ルカドルフ王子であると判明したこと。
王子は、狂戦士化の呪いを受けない"適性者"の条件を探っており……
彼が最高司令官の地位に就いた暁には、"禁呪の武器"を兵器として実用化させる可能性があること。
しかし、先日レナードがおこなった調査により、王子は自発的に動いているのではなく、何者かの指示を受けていることがわかり……
その指示者こそが、『飛泉ノ水斧』から古の記憶を継承したカレルだと予想され……
彼が有する古代の魔法技術により、アルフレドが洗脳されたと思われること。
この現状を踏まえ、クレアたちがすべきことは二つ。
一つは、"禁呪の武器"の適性者の条件を秘匿すること。
そしてもう一つは、未解放の『弓』と『槍』、未発見の『麗氷ノ双剣』を一日も早く無力化すること――
「――以上が、現在我々が置かれている状況です」
そう言って、クレアは話を締め括った。
聞き終えたシルフィーは、あわあわと唇を震わせ……
アルフレドは、拳を握り締めた。
「そ、っか……俺がガキの頃に触れたのは"禁呪の武器"で……あれは適性者を見出すための実験だったんすね」
そして、自身の首の後ろ――"適性者"の印を押された場所に、そっと触れる。
「二歳の頃の記憶だけど、今も鮮明に覚えています。大人たちの狂気じみた雰囲気も、この焼き印の痛みも……けど、誰にも言ってはいけないと言われたまま当時の所長が死んでしまって……あれは一体何だったんだろうって、ずっと疑問に思っていました」
アルフレドは悲痛な面持ちで、クレアを見上げる。
「俺がその疑問を追求し、自分の特性を把握していれば、今回のように利用されることはなかったと思います。クレアさんとエリスちゃんを危険な目に遭わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
そう言って、頭を下げるので、エリスは否定しようと口を開きかける。
が、クレアが片手を上げてそれを制し……代わりに答える。
「いえ、これは私の落ち度です。その焼き印に覚えがあったのに、詳細を思い出すことができなかった……あなたの身体に見たことを思い出せていれば、もっと早くに対処できていたでしょう」
「いや、それは無理っすよ。何せ普段は隠すようにしていましたからね。クレアさんが見たとすれば、『箱庭』時代の幼少期じゃないっすか? 風呂の時とか、着替えの時とか。まだお互いの名前すら知らない、知る必要もなかった時期です。クレアさんでも特定は不可能……だから、落ち度なんかないっす」
と、そこで。エリスがずいっと間に入る。
「あーもう、そこまで。あんたら、そんなに自分が悪者になりたいの?」
「そうですよ! 悪いのはアルフレドさんでもクレアさんでもなく、ルカドルフ王子たちです! "禁呪の武器"を実用化させようなんて……そもそも王子がそんな危険思想に取り憑かれているというのに、父親である最高司令官は何をやっているんですか?!」
エリスに続き、シルフィーが憤りを露わに言う。
そのもっともな意見に、クレアは首を振り、
「ヴァルデマール総統がこの件を知っているかはわかりません。一切関知していないかもしれないし、逆にこの方針に賛同している可能性もある……ただ、総統が直接命令を下していないところを見るに、あくまで主導はルカドルフ王子とその裏にいる人物なのではないかと思われます」
「そんな……」
「俺たちの立場上、下手に総統に告発するのは危険っすね。仮に"武器"の実用化に総統が前向きなのだとしたら、俺たちはただの邪魔者になる。良くてクビ、最悪の場合は口封じに暗殺されておしまいでしょう」
「あ、暗殺?!」
「そうなるくらいなら、従順な犬のフリをしたまま秘密裏に陰謀を潰す方が得策っす。大々的な政策となると叛逆も厄介だけど、今はまだあちらもコソコソしている。かえってやりやすいっすよ」
なんて、軽い口調で言うアルフレド。
楽観的な態度を示す後輩に、クレアは困ったように笑う。
「まったく……特殊部隊の隊士が揃いも揃って国の意向に歯向かうとは。あなたも随分と不良になりましたね」
「あれ。もしかしてクレアさん、俺が王子側につくと思っていました? 国に命を捧げた従順な駒だから、上の方針に逆らうわけがない! って?」
そう冗談まじりに聞かれ、クレアは……静かに首を横に振り、
「……いいえ。昔のあなたならそうだったのかもしれませんが……今のアルなら、絶対に私側についてくれると信じていました」
そう、穏やかな声で答えた。
――クレアたちの育った『箱庭』では「この命は国に尽くすためにあるのだ」と教えられ、隊長であるジェフリーにも「私情を捨てろ」と言われてきた。
だから、クレアもアルフレドも、それに従い生きてきた。
命じられるままに動く、思想も感情もない、従順な駒として。
しかし、ジェフリーを失い、それでは駄目なのだと気付いた。
だって……矛盾しているから。
ジェフリー自身、妻や娘のエリスを護りたいという"私情"を糧に、仕事をまっとうしていたのだから。
護りたいものや、譲れない信念。
そうした人間らしい"私情"があってこそ、人は強くなれる。
それを教えるために、ジェフリーはエリスのことをクレアに託したのかもしれない。
彼が言う「私情を捨てろ」とは、「無感情な駒であれ」という意味ではなく――
「護りたいもののためなら、自分のことは後回しにしろ」。
きっと、そんな思いを込めた言葉だったのだろう。
そのことに気付いたクレアは……
アルフレドの額を、ビシッと指で弾いて、
「……言ったでしょう? 女性よりよっぽど面倒な猫の世話を生き甲斐にしているのですから……現在のアルになら、情報を共有してもいいと思ったのです。共に大事なものを護る、仲間として」
そう言って、揶揄うように微笑んだ。
弾かれた額の痛みと、そのセリフに、アルフレドはハッとなる。
そして……泣きそうな顔で笑って、
「はは……あれ、やっぱ夢じゃなかったんすね。ちゃんと痛かったですもん。今みたいに」
と、"鏡界"のニセモノに投影した自意識の記憶を思い出し、言う。
「……あらためて言わせてください。"空っぽ"だと言った俺を笑い飛ばしてくれて…………ありがとうございました」
演技ではない、心からの想いを込めて、そう言った。