4 権能の継承者
「なんで祭司のじーさんが……? これって、数百年前の記憶なんじゃないの?」
エリスが、困惑の声を溢す。
クレアにとっても予想外だった。
"記憶"に映るエドガー祭司は、外見からして恐らく四十代半ば。つまり、現在から二十年ほど前の姿だろう。
確かにカレルや義両親の暮らしぶりは現代の生活に近いものだったが……まさか知っている人物が登場するとは思わなかった。
しかし、エリスが魔法学における時代の推測を誤るはずがない。そこから考えられるのは……
「最初に見た光景は、古代の魔法学を参考にした近年の実験だった、ということでしょうか? だから数百年前の言語で書かれた書類が散らばっていた、とか」
「にしては"大地の精霊"の魔法に違和感があったけど……うーん、そう考えるしかなさそうね」
エリスはいまいち納得し切れない様子で、そう返した。
カレルの"記憶"の光景は続く。
自分だけに聞こえる謎の声に悩まされたカレルは、エドガー祭司の元に預けられることになった。
「自然豊かなこの教会なら雑音に惑わされなくて済むだろう。なにより、精霊の主さまがきっと治してくれる。良くなったら迎えに来るから」
義両親はそう言ってカレルと別れたが……恐らくは手に負えないと判断し、エドガー祭司に金を払い、手放したのだろう。
それでもカレルは、幻聴が治れば義両親とまた暮らせると信じ、エドガー祭司の教えに従った。
聖典を読み、教会を掃除し、感謝と祈りを捧げ……
そうしてひと月が経っても、謎の声は消えなかった。
カレルの心が、再び蝕まれてゆく。
義両親とは別れてから一度も会っていない。
友だちもいない。
来る日も来る日も教会の中で過ごす日々。
エドガー祭司の優しさだけが、彼の救いになっていた。
しかし……それもすぐに、彼を壊す材料となった。
ある晩。カレルはエドガー祭司が用意した夕食を食べた後、猛烈な眠気に襲われ、意識を失った。
そして、目を覚ますと……見知らぬ場所で、磔にされていた。
クレアとエリスには見覚えのある場所だった。
教会の地下にある、あの隠された実験室だ。
「なに、ここ……エドガー祭司……?」
怯えながら祭司を呼ぶカレル。
すると、祭司が靴音を鳴らしながら階段を降りて来て……
いつもとは違う怪しげな笑みを浮かべ、カレルに近付いた。
「カレル……君がここに来て、もうひと月だ。なのに、君を悩ませる邪悪な声は未だ消えない」
……そして。
カレルの顎をガッと掴み、
「だから――君のために、特別な薬を調合したよ。さぁ、飲んでみてくれ」
そう言って、手にした小瓶の中身――禍々しい色に光る液体を、カレルの口に無理やり流し込んだ。
クレアとエリスは知っている。その液体が、何なのか。
エドガー祭司が娘を蘇生させるために開発した禁忌の物質……『精霊の気』を人間に注入するための媒体だろう。
それを飲み込んだ途端、カレルは……
「……ぉえっ……!!」
苦しげな声を上げ、すぐに戻した。
するとエドガー祭司は、カレルの頬を強く殴り、
「聖なる薬を戻すとは、なんと罰当たりな! 仕方ない。明日からは注射に変え、血液に直接流し込むとしよう……そうすれば拒絶反応が出にくいはずだ」
などとブツブツ呟きながら、カレルの前から去ろうとする。
「え……エドガー祭司……おろして……」
未だ不快感に襲われているのか、カレルが苦しげに呼びかけるが……
祭司は恐ろしい形相で振り返り、怒鳴りつける。
「黙れ! 貴様の寝床は今日からそこだ! そのまま反省していろ!」
「そんな……助けて、母さん……父さん……」
泣きじゃくるカレルの声に、エドガー祭司は大笑いする。
「お前を預けた両親はもう来ない! 私に金を払って、お前を厄介払いしたのだからな! つまりお前は私に金で買われた! お前をどうしようが、私の自由ということだ!!」
……カレルにとっての唯一の希望を。
祭司は、高笑いと共に、あっさりと踏み躙った。
義両親が自分を捨てた。
エドガー祭司の優しさも偽りだった。
目の前が滲んで、酷い耳鳴りが頭に響くのに……
あの声が、まだ消えない。
そこから先の"記憶"は、絶望しかなかった。
地下室に磔にされたまま、来る日も来る日も『精霊の気』を身体に定着させる実験に晒され……
やめてと泣き叫んでも、胃の中身や血を吐き出しても止めてもらえず……
カレルの心は、完全に壊れてしまった。
その"記憶"の光景に、エリスは思わず顔を背ける。
『精霊の気』を人間の体内に入れるということは、血液に水を流し込むようなもの。
もっとわかりやすく言えば、バチバチと火花を散らす爆薬をそのまま飲み込み消化させようとするのと同じこと。
人間の身体では到底受け入れられないエネルギーを流し込まれるのだから、拒絶反応を起こすのは当たり前だった。
精霊そのものも、精霊により齎された魔法の力も、人体に融合させるのはあまりに危険だ。
だからこそ、人体強化も治癒も現代では禁止されているのに……
こんな残酷なことを、子供に強いていただなんて。
「エリス……」
顔を歪める彼女の身体をクレアはそっと抱き寄せ、少しでもカレルの悲鳴が聞こえないようにした。
――そうして、終わりの見えない絶望が続いた後。
「…………やったぞ……」
興奮に震えるエドガー祭司の顔が映し出された。
「ついにやった……拒絶反応を起こさずに、精霊さまの力が定着した……! 水の精霊の割り合いが少々高いが、まぁいいだろう。これでようやく儀式に進める……!!」
狂気に満ちたその言葉を聞き、エリスが「え……?」と顔を上げる。
彼女も気付いたのだろう。この後カレルが、どのような運命を辿るのか。
エリスを抱く腕に力を込めながら、クレアは言う。
「……祭司が預かっていた子供たちのリストに、『カレル』という名前はありませんでした。恐らく彼こそが……記録を抹消された"最後の子供"です」
「そんな……」
エリスの悲痛な声を無視するように、運命は進む。
エドガー祭司は朦朧とするカレルを磔台から引き剥がすと、ロープで手足を縛り付けた。
そして肩に担ぎ、教会の外へと連れ出した。
夜だった。森に囲まれた湖畔は静かで、虫や夜鳥の声しか聞こえない。
灯りのない湖のほとりに、カレルはどさりと下ろされた。エドガー祭司は、やはり興奮した様子で教会へと戻って行った。
カレルは仰向けに転がり、空を見上げる。
星が綺麗だった。彼にとって、数ヶ月ぶりに見る外の景色だったのかもしれない。けれど、心を壊された今の彼が、その星空をどう感じているのかはわからなかった。
そんな静寂も束の間。エドガー祭司が再び現れた。
その背には、別の誰かが背負われている。
少女だ。
五、六歳くらいの、金髪の女の子。
目は閉じられ、手足はだらりと脱力している。
見るからに生気がなく、肌は青白い。
……いや。青白く見えるのは、表面に霜が付いているからだ。
「あの子……もしかして、亡くなった祭司の娘?」
「えぇ。遺体を凍らせて、保存していたのでしょう」
エリスとクレアは、目を見張る。
エドガー祭司の狂気は本物だった。耳で聞くのと実際目にするのでは、訳が違う。
祭司はカレルの隣に娘――アリスの遺体をそっと横たえる。
そして、アルアビスの古語とオゼルトン語が混ざったような、不可思議な呪文をしばらく唱えた後……
「では…………これより、"再生の祝福"の儀を執り行う」
そう言うと、祭司は近くに停めてあった小舟にカレルとアリスを乗せた。
そして、湖の真ん中まで小舟を漕ぎ……そこで、カレルの足を縛るロープに重々しい金属を括り付けた。
小舟を停泊させるための碇だ。祭司は同じものをアリスの身体にも取り付ける。
カレルは体力が残っていないのか、すべてを諦めたのか、少しも抵抗しなかった。
最後に、祭司が祈りを捧げる。
「精霊の主よ……慈悲深き聖エレミアよ……ここに捧げる贄を糧に、我が娘の魂をお還し下さい」
……そして。
エドガー祭司は、カレルの身体を抱き上げると……
無抵抗なままの彼を、シノニム湖へ放った。
バシャンと跳ねる水音。
碇に引かれ沈んでゆく、ゴボゴボという音。
その後を追うように、アリスの遺体も沈んでゆく。
先ほどまで見上げていた星空は、水に揺らいでぼやけ……
カレルの心を表すように、暗く、遠く、消えていった。
やがて、カレルを引っ張る碇が湖底へ到達した。
鈍い音を立て、澄んだ水中に泥が舞う。
その様を、やはりカレルは他人事のように見つめ……
自らの死を受け入れるように、瞼を閉じる――が。
――ふと。
閉じかけたその目が、湖底に光る何かを捉えた。
それは、刃。
青い光を放つ、戦斧の刃だった。
そこに刻まれているのは、"禁呪の武器"に共通する紋様の彫刻。
間違いない。これは……『飛泉ノ水斧』だ。
「そうか……それで……」
クレアが呟く。
"精霊の王"により隠された『飛泉ノ水斧』は、数百年前からこのシノニム湖の底にあり……
それをカレルが、偶然にも見つけてしまったのだ。
斧が放つ光に魅入られるように、カレルは身を捩り、それに近付く。
そして、手を縛るロープを刃に擦り付け、断ち切ることに成功した。
……これこそが"救い"だ。
運命はまだ、僕を見捨ててはいなかった。
カレルはきっと、そう思ったことだろう。
この斧で足を縛るロープを切れば助かる。
カレルは自由になった手で水を掻き、斧に向き合う。
そして――
湖底の泥に埋まった持ち手を掘り出し。
黄金色のそれを、しっかりと握った。
"禁呪の武器"である斧に、触れてしまった。
刹那。
視界が――――闇に包まれた。
「……………………そうか」
カレルは、何かを悟ったように呟く。
「僕は……………………そのために生まれてきたのか」
♢ ♢ ♢ ♢
――暗闇に、その呟きが響いた後。
クレアとエリスの意識は、再び真っ白な空間へと戻っていた。
水の精霊の意識と繋がる、『飛泉ノ水斧』の中だ。
「え……これで終わり?」
呆然と言うエリスに、水の精霊の声が答える。
『私が認識できるのは、この斧に触れるまでの記憶。この後のことは、私にもわからないわ』
「そんな……それじゃあカレルの生死は不明ってこと? 彼は最後、何に気付いたの?」
『わからない。けれど、一つ言えることがあるとすれば……この斧に触れた瞬間、カレルはある記憶を見たの――この斧を創造した者の記憶よ』
つまりカレルは、古の権力者の記憶を見て、"禁呪の武器"が造られた経緯を知ったということ。
驚愕するクレアたちに、精霊が続ける。
『そして、カレルがこの斧に触れた瞬間……創造者の記憶が、私の中から消えてしまった。恐らく、カレルに引き継がれたのでしょう』
「引き継がれた……?」
『えぇ。この斧は、使用者の記憶を元に幻想を展開し、捕えた者の記憶を保存する装置……けれど、保存された記憶を簡単に閲覧できてしまえば敵に利用されかねない。だから、創造者とその血縁のみが記憶と権能を引き継ぎ、読み込んだ記憶を自由に閲覧できるよう造られていたのよ』
「それじゃあ、カレルがその血縁者ってこと? でも、彼は生まれてすぐに何かの実験に晒されていたし……本当に権力者の子孫なのかしら?」
エリスがクビを捻りながら唸る。
その横で、クレアも考えを巡らせ、
「もし、カレルが生きているならば……彼は、この世で唯一『水斧』の所在を知り、その真価を正しく認識している存在ということになります」
と……"水球"を巡る一件の核心となる推測を口にした。
エリスは、クレアをバッと見上げる。
「もしかして……王子を裏で操っているのがカレルだって言いたいの?」
「可能性はあります。そもそも疑問だったのです。王子はどうやって『水斧』の所在を掴んだのか。そして、『記憶を学習する』という特性をどうして知ったのか。カレルであれば、それを王子に助言することができます」
「確かに……だとしたら、王子の近くにいるはずよね? 祭司のじーさんがこの儀式をおこなったのが二十年前。ってことは、生きていれば二十代後半……うぅ、そんなの軍部にも魔法研にもゴロゴロいる年代じゃない。名前は変えているだろうし……顔がわかれば特定できそうなのに」
今しがた見せられた"記憶"はすべて主観の視点だったため、カレルの姿を見ることはできなかった。
しかし……希望はまだある。
こめかみを押さえるエリスに、クレアは言う。
「アルに『水斧』を使用するよう仕向けたのがカレルだとすれば……まだ見ていないアルの"記憶"の中にカレルの姿が映っているかもしれません」
「そっか……! よしっ、早速見てみましょ!」
宙をビシッと指さし、エリスが言う。
精霊は何も言わなかったが、それに応えるように、二人の目に映る光景が切り替わった。