3 ある少年の記憶
♢ ♢ ♢ ♢
――クレアたちの目に最初に映ったのは、水中に浮かぶ気泡だった。
それは、この"記憶"の持ち主の呼気。
どうやら彼、あるいは彼女は水の中にいて、クレアたちはその視点での記憶を見ているらしい。
思わず息を止めるエリスに、クレアは「大丈夫ですよ」と呼吸できることを教える。
「これは……アルではない、もう一人の記憶でしょうか?」
「たぶんね……って、いきなり溺れてるのかしら?」
「それにしては落ち着いているようにも見えます。意識もはっきりしていますし」
「……ん? もしかして、ここ……何かの容れ物の中?」
エリスの言う通り、光の反射から察するに、ここは水を溜めたガラス容器の中のようだった。
しかも、その容器の向こうで何かが動くのが見える。
これは……
「人間……誰かがこっちを覗いている?」
「この"記憶の主"は水の中に閉じ込められていて、その様子を何者かに観察されているようですね」
「それって……やばい事件に巻き込まれているか、そうでなければ、何らかの実験に晒されているってことよね?」
顔を引き攣らせるエリスに、クレアは無言で頷く。
『実験』と聞くと、アルフレドが受けた『天穿ツ雷弓』の適性実験が思い出されるが……
水中のため視界も音も不鮮明で、容器の外の様子までは把握できなかった。
と、その時。
水中にまで響くような破壊音が、二人の耳に届いた。
ガシャン! と何かが割れる音と、誰かの悲鳴や怒号。
そして、視界が暗くなったかと思うと……
――バリィインッ!!
"記憶の主"が入っていた容器が割れ、水と共に外へ流れ出した。
ゴボゴボという水音と目まぐるしく回る視界に、エリスは酔いそうになる。
やがて、視界の回転が止まった。
映るのは混乱した様子の室内。やはり何かの実験室だろうか、壁面の棚には草花や液体を封じた瓶が並び、あちこちに本が積まれている。
水浸しになった白い床に書類や割れたガラスが散乱しており、遠くの方からは「敵襲だ!」「逃げろ!」という声が聞こえていた。
そんな実験室の床に、この"記憶の主"は転がっているようなのだが……
視界に映る彼、あるいは彼女の手を見て、クレアは驚愕する。
ぺたりと床に放り出されたその手は……
あまりにか細く、小さいものだった。
「この手……どう見ても子供よね?」
「むしろ赤ん坊……いや、胎児と呼べる程に小さいかもしれません」
つまり、これは……"誰か"の赤子の時の記憶。
そしてここは、赤子を使った何らかの実験施設で……
今まさに、何者かの襲撃を受けているらしい。
一体これは、いつの時代の、何の出来事を映した記憶だ?
"記憶の主"は床に倒れたまま動かない。この限られた視界の中から、何かヒントになる情報は得られないだろうか?
と、クレアが目を凝らすと……
部屋の奥、散乱する割れガラスの向こうに、同じく容器から流れ出たと思しき赤子の姿を見つけた。
……それを目にした瞬間。
「うっ……」
クレアの脳に、強い痛みが走った。
呻きながらこめかみを押さえる彼を、エリスが心配そうに見上げる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「突然頭痛がして……でも、もう大丈夫です」
顔を上げ、クレアが答える。
突き刺すような痛みは徐々に引いていったが……
それと引き換えに、鼓動が加速していた。
ドクドクと不快に響く心音。
どうしてそうなっているのか、クレア自身にも理由がわからなかった。
胸を押さえるクレアをエリスが不安げに見つめていると……再び、周囲の景色に変化があった。
破壊された研究室に、土砂が流れ込んできたのだ。
そのまま、"記憶の主"も土に埋もれてゆく。
それを見て、エリスがハッとなる。
「これ……"大地の精霊"の魔法……?」
そう呟いた、直後。
映されていた記憶は……完全に暗転した。
「……えっと……生き埋めになった、ってこと?」
「恐らく。ここからどう『飛泉ノ水斧』に繋がっていくのでしょう? 今のところ、この"記憶の主"がどのような人物なのか検討もつきませんが……」
「……いえ。一つだけ、わかったことがあるわ」
エリスが、暗闇を見つめながら言う。
クレアが「え……?」と聞き返すと、彼女は彼を見上げて、
「床に散乱した紙……そして、壁に貼られていたメモ……そこに書かれていたのは、魔法学に纏わる古い言葉だった」
「古い言葉……では、この"記憶"は……」
察したクレアに、エリスは頷き、
「たぶん、数百年前……"王との離別"前後の記憶だと思う」
緊張を滲ませながら、答えた。
"王との離別"――
七人の強欲な権力者たちにより"禁呪の武器"が製造され、精霊の王が人間たちから精霊を隠した、歴史の転換点。
ならば、今しがた見た実験施設は、"禁呪の武器"の製造と何か関係があるのだろうか……?
と、考えを巡らせていると、暗かった視界に突如として光が差した。
目の前の土を掻き分け、地上へ出ようとする手……
この"記憶の主"が、生還を果たしたようだ。
眩しい日光が、視界を白く染める。
と、その日差しが、何者かに遮られた。
女性だ。年齢は二十代半ばくらいか。茶色い髪を一つに結った、素朴な雰囲気の人だった。
女性は、この"記憶の主"――土に埋もれた赤子を見つけ、「きゃあっ」と悲鳴を上げる。
すると、同じくらいの歳の男性――眼鏡をかけた痩せ気味の人がすぐに駆け付け、こちらを覗き込む。
「あ、赤ん坊……?! とにかく早く助けよう!」
そうして、この"記憶の主"は土の中から救い出された。
そこからの"記憶"は早く、断片的に進んだ。
赤子を助けたのは若い夫婦だった。彼らは赤子を養子として引き取り、カレルと名付け育てた。
カレルは男の子だった。
どうして土の中にいたのか、本当の両親はどこにいるのかわからないままだったが、義両親の愛情を受け、すくすくと成長していった。
しかし……
成長するに連れ、カレルの身にある異変が起きた。
それは、何者かの声が常に耳元で聞こえること。
ある時は、内緒話をするような笑い声。
ある時は、ハッキリと大きな叫び声。
確かに聞こえるその声に周囲を見回すが、誰もいない。
そして、その不気味な声はカレルにしか聞こえなかった。
カレルは怖くなり、義両親に助けを求めた。
しかし義両親は、ただの思い込みだろうと取り合わなかった。
子供の世界は空想に満ちている。頭に浮かべた『見えない友だち』の声が聞こえているのだろうと、カレルの相談を軽くあしらった。
だが……それは決して、思い込みなどではなかった。
カレルは六歳になった。
空想遊びはそろそろやめる年齢だが、それでも謎の声は続いていた。
友人と遊ぶ時も、教室で読み書きを習う時も、誰かの声が常に耳に付き纏う。
得体の知れない恐怖は、やがて強い苛立ちに変わり……
「……あぁもう、うるさい!」
見えない声の主を追い払うように、カレルは手を振るった。
すると、その拳が側にいた友人の顔に当たってしまった。
突然殴られた友人は倒れ、怯えたように泣き出す。
カレルは「違うんだ」と弁明するが……
彼以外に聞こえない声のことなど、誰も信じてはくれなかった。
そのような出来事が、その後に何度も続いた。
義両親は失望し、カレルを叱った。
カレルが不気味な声について助けを求めても、「いい加減、空想に浸るのはやめろ!」と一蹴するのみだった。
カレルは次第に友人からも気味悪がられ、孤立していった。
それでも声は止まない。
カレルは頭を掻きむしり、耳を塞ぐ。
声を掻き消すように、奇声を上げる。
それでも、声は耳に届く。
もう……気が狂いそうだった。
ある寒い晩。
カレルは、暖炉で熱した火かき棒を手に取ると……
その先端を、耳の穴に差し込もうとした。
鼓膜ごと焼き爛らせて、耳を塞いでしまおうと考えたのだ。
しかし、すんでのところで義両親に見つかり、止められた。
義両親はようやく自体の深刻さを知り、カレルのために動き出した。
そうして――
カレルは、とある場所に連れて来られた。
湖のほとりにある、木造の教会。
三角屋根の上で、十二芒星の像が金色に輝いている。
「え…………」
その光景を目にし、エリスが掠れた声を漏らす。
クレアも驚愕していた。何故なら、その場所は……
……と、教会の扉が開き、中から一人の男性が現れた。
白髪混じりの頭髪に、同色の口髭。聖職者らしいローブを身に纏っている。
男性はカレルに視線を合わせるようにしゃがみ、柔和な笑みを浮かべて、
「初めまして、カレル。私はこの教会の祭司――エドガーだ」
そう、自己紹介した。




