2 もう一人の使用者
――病院を離れ、クレアとエリスはシノニム湖へと向かった。
"水球"が消滅し、同時に広大な湖面が凍り付いたことは既に住民たちに知れ渡っているようだ。街の中を歩くと、其処彼処から困惑する人々の声が聞こえてきた。
そんな住民らの混乱を避けるため、湖へと繋がる道を保安兵団が封鎖していた。クレアたちは見知った団員に声をかけ、中に立ち入らせてもらった。
波紋の形を残したまま、時を止めた湖――澄んだ水面に空の青が反射し、まるで巨大な鏡のようだった。
そんな美しい湖のほとりに、シルフィーはいた。アモリたち保安兵団と共に、なにやら困っている様子だ。
そこに、エリスが片手を上げて近付いてゆく。
「やっほーシルフィー。久しぶりー」
「エリスさん! よかった、目が覚めたのですね!」
「見たところ、湖が元に戻らなくてお困りのようですね」
「そうなんです! 私だけじゃどうにもならなくて……エリスさぁん、助けてくださいぃ」
クレアの指摘に、シルフィーは涙目になってエリスに縋り付く。
恐らく、炎や暖気など、氷を溶かせそうな魔法を一通り試したのだろう。湖の端が僅かに融解している。が、湖全域となるとさすがに力が及ばなかったようだ。
自身が凍らせた湖を見渡し、エリスは腰に手を当てる。
「まさか改良型・神手魔符の効力がこれほどまでとはね。"水球"を確実に凍らせるためとはいえ、ちょっと気合い入れすぎたわ」
「んな他人事な! 大丈夫ですよね? ちゃんと元に戻りますよね? じゃなきゃ、街の人たちみんな困っちゃいますよ?!」
シルフィーの後ろで、アモリたちも青白い顔をしている。
それでもエリスは緊張感なく肩を竦め、
「まぁ、方法はいくらでもあるけど……ちょうどいい。それも含めて、お願いしてみましょ」
なんて独り言のように言うので、シルフィーは「は?」と聞き返す。
が、それに答えないままエリスは背を向け、
「んじゃ、ちょっと行って来るから――湖に近付かないでね」
手をひらひらと振り、凍った湖の上を歩き出した。
その後に、クレアが続く。彼の手には、あの『飛泉ノ水斧』らしき戦斧が握られていた。
それを目にし、シルフィーは予感する。
(まさか…………ここで精霊を解放するつもり……?)
――シルフィーの予感は当たっていた。
クレアとエリスは、周囲に危険の及ばない湖の中心で『飛泉ノ水斧』を無力化することにしたのだ。
凍結した湖面と、人の立ち入りが規制されたこの状況は、二人にとってむしろ好都合だった。
「……この辺りでいいかな」
白い冷気の漂う、シノニム湖の真ん中。
数刻前まで"水球"が浮かんでいた場所で、エリスは足を止めた。
クレアは頷き、彼女の隣に立つ。
「えぇ、ここなら何かあっても街に被害は及ばないでしょう。では……エリス」
言って、クレアは『水斧』の刃を湖面に突き立て、垂直に伸びる柄を握り……
もう一方の手を、エリスに差し出した。
四度目となる、"禁呪の武器"の解放。
その大仕事を前に、エリスは小さく息を吐く。
「あんた……そんな堂々と"武器"を握って何ともないの?」
「え? はい、全然大丈夫ですが」
「……あんたの方がよっぽど闇が深くてヤバい思考してんのに、気持ち悪くなるのは毎回あたしだけなのよね……なんか納得いかない」
と、触れる度に襲われる不快感を思い出し、目を細める。
それに、クレアは「あはは」と笑って、
「いいじゃないですか。それはエリスが『正常な人間』である証です。問題なく触れられる方が異常なのですから」
と、冗談めかして言う。
クレアとしては、エリスをフォローするための軽口のつもりだった。しかし……
エリスにはその冗談が、なんだか寂しいものに聞こえて。
彼女は一度口を閉ざすと、差し出された彼の手をきゅっと握り、
「……なに言ってんの。あんただって『普通の人間』でしょ? 感情が豊かすぎて困るくらいのね。だから納得いかないんじゃない」
クレアの無自覚な自己否定を否定するように、ツンと言った。
その本意を感じ取り、クレアは……思わず笑みを浮かべて、
「……そうですね。こうして貴女の優しさを正しく受け取れるくらいには、私は今や感情豊かな人間です」
「……そ。それで、心の準備はできた?」
「はい。貴女のタイミングで、始めてください」
クレアが言う。
エリスも、既に覚悟はできていた。
「それじゃあ…………始めるわよ」
……その言葉を合図に。
エリスは、空いている右手で――『飛泉ノ水斧』の柄を握った。
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
────胸に、真っ黒な感情が押し寄せる。
悲しみと孤独が。
憎しみと怒りが。
心の奥底から湧き上がり、エリスの精神を侵してゆく。
"負の感情"。
誰しもが持つ暗い部分を、呪いが無理やり表に出そうと這い寄る。
しかし呪いは、エリスを侵す前に消える。
繋いだ手から干渉したクレアの意識が、それをすぐに喰い殺すから。
狂戦士化の呪いを退けた二人は、『飛泉ノ水斧』の奥深くへと、意識を潜らせた────
――そこは、水面の上だった。
足元に広がる波紋。果てのない水が続く白い空間に、クレアとエリスは立っていた。
「……ここが…………」
「『飛泉ノ水斧』の、中……?」
二人は手を繋いだまま、周囲を見渡す。
と、その時。空間に声が響いた。
『――おかえりなさい』
女性の声だった。
瓶の底を打つ水音のような、涼やかで透き通る声。
それに、エリスが聞き返す。
「あなたが、ここに封じられた精霊?」
『そう。私は水を司る精霊。あなたたち、せっかく私の中から出られたと言うのに、また戻って来たのね。どうしてかしら?』
「決まってるじゃない。あなたをここから解放するためよ」
『……解放?』
澄んだ問いに、エリスが頷く。
「武器に封じられたあなたたちを自由にするって、"精霊の王さま"と約束したの。既に三つの武器を解放してきた……次はあなたの番よ」
その言葉に、精霊は暫し沈黙し……
穏やかな声で、こう答えた。
『……あなたたちの記憶を見るに、嘘ではないようね。そう……ようやく万象の循環に還れるの。この時をどれほど待ち侘びたことか』
「って、あんなに頑張ったのに、結局あたしたちの記憶は読まれちゃってたワケ?」
『いいえ。あなたたちがこうして意識を繋げたから見えたのよ。私たち"水"は人間に最も近い存在……一度交われば、すべてを感じ取ることができるわ』
それを聞き、クレアは確信する。
そして、真相を暴くべく、精霊にこう投げかける。
「では……この"武器"を使用した人間たちの記憶も、あなたは把握しているということですか?」
『えぇ。使用者の記憶と共鳴し、鏡のような意識空間を創り出す――それが、私をここに封じた人間による"呪い"だから』
「なら…………アルフレドの記憶を、見せていただけないでしょうか?」
意を決し、クレアが問う。
精霊は、やはり一度沈黙し……『ふむ』と呟く。
『なるほど……呪われた武器の悪用を目論む勢力と対峙しているのね。ならば、あなたたちの助けになる"記憶"を見せましょう。彼以外のものもすべて」
「え……?」
「アル以外にも、関係のある"記憶"があるということですか?」
『えぇ……精霊を統べる尊き王が私たちを湖底へ隠した後、この斧に触れた人間は二人――その"記憶"を、あなたたちに授けるわ』
『飛泉ノ水斧』を使用した者が、アルフレドの他にもう一人いる……
息を飲むクレアたちの前に、精霊が展開する"記憶の鏡界"が広がった――