1 ホンモノには敵わない
「――……っ」
シルフィーが叫ぶのを聞きながら……
クレアは、冷たい氷の上で身体を起こした。
まるで長い夢から覚めたかのような感覚を覚えつつ、彼は周囲を見回す。
散乱する氷塊。
こちらへ駆け寄るシルフィー。
すぐ側で気を失っているエリスとアルフレド。
そして……その傍らにある、美しい斧。
「クレアさん! 大丈夫ですか?!」
白い息を吐きながら、シルフィーが駆け付ける。
クレアは頷き、それに答える。
「えぇ……"水球"は?」
「ご覧の通り、カチコチの粉々です。勢い余って湖まで凍っちゃっていますが……エリスさんは大丈夫でしょうか? それに、こちらの男性は……?」
未だ気を失ったままの二人を覗き込むシルフィー。
どうやら、エリスの作戦は成功したようだ。
だからこそ、クレアの読み通り『飛泉ノ水斧』とその使用者であるアルフレドが"水球"から出てきた。
クレアは立ち上がり、アルフレドの様子を窺う。
気絶しているが、無傷だ。やはり"鏡界"内で腹を貫いたのは水で作られたニセモノだったらしい。
クレアはアルフレドを背負う。
そして、『飛泉ノ水斧』を掴むと、
「シルフィーさんはエリスを病院へ。私は彼を連れて行きます」
「え……そちらの方は病院へ行かないのですか?」
その問いに、クレアは……少しだけ顔を歪ませて、
「ひとまず保安兵団に預けます。彼には……聞かなければならないことが山ほどありますから」
そう言って、冷たい氷の上を歩き始めた。
――そうしてクレアは、アルフレドを保安兵団の屯所へと運んだ。
勾留できる部屋に寝かせるが、やはり目は覚まさない。念のため医師を呼ぶよう団員らに依頼し、クレアは一旦エリスのいる病院へと向かった。
病室に入ると、二日前にシルフィーが使用したベッドにエリスが横たわっていた。
既に医師による診察は終わっており、脈や呼吸に異常が見られないことをシルフィーから報告され、クレアは胸を撫で下ろした。
「私は凍ってしまった湖の対処に向かいますね。今ごろアモリさんたち、大慌てだと思うので」
そう言って病室を後にするシルフィーに、クレアは礼を述べた。
そして、ベッドで眠るエリスに向き直る。
こちらの世界ではたった数分離れただけなのに、精神世界で離れていた一週間分の寂しさが、彼女の顔を見た途端に込み上げてきた。
……まだ、夢に片足を突っ込んでいるようだ。
アルフレドを刺した感触も、『炎神ノ槍』が振り撒く炎の熱も、魔法研究所の地下で感じた謎の冷気も……
ジェフリーの笑みや、腕の中で命が消えてゆくあの感覚も、すべて鮮明に残っている。
エリスが目覚めたら、何から伝えようか。
……いや、迷うまでもない。
『会いたかった』
その想いを、一番に伝えよう。
そんなことを考え、クレアはエリスの頬をそっと撫でる。
すると……
エリスの瞼がぴくっと震え、ゆっくり開いた。
「エリス……大丈夫ですか?」
心配するクレアの声に、エリスはむくりと起き上がる。
そして、ぼうっとした表情で暫しクレアを見つめてから……
突然、目を見開き、クレアの胸ぐらをガッと掴んだ。
そのままぐいっと引き寄せると、彼の首筋に鼻先を寄せ……
――スゥゥッ……
……と、匂いを吸い込んだ。
「え、エリス……? どうしました?」
まさか、まだ幻想から抜け切れていない?
と、クレアが案じていると、
「…………クレアの匂いだ」
ぽつりと、エリスが呟く。
クレアの服を掴む手が、ふるふる震え始める。
「ほんものだ……クレアぁっ…………会いたかった……っ」
耳元で聞こえる、か細い声。
その言葉に、クレアの胸が切なく締め付けられる。
自分から伝えるはずだったのに……まさか先に言われてしまうとは。
クレアは堪らなくなって、エリスをぎゅっと抱き締めた。
「エリス……私も、貴女に――」
会いたかったです。
そう伝えようとした…………その時。
――がぶぅうっっ!!
……クレアの、無防備な首筋に。
エリスが……思いっきり噛み付いた。
食い込む犬歯。
皮膚を貫きそうな痛みに、クレアは命の危機を覚え……
「いッ……?! いたたたたたたた!! えええエリス?! 何するんですか?!」
甘い空気から一変。素で取り乱し、引き剥がそうとするクレア。
しかしエリスは肉食獣のように喉を鳴らし、なおもガブガブ齧り付いてくる。
が、上手く食いちぎれないことに苛立ったのか、首筋から口をぱっと離した。
解放されたのも束の間。エリスはクレアの両頬を手で挟むと、やはり強引に引き寄せ――
――ちぅ……っ。
……唇を重ねた。
それも、挨拶程度の軽い口付けではない。
舌を深く差し込み、クレアの口内をねっとり味わう、濃密なキス……
……普段のエリスなら、恥ずかしがって絶対にしないような口付けだ。
味わうように舌を絡められ、クレアは混乱しつつも快感を覚える。
そして……一頻り味わった後、エリスは「ぷはっ」と唇を離し、
「ふぁ、おいひぃ……クレアのあじ、やっとたべられたぁ……」
口の端から、よだれを垂らしながら……
とろんとした表情で、そう言った。
その扇状的すぎるカオとセリフに……
クレアは、グラグラと沸騰するように全身を震わせ……
「………………ぶっはぁあッッ!!」
鼻血を噴き出し、卒倒した。
腕の中でぐったりするクレアに、エリスはハッとなる。
「えっ?! クレア死んでる?! やだやだ! しっかりして!!」
クレアの身体をガクガク揺さぶりながら、エリスはようやく我に返ったのか、周囲を見回す。
「って……あれ? ここ、病院? ってことは、あたしたち……」
その問いに、クレアは鼻血を押さえながら何とか答える。
「えぇ……貴女の仕掛けた作戦が成功したのです。"水球"は凍結により崩壊し――中から、あれが現れました」
と、ベッドの横に立てかけたものを目線で示す。
黄金の持ち手と、青白く光る銀色の刃。
そこには、"禁呪の武器"に共通する紋様が彫られている。
美しくも重厚な、一振りの戦斧――それを見つめ、エリスが呟く。
「これ……『飛泉ノ水斧』?」
「恐らく。そして、それを操っていたのは……私の後輩のアルフレドでした」
「え……?!」
驚愕するエリスを見つめ返し……
クレアは、"虚水の鏡界"で得た情報を、彼女に語った。
クレアが囚われた"鏡界"は、ジェフリーが死ぬ五日前の世界だったこと。
調べる内に、アルフレドの記憶が反映されていることと、彼が『天穿ツ雷弓』の実験にさらされた"適性者"である事実を突き止めたこと。
逆に、"水球"を仕掛けたはずのルカドルフ王子ら勢力の記憶は反映されていなかったこと。
これらの状況から、アルフレド自身が『飛泉ノ水斧』を使い、現在進行形で"水球"を展開しているのだと推測したこと。
アルフレドとルカドルフ王子らとの接点を調べたが、それらしい情報は得られなかったため、"水球"を破壊すべく『核』であるアルフレドを劔で貫き……
世界が揺らいだ直後、エリスの魔法が発動して、すべてが凍結したこと。
――彼が語る一連の話を聞き、エリスは納得する。
「なるほど……クレアが『核』に干渉してくれたお陰で"鏡界"の壁が揺らいで、外界にあるチーズのにおいが届いたのね。それがなかったら、一生においがわからないままだったかも」
「私としても、アルを貫いただけでは"鏡界"が崩壊しなかったので、正直手詰まりでした。貴女がちょうど『世界の果て』にいてくださったから、においを察知できたのでしょう。本当に助かりました」
「ふふーん。離れていても自然と連携が取れていたってことね。さっすが相棒」
そう言って、嬉しそうに拳を突き出す。
その笑顔に温かな気持ちを抱きながら、クレアは自分の拳をコツンとぶつけた。
「でも……まさかあんたの後輩が"水球"を生み出した張本人だったとはね。いつから王子と繋がっていたのかしら?」
「今のところ明確な時期は不明です。少なくとも三年前……『炎神ノ槍』を回収した時点では、まだ接点はなさそうでした」
「ふむぅ……なら、目覚めた後に尋問する?」
「もちろん。ですが……本人の言葉より信憑性のある経緯を直接見ることができるかもしれません」
「え? ……あぁ、そっか」
ぽん、とエリスが手を叩く。
「彼の記憶は『飛泉ノ水斧』に保存されているんだもんね。中に封じられた精霊を解放する時に、ついでに見せてもらえばいいんだ」
「はい。精霊がそれに応じてくれるかはわかりませんが……頼んでみる価値はあるでしょう」
クレアは答え、そして考える。
ルカドルフ王子としては、クレアたちの記憶を『水斧』に学習させた後、アルフレドを密かに撤退させるつもりだったのだろう。
しかし、クレアたちは『水斧』を回収した上、アルフレドを捕らえることにも成功した。
この後、王子側の勢力はアルフレドをどうするだろう?
アルフレドがどこまで深く王子らと繋がっているかは不明だが、クレアが王子なら、どんな尋問を受けようとも決して内情を漏らすなと事前に命令しておくだろう。
アルフレドが"禁呪の武器"に魅せられ、自発的に使用した――そんな自供をさせて、彼一人に罪を着せるに違いない。
その上で……場合によっては、口封じのために抹殺する。
国民に危険を齎した"水球"の仕掛け人が王子だと知れ渡れば大ごとだ。ましてや、"禁呪の武器"の実用化を目論んでいることが露見したら糾弾は免れない。何が何でもアルフレドを口止めするだろう。
こうなってしまったのは、王子側についたアルフレドの落ち度ではあるが……長年、様々な任務を共にした後輩がこのような運命を辿ることに、クレアは苦い思いを禁じ得なかった。
アルフレドのこれからを想像し、口を閉ざすクレア。
すると、エリスはその顔をじっと見つめた後……
「……つらかったね」
そう言って、クレアの頭を、優しく撫でる。
「仲良しな後輩の裏切りを知って、父さんの死をもう一度目の当たりにして……心がいっぱい疲れたでしょ? 精霊から真実を見せられる前に……今ここで、泣いてもいいよ」
その、温かな手の温もりに。
クレアの心を見透かす、その瞳に。
クレアは……ニセモノのジェフリーに頭を撫でられたことを思い出す。
……嗚呼。やっぱり、父娘だ。
なんて、胸の奥にじんわりとした痛みを感じながら……彼女に微笑み返す。
「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「ほんと? あんた、すっごく疲れたカオしてるよ? 一週間くらい寝ていない人みたい」
「あはは。えぇ、"鏡界"の中では一睡もしませんでした」
「はぁ?! ほ、本当に寝てないの?!」
「もちろん。調べたいことがたくさんありましたから、寝る時間さえ惜しかったのです。それに、現実の身体が寝不足でないのなら何も問題はないと思いまして」
「大アリだよ! よくマトモな精神状態でいられたわね!? まさか、『涙の備忘薬』も飲んでいないんじゃ……」
「もちろん。ほら、ここに」
と……クレアは懐から小瓶を取り出す。
その中には、エリスの涙が混じった魔法の水が一滴も減らずに残っていた。
幻想の中とはいえ、一睡もせず、飲まず食わずのまま一週間動き回るなんて……
クレアの精神力の強さ――否、闇深さとでも言うべきか。とにかく常人離れしたその感覚に、エリスはあらためて戦慄した。
唖然とする彼女に、クレアはくすりと笑って、
「もとより、この『備忘薬』は飲むつもりがなかったのです。何しろ……」
――くいっ。
と、エリスの顎を持ち上げ、
「――貴女の涙は、まだコレクションにありませんでしたから。こんな貴重なもの……簡単に飲んでしまうわけにはいかないでしょう?」
……なんて、意味不明なことを言うので。
エリスは、目を瞬かせる。
「は……? これくしょん?」
「はい。同棲する中で入手した貴女の体毛や体液は、もれなくコレクションしているのです。ご存知なかったですか?」
「存じ上げるかぁああああっ!!」
クレアの手をブンッ! と払い、絶叫するエリス。
しかしクレアは悪びれることなく肩を竦め、一言。
「すみません。職業病です」
「今さらその言い訳が通じると思ってんの?! そんなことして何が楽しいのよ?!」
「エリスの身体の一部であったものを愛おしく思わずにはいられないでしょう? 私レベルのコレクターともなると、どんなに微細な毛でもそれがエリスのどの部分の毛なのか瞬時に判別できますよ」
「ンなわけわからんレベルを目指してんの、世界中であんただけよ!!」
ぜぇはぁと息を荒らげるエリス。
クレアを励ますつもりが、まさかこんな変態口撃を喰らうことになるとは……
「まったく……やっぱホンモノは格が違うわね……」
と、"虚水の鏡界"内で出会したニセモノのクレアを思い出し、額を押さえると……
ホンモノが、その呟きに瞬時に反応し、
「……"鏡界"の中で、ニセモノの私に会ったのですか?」
ずいっと顔を近付け、低い声で問いかけた。
エリスは思わず仰け反り、顔を引き攣らせる。
「う、うん……あたしが囚われたのは半年前の世界だったから、あんたのニセモノもいたわよ」
「……大丈夫でしたか?」
「へっ?」
「私のことですから、ニセモノといえど貴女に付き纏ったでしょう? 拉致とか監禁とか、犯罪的なコトされませんでしたか?」
あ、自分がそういうことするヤバいヤツだっていう自覚はあるんだ。
などと思いつつ、エリスは背中に汗が流れるのを感じる。
何故なら……どちらかと言えば、エリスの方からヤバいコトをしそうになっていたから。
しかし、そんな事実を話せるわけもなく……
エリスはふいっと目を逸らしながら、答える。
「べ、別に。尾行されたけど、ちゃんと追い返したわ。この指輪があったから……大丈夫だった」
これは嘘じゃないぞ。詳細を省いているだけで。
なんて、胸の内で自己弁護していると……
クレアに、ぐいっと頬を掴まれ、
――ちゅ…………っ。
唇を、彼ので塞がれた。
そのまま、深々と舌を差し込まれ……
溶けそうなくらいに甘く、口内を弄ばれる。
思わず目を閉じ、混乱と心地良さに酔っていると――
熱い吐息と共に解放され、かと思えば、細めた目で瞳を覗かれ……囁かれる。
「……さっきのお返しです」
「っ……へんたい」
「ふふ……ありがとうございます。貴女のお陰で元気が出ました。もう少し再会を喜びたいところですが……そろそろ、やるべきことをやりに行きましょう」
そう言って、エリスの頬をそっと撫でた。