7 見知らぬ花束、空虚な部屋
♢ ♢ ♢ ♢
――その頃、エリスはというと……
(そういえば……どうしてこの世界にマリーがいたんだろう?)
そんなことを考えながら、晴天の下、花畑に囲まれたリンナエウスの街道を歩いていた。
二日がかりではあったが、エリスもようやく五枚目の神手魔符を貼り終えた。
今は空腹を紛らわすため、様々な場所を見て回っているところである。
先ほどリンナエウスの街にも立ち寄ったが、その街並みも現実そっくりだった。
メディアルナが住む高台の屋敷も、商店街のメイン通りも記憶のまま。
この世界の傾向として、大きな街ほど現実に忠実な造りをしているように思えた。
そこまで考えて、ふと疑問に思ったのだ。
この"鏡界"に囚われた直後、自宅にいたマリーの違和感……
推測によれば、『飛泉ノ水斧』は"虚水の鏡界"に人間を捕え、飲食――つまり水の精霊の一部を体内へ侵入させることで、その人間の記憶を学習する。
ならば、この"鏡界"に囚われた者の中にマリーを知っている人物がいるはずなのだが……
(祭司のじーさんや保安兵団の彼が知ってるわけがないし……シルフィーも、マリーについて相談したことはあったけど実際には会ったことがない。あたしの話からマリーの姿を想像して、その結果がこの世界に反映された、とか? にしては、随分とホンモノそっくりだったような……)
うーん、と頭を捻るが、答えは出ず。
ただでさえ腹が減り、喉が渇いている状態なのだ。頭が回るはずもなかった。
とにかく今は、時間が過ぎるのを待つしかない。
気を抜くとすぐに何かを口にしたくなってしまう。街にいると誘惑が多過ぎるため、こうして人気のない街道を歩いているのだが……
(……結局、ずっと尾いて来てんのよね。アイツ)
と、エリスは背後に目を遣る。
エリスからつかず離れずの距離にいる気配……
クレアのニセモノが、彼女を尾行しているのである。
気配を消していないところを見るに、隠れる気はないようだが……エリスに「嫌い」と言われたことが効いているのか、接触してくる様子はなかった。
下手に関わるのも面倒だし、神手魔符を貼るという目的は果たしたので、とりあえず放置していた。
(大方、シルフィーの記憶にある『ストーカー』の印象に従って動いているだけでしょ。こっちから話しかけない限り何もしてこない……はず)
エリスは視線を行く先に戻し、歩き続ける。
そして……目的の場所に辿り着いた。
そこは、リンナエウスの南にあるペトリスという農園。
エリスの誕生日にクレアがプレゼントしてくれた、マーガレットの花畑がある場所だった。
しかし今、目の前に広がるのはマーガレットではない別の花。
当たり前だ。だって、あの"花束"をもらったのは、この時間軸よりも後のことであり……この場所を知っているのは、エリスとクレアだけだから。
それでもこの場所に足を運んだのは、単純にクレアのことが恋しいからである。
(……って、よく考えたら恥ずかし……お腹が減りすぎて、らしくない思考に陥っているのかも)
現状、正気を保つことはできている。『涙の備忘薬』も温存したままだ。
しかし……この世界であと何日過ごせばいいのやら。
(……気を付けないと、チーズのにおいの幻覚を覚えそう)
エリスは、マーガレットのない花畑を一瞥すると……
背後に気配を感じながら、再び歩き出した。
♢ ♢ ♢ ♢
――時を同じくして、もう一方の"鏡界"では……
クレアが、"中央"敷地内にある特殊部隊の寮を訪れていた。
ここには当時クレアが住んでいた部屋がある。
そして、レナードやジークベルト、アルフレドの部屋も。
レナードたちは外出中だ。アルフレドは隠れ家で仮眠を取っている。この時間、寮には誰もいないはずである。
クレアは人の気配がないことを確認し、初めにジークベルトの部屋を開けることにする。
寮の鍵の構造は熟知していた。現実と同じ造りであれば開錠は難しくないはずである。
予想通り、クレアは針金を使い、すぐに鍵を解いた。
そしてもう一度周囲を確認し……彼は、扉を開けた。
足音を殺し、入り込んだジークベルトの部屋。
そこには――――何もなかった。
白い壁。冷たい石の床。バルコニーに繋がる窓。
間取りはクレアが暮らした部屋と同じ。
しかし、家具や生活道具の一切がない。まるで空き部屋のようだった。
クレアは、実際のジークベルトの部屋を訪ねたことがない。
だから、これが本当に現実通りの部屋なのかはわからないが……
(彼は間違いなくこの部屋に住んでいるはずなのに……これでは情報の探りようがない)
困惑したまま、クレアは部屋を後にし、近くにあるレナードの部屋を開ける。
が……そこも同じく、空き部屋のようにがらんとしていた。
クレアの中で、違和感が膨らむ。
そこで、当時自分が住んでいた部屋を開けてみることにする。
かつての自室に忍び込むことに奇妙さを覚えながら、彼は鍵を開け……
よく知るその部屋に、足を踏み入れた。
しかし、すぐにその足を止めた。
何故なら、その部屋にあるはずのものが……何一つなかったから。
当時、ここにはベッドやクローゼットが間違いなくあった。
なのに、それがない。ジークベルトとレナードの部屋と同じ、空き部屋同然なのだ。
つまり……この"鏡界"が学習した人物には、これらの部屋の記憶がないということ。
だから、具体的な部屋の中身を構築することができないのだ。
ならば、残る可能性は……
クレアは意を決し、アルフレドの部屋を開錠する。
他と同様、あっさりと侵入を許すその扉を、クレアはゆっくりと開ける。
徐々に見えてきた部屋の中には……
質素ながらも、確かな生活感があった。
簡易的なベッド。シワのついたシーツや枕。
クローゼットにかかる男ものの服。
流しの横に置かれた歯ブラシとコップ。
他の部屋とは、明らかに違う。
ここだけがやけに詳細で……誰かの記憶の影響が、確かに感じられた。
……これで、はっきりした。
この"鏡界"には……アルフレドの記憶が学習されている。
それはつまり――アルフレドが、ルカドルフ王子の勢力と繋がっている可能性があるということ。
アルフレドが十七年前の実験で見出された"禁呪の武器"の適性者なら、王子らが彼を利用するメリットは大いにある。
そう考えると、様々な点で辻褄が合った。
クレアがこの"鏡界"で見た現実そっくりな街は皆、特殊部隊の任務でアルフレドと共に滞在したことのある場所だ。
何より、ずっと謎だったシルフィーの幻想……エリスの雷雲魔法の実験に巻き込まれた話も、これで説明がつく。
何故ならアルフレドは、あの実験の目撃者だから。
後日、アルフレドから「演習場で何してたんすか?」と聞かれ、経緯を話したことがある。その記憶がシルフィーの囚われた"鏡界"に反映されたのだろう。
アルフレドが、王子の協力者。
この"鏡界"で自分たちを惑わすために、記憶を提供した。
あらゆる状況が指し示すその可能性に、クレアは複雑な感情を抱く。
しかし、私情に惑わされている場合ではなかった。
そうとわかれば、やることは一つ――
アルフレドについて、徹底的に調べるのみだ。
――クレアは、軍部庁舎内にある特殊部隊の執務室に足を運んだ。
隊士であるクレアが日頃から出入りしている仕事部屋だ。
ここには隊士たちの経歴書が保管されているはず。
『天穿ツ雷弓』の適性実験を受けたアルフレドの経歴がどのように記されているのか、確かめておきたかった。
執務室の扉に鍵はかけられていない。
この庁舎に入れる者がそもそも限られているから。
クレアはいつものようにノックし、扉を開ける。
すると……隊士たちのデスクが並ぶ最奥、隊長の席に、ジェフリーがいた。
「……ジェフリーさん」
「よう、クレア。昨晩は大変だったみてぇだな。アルは立ち直ったか?」
眺めていた書類から顔を上げ、ニヤリと笑うジェフリー。
記憶から抜け出したようなその笑みに未だ慣れず、クレアは一呼吸置いてから答える。
「えぇ、もう大丈夫です。今夜また、あの酒場でカトレアを待ちます」
「そうか。ま、アルが失敗したらお前が仕掛ければいいだけだ。いくらでも挽回はできる」
「……そうですね」
ここでジェフリーに会うことは想定外だったが……確かに彼は、隊士たちが動き回っている間、よくここで待機していた。何かあった時、すぐに報告を受けられるように。
アルフレドを含む隊士たちの経歴書がどこに保管されているのか、クレアは具体的には知らない。
だから、隊長であるジェフリーのデスクや、彼しか開けられない棚を漁ろうと思っていたのだが……
「………………」
クレアは、ジェフリーに歩み寄る。
そして、彼の前に立ち、
「……ジェフリーさん。アルフレドの経歴書を見せてください」
単刀直入に、そう言った。
"鏡界"が生み出したニセモノを相手に、こう願い出ることがどのような結果を生むのか、予想がつかなかった。
しかし、これがもしジェフリーの気質を忠実に反映したニセモノなら……あるいは、と思ったのだ。
ジェフリーは、ぽかんと口を開けた後……ぱちくりと瞬きをして、
「……どうしたんだ、急に。あいつの経歴に何か気になることでもあんのか?」
「いえ。ただ、『今回のようなミスは自分の生い立ちに原因がある』というようなことを口にしていたので……彼がどういう経緯で箱庭に来たのか、知りたいと思ったのです」
さぁ、この都合の良い言い訳を、ニセモノはどう受け取る?
クレアは、ジェフリーの目をじっと見つめる。
それを、ジェフリーも真っ直ぐに見つめ返し……
「…………ふぅーん」
何かを察したように、口の端を吊り上げて、
「そうか……ま、そういうことなら、いいだろう」
そう言って、デスクの一番下の引き出しの鍵を開け……
紐綴じされた書類の束から一枚を抜き取ると、
「ほれ、アルの経歴書だ。お前の知りたいことが載ってるかはわからねぇけどな」
それを、クレアに突き付けた。
あまりにあっさり差し出され、クレアは面食らう。
今のジェフリーの反応……恐らく、クレアに他意があることは見抜いていた。
しかし、それでも応じたということは、クレアに悪意がないことを察したからだろう。
つまり、クレアの賭けは成功した。
これがホンモノそっくりなニセモノなら、こう答えるだろうと予想していたのだ。
部下に対し、必要な時には必要な言葉を、そうでなければ関与しない。
無関心なフリをして、誰よりも部下のことを見ている。
信頼と疑心の線引きが上手く、判断が早い……ジェフリーは、そんな上司だった。
そして、このニセモノがその気質を忠実に表しているということは……
この幻想を生んだアルフレドも、ジェフリーのことを正しく理解していたということ。
クレアと同じように、ジェフリーのことを……良い上司だと思っていたのだろう。
――ならば何故、ルカドルフ王子に協力した?
"禁呪の武器"はジェフリーの命を奪った元凶なのに……
それを普及させようとする勢力に、どうして加担したのだ?
……高ぶりそうになるその感情を、クレアは冷静に鎮める。
そして、ニセモノのジェフリーから経歴書を受け取り、
「……ありがとうございます。助かります」
穏やかに微笑みながら、そう言った。