3 届かない独り言
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――"虚水の鏡界"に、二日目の朝日が昇る。
『世界の果て』に沿うように馬を走らせたクレアは、無事にすべての神手魔符を設置し、今は王都を目指していた。
特殊部隊の任務で様々な地を訪れてきたクレアには、治安調査員であるシルフィーでも知らないような地理の知識が豊富にある。
それを前提に、あらゆる場所を見て回ったが……現実そっくりに再現されている箇所ばかりだった。
つまり、この"鏡界"に記憶を提供した誰かは、クレアのように国中を回っている人物かもしれない。
例えば、シルフィーとは別の、ベテラン治安調査員。
それならば、様々な街を詳細に記憶していても不思議ではない。
あるいは、街から街へ移動する行商人。
この場合も、広範囲に渡る地理情報を持っているだろう。
しかし、現段階でクレアが最も高いと考えているのは……
クレアの同業者である可能性だ。
その誰かがルカドルフ王子と結託しているのなら、王子に近しい人物であることが予想される。
軍部の人間、あるいは魔法研究所の研究員ということになるが……クレアと同等の地理知識を持つ者は、特殊部隊の隊士をおいて他にいない。
何より、この世界にはジェフリーがいる。
それも、見た目から話し方に至るまで、実際の彼にかなり忠実だった。
"鏡界"に記憶を提供した見えざる誰かは、ジェフリーをよく知る人物だったに違いない。
そのことも、クレアの仲間に内通者がいる可能性を示唆していた。
だからクレアは、急いで王都へと向かっていた。
その誰かを特定するため、そして王子らの企みがこの時期から始まっていたのかを調査するためだ。
そのために、まずは……この世界のシナリオに乗る必要がある。
ジェフリーの命を奪ったレーヴェ教団事件――再演真っ只中にあるこの事件に登場人物として加わり、内通者を炙り出すのだ。
(ジェフリーさんが死ぬのは四日後……なら、今頃はあの場所にいるに違いない)
クレアは手綱を強く握り、馬を加速させた。
――早朝から馬を走らせたクレアは、昼過ぎに王都へ到着した。
馬を降り、目的の場所へ向かう。そこは特殊部隊の拠点の一つである民家……所謂、隠れ家である。
鍵のかかった玄関を、クレアは特殊なリズムでノックする。仲間の訪問を告げる秘密の合図だ。
程なくして、開錠と同時にドアが開いた。クレアを出迎えたのは……レナードだった。
「クレアルド……どこに行っていたんだ?」
心配と叱責が混ざったような声でレナードが言う。見た目はもちろん、声も雰囲気も本物そっくりだ。
「申し訳ありません。野暮用がありまして……本日からは予定通り、こちらの任務に戻ります」
言いながら、クレアは隠れ家の中を見回す。
簡易的なテーブルと椅子、それに二人掛けのソファーしかない無機質な部屋。
そのテーブルを囲むように、二人の男が座っていた。
一人は、アルフレド・グリムブラッド。
時々猫のマリーを預けに来る、クレアの後輩。
もう一人は、ジークベルト・クライツァ。
現在は特殊部隊の隊長を務めているが、この頃はまだクレアと同じ隊士だ。
そして、ドアを閉めるレナード。
レーヴェ教団に纏わる調査は、主にこのメンバーで進めていた。これも、クレアの記憶通りである。
「……ジェフリーさんは?」
「今は本部にいる。昨日までお前が兼任していたリンナエウスの事件についての最終報告だ。それが終わったら、こちらに顔を出してくれる」
クレアの質問にレナードが答える。
すると、アルフレドが人懐っこい笑みを向け、
「いやぁ、クレアさんが戻って来てくれてよかったぁ。この堅過ぎるお二人に挟まれていると冗談の一つも言えなくて、もう死にそうでしたよ」
「お前はもっと緊張感を持て。今回の作戦の要は、他でもないお前なんだぞ?」
と、ジークベルトに窘められ、アルフレドは「はーい」と返事をする。
この作戦のことは、クレアもよく覚えていた。
過去の事実と相違がないかを確認するため、クレアはこの後の行動について尋ねる。
「レーヴェ教団の信者が出入りしている酒場を訪ね、店主に協力を仰ぐ……この後の動きは、それで間違いないですか?」
「あぁ。標的となる信者の名はカトレア。二十二歳、女。教団の拠点について聞き出すべく、クレアルドはバーテンダーに、アルフレドは客に擬態してもらう。酒場の店主が教団と無関係であることは確認済みだ」
「俺とレナードは店の外で警戒にあたる。カトレアは毎週一人で酒場に来るが、念のためだ」
レナードの説明に続き、ジークベルトが補足する。
それを聞き、クレアは……この作戦に纏わる概要を今一度整理する。
――レーヴェ教団。
『魔法の力を解放し、世界を一つにする』ことを謳う新興宗教。
この国で魔導士になるには、魔法学院で専門知識を身に付け、卒業しなければならない。
魔法の発現に必要な指輪が、学院の卒業と同時に授与される決まりになっているからだ。
レーヴェ教団の教祖はこの決まりに異を唱え、誰しもが平等に魔法を扱える世界になるべきであると訴えていた。
その理念に、魔法学院への入学や卒業が叶わなかった者――つまり、魔道士になれなかった若者たちが賛同し、徐々に信者を増やしていた。
理想を唱えるだけなら問題なかったが、彼らは法に触れる行動を起こした。
それは、禁じられた方法で製造された非正規指輪の売買。
魔法学院から与えられる指輪に似せた、違法な魔導具だ。
これを使えば魔法を発動させることができるが、精霊の制御が利かず、暴発する危険性があった。
教団は理想の世界を作るべく、そのリスクを知った上で非正規指輪を広めようとしていたのだ。
……と、ここまでが、この時点でクレアたちが掴んでいた情報だ。
この時の彼らは、まだ知らなかった。
教団の教祖が、"禁呪の武器"の一つである『炎神ノ槍』を所持していることを。
……その事実を今伝えれば、この世界のジェフリーを救うことができるだろう。
しかし、それが無意味であることを、クレアは承知している。
クレアがこの作戦に合流したのは、実際の事件との相違点を見つけ、王子と内通する誰かを炙り出すため。
だから、三年前と同じ行動を取らなければ意味がない。
それに……
この世界のジェフリーを救ったところで、現実世界の彼が戻ってくるわけではない。
空虚な自己満足に浸るために英雄を気取るつもりはさらさらなかった。
クレアは三人の仲間を見回し、こう続ける。
「私が新人バーテンダーとしてカトレアを迎える。その後、アルフレドが客として入店する。カトレアと会話し、好印象を抱かせ、明日また酒場で落ち合う約束をする……今日の目標はここまで、ですよね?」
「そうだ。カトレアの警戒心を解き、最終的にアルフレドを教団へ勧誘させることが目的だ。今日のところは顔合わせができれば良い」
「っていうか、なんで俺が客役なんすか? 女性に近付くならクレアさんの方が適任でしょ?」
ジークベルトの言葉に、アルフレドが不満げに言う。
それに、レナードは腕を組み、
「だからだろう。お前が成長しなければ、いつまで経ってもクレアが口説き役に回ることになる。いい加減、異性を魅了する術を身に付けろ」
「うぅ……そんなこと言われても、女心だけはわかんないんっすよ」
顎に拳を当て、涙を浮かべるアルフレド。
彼には、特別な才能があった。
それは……没入的とも言える演技力。
聞き込みや犯罪組織への潜入捜査において、アルフレドは相手に警戒されにくい人物を演じ、情報を引き出す才に長けていた。
相手を観察する能力、そして、その相手に好かれる人間を演じる技量がずば抜けて高いのだ。
ただしその弊害として、別人格を演じるあまり本来の自分を忘れることがある。
逆に言えば、どんな拷問を受けようと特殊部隊の隊士である事実を吐露する心配もないということなのだが……放っておくと帰って来ないことすらあるため、注意が必要だった。
それほどの演技力を持っているにも関わらず、アルフレドはハニートラップを苦手としていた。
見た目は悪くない。むしろ人懐っこい印象の好青年と言える。しかし、どうやら良い男を演じている感が女性に見抜かれてしまうらしい。
うるうると見上げるアルフレドを、レナードはジトッと睨み付け、
「今回の相手は年上だ。その甘え腐った上目遣いで擦り寄ってみたらどうだ?」
「えっ。レナードさん的にコレ可愛いってことっすか? だったら試してみよっかな〜」
「……まぁ、今回は教団に勧誘されることが目的だ。必ずしも異性として意識させる必要はない。『救いを求める不幸な若者』が演じられれば、それでいいだろう」
と、ジークベルトが呆れ半分、フォロー半分に言う。
今でこそジークベルトは隊長の座に就き、厳格な態度を漂わせているが、そうなる前はこんな風に後輩の冗談に口を挟むこともあった。
その光景を懐かしく思いつつ、クレアは話を先に進める。
「では、私は先に酒場へ行き、バーテンダーとして働けるよう準備をしてきます。あとは予定通りに」
「あぁ。何かあれば連絡する」
ジークベルトの返答を背に、クレアは隠れ家を後にした。
扉を閉め、早速酒場へ向かおうとするが……その足を、すぐに止めた。
目の前に……ジェフリーがいたからだ。
クレアは思わず身構える。
扉を開ける時、外に人の気配がないことは確認済みだった。それなのに、ジェフリーがいることに気付けなかった。
ニセモノだから気配がないというわけではない。彼は誰よりも豪快で能天気な上司だったが、その実力は特殊部隊随一。クレアでも彼の気配は読めないし、彼に尾行されれば巻くことはできない。だからこそ、隊長になり得たのだ。
そのことを再認識しながら、クレアは目の前のニセモノと対峙する。
昨日、何の説明もなく彼から離れてしまった。この世界のシナリオにない行動をしたことで、このニセモノがどのような反応を示すのか、予想がつかなかった。
警戒しながら、ジェフリーの動きを待っていると……
彼は、クレアの顔をじっと見つめ、
「クレア、お前………………飯食ったか?」
……なんて、軽い口調で尋ねてきた。
クレアは思わず「え?」と聞き返す。
「顔色が悪い。夜からの行動に移る前に飯食って少し寝とけ。お前の顔は商売道具なんだからな。もっと美容に気を遣え、美容に」
なんて、クレアの顎をガッと持ち上げながら、荒っぽく言う。
そのまま、片手でクレアの両頬をむにっと挟み、
「この件が片付いたら肉食いに行くぞ。昨日、お前のせいで食い損なったからな。どっちがたくさん食えるか、久しぶりに勝負しよう」
そう言って、ニッと笑った。
その言動は、あまりにジェフリーそのもので……
クレアの胸に、切なさが込み上げてくる。
確かにジェフリーは、クレアが少し単独行動をしたくらいでは咎めたりしない。
クレアのことを、絶対的に信頼しているから。
そして、時に無謀とも言える計画を立てるくせに、隊士たちの体調に誰よりも目を光らせている。
だからこうして、飯を食えだの仮眠を取れだのと言ってくる。
……そうだ。ジェフリーは、こういう男だった。
任務を確実に遂行するためなら、使えるものはなんでも使う。
隊士たちの体調を気にするのも、限界を見極め、最大限に使役しようと考えているからだ。
砕けた態度すら、きっと彼の計算の内。
堅苦しい上司ではなく、父親のように接することで、隊士たちの信頼と士気をコントロールしているのだ。
しかし……クレアは知っている。
彼の豪快な笑みの底にあるものが、打算だけではないことを。
クレアは、切なさを押し込めると……
彼に教わった完璧な微笑を浮かべながら、
「……今の私なら、ジェフリーさんに余裕で勝てますよ」
そう答える。
これは、独り言に過ぎない、
だって、このニセモノに何を言ったところで、意味などないのだから。
クレアの言葉に、目の前の幻想は悪戯に笑って、
「てめー、言うようになったじゃねぇか。こないだ毛が生えたばっかのガキのくせしてよ!」
なんて、頭をくしゃりと撫でてくるので。
その温もりを、クレアは……少しだけ、憎らしく思った。