1 会えない人
「……ジェフリー、さん……?」
クレアは、掠れた声で名前を呼ぶ。
するとジェフリーは、怪訝そうな顔をして、
「あぁ? どうしたんだよ、ンなオバケ見るみてーなカオして。まさか、うたた寝でもしてたのか?」
と、揶揄うように言う。
その話し方も、声も、表情も、クレアのよく知るジェフリーそのものだった。
犯罪組織の運び屋をさせられていた自分を助け、十歳から同じ隊で面倒を見てくれた恩師……
しかしクレアは、警戒を強める。
ここは、"虚水の鏡界"の中。
そして、目の前にいるジェフリーは……幻想が作り出したニセモノ。
その意識が、クレアにははっきりとあった。
彼の中にエリスの存在が――彼女との記憶が、深く刻み込まれているから。
だからクレアは、亡き恩師を前に、懐かしむことも感傷に浸ることもしない。
ただ、ジェフリーがここにいる理由について、思考を巡らせる。
(やはり、"鏡界"にはシルフィーさんたち以外の記憶が反映されている……ルカドルフ王子や上層部の連中ならジェフリーさんを知っていてもおかしくはない。こちらを幻想に没入させるため、あらかじめ自らの記憶を学習させていたのだろう)
そのことを念頭に置けば、『世界の果て』を見つけることもそう難しくはないはずだ。
クレアはジェフリーを見つめ、こう尋ねる。
「……今は、何の任務から帰還しているところですか?」
「はぁ? お前、本当に寝惚けてんのかよ。リンナエウスでヤクを売り捌いてた組織を潰して来たところだろ? レナードたちは先に帰ってるよ。今頃、例の宗教の調査に戻ってるだろう」
それを聞き、クレアは息を飲む。
この時期のことは、鮮明に覚えている。
三年前、リンナエウスの犯罪組織を取り締まるのと同時に、王都で拡大する新興宗教――レーヴェ教団について調べていた。
(……間違いない。ここは――――ジェフリーさんが死ぬ、五日前の世界だ)
……そのことに気付いた途端。
クレアの胸に、封じていたはずの悲しみが過ぎった。
けれど、それは一瞬で。
「んで? お前は何が食いたい? 俺はやっぱ肉がいいなぁ」
楽しげに笑うジェフリーの背中。
クレアの記憶では、この後一緒にステーキを食べた。
それが、ジェフリーと二人で摂る最後の食事となった。
しかしクレアは……彼に背を向けると、
「すみません。行かなければならない場所があるので、私は降ります」
言うなり、馬車の荷台から飛び降りた。
「えっ、ちょ……クレア! どこに行くんだ! おい!!」
馬を止め、叫ぶジェフリー。
それを無視して、クレアは王都とは反対の方角へと街道を駆け出した。
走りながらクレアは、自身の状態を確認する。
服装は"水球"に触れた時のものと同じだ。腰に刺した『元・風別ツ劔』も、常に携帯しているナイフやワイヤーもきちんと身に付いている。
ポケットには『備忘薬』の小瓶があり、懐には冷気の神手魔符が五枚ある。
恐らく現実の意識がはっきりあるから、装いも現実のままなのだろう。必要なものがすべて揃っていることを確認し、クレアは安堵した。
このまま、予定通り『世界の果て』を探す。
そのためには……まず"足"を手に入れなくては。
夕焼け空が夜へのグラデーションを描く中、クレアはしばらく進み……
王都に隣接するエステルア領の街・セイレーンに辿り着いた。
特殊部隊の任務で幾度となく立ち寄り、エリスとの旅の最初にも訪れたことのある街だ。
大通りを歩いてみるが、街の造りはクレアの記憶にある光景と相違なかった。
街の馬宿に立ち寄り、クレアは移動手段として馬を借りた。対応した店主も本物の人間のように自然な会話ができる。馬も実物そのものだ。ここが幻想世界であることを忘れそうな程の忠実さに、クレアは奇妙な感覚を覚えた。
それに……
(シルフィーさんの言っていた通り、やけに喉が渇く……この世界の"水"を飲ませ、記憶を同化させるための作用なのだろう)
借りた馬に跨りながら、クレアはポケットの中の小瓶に意識を向ける。
エリスの涙で作った『備忘薬』――この世界でどうしても水が飲みたくなった時のためにと、半分残して持参したが……クレアには、これを飲むつもりは毛頭なかった。
今頃エリスも、別の"鏡界"へ囚われているはずだ。
辛い記憶を思い出させるような、残酷な幻想に囚われていないといいが……
「………………」
クレアは、ジェフリーが去った王都の方角を一度だけ振り返り……
『世界の果て』を探すべく、馬を走らせた。
♢ ♢ ♢ ♢
――一方、別の"鏡界"にいるエリスは……
「……なるほど。この世界がどの時期を模しているのか、わかったわ」
自宅を飛び出し、王都の街を調べる中で、この世界の時間軸を把握したところだった。
自宅にマリーがいたので、つい先日か、あるいは初めてマリーを預かった時のどちらかであると踏んでいたが……
どうやら後者、つまり半年ほど前の時期を再現した世界のようだ。
そう頭で理解していても、街の中を歩けば歩くほど、ここが作られた幻想であることを忘れそうになった。
彼女がよく知るレストランも、ケーキ屋も、本屋も、"中央"へ続く大きな門も、実際のものと遜色ない。
そして、先ほど目にしたマリーとクレアも……本物そっくりだった。
「………………っ」
エリスは、喉を押さえる。
身体が水を欲していた。先ほど現実世界で朝食を食べたばかりなのに、腹も減っている気がする。
そこで、エリスはポケットから香水瓶――クレアの涙を封じた水を見つめるが……
(……だめだめっ。先はまだ長いんだし、今飲んだら後がツライからっ)
そう自分に言い聞かせ、瓶をポケットにしまった。
とにかく今は、一刻も早く『世界の果て』を見つけ、神手魔符を仕掛けなくては。
エリスは馬車乗り場を目指し、駆け出す。
その脳裏には、先ほどニセモノのクレアがテーブルに並べた料理の数々が浮かび……
危うくよだれを垂らしそうになったところで、慌てて首を振った。
(くっ……あんな美味しそうな料理まで出して、なんて卑怯な幻想なの?! 食べられないっていうのに、酷すぎる……っ!!)
と、クレアが案じるのとは別の残酷さに打ちひしがれるのだった。
――そうしてエリスは馬車に乗り、王都に隣接するエステルア領の街・タブレスまでやってきた。
この"鏡界"がシルフィーたちから学習した記憶を元に作られているのなら、この辺りを調べるのが良さそうだと考えたのだ。
何故ならここには、エリスがしばらく暮らした親戚の家がある。現実との違いを比較するにはうってつけの場所と言えた。
(シルフィーがこの辺りを治安調査したって話は聞いたことがないし、保安兵団の人や祭司のじーさんもさすがに来たことがないはず……大きな街だけど、観光地ってわけではないしね。王子サマやそのお仲間もわざわざこんなところには来ないでしょ)
馬車を降り、エリスは街の大通りを進む。
が、彼女の予想に反し、タブレスの街並みは彼女の記憶にあるものとそっくりだった。
時刻は昼過ぎ。商店街は多くの人で溢れている。知り合いこそ見かけないが、建ち並ぶ店はどれも現実世界と同じ。彼女が暮らした親戚の八百屋まで存在し、エリスは唖然とした。
(うーん、いきなり予想が外れるとは。シルフィーたちの記憶の中にこの街があったのかな……まさか、既にあたしの記憶が取り込まれている、なんてことはないよね?)
などと考え込みながら、エリスは暫し足を止め……
「………………」
ふと、あることを思い立ち。
来た道を引き返して、その場所へと向かった。
――賑やかな商店街から離れた、街の外。
木々が茂る静かな森に、エリスは足を踏み入れた。
舗装されたレンガ畳が途絶え、続くのは土を固めた自然の道。
その先にあるのは……エリスの母が眠る墓地だ。
この場所は、きっと自分しか知らない。
だから、証明になると思った。エリスの記憶が既に取り込まれているのかどうか……それを確かめるために、彼女は進んだ。
……そして、
「…………ない」
道の先に、墓地はなかった。
それどころか、道がない。
ある場所から白い靄がかかり、景色が不鮮明になっていて……
見えない壁に阻まれ、先に進めなくなっていた。
……見つけた。
ここが、『世界の果て』。
"水球"の壁面に、限りなく近い場所だ。
ということは、エリスの記憶はまだ『水斧』に学習されていないということ。
やはり、この世界の飲食物を口にしない限りは記憶が同化しないのだろう。
エリスはほっと安堵し、神手魔符を取り出す。
そして、白い靄が漂う地面に、それを貼り付けた。
この神手魔符は今回のために紋様を描き変えた特別仕様で、祝詞を唱え一枚の札を発動させると、離れた場所にある他の九枚も連動して発動するようになっていた。これにより、クレアが仕掛ける予定の五枚も問題なく発動するというわけだ。
エリスの手に残る神手魔符は四枚。凍結に偏りが出ないよう、離れた場所で『果て』を見つけて貼り付ける必要がある。
シルフィーが放つカビチーズの香りが漂う前に、すべてを仕掛けなくては。
(……って、現実世界ではまだ数秒しか経っていなかったりして。今頃クレアも、別の"鏡界"でコレを仕掛けてくれているかなぁ)
と、左手に光る指輪を見つめ、彼を想う。
そして……本来なら靄の先にあるはずの、母の墓の方へ目を向ける。
タブレスの街を離れ、魔法学院に入学し、飛び級で卒業して……
治安調査員になったかと思いきや、こんな使命を背負うことになって。
あまりに色々なことがあったから、最近は母の墓参りにも行けずにいた。
エリスは、左手の指輪をそっと押さえながら……
目を閉じ、胸の内で語りかける。
(……母さん。あたしは元気にやっているよ。毎日美味しいものを食べて、あたしらしく生きられている。あたしのことを大切にしてくれる人に出会えたし、大切にしたいと思える人も増えた。今度、ちゃんと報告に行くから……もうちょっとだけ、待っててね)
……そうして、再び瞼を開け。
エリスは次なる『世界の果て』を探すべく、踵を返した。