20 偽りの再会
――エリスが用意した、特別な『水の神手魔符』。
それにより満たされた蒸気の中で、二人は抱き合った。
幻想に惑わされぬよう、何があっても互いを忘れぬよう。
身体に、細胞に、脳に、心に。
消えない傷痕を刻み込むように、何度も、何度も、肌を重ねた。
そうして、蒸気が消える頃に眠りに就き……
――翌朝。
エリスは、静かに目を覚ました。
すると、頭上から声が降ってくる。
「……お目覚めですか?」
寝ぼけ眼で見上げると、クレアが微笑んでいた。いつも通り、先に起きていたらしい。
クレアの腕の中、エリスはあくびをしながら答える。
「ふぁ……おはよ」
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
「…………全身だるい」
「あはは。私もです。でも……この怠さも好きだったりします」
そう言って、クレアはエリスの額にキスを落とす。
「いよいよ"水球"に挑む時ですね。さっさと消滅させて、『飛泉ノ水斧』を無力化させて……昨晩の続きをしましょう」
「ぶっ……散々シたのにまだ足りないの?」
「だって、水着はもう一着残っていますから。それに……"虚水の鏡界"に取り込まれたら、体感で数日以上離れ離れになるかもしれないでしょう? だから……今から次を望んでしまうのです」
エリスの温もりを慈しむように、クレアは彼女を抱き寄せる。
その背中に、エリスもおずおずと腕を回し、言う。
「……あっちの水着も着るなんて、誰も言ってないけど」
「そんなぁ」
「はぁ……どんな幻想に迷い込もうと、あんたみたいな変態のことは忘れられないでしょうね。だから、"水球"に取り込まれても大丈夫よ、きっと」
「それは何よりです。私も決して忘れません……貴女という、ただ一人の愛しい女性の存在を」
なんて髪を撫でながら言われ、エリスは「……そ」と短く答えた。
その照れ隠しに、クレアはくすりと笑うと、
「……名残惜しいですが、支度を始めましょう。シルフィーさんを起こして、朝食を摂ったら……いよいよ作戦開始です」
そう言って、エリスの頬を柔らかに撫でた。
* * * *
「――おぉ……それがエリスさんの作った『涙の備忘薬』ですか」
湖面を進むボートの上。
エリスが取り出した小瓶を見つめ、シルフィーが言った。
昨晩は泥酔し、気絶するように眠った彼女だったが、今朝は二日酔いもなくけろっとした様子だった。
エリスは小瓶をかざし、得意げに言う。
「そっ。瓶の外側に貼った神手魔符を発動させたから、涙と精霊由来の水とが中で混ざっているの。これさえ飲めば"虚水の鏡界"に入っても安心よ」
「へぇー。昨日あれだけ『準備がややこしい』って言ってたのに、作り方は結構シンプルなんですね。それとも、私が寝落ちた後に大変な作業があったのでしょうか?」
……という何気ないシルフィーの問いに、エリスはヒクッと顔を引き攣らせる。
昨晩おこなったもう一つの"夫婦の契り"については、当然ながら話すわけにいかない。
だからエリスは、シルフィーにぐいっと瓶を突き付けて、
「そ、そうなの! 見てよ、この神手魔符の紋様! 簡単そうに見えて、実は描くのがめちゃくちゃ大変なんだから!!」
「な、なるほど……なら、やっぱり私もお手伝いすればよかったですね。すみませんでした、早々に酔い潰れちゃって……」
「い、いーのよ別に! シルフィーにはこの後、超重要な仕事を任せるんだから! むしろしっかり休んでもらってよかったわ!!」
冷や汗を流しながら必死に誤魔化すエリスを、クレアはボートを漕ぎながら、にこやかに見つめた。
――そんな話をしている内に、ボートは"水球"のすぐそばまで辿り着いた。
昨日までと変わらず、水を湛え続ける奇妙な物体……
クレアとエリスはボートの上に立ち、今一度それを眺める。
「では……これより"虚水の鏡界"へ突入します。エリス」
「うん」
言って、二人は『涙の備忘薬』を取り出す。
そして、小瓶の栓を抜き……中に満ちる水の半分を飲んだ。
もう半分は、このまま"虚水の鏡界"に持って行く。どうしても水が飲みたくなった時の飲料として取っておくのだ。
再び小瓶に栓をし、クレアはシルフィーに目を向ける。
「シルフィーさん、先ほどお伝えした通りにサポートをお願いします」
「はい。お二人が"水球"に取り込まれたら時間を計測し、五分が経過したら……この『ブルー・ド・バーナム』を取り出します」
言って、シルフィーはクレアから預かったもの――バーナムの街で購入した、あのカビまみれのチーズを鞄から出した。
クレアとエリスが"鏡界"内に神手魔符を仕掛けた後、冷気の精霊が引き寄せられるまでには五分ほどかかるのだが、"鏡界"内は体感時間が異なるため正確に測定できない。
そこで、"鏡界"内にいるエリスに五分が経過したことを報せるため、シルフィーがこの強烈なチーズの臭いを漂わせることにしたのだ。
包み紙越しでも感じるその臭いに、エリスは鼻をつまむ。
「うっ、相変わらずすごいニオイ……これなら"水球"の中にいても絶対にわかるわ」
「本来は別の目的で買ったものでしたが、こんな形で役に立つとは。やはり買っておいて正解でしたね」
などと笑うクレアを、エリスはジトッと睨み付けてから、
「さて……それじゃ、行きますか」
そう言って、冷気の魔法陣を描き……湖面を凍らせた。
ボートを降りて氷の上に降り立ち、クレアと共に"水球"へ近付く。
ポケットに『涙の備忘薬』が入っていることを確認してから、二人は顔を見合わせて、
「……では、お気をつけて」
「うん。あんたもね」
と、最後の挨拶を交わした。
「お二人とも、くれぐれも無理はしないでください!」
案ずるように言うシルフィーの方を振り返り、一つ頷いて。
クレアとエリスは、"水球"の表面に、手を触れた――
♢ ♢ ♢ ♢
「――……ス。エリス」
……誰かに名前を呼ばれ。
エリスは、はっと目を開いた。
呼んだのは、クレアだ。
彼女の顔を覗き込み、心配そうに見つめている。
「クレア……あれ? ここは……」
エリスは周囲を見回す。
そこは、彼女とクレアが暮らす自宅だった。
エリスは今、食卓に座り、目の前には美味しそうな料理が並んでいる。
「突然黙り込むので心配しましたよ。大丈夫ですか?」
クレアが額に手を当てながら言う。
その見慣れた姿と声に、エリスは思わず「だ、大丈夫」と答えた。
「では、夕食にしましょう。温かい内にどうぞ。こちらは――マリーの分です」
そう言って、クレアは床に置いた器に料理を盛り付ける。
柔らかく茹でた鶏肉と野菜。既に冷ましてあるのか、湯気は上がらなかった。
すると、軽やかな足音と共に猫のマリーが歩いて来た。
彼女はクレアに甘えるように擦り寄ると、盛り付けられた料理を食べ始めた。
その、あまりに自然な光景に。
エリスは、混乱する。
ここは間違いなく自分の家で、目の前にいるのはクレアとマリーで……
何の違和感もない、幸せな日常の一幕で。
……だけど、違う。
彼女の中の"ナニカ"が、これは違うのだと強く訴えかける。
「…………っ」
エリスは、ガタッと立ち上がると……
クレアの胸ぐらを掴み、彼の首筋に鼻先を付けた。
「え、エリス? どうしたのですか?」
驚き、よろめくクレア。
しかしエリスは、お構いなしに彼の匂いを嗅ぐ。
そして……
「………………違う」
パッと、彼を離し、
「――あんたは、本物のクレアじゃない……この家も、マリーも……」
……すべて、虚構。
そのことに気付いた瞬間、エリスの意識が鮮明に覚醒した。
……そうだ。ここは、"虚水の鏡界"の中。
目の前にいるのは、幻想が作り出した偽りのクレア。
本物は、別の"鏡界"に囚われている。
「……行かなくちゃ」
エリスは駆け出し、玄関に向かった。
「エリス? 行くって、どこへ……?!」
それを、ニセモノのクレアが、ホンモノそっくりな声で止めるが……
エリスは振り返らないまま、家を飛び出した。
♢ ♢ ♢ ♢
――一方、クレアは……
「………………っ」
眩しさを感じ、思わず目を瞑った。
これは、陽の光。
西に落ちかけた太陽光が、彼を正面から照らしていた。
手をかざしながら目を開け、状況を確認する。
そこは、街道を進む荷馬車の上だった。
ガタゴトという揺れが、彼の全身に響いている。
「……ここは……?」
「――何言ってんだ。もうすぐ王都に着くぞ?」
……そう、ぶっきらぼうに投げかけられた声に。
クレアの心臓が跳ね上がる。
声の主は、馬に乗っていた。
こちらに背を向けているが……その後ろ姿には、嫌と言うほど見覚えがあった。
広く逞しい背中。
見慣れた特殊部隊の隊服。
そして……夕日に光るスキンヘッド。
目を疑い、言葉を失うクレアの方を、彼は振り返る。
「本部に帰る前に飯食いに行くぞ。報告するまでは経費で落ちるからな。クレア、何が食いたい?」
そう言って、悪戯っぽく笑うのは…………
三年前、『炎神ノ槍』に貫かれ死んだはずの恩師――――ジェフリーだった。
第二章はここまで。次話より第三章・虚水の鏡界編に突入します。
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