19 めおとの契り
エリスを泣かせる。
そう宣言するクレアに、エリスは「ふん」と鼻を鳴らす。
「知ってると思うけど、あたしも滅多なことじゃ泣かないわよ? どうやって泣かせるつもり?」
「そうですね。では……怖い話でもしましょうか」
「はぁ? 怖い話?」
「はい。私が考えた、身の毛もよだつような恐ろしい話です」
「ふーん。ま、話してみなさいよ。あたし、怖いのとかぜーんぜん平気だから」
余裕の表情で笑うエリスに、クレアは一度咳払いすると……
子供に読み聞かせをするように、自作の物語を語り始めた。
「昔むかし、あるところに、エリシアちゃんという超絶美少女がいました」
「って、主人公あたし?」
「エリシアちゃんは類い稀なる味覚と嗅覚の持ち主で、食べることが大好き。そして食べ物たちもまた、エリシアちゃんのことが大好きでした」
「食べ物たち?! まさかの擬人化?!」
「エリシアちゃんは食べ物たちを食べることが最高の幸せで、食べ物たちもエリシアちゃんに食べてもらえることが至上の喜び……そんな美味しく平和な世界にエリシアちゃんはいました」
「意味わかんないけど、なんだか理想の世界っぽいわね……それでそれで?」
「ところがある日、邪悪な魔王が現れ、食べ物たちに呪いをかけました。エリシアちゃんのことが大嫌いになってしまう呪いです」
「はぁ?! 何すんのよ魔王! さいあく!!」
「あんなにエリシアちゃんに食べられたがっていた食べ物たちは、呪いにかかってしまったせいで口々にこう言います。『エリシアちゃんなんて大っ嫌い!』」
「はぅっ」
「『エリシアちゃんにだけは食べられたくない!』」
「ぐぅっ」
「『エリシアちゃんに食べられるくらいなら腐った方がマシだ!』」
「うあああああっ」
「そうして食べ物たちは姿を消し……エリシアちゃんは何も食べられなくなってしまいました」
……などという、支離滅裂な作り話にも関わらず。
エリスはすっかり感情移入し、食べ物に避けられる自分を想像して、目に涙を浮かべ始める。
「そんなぁ……食べ物に嫌われちゃうなんて……あたし、どうなっちゃうの……?」
「途方に暮れるエリシアちゃんに、魔王はこう言いました。『食べ物たちにかけた呪いを解いて欲しければ、お前の特別な味覚と嗅覚をよこせ』――つまり、呪いを解かなければ食べ物たちに避けられてしまいますが、呪いを解いたら解いたで食べ物の味がしなくなってしまうということです」
……それを聞いた瞬間。
エリスは、ぷるぷると震え出し……
「む……ムリぃぃいいいいっ!!」
頭を抱えながら、絶叫した。
「味や匂いが感じられないなんて……生きてる意味ないじゃない! 死んだ方がマシよ!!」
そう言って、絶望の涙をぽろぽろ流すエリス。
食べ物に避けられることも、味覚や嗅覚を失うことも、彼女にとっては死よりも恐ろしいことのようだ。
さめざめと泣く彼女の目尻に、クレアはサッと小瓶を添え……涙を回収した。
「はい、完了です。これだけあれば十分でしょう」
「そんなことより! お話の中のあたしはどうなっちゃうの?! ちゃんと結末を教えてよ!!」
と、目的のための手段に過ぎない作り話にすっかり没入し、クレアにしがみつくエリス。
その必死さに吹き出しそうになりながら、クレアはこう続けた。
「するとそこへ、通りすがりの剣士クレアルドが現れました。彼は伝説の劔を振るい、見事魔王を倒しました」
「わぁああっ! ありがとう剣士クレアルド!!」
「食べ物たちにかけられた呪いは消え、エリシアちゃんは再びお腹いっぱい食べられる平和な世界を取り戻しました」
「よかった! ハッピーエンドだった!!」
「そしてエリシアちゃんとクレアルドは恋に落ち、結婚しました。クレアルドはエリシアちゃんを密かに狙っていた村の男どもを一人残らず抹殺し、森深くにある家にエリシアちゃんを閉じ込めました。それ以来、彼女の姿を見た者は一人もおりませんでしたとさ。おしまい」
「最後怖ッ!! そうだ、これ怖い話だったんだ!!」
作者の願望が込められまくった結末に、エリスは声を上げた。
しかしその反応を、クレアは不思議そうに見下ろす。
「怖いのは魔王のくだりであって、最後ではありませんよ? 貴女のためにハッピーエンドにしたつもりでしたが……お気に召しませんでしたか?」
「だって最後行方不明になってるじゃん!」
「でも、私と食べ物たちがいるのですよ? 他に何を望むのです?」
「それは……でも、会えなくなったらシルフィーとかディアナとかが心配するかもしれないし……しないかもしれないケド……」
などとエリスが口ごもるので……クレアはくすっと笑い、
「ふふ。すみません、冗談です。今の貴女には、たくさんの人との大切な繋がりがある……それは貴女の財産であり、貴女を構成するかけがえのない要素です。貴女が築いた交友関係も含めて、私は貴女を愛しています。なので、貴女が友人と会えなくなるような束縛は絶対にしませんよ」
そして、エリスの頬をそっと撫で、
「それに……信頼していますから。私以外の男に、気移りするはずがないと」
そう言って、微笑んだ。
その笑みも、声も、ひどく優しいはずなのに。
細めた瞳の奥には、燃えたぎるような独占欲がチラついていて……
――離さない。
結局はそう言われているのだと、エリスは思い知らされる。
そして……
そんな束縛に、悪い気がしなくなっている自分がいて。
エリスは、左手の薬指に嵌めた指輪に意識を向けてから、
「………………っ」
何も言わずに、クレアに抱き付いた。
思わぬ行動に、クレアは動揺を露わにする。
「え、エリス……?」
「……移り気なんてしない。あたしにとって、あんたは…………最初で最後の男だから」
赤らむ頬を隠すように、エリスは彼の胸に顔を埋める。
「……実はね。この『涙の備忘薬』は、自分の涙を使っても作ることができるの。自分の記憶を留めた涙を飲めば、幻想に我を失うこともなくなるから。でも、男女が互いの涙を交換すると……それはかつてオゼルトンでおこなわれていた"夫婦の契り"の一つになる」
「夫婦の契り……?」
「そう。『たとえ虚水が惑わそうとも、互いの涙を薬とすれば、心に決めたその人を永遠に忘れることはない』、って……本に書いてあった」
それを聞き、クレアはドキッとする。
そして、思い出す。ガルャーナが、去り際に言った言葉――
『――"水の心"を交わした男女は、深い縁で結ばれる』
あれはきっと、この"夫婦の契り"を指した俗諺だったのだろう。
エリスは拳をきゅっと握ると、意を決したようにクレアを見上げ、
「さっき、もう一つ……ちょっとした儀式をするって言ったでしょ? それも"夫婦の契り"の一部で…………水の魔法で生み出した霧の中で、たっ……互いの熱と体液を交換する……っていうものなの」
「…………熱と体液を、交換?」
「それがどんな行為を指すのか……あんたならわかるでしょ?」
羞恥心たっぷりに尋ねられ、クレアは息を飲む。
夫婦を誓い合う男女が、熱と体液を交換する行為……
それはまさしく、『情を交わす』ということだろう。
理解したからこそ、クレアは戸惑い、聞き返す。
「で、では……今から、それを……?」
「っ……だからシルフィーには説明できなかったのよ!」
顔を真っ赤にし、エリスが喚く。
クレアはようやく、合点がいった。
記憶を留める方法について、エリスが言葉を濁した理由……シルフィーを巻き込まないためでもあるが、単純に口にするのが憚られたのだ。
そして、水着にわざわざ着替えたのも……この後、その行為をするつもりでいたから。
彼女の胸の内を悟り、クレアは鼓動を加速させる。
エリスは、上目遣いで彼を見上げ、
「……この儀式をした男女は運命で結ばれ、洗脳や幻想の魔法にも惑わされなくなる……でも、この儀式が行えるのは人生で一度だけ。つまり、生涯を共にする覚悟のある相手としかしてはならない」
……そして、抱き付く手に力を込めて、
「別に、この方法に込められた意味を教える必要なんてなかったんだけど……ヤキモチ妬きなあんたが少しでも安心できるように、教えといてあげる。この儀式をあんたとすることに、あたしは何の迷いもない。この意味……ちゃんと理解してよね」
切なさと恥ずかしさが入り混じったような表情で、そう言った。
恐らく、水の精霊の気が満ちた空間で、体液――互いの記憶を最も宿した"水"を交わすことで幻想に対抗する、という理屈なのだろうが……
同時に、それだけ互いの存在を深く記憶に刻み込む儀式でもあるのだろう。
だから、将来を誓い合った相手としかしてはいけないと決められていた。
そのような背景を知った上で、エリスはクレアにこの儀式を持ちかけた。
彼と添い遂げることに、何の迷いもないから。
クレアにとって、その決意表明は、切ない程に嬉しいもので……
狂おしいくらいに、劣情を煽るものだった。
愛しさに目眩を覚えながら、クレアはエリスの身体を強く抱き締め……囁く。
「……エリス」
「……なに?」
「ヤキモチ妬きな男ですみません」
「ほんとよ。あたしはちゃんと、こんなに……好きだと思っているのに」
「では、その気持ちごと……飲ませてください」
そう言って、彼女の身体を離すと……
瞳を覗き込むように顔を近付けて、
「貴女の存在を、想いを、すべて私にください。一滴残らず飲み干して、身体に刻み込み……私のものにします」
「っ……」
「私の愛も、貴女にたっぷりと注ぎますから……頑張って飲み干してくださいね?」
にこっ、と微笑みながらそう言われ……
エリスは、頬を一層赤く染めながら、
「………………望むところよ」
小さく、呟くように答えた。
クレアは笑みを深めると、彼女の顎をくいっと持ち上げ、
「…………愛しています、エリス」
誓いを立てるように囁いて。
唇をそっと……自分ので塞いだ。