17 仕掛けられた罠
「え………………えっ??」
突然「泣け」と命じられ、クレアは目を点にする。
しかしそんな彼の胸ぐらを、エリスはギリギリと掴み、
「ほら、なんでも協力するんでしょ? 早く泣きなさいよ」
「ぶ…………ぶひぃ」
「そっちの『鳴く』じゃない! 涙流せって言ってんの!!」
趣旨の違う鳴き声を上げるクレアに、エリスはたまらずツッコむが……
彼女の意図が読めないクレアは、狼狽えながら聞き返す。
「えっと……それは一体、どういう理由で?」
「……忘れたくない相手の涙を瓶に入れる。それに神手魔符を貼り付けて、水の魔法と混ぜ合わせると『備忘薬』が作れるって……この本に書いてあったの」
言いながら、エリスは教会から拝借したオゼルトン語の本を取り出す。
「涙を『備忘薬』に……そんなことが可能なのですか?」
「わかんない。でも、水に記憶を留める性質があるなら、試す価値はあるかなと思って」
「なるほど。確証のない方法だから、あの場では説明しなかったのですね。これ以上シルフィーさんを巻き込まないために」
そう尋ねると、エリスは気まずそうに目を逸らし、
「それだけが理由じゃないけど……あのコをこれ以上深入りさせたくないっていうのはその通り。だって、どう考えてもおかしいもの。こんなタイミングであたしたちの知り合いであるシルフィーがウィンリスの治安調査を命じられているなんて……偶然とは思えない」
そう言って、本を握る手に力を込めた。
やはり……エリスもその違和感に気付いていた。
彼女が言わんとしていることを理解し、クレアは頷く。
「えぇ。シルフィーさんは我々の知人であると同時に、『風別ツ劔』の一件の関係者です。そんな彼女を、何者かが故意に派遣したのだとすれば……それは、彼女を"水球"に捕え、『水斧』に記憶を保存するためでしょう」
……そう。
恐らく『飛泉ノ水斧』には、捕えた人間の記憶を保存する力がある。
そして、この予想が真実ならば……今回の任務自体が罠である可能性が浮かび上がる。
仕掛けたのはもちろん、ルカドルフ王子とその裏にいる人物だ。
今回の任務において、何故ルカドルフ王子は"禁呪の武器"の回収ではなく、"水球"の調査だけを命じたのか。
それは――クレアとエリスを"虚水の鏡界"に取り込み、二人の記憶を『飛泉ノ水斧』に保存するためだったのではないだろうか?
クレアには、"禁呪の武器"が齎す狂戦士化の呪いに耐性がある。
そしてエリスには、"武器"に封じられた精霊に干渉する力がある。
そんな二人の記憶を探れば、呪いを受けない者の条件が見つかるのではと考えたのだろう。
シルフィーがこのタイミングでウィンリスに派遣されたのも、きっと同様の理由だ。
『風別ツ劔』に関わった者として、その記憶を狙われたに違いない。
つまり……王子らは、『飛泉ノ水斧』が単なる武器ではなく、"記憶媒体"でもある事実を知っているということ。
同じ予想を立てるクレアの返答に、エリスは苦笑する。
「やっぱりあの"水球"自体、王子が仕掛けたっ罠ぽいわよね。だから『水斧』にあたしたちのことが既に記憶されていて、シルフィーの見た幻想に現れた。さいわい、シルフィーは狂戦士化の呪いにかからない者の条件を知らないから、情報はまだ抜かれていないけど……これ以上深く関わらせたらまた狙われる可能性がある。それだけは何としても避けなくちゃ」
「やはり、そこまで考えた上で話さなかったですね。親友であるシルフィーさんを護るために」
「し、親友っていうか、時々ご飯を奢ってくれる貴重な金ヅルだからね。いなくなったら困るし」
ふいっと顔を背け、ごにょごにょ言い訳するエリス。
その横顔を、クレアは微笑ましく見つめ、
「だから……"虚水の鏡界"には、私たち二人だけで臨む必要がある。そして、幻想の中で何も口にしないまま『水斧』に干渉し、"水球"を消滅させなければならない……そうですね?」
「うん。あたしたちが"鏡界"の中で何かを口にした途端、一番知られたくない情報を抜き取られて終わりだからね。そう考えると、無理に挑まない方が良い気もするけど……そういうわけにもいかないし」
「えぇ。私たちが何もせずに帰還すれば、次はレナードさんやチェロさんがここに派遣されるでしょう。お二人には『水斧』を無力化する術がありません。これは、私たちにしかできないことです」
「はぁ……毎度のことながら、失敗の許されない大仕事ね」
やれやれと首を振ってから、エリスは二つの小瓶を取り出し、気持ちを切り替えるように言う。
「ってことで。あたしが考えた作戦を説明するわね。まず、この瓶にお互いの涙を入れて『備忘薬』を作る。加えて、もう一つ……お互いのことを忘れないためのちょっとした儀式をして、意識を保持したまま"虚水の鏡界"へ乗り込む」
「その、ちょっとした儀式というのは?」
「それはっ……後で説明する。んで、"鏡界"に入ったら、『世界の果て』を探すの」
「世界の果て……展開された幻想世界の限界の位置、ということですか?」
「そう。あの祭司のじーさんのおかげで、"鏡界"は現実世界を完全に模倣しているわけじゃないってことがわかった。つまり、必ず『果て』がある。そこに、この冷気の神手魔符を仕掛けるの」
と、エリスは神手魔符を数枚取り出す。
エリスが開発した、冷気の精霊を呼び寄せることのできる札だ。
「とりあえず十枚、"鏡界"の端っこを囲うように仕掛けて冷気の精霊を引き寄せる。そうして十分な数の精霊が集まったら……一気に魔法を発動させる」
「なるほど。"水球"を内部から凍らせて、『水斧』の動きを止めるのですね?」
「そゆこと。昨日、外側からいろいろ魔法を仕掛けてみたけど、やっぱり凍らせるのが一番良さそうな気がしたのよね。"鏡界"を構築しているのは水だし、凍結すれば核にも干渉できるかなって」
エリスの言う通り、"鏡界"は水――厳密には、水の精霊が作り出している世界だ。
その中には当然、冷気の精霊はいないはず。魔法陣を描いたところで、凍結の魔法は発動できないだろう。
そこでエリスは、"水球"の壁面に近い『世界の果て』に神手魔符を仕掛け、外にいる冷気の精霊を呼び寄せることを考えた。
そうして精霊の数が十分に集まったタイミングで魔法を発動させ、"水球"を内側から凍結させる。"鏡界"内にあるであろう『水斧』をも凍らせ、その動作を停止させる、という作戦だ。
「これは……エリスでなければ思いつかない手法ですね。流石です」
「ふっふーん、まぁね。冷気の神手魔符を開発しといてほんとによかったわ。まさかこんな形で役立つとは」
「しかし、一つだけ懸念点があります。"鏡界"の中は現実世界と時間の流れが異なりますよね。神手魔符を仕掛けてから精霊が集まるまで、"鏡界"内の体感ではかなりの時間が必要になるのではないでしょうか?」
「それは…………たしかに」
盲点。と言わんばかりに目を見開くエリス。
クレアが続ける。
「しかも、私と貴女が同時に"水球"へ取り込まれたとしても、囚われる"鏡界"は別々のものになる可能性が高いです。ほぼ同時に囚われたシルフィーさんとアモリさんがそうだったように」
「う……それもそうね。でも、意識として互いを認識できなくても、身体は間違いなく同じ"水球"内にいるでしょ? なら、あたしとあんた、それぞれの"鏡界"に神手魔符を仕掛けましょ。精霊が集まったら、あたしが魔法を発動させる。それまでは……食べることも飲むこともせず、ひたすら待つの」
覚悟を決めたように、エリスが言う。
シルフィーたちの話を鑑みれば、現実世界では数秒でも、"鏡界"内では数時間が経過しているようだ。
現実世界で冷気の精霊が集まるまで、"鏡界"内でどれだけ過ごすことになるかわからない。数日、あるいは数週間、飲まず食わずということもあり得る。
もちろん、実際の肉体では数十秒しか経過していないため、飢え死にすることはないだろうが……精神面での戦いを強いられることは必至だ。
その点、クレアには自信があった。
特殊部隊において、一週間食事抜きで任務にあたることなど珍しくはない。実際の身体が飢えていないとわかっている分、むしろ気が楽だ。
しかし、エリスは違う。
彼女は常人に比べて食欲が旺盛であり、数日以上飲み食いをしない経験などないはずだ。
幻想だとわかっていても、体感で何日間も食事にありつけないのは苦痛でしかないだろう。
だからクレアは……エリスの負担を考え、こう提案する。
「私だけが"鏡界"へ入り、神手魔符を仕掛けることもできます。貴女は"水球"の外で精霊が集まるのを待ち、魔法を発動させる……その方法でも、内部から凍結させることは可能ではないですか?」
しかしエリスは、すぐに首を横に振り、
「だめ。発動の祝詞が"鏡界"内にまで届くかわからないから。それに、核である『水斧』が現れたとしたら、そのまま無力化しないといけないでしょ? 一緒に入るに越したことはないわよ」
……そして。
エリスは、クレアの服の裾をそっとつまみ、
「それに……あんた一人に大変な思いをさせたくないし」
ぼそっと、照れたように呟いて。
クレアの顔を、じっと見上げる。
「……そんなに心配しなくても、あたしなら大丈夫よ。前回の"武闘神判"で、ようやくあんたの相棒になれたと思っていたのに……まだ信頼してもらえないの?」
その、少し寂しそうな瞳に……
クレアは、胸が詰まるような感覚に襲われる。
そして、その苦しさに突き動かされるように、エリスのことを抱き寄せた。
「もちろん、貴女のことは信頼しています。ただ、同じくらい貴女のことが大切で、負担をかけたくなくて……すみません」
「それはあたしも同じだってば」
「……わかりました。"虚水の鏡界"には二人で入りましょう。そして……王子らの企みを、ここで潰すのです」
エリスの身体を強く抱き締めて、クレアは決意を口にした。
腕をゆっくり解くと、エリスは照れ臭そうに「んんっ」と咳払いをし、
「そういうわけで。お互いの涙が必要だから……クレア。泣いてちょうだい」
小瓶をずいっと突き付け、あらためて言う。
それに、クレアは微笑み返し、
「そうしたいのは山々ですが……ご存知の通り、普段泣くことがほとんどなくてですね」
「……え」
「エリス。私のこと――泣かせてみてくれませんか?」
……なんて、どこかワクワクした様子で。
彼女を試すように、そう言った。