15 エリスの宝物
――昼過ぎ。
クレアたち三人は、湖畔にある聖エレミア教会へと赴いた。
教会は保安兵団による立ち入り調査の真っ最中だった。
入口の見張りをしていた団員のサーヴァに「"水球"を消滅させる手がかりがあるかもしれない」と説明し、三人は特別に中へ入れさせてもらった。
エドガー祭司が自供した殺人と虐待の事実を裏付けるべく、団員たちは教会内の隅から隅まで調べていた。
礼拝堂にキッチン、祭司の書斎に寝室。
もちろん、昨晩クレアたちが発見した地下室まで。
……と、
「あーっ! 待って待って!!」
地下室に降りるなり、エリスは声を上げた。
本棚に並ぶ稀少な魔導書が、今まさに団員たちに回収されそうになっていたのだ。
「その本棚はこっちで調査するから! まだ持っていかないで!!」
エリスの言葉に団員たちは納得し、上の階へと去って行った。
「ふぅ……危なかった。一度回収されたら閲覧申請の手続きとか面倒そうだもんね」
ほっと息を吐くエリスの傍らで、シルフィーがビクビクしながら周囲を見回す。
「こんな地下室があるだなんて……ひぃっ。なんですか、この磔台は!」
「たぶん、あのじーさんが子供たちを拘束するのに使っていたものよ。言うことを聞かせるために痛め付けていたのか、はたまた『再生の祝福』を実現するための実験をしていたのか……あるいはその両方か」
「ひぇえっ……!」
シルフィーが耳を押さえて震えるが、エリスは気に留めることなく本棚へ近付く。
「んじゃ、いっちょ調べますか。結構な冊数があるから、二人もお願いね。水の精霊や『飛泉ノ水斧』、"禁呪の武器"に関わりがありそうな文献があったら教えて」
「わかりました」
「うぅ……こわーい呪いの本とかないですよねぇ……?」
シルフィーは怯えつつも、クレアと共に棚の本へ手を伸ばした。
――そうして、地下室には本のページを捲る音が暫し響いた。
数ある本の中で、クレアはお伽話や伝承を中心に調べを進めた。
魔法に関する専門的な書籍は、魔導士であるエリスとシルフィーに見てもらった方が良いと考えたからだ。
何冊か確認した後、クレアが手にしたのは、聖エレミア教の古い教典だった。
すべての精霊の祖であり父である主・エレミア。
その姿は、背中から瑠璃色の蝶の羽を生やし、黄金の光を放つ美しい少年として描かれていた。
その描写に目を落とし、クレアは思い出す。
『風別ツ劔』の一件で目の当たりにした、健在だった頃の"精霊王"の姿。
そして現在の、"水瓶男"と呼ばれる彼の姿を。
彼には、顔がなかった。
草や花を内部に浮かべた水が、人の形を成していただけ。
声も、老若男女の声をぐちゃぐちゃに混ぜたような歪なものだった。
それは、七人の強欲な権力者たちが精霊王を井戸に封じたせい。
精霊王を復活させないよう、『井戸の中の水瓶男』という寓話を作り広めたから、人々が想像したままの邪悪な姿に変わってしまったのだ。
精霊は、人間による『居てほしい』という願いをもとに存在している。
姿形や性質も、願いによって変化する。
ならば……
(もし、この聖エレミア教が広く信仰されていたなら……"精霊王"も今のような姿にならずに済んだのかもしれない)
そんなことを考えながら、クレアは教典を静かに閉じた。
――その後、三人は日が暮れるまで書籍を読み漁った。
クレアが調べた中には、残念ながら"虚水の鏡界"攻略のヒントになりそうなものはなかった。
シルフィーは恐ろしい魔法の使い方でも見つけたのか、時折「ひぇっ」と声を上げていたものの、やはり手がかりはなく……
エリスはと言えば、オゼルトン語で書かれた文献に顰めっ面で齧り付き、
「…………………………」
……何故か、眉をピクピクと引き攣らせていた。
「……エリス? どうかしましたか?」
不審に思ったクレアが、そっと尋ねる。
エリスはなおも文献に目を落としたまま、ぷるぷると震え……
「…………わかったかもしんない」
「え?」
「水の精霊が生み出す幻想……それに惑わされることを、防ぐ方法」
「本当ですか?! わぁ、やったじゃないですか!」
シルフィーが手を叩いて喜ぶが、エリスはやはり何とも言えない表情をしている。
「それで? どんな方法なんですか?」
「えっと……オゼルトンには『神手魔符』っていう魔法を発動させるお札があるんだけど……それを使った応用術、みたいな?」
「あぁ。昨日、私の体内から水の精霊を抜き出すのに使ってくれたあのお札ですね。なら、すぐに用意ができるじゃないですか。エリスさん、いっぱい持っているんでしょう?」
「そうなんだけど……ちょっと、準備がややこしいというか……」
口ごもり、目を逸らすエリス。
彼女がここまで動揺するとは、よほど面倒な準備が必要なのだろう。
クレアはエリスを見つめ、真剣に投げかける。
「ようやく見つけた方法です。準備が複雑でも、それに賭けるべきでしょう。もちろん、貴女にすべてを押し付けるつもりはありません。大変な準備は私に任せてください」
「わ、私も。これでも魔導士の端くれなので、力になれることがあれば遠慮なく指示してください!」
クレアに続き、シルフィーも言う。
それでもエリスは、憂いの拭えない様子で弱々しく笑い、
「うん、ありがと。そしたら……まずは、瓶が欲しいかな。持ち運びができる、小さいやつ」
「瓶? 何に使うんですか?」
「……特殊な紋様を描いた神手魔符を貼り付けて、中に水の精霊の力を込める。そうすると、記憶を留めておける『備忘薬』が作れるんだって。それを飲めば、幻想に惑わされることを回避できる……はず」
「なぁんだ。『ややこしい』なんていうから、見たことのない儀式の道具を揃えなきゃいけないかと思いましたよ。それじゃあ、すぐに小瓶を買いに行きましょう。いくつあればいいですか?」
「あたしとクレアで一つずつ欲しいから、あと一つあればいい。一つは……もう持ってるから」
そう言って、エリスは懐からあるものを取り出した。
小さな香水瓶だ。
薄紅色のガラスに、金色で縁取られた繊細な模様。
栓の上部には、白いマーガレットの花の装飾が付いている。
見覚えのあるその小瓶に、シルフィーは思わず目を見張る。
「その瓶、もしかして……!」
「そ。あんたとチェロが誕生日にくれたやつよ」
「エリスさん……大事に持ち歩いてくれていたんですか?」
目をうるうるさせながら、感動したように尋ねるシルフィー。
それに、エリスは顔を赤らめ、パッと目を逸らす。
「ちょ、調味料とか持ち歩くのにちょうど良いのよっ」
「でも、何も入っていないじゃないですか」
「こないだまでハチミツを入れてたのっ! 食べ切っちゃったから今は空なだけ!」
「ふうーん、そうですかそうですか。いやー、人情の希薄なエリスさんがその瓶を愛用してくれていたなんて。チェロ先輩に教えたら喜ぶだろうなぁー」
「っ……とにかく、これくらいの瓶がもう一つあればいいから! 雑貨屋か、魔導具店に行けばあるはずよ!」
なんて慌てて話を戻すのを見て、シルフィーは「はーい」と嬉しそうに答えた。
友だちを作ろうともしなかった頃のエリスを知るクレアとしては、このやり取り自体は実に微笑ましいものだが……
一方で、彼女を心配する気持ちもあった。
先ほど見せた、戸惑いの表情……
エリスが見つけた方法は、相当に厄介な準備がいるはずだ。
小瓶を二つ用意すればいいだなんて、そんな簡単な話なはずがない。明らかに何かを隠している様子だが……
……と、考えを巡らせていると、エリスがちらっとクレアに目配せした。
それは、何か言いたげな、でも言えないような、そんな視線で……
クレアは悟る。
エリスが見つけた方法は、恐らくシルフィーには伝え難い内容なのだろう。シルフィーをこれ以上危険に巻き込まないための配慮なのかもしれない。
ならば……エリスが安心して話せる場を整えるとしよう。
クレアは小さく頷き、切り替えるように言う。
「では、早速小瓶を買いに行きましょう。それが済んだら夕飯の時間ですね。明日はいよいよ"水球"に挑むことになりそうですから……シルフィーさん。今夜は景気付けに、ワインでも飲みませんか?」
「えっ? あぁ、ウィンリスのワインは有名ですもんね……うん。せっかくなので、飲んじゃいましょうか!」
「ふふ、ぜひ。エリスも、今夜は美味しいものをたくさん食べて、英気を養いましょうね」
その言葉に、エリスはほっとしたような顔をしてから、ぱぁっと明るく笑って、
「うんっ! いいお酒がある店は総じて食事も美味しいからね! シルフィー、今日は好きなだけ飲んで食べるわよ!!」
「おー!!」
なんて、仲良く騒ぎながら歩き出すので……
クレアはにこやかに微笑んで、
(まぁ……一時間もかからないだろう)
と、シルフィーを酔い潰すのにかかる時間を、静かに予想するのだった。