3 胎内での邂逅
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――シルフィーがウィンリスの街に到着したのは昨日。
この地を治安調査するよう命じられ、例の如く道に迷いながら、五日がかりで何とか辿り着いた。
が、治安調査を開始する前から、街は物々しい雰囲気に包まれていた。
シノニム湖の湖面に現れた謎の"水球"……その警戒と対応に、街の人々は追われていたのだ。
(何なの、"水球"って……調査の指令を受けた時にはそんな話まったく聞かなかったのに!)
予想だにしない事態に困惑しつつも、シルフィーは街の保安兵団たちから状況を聞き取った。
そうして、"水球"が現れたのは二日前の夜とみられること、今のところ被害が出ていないことなどを聞かされた。
「明日、軍部から専門の調査員が派遣されて来るそうです。それまでに何も起こらないといいのですが……見えますか? あれが"水球"です」
保安兵団に案内され、シルフィーはシノニム湖に辿り着く。
団員が指差す先を見ると……仮称の通り、水でできた球体が、湖の真ん中に浮かんでいた。
「あれが……なんだか不気味ですね」
「えぇ。軍の調査員の方が見ても正体不明みたいで……」
……と、湖畔から"水球"を眺めていると、
「――ついに……ついに、現れた……」
そんな低い声が、どこからともなく聞こえてきた。
シルフィーはゾワッと鳥肌を立てながら、振り返る。
すると、少し離れた場所に、一人の男性が立っていた。
年齢は六十代くらいか。ひょろりとした身体に聖職者のようなローブを纏っている。
真っ白な頭髪と、同色の口髭。痩せているせいか青い目玉がやけに目立ち、そのぎょろりとした双眸で"水球"をじっと見つめていた。
そんなただならぬ雰囲気に、シルフィーは怯えながら呟く。
「ど、どちらさまでしょう……?」
「あぁ、エドガーさんです。あそこに見える教会の祭司さまですよ」
言って、団員が視線で示す。見れば、湖畔の先に広がる森の入口に、教会が建っていた。
尖った屋根に掲げられているのは、金色に輝く十二芒星の像。
それを目にし、シルフィーは思い出す。
この街には国内でも珍しい『精霊の主』を祀る教会があると聞いていたが……あれがその教会らしい。
未だぶつぶつと呟いている祭司を横目に、団員はため息をつく。
「"水球"が現れてから、エドガー祭司はどうにも様子がおかしいんです。水に纏わる異常現象だから、『精霊の主』が関わっているとお思いなんですかね?」
「な、なるほど……」
「とにかく、不審者ではないのでご安心ください。さぁ、屯所へ戻りましょう。この街の治安状況についてお伝えします」
そう言われ、シルフィーはもう一度"水球"を見つめてから……シノニム湖を後にした。
――翌日。
つまり、今日。
宿屋に泊まったシルフィーは、誰かの叫び声で目を覚ました。
まだ夜が明けたばかりだというのに、外が騒がしい。
枕元に置いていた眼鏡をかけながら、カーテンを開けて窓の外を見ると……保安兵団の団員たちが、慌てた様子で駆けて行くのが見えた。
皆、シノニム湖の方へ向かっているようだ。
(まさか、"水球"に異変が……?!)
シルフィーは急いで着替え、湖へと向かった。
朝靄のかかるシノニム湖のほとりは騒然としていた。
保安兵団の団員たちが声をかけ合いながら、急いでボートを出そうとしている。
シルフィーは駆け寄り、昨日同行した団員に尋ねる。
「何かあったんですか?」
「シルフィーさん。実は、エドガー祭司がボートを無断で漕ぎ出して、"水球"の方に向かっているんです!」
「え?!」
「何が起こるかわからないですし、ただでさえこの霧の中を漕ぐのは危険なので、早く止めなくては……」
「わ、私も行きます!」
思わずそう言って、シルフィーは数名の団員と共にボートへ乗り込んだ。
手を伸ばした先も見えないような濃霧の中、ボートは"水球"から発せられる水音を頼りに進む。
そして……
シルフィーは、湖の真ん中に浮遊する"水球"と対峙した。
近くで見ると、ますます不思議で不気味だった。
水で象られた、美しい球体。
しかし、停止しているわけではなく、絶えず中心部から水が湧き出している。
その傍らに、ボートが一隻停まっていて……
エドガー祭司が立ち上がり、今にも"水球"に触れようとしていた。
「祭司! 離れてください!!」
団員が呼びかけると、祭司はハッとこちらを向いた。
大きな目を血走らせ、威嚇するように吠える。
「止めるな! これは私が待ち望んだもの……『精霊の主』が齎した"救い"なのだ!!」
そう、歓喜と狂気に満ちた表情で言うと……
祭司は腕を伸ばし――"水球"に触れた。
刹那。
祭司が触れた箇所から、"水球"が横に割れ……
まるで、獣が口を開くように、ぶわっと広がったかと思うと――
――祭司の身体が、"水球"の中に飲み込まれた。
「…………!」
シルフィーを含む全員が戦慄し、言葉を失う。
祭司を取り込んだ"水球"は、何事もなかったように元の綺麗な球体へと戻り……再び渾々と水を湛え始めた。
「祭司……祭司……!」
団員たちが呼びかけても、返答はない。
その内、一人の団員がシルフィーに縋り付き、
「お、お願いです! 魔法で祭司を助けてください!」
「え……!」
「こんなの、どう見ても自然現象じゃない……祭司の言う通り、精霊が関与しているに違いありません! なら……魔法でなんとかできるでしょう?!」
そ、そんなこと言われても……
と、弱気な本音が覗きかけるが、及び腰になっている場合ではない。今、目の前で、人が水に飲み込まれたのだから。
(自信はないけど……やってみるしかない!)
シルフィーは指輪を嵌めた右手で、魔法陣を描く。
用いるのは、冷気の精霊。エリスが発見し、開発した魔法だ。
水ならば、冷気で凍るはず。
"水球"を凍らせて割ることができれば、中にいる祭司を助け出せるかも知れない。
そう考え、彼女は魔法陣の完成と同時に、叫んだ。
「冷気の精霊・キューレ! 我が命に応え、この"水球"を凍結せよ!!」
シルフィーがかざした手の先で、魔法陣が眩く光る。
そして、白い冷気が"水球"を覆うが……
表面に薄い氷の膜が一瞬張ったのみで、湧き出る水に溶かされてしまった。
「あぁ、だめだ! どうしよう……祭司……!」
団員たちの顔が絶望に染まる。
その焦りがシルフィーにも伝播し、ドクドクと鼓動を速める。
(凍らせるのはムリ……なら、炎で蒸発させるのは? いや、この環境じゃ炎の精霊が足りないはず……樹木もダメ、大地もダメ。鉄の物理攻撃もたぶん効かない。雷は感電してかえって危険だし……うぅ、どうすれば……!)
と、頭を抱えた……その時。
ふと、シルフィーの脳裏にある仮説が浮かぶ。
(他の魔法で打ち消すことが難しいなら……水の魔法で、"水球"を操作しちゃえばいいのでは……?)
それがどれほど難しく、方法も定かではないことは、シルフィーにもわかっていた。
だが、事態の緊急性と緊迫感に冷静さを失った彼女は……
あろうことか、"水球"の中に手を突っ込み、魔法陣を描こうと考えた。
ボートから手を伸ばすシルフィーに、団員たちがぎょっとする。
「し、シルフィーさん?! そんなに近付いたら、また……!」
……と、制止しようとした直後。
"水球"に、再び亀裂が走り……
大口を開けて、シルフィーに襲いかかった。
「……へっ?」
間の抜けた声を上げ、迫り来る水を見上げるシルフィー。
「シルフィーさん!!」
そこへ、団員の一人が彼女を助けようと腕を引く。
が、あと少しのところで間に合わず……
二人は、"水球"に飲み込まれてしまった。
♢ ♢ ♢ ♢
「――ん……」
シルフィーは、目を開ける。
頭がぼうっとしていた。
ここはどこなのか。今はいつで、自分は何をしていたのか、わからなくなる。
眼鏡の下の瞳を瞬かせ、シルフィーは辺りを見回す。
そこは……見慣れた王都の街並みだった。
自分の身体を見下ろすと、治安調査に向かうための旅装を着込んでいる。
……そうだ。思い出した。
私、治安調査の任務から帰って来たんだ。
まずは"中央"に報告して、それから……
エリスさんたちに、お土産を渡さないと。
自分の現状を思い出し、シルフィーは歩き出す。
なんだか、身体が重い気がした。
それに……無性に喉が渇く。
(早く報告をして、どこかのカフェでお茶でも飲もう。エリスさん家に伺うのは、その後でいいや)
そう決めて、"中央"を目指し進むが……
まもなく到着というところで、正面から見知った顔が歩いて来るのが見えた。
それは、今まさに思い浮かべていた人物で……
「あれ? シルフィーじゃん。久しぶり」
「あ……エリスさんにクレアさん。お久しぶりです」
シルフィーが少し驚きながら言うと、エリスは「よっ」と手を上げ、クレアは柔らかに微笑んだ。