1 手紙、束縛、訪問者
(……そろそろかな)
ルビーのように赤い瞳を、古びた本のページに落としながら――
エリスは、頭の隅で呟く。
キッチンから聞こえる、ジュウジュウという音。
鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。
舌の根からよだれが湧き上がるのを自覚しながら、エリスはカウントを始める。
(五……四……三……二……一……)
……と、「ゼロ」を数えるのと同時に、
「エリスー、夕食ができましたよー」
クレアが、こちらを振り返りながら言った。
瞬間、ソファーにうつ伏せに寝転んでいたエリスは、本をパンッと閉じながら飛び起きて、
「わーいっ! ごはん〜ごはん〜♪」
待っていましたと言わんばかりに、クレアに駆け寄った。
二人で暮らす、小さな家。
そのキッチンで、クレアは焼いた薄切り肉を皿に盛り付け、フライパンに残るタレをかけていく。
美しさすら感じる彼の手際に、エリスはうっとり目を細め、ため息を漏らす。
「はぁん、おいしそ……焼き具合カンペキ……このタレの匂いだけでパンが無限に食べられそぉ……」
「今日はすり下ろした玉ねぎとフルーツビネガーを合わせてタレにしました。豚肉を柔らかくしてくれるので、さらに美味しく召し上がれるかと」
「クレアって……もしかして天才?」
「ふふ、気付いてしまいましたか。私が、貴女だけの天才シェフであることに」
「しゅきっ!」
「もっと言ってください」
「だいしゅきっ!」
などと、いつものやり取りを交わしつつ、テーブルの上に料理を並べ――
「いっただっきまーす!」
「いただきます」
二人は手を合わせ、夕食を食べ始めた。
肉を口に入れるなり、エリスは頬を押さえ、「んん〜っ」と唸る。
「ふぁ、おいひぃっ……玉ねぎの旨味とお酢の酸味に引き立てられる肉の甘みっ……! こんな最高のお肉が毎日食べられるなんて、あたし本当にしあわせ……」
とろけ切ったエリスの表情に、クレアは微笑ましく目を細めてから……
その顔にスッと、暗い影を落とし、
「エリスが幸せで何よりです。それもこれも……ガルャーナさんがムームーペッカルの冷凍肉を大量に送ってくださったお陰ですね」
こめかみをヒクつかせながら、そう言った。
――最北の領地・オゼルトン。
かつて独立国家だったその地の領主ガルャーナと、彼が所有する『地烈ノ大槌』を巡る一件から、三ヶ月が経とうとしていた。
アルアビス軍の訓練生・アクサナの案内で彼の地を訪れ……
『神手魔符』という魔法具を研究し、"冷気"と"音"、二つの精霊を呼び寄せる新たな魔符を開発し……
"武闘神判"にてガルャーナに勝利し、『地烈ノ大槌』から精霊を解放した。
その過程で、ガルャーナはエリスに好意を抱き、結婚を迫ったわけだが……
激辛スープ早食い対決でクレアが勝利したため、エリスの嫁入りは阻止された。
……そう。あの時、エリスへの想いはすっぱり諦めてもらったはずなのに……
ガルャーナは今もこうして、エリス宛てにムームーペッカルの肉を送って寄越すのだ。
張り付いたクレアの笑顔に殺気を感じ、エリスは慌ててフォローする。
「も、もう。お肉に罪はないんだから、そんな怖いカオしないの。これはあくまでオゼルトンを救ったお礼なんだし、受け取ってしかるべきじゃない?」
「私だってお肉を送っていただけること自体に不満はありませんよ。むしろ感謝しています。ですが……」
――カサッ。
……と、クレアは折り畳まれた便箋を取り出し、
「このような手紙が同封されるとなると、話は別です。あの方は、私に負けた事実を忘れてしまったのでしょうか?」
そう言って、手紙の内容に目を落とす。
そこには、このようなことが書かれていた。
『親愛なるエリシア
君と別れ、三ヶ月が経とうとしているが、変わりはないだろうか。
チェルロッタから既に聞き及んでいるかもしれないが、『神手魔符』を応用した"魔符式冷蔵技術"が国に承認された。
君が開発した冷気の魔符が、ついに実用化するんだ。
ここまで漕ぎ着けられたのは、すべて君のお陰だ。
本当にありがとう。心から感謝している。
この肉も、よく冷えた状態で君の元へ届いていることだろう。
たくさん食べて、英気を養ってくれ。
それから、前回の手紙にて依頼のあった文献を同封する。
オゼルトンの魔法学に纏わる研究書と、最新のオゼルトン語辞典。そして、最も古い時代に書かれた『英雄と神器』の物語だ。
聡明で研究熱心な君が、精霊さまをさらに理解する助けになればと思う。
瞼を閉じれば、今でも美味しそうに食事をする君の笑顔が目に浮かぶ。
食べることは生命力に直結する。
食欲の旺盛さは、それ即ち生きる力に満ちているということ。
加えて、君は精霊さまと心を通わせる神聖さをも持ち合わせている。
闘技場の前に佇む君の雪像を皆が「女神」と崇めるが、君はまさにそう呼ぶに相応しい存在だ。
君ほど魅力的な女性は、アルアビス中を探してもなかなかいないだろう。
君を妻に迎えられないことは実に残念だが、これも神が定めし運命。
世継ぎの問題よりも、今はオゼルトンの和平と再生に努めよとの思し召しなのだろう。
つまり、諸々の問題が解決し、僕が君に相応しい男に成長すれば、自ずと運命が好転する可能性もある。
オゼルトンの状況は、日増しに向上している。
領主としての僕の功績を、神もきっと認めてくれるだろう。
もし神が僕に味方するのなら、近い内にきっと君に会えるはずだ。
その日を楽しみに、僕は己がすべきことを全うする。
どうか君も、身体に気を付けて過ごしてくれ。
それでは、また』
……達筆な字で認められたその手紙に。
クレアは、顔面に笑みを貼り付けたまま……言う。
「……やはり、生かしておくべきではなかった」
「クレア?!」
「二回も負かしたというのに、まだエリスを諦めていないとは……どうやらもう一度"武闘神判"を開き、徹底的に叩きのめす必要がありそうですね」
「いやいやいや! あんな大変な思いをするのはもうごめんだから!」
「ふふ、大丈夫ですよ。トトラさんのスープ店でさらに鍛えた今の私なら、秒で彼を倒せます」
「って、また激辛スープ対決するつもり?!」
「何が『近い内にきっと会える』だ……少しでもエリスに近付こうものなら、穴という穴に極辛唐辛子をぶち込んでやる」
「落ち着いて! こんなのただの社交辞令に決まってるじゃない! あんな遠い地方の領主がホイホイ来られるはずないんだから……ほら、せっかくのお肉が冷めちゃう。あったかい内に早く食べよ?」
ね? と宥めるエリスに、クレアは殺意を徐々におさめ……
「……確かに、今は貴女との食事を楽しむべきでした。取り乱してしまい申し訳ありません」
そう言って食事を再開するので、エリスはほっと胸を撫で下ろした。
(まったく……あの領主サマと関わってから、クレアの嫉妬深さがますます加速した気がする。まぁ……ヤキモチ妬いてもらえるのは、悪い気はしないケド)
なんて胸の内で呟きながら、エリスはスープを啜る。アクサナの祖母・フェドートのレシピを参考にクレアが作った、ピリリと辛いスープ。これもまた絶品だった。
しばらく食事を楽しんだ後、クレアが落ち着いた声でこう切り出した。
「エリスを狙う恥知らずな面はさて置き……貴女が残した冷気の神手魔符をたった三ヶ月で実用化させ、認可まで得るとは。ガルャーナさんの政治手腕は大したものですね。もちろん、それを可能にした技術顧問のチェロさんも凄まじいですが……」
そのセリフに、エリスは思い出す。
そもそも、オゼルトン内で独立の機運が高まった原因は、冷蔵庫にあった。
極寒の雪山であるオゼルトン領の財源は、冷蔵庫内を冷やすための良質な氷だ。
しかし、エリスが発見した"冷気の精霊"と、チェロが発明した『精霊封じの小瓶』の技術を組み合わせて作った"魔法式冷蔵庫"が普及し、オゼルトン領の財政は悪化。
しかも、オゼルトン人にとって精霊は"神の遣い"と崇める神聖な存在。その精霊を閉じ込めるような方法で商売を奪われたことに一部の民が激昂し、アルアビスからの独立を呼びかけた、というわけだった。
"武闘神判"に勝利し、独立を阻止することはできたが、オゼルトン領が抱える根本的な問題が解決したわけではない。
そこで、エリスは冷気の精霊を集める神手魔符を開発し、それを使用する権利をガルャーナに明け渡した。
さらに、チェロが改良を加えることで、安価かつ大量生産可能な、精霊を閉じ込めずに冷やすことのできる"冷蔵庫用・神手魔符"が誕生したのだ。
国からの認可が下りたということは、これからいよいよ大量生産と出荷に動いてゆくのだろう。
高価で管理が大変な"魔法式冷蔵庫"が衰退するのも時間の問題だ。
チェロからも開発の進捗を聞いていたエリスは、彼女の疲れた顔を思い出し、苦笑する。
「あの変態教師、知識とセンスだけは抜群だからね。神手魔符を冷蔵庫用に改造すること自体はそこまで苦労しなかったみたいだけど……問題は、魔法使用に関する法律。これまで神手魔符は狩りに特化した道具として特例で使用が認められてきたけど、その本質は精霊を用いた魔法。本来なら魔法学院卒業の証である指輪がなきゃ魔法は使えない。だから、今回の"冷蔵庫用・神手魔符"の扱いについて、国はかなり慎重になっていたみたい」
「確かに、『精霊封じの小瓶』より安価で手に入り、貼るだけで発動するという手軽さがありますからね。広く流通すれば、それだけ事故や悪用の危険性は高まる……国も慎重にならざるを得ないでしょう」
「そうそう。だから、『冷蔵庫に貼った時にしか発動しない仕組みにしろ』だとか、『簡単に改造できない紋様を組み込め』だとか、国の要望に振り回されて大変だったみたい。その苦労の甲斐があって、ようやく認められたってワケね。よかったよかった」
「口で言うのは簡単ですが、魔法学の歴史に残る大発明ですよね。数年後には教科書に載るかもしれません。エリスが第一開発者だという事実も、もっと周知すべきではありませんか?」
「いいのいいの。ヘタに開発者に名を連ねたら、何かあった時に責任取らなきゃいけないでしょ? 名声や技術使用料と一緒に面倒ごとまで引き受けなきゃならないなら、あたしはなんにもいらない。そういうのはチェロみたいな責任感ある人間に任せとけばいーのよ」
スープを啜りながら、エリスが言う。
それに、クレアはくすりと微笑む。
エリスにとっては、腹の足しにならない地位や名声よりも、こうして自由に美味しいものが食べられる日常の方がずっと価値のあるものなのだろう。
かと言って、魔法の研究に興味がないかといえば、そうではない。
先ほどの手紙にもあったように、エリスは最近、オゼルトンに伝わる魔法学の書籍をガルャーナに送ってもらい、研究しているのだ。
ソファーの上に置かれたそれらの本をちらりと眺め、クレアは尋ねる。
「それで……歴史の陰に隠れた天才魔導士さまは今、何を研究されているのですか?」
「ん? あぁ、オゼルトンのお伽話よ。アルアビスに伝わる『封魔伝説』に似たお話がオゼルトンにもあるの。あれって、"禁呪の武器"が生み出された経緯を都合良く改変したものだったでしょ? 『麗氷ノ双剣』や『飛泉ノ水斧』に纏わる手がかりがないかなぁって思って、読んでいるの」
というエリスの返答に、クレアは目を細める。
古の時代、七人の権力者たちが精霊を封じて創造した"禁呪の武器"――
使用したものを狂戦士化させ、殺戮を振り撒く呪われた兵器。
これまでにクレアたちが回収した"武器"は四つ。
エリスの父・ジェフリーの命を奪った『炎神ノ槍』。
イリオンの海で巨大魚・シュプーフの喉に刺さっていた『風別ツ劔』。
リンナエウスの領主家に代々伝わっていた『竜殺ノ魔笛』。
オゼルトン王家で神器・神判の槌として受け継がれてきた『地烈ノ大槌』。
そして、もう一つ。
犯罪組織の運び屋として利用されていた幼き日のクレアからジェフリーが回収した、『天穿ツ雷弓』。
国の上層部は、十五年以上前に回収したであろうこの武器の存在を公にしていない。
つまり、エリスの言葉通り、残る武器はあと二つ。
『麗氷ノ双剣』と、『飛泉ノ水斧』のみだ。
その所在の手がかりや武器が持つ特性について、エリスはオゼルトンのお伽話から研究しようとしているのだ。
豚肉の最後の一口を飲み込んで、クレアが尋ねる。
「オゼルトンにも『封魔伝説』のようなお伽話があるのですね。アルアビスに伝わるそれと、何か違いはあるのでしょうか?」
「うーん、大筋はだいたい同じね。精霊さまが齎した神器を七人の英雄が振るって邪悪な王を倒す、みたいな……でも、描かれている武器の能力が微妙に違うのよ。特に顕著なのが『飛泉ノ水斧』。アルアビスの『封魔伝説』では、水を無限に生み出して攻撃する物理特化の武器として描かれているけど……オゼルトンのお伽話では、『ナントカに捕らえて人を惑わす』、とかって書かれているの」
「その、『ナントカ』とは?」
「それがわからないのよ。そのまま読むと『ワカ・シュンケ』って書いてあるんだけど、古いオゼルトン語なのか、はたまた特殊な造語なのか、辞典で調べても意味が載っていなくて」
ごちそうさま、と手を合わせながら、エリスが困ったように眉を顰める。
そして、そのまま食器を流しへ運び、クレアの分と合わせて洗い始める。
「水に纏わる武器だから、水を使って攻撃するのは想像できるけど……『捕らえて惑わす』っていうのがどうにも気になってね。『竜殺ノ魔笛』みたいな、精神作用系の能力が秘められているのかしら?」
「だとしたら、かなり厄介ですね。せめて、その『ワカ・シュンケ』が何なのかがわかれば備えることもできそうですが……」
「でしょ? だから、あの領主サマにまた手紙を送って聞いてみようと思って。辞書に載っていない以上、オゼルトンに最も詳しい王家の末裔に聞くしか……」
「駄目です」
……と。
エリスが洗った食器を布巾で拭きながら、クレアが遮る。
「手紙なら私が書きます。エリスが直接頼ろうものなら、ガルャーナさんはさらにつけ上がるでしょうから」
「えぇー? 気にしすぎだよ。用件しか書かない事務的な手紙にするから大丈夫だって」
「いいえ、駄目です。内容がどれほどそっけないものだとしても、貴女の可愛らしい字で綴られたものであれば、あの方を喜ばせてしまうに違いありません」
「ンな大げさな……」
「少なくとも私は、貴女の字で書かれたこの『生ゴミ』という文字だけで全然イケますが?」
「それはあんたがゴミ以下の変態的な嗜好の持ち主だからでしょ?!」
キッチンの隅に置かれたゴミ箱を指して言うクレアに、エリスが怒鳴る。
しかしクレアは、その罵声に怯むどころか、エリスをじっと見つめて、
「……やはり、おかしいのでしょうか?」
と、いつになく真剣な表情で、尋ねる。
「貴女の視線も、微笑みも、声も、字も……すべて独り占めしたい。他の男になんて見せたくない。それが貴女に好意を寄せる者なら尚更」
……そして。
流しの水を止め、水に濡れたエリスの両手をそっと捕まえて、
「恋敵の目に触れるくらいなら、いっそのこと、この両手を縛って閉じ込めてしまいたい……そんな風に考える私は、やはりおかしいのでしょうか?」
切なさの奥に狂気を覗かせながら、低く問うので……
エリスは、少し驚いたように瞬きを止める。
そして、彼の瞳をじっと見上げ……
「……いいよ」
……そう、静かな声音で言って、
「そんなにイヤなら、手紙はあんたが代筆して? あたしを閉じ込めたいんなら、それでもいい。でも……」
――ぎゅっ……。
……と、クレアの身体に抱き付くと、
「手を縛られたら、こんな風にぎゅーしてあげられないけど…………それでもいいの?」
彼の顔をじっと見上げ、背に手を回しながら、問いかけた。
その試すような目に、クレアは…………
エリス以上に顔を紅潮させて、
「………………否ッ!!!!」
ぎゅうっと抱き締め返しながら、叫んだ。
「私が間違っていました……貴女にぎゅってしてもらえないなんて、そんなのイヤです!」
「ん。わかればよろしい」
「うぅ……この、私の扱いに慣れ切った態度……以前なら貴女から抱き付いてくれることなんてなかったのに」
「……昔の方がよかった?」
「とんでもない。私は、いつだって今目の前のエリスに恋をしています。恥じらいに満ちた以前の貴女も大好きでしたが……私に閉じ込められることを当たり前のように受け入れる現在の貴女の方が、より愛おしく思います」
クレアは、エリスの頬を両手でふわりと包み込み、
「明日はお休みですから…………一日中、貴女を閉じ込めて、独り占めしてもいいですか……?」
にこっと笑いながら、そう囁いた。
その妖しい笑みに、エリスはドキッとして……
彼の背に回した手に力を込めながら、「うん」と答えようとした――――その時。
「あー……監禁プレイするなら、まずは玄関の戸締りをきちんとしておいた方が良いっすよ?」
……なんていう声が、どこからともなく飛んで来て。
クレアとエリスは、バッと振り返る。
すると、玄関へ続くリビングの角から、ひょこっと顔を覗かせる人物が一人。
それは、クレアがよく知る男だった。
茶色の短髪に、青い瞳。
人懐っこい笑顔が印象的な、特殊部隊の後輩――
「――アルフレド…………どうしてここに?」
顔を引き攣らせながら、クレアはその男の名を呼んだ。




