6 始まりを告げる鼓動
男の声に続き、今度はメディアルナの声が、応接間の中から聞こえてくる。
「今回もご協力ありがとうございました。わたくしが直接動くわけにはいかないので、本当に助かります」
それを聞いたレナードは、メディアルナから男に何かを依頼していたらしいことを察する。
続いて、男の声が再び聞こえてくる。
「いえいえ、好きでやっていることですから。それに……お嬢さまからいただける"ご褒美"を思えば、お安い御用です」
「もう……恥ずかしいからあまり言わないでください」
「前回のはすごかったですね。あんな大胆で妖艶な……俺、夢中になってしまいました」
……その言葉を聞いた瞬間。
レナードの脳裏に嫌な予感が過ぎり、心臓がドクンと脈打つ。
「や、やめてください。あらためて言われると、顔から火が出そうです」
「今さら恥ずかしがる必要はないですよ。俺はもう、あんなのまで見ちゃっているんですから」
「そうですけど……」
「お嬢さま……今回の"ご褒美"も、期待していいですか?」
明らかに興奮した、男の声。
レナードの鼓動が、さらに加速する。
まさか……いや、彼女に限ってありえない。
考えすぎだ。こんな……
公にはできない仕事を依頼するために、色を売るような真似をしているだなんて。
しかし、レナードの思いとは裏腹に、ドアの向こうからメディアルナが続ける。
「仕方がないですね……明日の夜、また来てくださいますか? "ご褒美"は、その時に」
その、囁くような声を聞いて、
「…………」
レナードは、全身が燃えるように熱くなるのを感じ……
逃げるように、その場から立ち去った。
* * * *
その夜も、レナードは外で夕食を済ませた。
あの会話を聞いた後、どんな顔でメディアルナに会えばいいのか、わからなかったからだ。
リンナエウス家が消灯時間を迎える頃、彼は屋敷に戻った。
夜風に当たり、頭を冷やすつもりでいたが、苛立ちはまるで治まらない。
メディアルナに対して、ではない。
自分自身に、苛立っていた。
各地の犯罪組織の動きを探るため、レナードは女性の恋心を利用し、情報収集をしてきた。
国の平和のためとはいえ、褒められた真似でないことは重々承知している。
自分は、そのような手段を散々講じてきたというのに……
メディアルナが同じことをしていると考えるだけで、胸が焼けるような、臓腑が煮えるような感覚に襲われて、堪らないのだ。
そんな、自分の所行を棚に上げるような感覚に陥っている己自身に、ひどく腹が立っていた。
「…………」
メディアルナは、若くしてこのパペルニア領を任されている。
綺麗事だけでは済まされない場面があることは、わかっている。
それでも、
(それでも、俺は……彼女にだけは…………)
……と、自分の客室のドアを開けようとした、その時。
「──おかえりなさい、レナードさん」
後ろから、呼ばれた。
振り返ると、そこには……
ナイトドレスを着たメディアルナが、立っていた。
「……どうした。こんな時間に」
自分の口から出た冷たい声に、レナードはまた自己嫌悪する。
メディアルナは、遠慮がちな笑みを浮かべ、
「すみません、遅い時間に。少しだけ、お話したいことがあって……お部屋に入れていただいてもよろしいですか?」
そう、尋ねた。
……こんな時間に、寝間着のような格好で、男の部屋に躊躇いなく入れるのか?
そんな卑屈な考えばかりが、頭を過ぎりそうになる。
レナードは、自分を落ち着かせるように一度息を吐いてから、
「……入れ」
彼女を、部屋の中へと招き入れた。
「──それで、話というのは?」
上着を脱ぎながら、レナードは背中で彼女に尋ねる。
彼の不機嫌な雰囲気を感じ取っているのか、メディアルナは「えぇと……」と言葉を探すように目を泳がせ、
「……"情報源"としての役割を果たしに参りました。この街に出入りする、犯罪組織の情報……お伝えしてもよろしいですか?」
そう、緊張気味に言うので……レナードは目を見開き、振り返る。
「……情報を得たのか?」
「はい。レナードさんのお役に立てるよう、かき集めました」
「……聞かせてくれ」
レナードに促され、彼女は、自身が集めたという情報を語り始めた。
近頃、隣接するオーエンズ領から移ってきたという紅茶屋が、リンナエウスの街に開店した。
営業申請の書類に目を通した時には違和感がなかったが、実際の店舗を見てみると、いつも閉まっている。
個人経営の店であれば営業時間も店主の気分次第な場合があるが、この店は従業員を十人ほど抱えていることをメディアルナは書類で知っていた。
不審に思い、探りを入れてみたところ、どうやら店舗というのは書類上の建前で、実際は何かの倉庫として使われているらしい。
「男の人たちが、夜な夜な何かを運び出している様子が目撃されています。レナードさんがおっしゃっていたような、違法薬物を売買する組織のアジトなのかもしれません」
メディアルナが神妙な面持ちで言う。
それが事実なら、彼女の言う通り何かしらの犯罪が絡んでいる可能性が高いと、レナードは思う。
「……わかった。王都に帰る前に調査していこう。協力に感謝する」
「よかった……手を尽くした甲斐がありました」
胸を撫で下ろす彼女に、レナードは……情報の内容より、彼女がどうやってそれを集めたのか、その手段の方が気になっていた。
しかしメディアルナは、頬を赤く染め、
「これで、わたくしも……レナードさんの"情報源"の一員になれたでしょうか?」
そう、伺うように見つめてくるので、レナードは彼女が言わんとしていることを理解する。
そして、彼の推察が正しいことを証明するかのように、メディアルナが続ける。
「わたくしが領主代行として得た"情報"は、すべてレナードさんのもの……そう、約束しましたよね?」
言って、メディアルナは自分の額を……三ヶ月前、レナードにキスされた場所を、そっと押さえる。
「はしたないと思われても構いません。わたくしは、あの続きが欲しくて……レナードさんにとって価値のある"情報源"になりたくて、ずっと頑張ってきました」
羞恥心を堪えるように、メディアルナは目を逸らさずレナードを見つめる。
「好きになってもらえるだなんて、最初から思っていません。互いに欲しいものを渡し合うだけの関係で、わたくしは満足です。だから、他の情報源たちにもしているように、わたくしにも…………本物の"褒美"を、してくれませんか?」
声が、震えていた。
恥ずかしさと、緊張と、恐怖と、興奮。
全てが入り混じったような、そんな声だ。
それを聞き、レナードは……深く、後悔する。
『……今のは、いつかもらう"情報"の予約だ。続きを望むなら……立派な領主になれるよう、頑張ることだ』
あの日、額に口付けをし、そんなことを言ってしまった。
多くを失った彼女に、少しでも前を向く理由を与えたかったのだが……
そのせいで、彼女は…………
情報を得るため、自らの身体を、男に差し出してしまった。
「……できない」
目を伏せ、レナードは答える。
「お前に、"褒美"はやれない」
「……どうして?」
メディアルナは、瞳に絶望を浮かべながらレナードに詰め寄る。
「どうしてですか? 情報が不十分だから? それとも……わたくしが、子どもだからでしょうか」
彼女の声が、悲しみに揺れる。
レナードは、首を静かに横に振る。
「違う、そうじゃない」
「では、どうして……!」
「その情報は……お前が、あの男に色を売って得たものだろう?」
レナードの言葉に、メディアルナは「え……」と言葉を失う。
「……応接間での会話が聞こえた。お前は情報を集めるために、自分を安売りしているのか」
「そ、それは……!」
「俺に情報を渡すためにそのようなことをしているのなら、もうお前に情報は求めない。キスもしない。お前は……お前にだけは、そんなことをしてほしくないんだ」
何故?
レナードは、自分に問いかける。
情報と引き換えに恋人の真似事をするなど、いくらでもしてきたはずだ。
それなのに何故、メディアルナにだけは、できないのか。
何故、ずっと感情が揺さぶられているのか。
わかっていた。
本当は、三ヶ月前のあの日から。
「何故なら、お前は……」
もう、誤魔化せない。
誤魔化してはいけない。
レナードは覚悟を決めると、メディアルナを真っ直ぐに見つめ、
「お前は………………俺にとって、"特別な存在"だからだ」
胸に秘めていた想いを、伝えた。
メディアルナの海色の瞳が大きく見開かれ、濡れたように輝く。
「……自分でもどうかしていると思う。自分は散々女を弄んできたのに……お前が他の男に抱かれることを考えるだけで、嫉妬に狂って堪らなくなる」
言いながら、レナードは懐から何かを取り出し……
彼女の目の前で手を広げ、見せた。
それは三ヶ月前、メディアルナにもらった小鳥の人形。
今日までずっと、肌身離さず持っていたものだ。
「……この三ヶ月間、お前を想わなかった日はなかった。元気にしているだろうかと、辛い思いをしてはいないかと、いつも考えていた。それなのに、連絡すらしなかったのは……怖かったからだ」
「え……?」
メディアルナが、涙の溜まった瞳で見上げる。
レナードは、その鏡のような眼に映る自分を情けなく思いながら、
「お前からの好意は、悲しみに任せた一時的なものであると……もう俺を好きでいるはずがないと、そう思っていた。だから……それを確かめるのが、怖かった」
そう言って、自嘲するように笑う。
それは、初めから自覚していたことだった。
ただ、見て見ぬふりをしていただけ。
何も言わなければ思っていないのと同じだと、大事な場面で、いつも本心を語らずにいた。
「俺は、優しくなんかない。ただの卑怯者だ。それらしい言い訳を並べて、本心から目を逸らしていただけ。その結果、お前に……こんなことをさせてしまった」
レナードは、メディアルナの肩にそっと手を添え、
「俺が言える立場でないことはわかっている。だが……もう、自分の身を売るようなことはやめてくれ。でないと、俺は……嫉妬と怒りで、どうにかなってしまう」
懇願するように、そう言った。
メディアルナにとって、レナードの言葉は、耳を疑うものばかりだった。
本当に、ただ利用されるだけの関係でいいと思っていた。
それなのに……まさか、こんな風に想われていただなんて。
夢でも見ているようで、メディアルナは眩暈すら覚える。
だから、彼の言葉を一つ一つ咀嚼するのに、時間がかかった。
そして……
ようやく、最も耳を疑うべき事柄について、言い返すことができた。
「あの…………わたくし、身体を売るようなことなんて、していません!!」
顔だけでなく、耳まで真っ赤にして。
メディアルナは、叫んだ。
ぷるぷる震える彼女に、レナードは目を点にする。
「…………は?」
「あれは……あの応接間でのやり取りは、わたくしが書いた小説を代理で販売してくれた方から、売り上げ金を受け取っていただけです!」
「しょ、小説?」
「わたくしが文章を書いて、クレアルドさんが挿絵を描いて、そうして作った小説を『本と花の市場』で販売していたのです。でも、領主代行が作者であることは隠すべきなので、実際の販売は印刷所の方に依頼していて……」
次々に飛び出す初耳な情報に、レナードは困惑する。
同時に、合点がいく。クレアから預かったあの大きな封筒には、挿絵の原稿が入っていたのかもしれない、と。
「し、しかし……前回に続き今回も"ご褒美"を与えると、そんな話をしていなかったか?」
「あ、あれはっ……編集の時にカットせざるを得なかった、ちょっと濃厚なラブシーンの原稿を渡しているだけです!」
「濃厚な、ラブシーン……」
「あの男性は、販売に向けた相談をする中で、わたくしの小説の大ファンになってくれて……女性向けの作品なのに、すごく乙女な心で読んでくださるので、わたくしも嬉しくて。こんな賄賂みたいなこと良くないと思いつつ、お蔵入りした原稿をこっそり渡していたのです」
メディアルナは、偽りのない事実を話している。
そのことが、羞恥に染まった表情から伝わってきた。
つまりは……レナードの思い違いだった、というわけだ。
メディアルナは、両手で顔をわっと覆う。
「あぁ……遂にレナードさんに小説のことを知られてしまいました……もう駄目です……穴があったら入りたい……」
恥ずかしさのあまり、ただでさえ華奢な肩をさらに小さく縮こませる。
が、その正面で、
「いや……それは俺のセリフだ。僅かな情報だけで結論を急ぐなど、偵察において最もあるまじき行為……」
レナードも、額に手を当て、打ちのめされていた。
「しかも、よりによってこんな勘違いを暴走させるなんて……本当に悪かった。穴があったら、俺を土葬してくれ」
「えぇっ?!」
らしくない発言に、メディアルナは思わず顔を上げ、叫ぶ。
そうして目に飛び込んできた、レナードの顔は……
信じられないくらいに、真っ赤に染まっていた。
初めて見る表情に、メディアルナは口を開け、放心する。
その反応を見て、レナードは眉を顰める。
「……これでわかっただろう? 俺は、お前のことになると冷静でいられなくなるんだ。だからずっと、自分の本心から目を逸らそうとしていた」
「レナードさん……」
「…………駄目だ。考えれば考える程、最低な勘違いだった。申し訳なさすぎて、お前に合わせる顔がない。これが仕事なら、死んで詫びねばならぬ程の大失態だ……やはり穴を掘ろう」
「だめだめだめ! 絶対にだめです! そんなに落ち込まないでください。レナードさんの想いを知ることができたのですから……この勘違いに、感謝しているくらいです」
そして、メディアルナは、俯くレナードの頬に手を添え、
「夢では、ないのですね……レナードさんの特別な存在になれるだなんて……嬉しすぎて、わたくしの方が死んでしまいそうです」
瞳を潤ませながら、ふわりと笑った。
その笑みに、レナードは胸の奥がきゅっと切なくなる。
それから、メディアルナは悪戯っぽく笑って、
「それに、まだお渡ししたいものがあるんです。だから、死ぬだなんて言わないでください」
「……渡したいもの?」
「覚えていますか? 次、お会いした時には……レナードさんにお誕生日プレゼントをお渡ししたいと言ったこと」
レナードは、ハッとなる。
覚えている。しかし、それも一時的な感情の高ぶりにより言っているだけだろうと、期待していなかった。
メディアルナは、スカートのポケットに手を入れ、
「レナードさんにお誕生日が決まっていないことは存じています。ですが、やはり何か贈らせていただきたくて……いろいろ考えたのですが、結局わたくしが贈りたいものを用意してしまいました」
困ったように笑って、何かを取り出す。
そして、レナードの目の前に──小さな紙袋を、差し出した。
「……中を見てもいいか?」
「もちろん。喜んでいただけるかはわかりませんが」
レナードは、彼女の綺麗な手から袋を受け取る。
そして、中をあらためると……
そこに入っていたのは、美しい水色の糸で編まれた輪だった。
一見ブレスレットのようだが、それにしては輪が小さい。
「これは……?」
「髪留めです。レナードさん、お髪が長いので、暑い日や、お仕事で必要な時に結べる髪留めがあると便利かなと思ったのです」
「お前が、作ったのか?」
「はい。一回目の『本と花の市場』で編み物の本を出していた方と知り合いになって、編み方を教えていただきました。わたくしのと色違いなんですよ? えへへ」
言って、彼女は肩の辺りでサイドテールにしている髪を見せる。
結び目には、レナードのものと色の違う髪留めが使われていた。
その色を見て、レナードは気付く。
彼女の髪留めは、レナードの瞳の色で……
自分に贈られた髪留めは、メディアルナの瞳の色であることを。
「こんな髪留め一つでは、わたくしの気持ちは全然伝え切れないのですが……それでも、形にしてお渡ししたかったのです」
はにかみながら、メディアルナが言う。
そして、いつもの無垢な笑みを向けて、
「今までお祝いできなかった分も、ぜんぶ合わせて──お誕生日おめでとうございます、レナードさん。貴方が生まれてきてくれたこと、今日まで生きてくれたこと、それから……わたくしと出会ってくれたこと。そのすべてに、感謝とお祝いを。そして、これからのレナードさんの人生が、どうか幸せで満ちたものになりますように」
そう、心を込めて、言った。
レナードは、胸が締め付けられ……あまりの苦しさに、息を止める。
初めてだった。
生まれたことを、生きてきたことを、出会ったことを祝福されたのは。
そんなもの、自分には無縁で、必要ないと思っていた。
それなのに……「おめでとう」と言われて。
幸せを願ってもらえて。
それが、他でもないメディアルナからの言葉だったことが、何より嬉しくて。
だから、
「……嬉しいよ」
本心が、半ば無意識に、口をついて出た。
メディアルナが「え?」と聞き返すので、レナードはきちんと彼女の目を見て、
「……嬉しい。こんな気持ちになったのは、初めてだ。……ありがとう。大事にする」
心からの感謝を伝えた。
メディアルナは瞳を潤ませ、きゅっと唇を噛み締める。
「え……えへへ。よかったぁ。喜ばせるつもりが、わたくしの方が嬉しくなっちゃって……泣いてしまいそうです」
そう言って、目尻を拭う彼女に、レナードはまた胸の奥が切なくなり……
「……わわっ」
メディアルナの腰を引き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。
突然のことに、メディアルナは目を回す。
「れれれ、レナードさんっ……!?」
「……すまん。我慢できなかった」
「が、我慢って……」
「……『触れたい』と思っていたのは、お前だけではないということだ」
「っ……!」
華奢な身体から、緊張が、喜びが、体温と一緒に伝わってくる。
その感覚が愛おしくて、何よりも大切にしたくて……
レナードは、生まれて初めて、本物の"ぬくもり"に触れた気がした。
「……お前には、貰ってばかりだな」
「そ、そんなこと……レナードさんには、お返しできないくらいの御恩がありますし……」
「いや、もう採算が取れない程に、お前からはたくさんのものを貰いすぎた。贈り物も、言葉も、気持ちも……これからは、俺から贈らせてほしい」
「……じゃ、じゃあ…………一つ、おねだりしても、いいですか?」
蚊の鳴くような、メディアルナの声。
彼女は、レナードの腕の中で彼を見上げ、
「わたくし…………やっぱり、頑張って情報を集めた"ご褒美"がほしいです。今度こそ、おでこじゃない場所に……してくれませんか?」
勇気を振り絞るように、投げかけた。
恥ずかしさに震える眉が、真剣な瞳が、紅潮した頬が、すべて愛らしくて。
レナードは思わず微笑みながら、こう返す。
「駄目だ。お前に"褒美"はやれない」
「なっ、なんでですかぁっ?!」
「言ったはずだ。情報と引き換えにこういうことを求めるような真似はしてほしくないと」
「うぅ……」
「……だから──」
レナードは、そっと。
紅く染まった頬を、両手で包み込み、
「今からするのは、情報に対する"褒美"ではなく────
俺がしたいからする、個人的なキスだ」
とびきり優しく囁いて。
彼女の唇に、自分の唇を、重ねた。
──触れた瞬間。
レナードは、強く脈打つ自らの鼓動を聞いた。
いつもそうだ。メディアルナといると、彼女のことを想うと、心臓が煩くなる。
まるで、"生きている"ことを主張するかのように。
……そうだ。
生まれて初めて、"自分自身"を生きている感覚だ。
彼女に出会ってようやく、自分の人生の鼓動が、脈を打ち始めたのだろう。
彼女との口付けは、温かくて、柔らかくて、蜂蜜の香りで満ちていた。
まるで、胸の奥に温かな蜂蜜を流し込まれるように、甘くて、切ない感覚に襲われる。
彼女と、生きたい。
それが、様々なしがらみを取り払った本心だ。
未来の領主と、特殊部隊の隊士という立場。
それでも、共に生きる道はあるはず。
……いや。道がないなら、作ればいい。
今すぐには難しくとも、いつか必ず実現する。
もう、言い訳ばかりを並べて逃げるのは、やめたから。
嗚呼、この時間が、永遠に続けばいいのに。
でも、それが叶わないことは知っている。
今はまだ、側にはいられない。
だから、今夜は……今夜だけは…………
そんなことを、頭の隅でぼんやりと考えた……その時。
メディアルナの身体が、ぷるぷると震えていることに、レナードは気付く。
うっすら目を開け、彼女の様子を観察し……理解する。
どうやら呼吸の仕方がわからず、息を止め続けているらしい。
レナードは笑みを堪えながら、名残惜しそうに、唇を離した。
そして、
「……メディアルナ」
「は、はい……っ」
「……息は、鼻ですればいい」
「はっ!!」
茹で蛸のように顔を真っ赤にするメディアルナ。
その反応に、レナードは堪え切れず、ふっと笑った。
「すすす、すみません! 初めてだし、レナードさんだし、嬉しすぎて、その……ドキドキが止まらなくて……」
「謝るのは俺の方だ。すぐに気付いてやれなくて悪かった」
「い、いえ……とっても幸せで、幸せすぎて……息が止まってもいいから、ずっとこのままでいたいと、そう思ってしまいました」
長いまつ毛を伏せ、恥ずかしそうに言う姿に、レナードはまた鼓動が揺さぶられるのを感じ……彼女の頬を、そっと撫でる。
「お前に死なれては困る。この一回で終わらせるつもりは、更々ないからな」
「えっ……!」
「しかし……緊張していたのは、俺も同じだ」
言って、レナードはメディアルナの手を取り、それを自身の胸に当てる。
すると彼女は……はっと息を飲んだ。
「レナードさんの心臓……すごく、ドキドキしています」
「仕事のためではなく、俺自身の意志でするキスは、今のが初めてだからな」
「じゃあ、お互いにファーストキスだった、ということでしょうか?」
「少なくとも、俺はそう考えている」
「……えへへ。嬉しいです」
はにかみながら、メディアルナが笑う。
その笑顔から、レナードは目が離せなくなる。
自分の感情に素直になったせいか、先ほどから彼女の一挙手一投足すべてが愛おしくて仕方がないのだ。
この心理状況を、しかしレナードは、深刻に捉える。
「……良くないな」
「えっ?」
「キス一つでこれほどまでに心拍数が上昇するとは……俺自身の先が思いやられる」
「そ、そうなのですか?」
「本当なら、年上の男として余裕を持ってお前をリードしたいのだが……そうだ」
「?」
「お前が書いたという小説を読ませてくれ」
「はぇっ?!」
「そうすれば、お前が好む恋愛の在り方を勉強することができる。何事も事前準備が重要だ。必ずお前を満足させる男になってみせる」
「ぜぜぜ、絶対にダメです!!」
「安心しろ。構成や文章力を審査するような真似はしない。あくまでも参考文献として読ませてもらうだけだ」
「それでもダメです! 本当に、それだけは恥ずかしすぎて無理なんです! それに……わたくしとしては、そのままのレナードさんで充分というか……」
「ふむ……なら、仕方がない。無理強いをして嫌われては本末転倒だからな。どうすれば喜ぶのかは──」
「へっ……?」
ぐいっと、メディアルナの身体を引き寄せ、
「──直接、お前の反応を見て研究するとしよう」
再び高鳴る鼓動を感じながら……
薄く開いた彼女の唇を、二度目のキスで塞いだ。