2 畏れと誉れ
時間は「第三部 プロローグ」に遡ります。
あの日、アクサナに課せられた特別な任務のお話です。
♢ ♢ ♢ ♢
「──アクサナ。お前がアルアビスの軍部で活躍すれば、オゼルトンの民を見る世の目も変わる」
あの日。
ウォーレダイン家の当主・オルビスは言った。
「俺は本当にお前と、オゼルトンの民の栄光を考えている。その証拠に……お前にしかできない仕事をもらってきてやった」
「ボクにしかできない、仕事……?」
アクサナは、眉を顰め聞き返す。
養父であるオルビスに傷めつけられた身体を、地面から起こしながら。
「そうだ。これが成功すれば、お前の将来の地位を約束すると言われている。とても名誉のある、重要な任務だ。剣術だけではお前の出世は見込めないからな。オゼルトン人の名に恥じぬ活躍をしたいのなら……今から言う任務を、完璧にこなしてこい」
事あるごとに突き付けられる、"オゼルトン人"という身分。
それはアルアビス軍において"弱者"を意味する言葉に等しかった。
三十年前、アルアビスに救われる形で併合した、小さな国。
それが、オゼルトンだ。
平凡な、政治や軍事と関わりのない若者の間では、そのような意識は薄れつつある。
街中や学校、職場にオゼルトン出身の者がいても特別視せず、他の領の出身者と同じように扱うだろう。
しかし、長年の慣習と文化が色濃く残る貴族社会においては違う。
貴族たちにとって、オゼルトンの孤児は『養う代わりに自由に使える奴隷』なのだ。
どんなに頑張っても、どんなに優秀になっても、軍部や政治組織の中では出世ができない。
所詮は、奴隷の出身だから。
十歳でウォーレダイン家へ養子に出されたアクサナは、そんな差別意識の強い環境下で三年過ごした。
だから、必然的にこう考えるようになっていた。
『ボクは、他のアルアビス人とは違う』
『報われない、認められない、卑しい奴隷』
『永遠に理解し合えないし、交わることはできない』
それなのに、今。
貴族らしい差別意識の強い養父の口から、それらを否定するような言葉が紡がれている。
『お前がアルアビスの軍部で活躍すれば、オゼルトンの民を見る世の目も変わる』
『これが成功すれば、お前の将来の地位を約束する』
『とても名誉のある、重要な任務だ』
大仰すぎる言葉の羅列だと、アクサナは思う。
嘘に決まっている。そんな都合の良い話、あるわけがない。
自分はオゼルトン人で、奴隷で、剣才のない出来損ないなのだから。
そんな、たった一度の任務だけで、何もかもが良くなるはずがない。
そう頭で考えていても、心が期待してしまう。
理不尽で不条理な生活の中にあってもなお、純真さを忘れなかった彼女の素直すぎる心が、それを期待してしまうのだ。
その『自分にしかできない任務』というのを頑張れば、すべてが良くなるかもしれないと。
自分だけでなく、同じように苦しんでいるすべての孤児を救えるかもしれない……と。
だから、聞いてしまった。
「……何を、すれば良いのですか」
泥まみれの靴で立ち上がり、養父を見つめ、
「その任務について……教えてください」
青すぎる瞳で、真っ直ぐに、尋ねてしまった。
不出来な養子の従順な態度に、オルビスは満足げに頷く。
そして、その任務について話し始めようとした……その時。
「──うん。実に良い瞳だ。やはり、君を選んでよかった」
若い……いや、幼いと言うべき声が、アクサナに投げかけられた。
彼女は驚き、声のした方──この訓練場に続く屋敷の外通路に目を向ける。
そこにいたのは、美しい少年だった。
年は、アクサナよりも少し下だろうか。さらさらと揺れる淡い翡翠色の髪。左眼は髪と同じ翠色をしているが、右眼は神秘的な金色をしており、片眼鏡をかけている。
身に纏ったジャケットと膝丈のパンツには繊細な刺繍が施され、見るからに上等だ。絹のように白い肌と華奢な身体も相まって、儚さと高貴さを放っていた。
さらに、その少年の左右と背後に一人ずつ、屈強な男が立っている。身に付けている防具から軍部所属の兵士であることがわかる。もしかしなくとも、少年の護衛だろう。
つまり、この少年は……相当に身分の高い人物。
そのことを察すると同時に、アクサナはオルビスに頭を掴まれ、地面に叩きつけられた。
「あぅっ……」
小さく悲鳴を上げ、頬を擦りむくアクサナ。
オルビスは、口角泡を飛ばし怒鳴りつける。
「何をぼうっと立っている! 頭を下げなさい! 申し訳ありません、ルカドルフ様。本当に不出来な娘でして……」
そう言って、片膝をつき、首を垂れるオルビス。
アクサナは地面に伏せたまま視線だけを上げ、もう一度少年を見る。
養父が口にした名を聞き、アクサナは……彼が何者なのかを悟った。
この国の、政治と軍事を統括する機関・"中央"。
その最高指揮官である、ヴァルデマール・ド・ウィルシャー・アルアビス総統の一人息子。
ルカドルフ・ミィ・オーセス・アルアビス。
つまり、この少年は……この国の、王子なのだ。
どうしてそのような人物が一介の騎士の屋敷を訪ねるのか、アクサナは痛む頭の中で混乱する。
すると、王子・ルカドルフは、抑揚のない声でこう言った。
「これから大事な任務を任せるんだから、あまり乱暴に扱わないでほしいな。頼めなくなったらどうするの?」
その言葉に、オルビスはサーッと顔を青ざめさせ、「申し訳ありません!」と再び頭を下げた。
つまり、オルビスがアクサナに伝えようとしていた任務は、ルカドルフ王子から下された命だったのだろう。
アクサナは畏れ多い緊張感を抱きながら、オルビスと同じように片膝をつけ、首を垂れた。
「もう二、三日余裕があると思っていたんだけど、さっき会議が終わって、明日にでも出発することになったんだ。時間がないから、僕が直接伝えに来たよ」
「そうでしたか……このような場所へ御足労いただき、恐縮です」
横でオルビスが答えるが、任務の詳細を知らされていないアクサナは話が見えず困惑する。
ルカドルフは、そんな彼女の内心を察したように、こう投げかける。
「君に依頼したい任務はね……オゼルトン領へ行ってもらうことだよ」
思いがけず口にされた、故郷の名前。
「え……」と呟くアクサナに、ルカドルフはこう説明した。
『精霊封じの小瓶』の普及により、オゼルトンは今、財政難に陥っていること。
そのため、アルアビスからの独立を望む声が上がり、"武闘神判"の開催が決まったこと。
独立を止めるため、特殊部隊・アストライアーの精鋭一名と、優秀な魔導士一名を"武闘神判"に参戦させること。
その二人の道案内を、オゼルトン出身のアクサナに依頼したいこと。
「……と、ここまではあくまで表向きの話。僕が本当に頼みたいのは、ただの道案内じゃない」
幼い見た目にそぐわない落ち着いた声に、アクサナは鼓動を加速させる。
(軍部の優秀な隊士を案内するだけでも責任重大なのに、それ以上の任務があるなんて……それも、王子から直々に。一体、何を任されるんだろう……?)
アクサナは、身体を強張らせながら続く言葉を待つ。
ルカドルフは、彼女にすっと手を差し伸べるようにして、
「……君に、"禁呪の武器"に対する適性がないか確かめてきてほしいんだ」
そう言った。
"禁呪の武器"。
それは、初めて耳にする言葉だった。
「禁呪の、武器……?」
「そう。この世界にいくつか存在する、強大な力を持つ特別な武器のことだ。オゼルトンの領主・ガルャーナもこれを持っていると推測している。君も聞いたことがあるんじゃないかな? 『神判の槌』という名のハンマーを」
「し、知っています。領主さまが、"武闘神判"の時に用いる巨大な槌だと……」
「それが"禁呪の武器"である可能性が高いんだ。だけど、この武器は正しく使用できる人間が限られている。そして、その条件は未だわかっていない。僕は、その条件が何なのかを研究しているんだ」
正しく使える者が限られる、特別な武器。
そんなものが存在しているだなんて、まるでお伽話のようだと、アクサナは思う。
ルカドルフが続ける。
「ガルャーナの一族は、代々『神判の槌』を使っていたと聞く。武器を扱える条件が血縁に関係があるのか、それともオゼルトン人という種族にあるのか……あるいは、他の要因があるのか。だから君に、"武器"に触れて適性があるか試してほしいんだ。ガルャーナと同じオゼルトン人だけど、君は女性で、若い。その条件でのデータがほしい」
「ぶ、武器に触れるって……ボクなんかが、領主さまの武器に触ることが許されるのでしょうか?」
「君が案内する二人組には、"武闘神判"参加に加えてもう一つ、"禁呪の武器"を"中央"へ持ち帰る任務が課せられている。武器には精霊が封じられているから、その解放のために回収しなければならない」
「精霊さまが、封じられている……?!」
「そう。精霊を呪いで縛ることで、強大な力を発揮する……それが"禁呪の武器"なんだ。そのことを伝えれば、領主・ガルャーナも武器の回収に協力してくれるだろう。彼の手から離れれば、君が触れるチャンスはいくらでもある」
そして。
ルカドルフは護衛たちから離れ、演習場の土を踏み鳴らしながら、アクサナに近付く。
「いいかい、これは秘密の任務だよ。他の同行者に知られることなく、君は"禁呪の武器"に触れる……そう、触れるだけでいい。適性があれば、"武器"に受け入れられるはずだ。僕はね、その適性の条件が『オゼルトン人』という人種にあるのではないかと考えているんだ」
跪くアクサナの目の前に立つと……彼は、翠と金に輝く両眼で彼女を見下ろし、
「つまり、成功すれば、オゼルトン人が特別であることの証明になる。その意味について……聡明な君なら、理解できるよね?」
そう、静かな声で問いかける。
もちろん、アクサナには理解できる。
それは、奴隷として搾取され続けてきた自分たちオゼルトン人に、新たな価値が見出せるかもしれない、ということ。
強大な力を持つ"禁呪の武器"。それを正しく扱える、選ばれし種族──そんな、特別な価値が。
「これは、君にしか頼めないことなんだ…………頼まれてくれるよね? アクサナ」
名前を呼ばれ、アクサナは思わずはっとなる。
自分よりも幼い少年から、『君にしか頼めない』と言われ、名を呼ばれただけで……喜びに、胸が高鳴ってしまったのだ。
感情の読めない、人形のような瞳。
冷たさすら感じる、平坦な声。
それなのに、彼の言葉には間違いなく"力"がある。
人を惹きつけ魅了する、不思議な何かが秘められている。
きっとこれが……人の上に立つべき人間の、見えざる"力"なのだろう。
アクサナは、畏れと喜びに打ち震える胸に手を当てると、
「……わかりました。"禁呪の武器"に触れ、この身に適性があるか、調査して参ります」
王に仕える従順な兵士のように、目を伏せた。
ルカドルフは、にこっと笑みを浮かべ、
「引き受けてくれてありがとう……期待しているよ」
まるで、誕生日プレゼントを楽しみにする子どものように、無邪気に言った。




