9 たとえ世界を敵に回しても
「私の聞き間違いでしょうか……ガルャーナさん。今、何とおっしゃいましたか?」
ざわざわ、と。
にこやかに微笑むクレアの周りに殺気が渦巻くのを感じ、エリスは冷や汗を流す。
エリスも、己の耳を疑っていた。
『神判の槌』──否、"禁呪の武器"の一つ、『地烈ノ大槌』の力を解放するため、ガルャーナが提示した条件が、彼の妻になることだなんて。
……いや、もしかするとこれも、別の意味を持つオゼルトン語なのかもしれない。うん、そうに違いない。
でなければ、こんな話……あまりにも突飛すぎる。
そう思い直し、エリスもガルャーナの返答に注目する。と、
「エリシアに、僕の妻になってもらう、と言ったのだ」
やはり、至極真面目な表情で、同じことを言うので……
クレアは額に影を落としながら、笑みを深める。
「申し訳ありません。オゼルトン語で『ツマ』とは、一体どういう意味の言葉なのですか?」
「オゼルトン語ではない。妻、配偶者だ。要するに、僕と婚姻関係を結んでほしいということ。理解できるか?」
まるでこちらの理解力を疑うような言い方に、クレアは笑みを貼り付けたまま、固まる。
どうしてそのような要求をしてきたのか、エリスにも理由はわからないが……とりあえずクレアが暴走するのはまずいと思い、こそっと耳打ちする。
「怒っちゃダメよ、クレア。相手は領主なんだから、ここはまず言い分を聞きましょ」
「…………」
エリスの囁きに、クレアは小さく深呼吸をすると、
「……理由を、伺えますか?」
笑みを保ったまま、尋ねた。
ガルャーナはやはり淡々とした声で、こう返す。
「『神判の槌』が、エリシアの言う"呪われた武器"であることは理解できた。危険な力を持つものだということも、この身をもって知っている。しかし、これがオゼルトンの武力の要であることもまた事実。それを無力化するということは、国内外に対する対等性を失うことに繋がる」
「対等性……?」
「オゼルトンは、アルアビスに取り込まれた元・他国だ。この国において最も立場が弱く、搾取の対象となり得る。その一方的な支配を未然に防いでいたのが、『神判の槌』の存在だ」
そこまで聞いて、クレアは納得する。
ガルャーナにとってこの交渉は、併合した元一国家に「武力を放棄しろ」と通達していることに等しいのだ。
つまり……
「……つまり、『神判の槌』と引き換えに、軍部直属の優秀な魔導士であるエリスを娶ることで、オゼルトンの政治的立場を保ちたいと、そういうことですね?」
クレアの指摘に、ガルャーナは頷く。
「そうだ。エリシアが非常に有能な人材であることは、先ほどの戦いと、今しがたの会話でわかった。国にとって、なくてはならない存在だろう。そんな彼女が我が一族の一員となれば、国もぞんざいには扱えまい。その上、彼女の知識と能力があれば、オゼルトンの魔法技術をさらに強化することができる」
「ちょっと待ってよ! 大前提として、国はオゼルトンから搾取しようだなんて思ってないから! そんな交換条件、必要ないでしょ?!」
先ほどまでクレアを宥めていたエリスだが、我慢できず声を荒らげる。
しかし、ガルャーナは変わらず静かな口調で返す。
「君は知らないかもしれないが……僕はオゼルトンの製氷業が打撃を受けることを見越し、だいぶ前から国に相談していたんだ。しかし、まともに取り合ってはもらえなかった。オゼルトンの優先度が、他の領に比べて低いからだろう」
「そんな……」
「オゼルトンは取り込まれた側であり、思想も文化も違う。全てを解決するには、向き合うべき問題が多すぎる。故に、後回しにされるのだ。そうした背景があり、民の不満が溢れ、此度の"武闘神判"に繋がった」
その話は、嘘や誇張には聞こえなかった。
だからこそ、エリスは何も言えなくなる。
黙り込む彼女を見つめ、ガルャーナは平坦な声で続ける。
「これが、オゼルトンの実情だ。『神判の槌』の危険性は理解したし、僕も精霊さまのことを解放したいと考えている。しかし、僕には民を護る義務がある。これ以上オゼルトンが冷遇されぬよう、君という国の要人を取り込みたいのだ」
「オゼルトンが大変なのはわかったわよ……でも……でも、だからって……!」
感情を昂らせ反論しようとするエリスを、クレアが手を上げて止める。
そして……冷静な口調で、こう言った。
「ガルャーナさんの考えは、よくわかりました。領主として、オゼルトンの立場を護りたいとするお気持ちは理解できます。しかし、エリスを政治の道具のように扱うことは許しません。彼女の地位や能力は、彼女が自分の人生を豊かにするため、努力して手に入れたもの。国の資産などではありません」
落ち着いた、理性的な声。
しかしその内には、音もなく燃える炎のような、静かで熱い怒りが秘められていた。
「"禁呪の武器"は、古の権力者が武力欲しさに精霊を封印したことにより生まれました。あなたは先ほど、精霊を解放したいとおっしゃいましたが……あなたがエリスにしようとしていることは、その権力者たちと同じではありませんか?」
怖いくらいに穏やかで、低い声。
自分のために本気で怒っているクレアの横顔に、エリスの胸がきゅっと締め付けられる。
「エリスを娶らずとも、オゼルトンに政治的な手札を残す方法はあります。エリスは、冷気の『神手魔符』を生成する技術と権利をオゼルトンに明け渡すと言っています。それで十分ではないでしょうか?」
クレアの鋭い眼差しを受け、ガルャーナは……
しかし、向けられた怒りにまるで気付いていないかのような雰囲気で、肩を竦めた。
「ふむ、言い方を変えよう。政治的な意味合いを抜きにしても、僕は彼女を娶りたいんだ。これらの話は、エリシアを口説くための口実でもある」
「……え?」
「自分でも不思議なのだ。僕もそろそろ結婚を考えねばならぬ歳なのに、これまで女人にまるで興味がなかった。それが、エリシアには……とても興味がある」
そして。
それまで無表情だったガルャーナが、ふわっと、魅惑的な笑みを浮かべ、
「精霊と心を通わせる聖なる力。気高く凛々しい魂。そして、麗しい容姿。僕の伴侶にするに相応しいと、心から思う。もしかすると……この感情が、恋というものなのか?」
「……っ」
それを聞いた瞬間。
クレアは立ち上がり、剣に手をかけた。
その目からは、もはや隠す気のない殺気が放たれている。
「く、クレア! さすがに剣はだめっ!」
エリスが慌てて宥めるが……
ガルャーナは、なおも笑みを浮かべ、続ける。
「エリシアが嫌々嫁ぐのであれば、僕も精霊さまを封じた権力者たちと同じになるだろう。だが、彼女が僕に恋愛感情を抱けば問題ない。政略結婚ではなく恋愛結婚ならば、文句もないだろう?」
「彼女があなたを好きになることは、絶対にあり得ません」
「何故そう言い切れる? 地位、経済力、武力、容姿。どれを取っても、僕ほど理想的な結婚相手はいないと思うが……好きにならない理由を探す方が困難ではないか?」
……という、あまりに自意識過剰な物言いに。
「…………」
「…………」
これは……オゼルトン流のジョークなのか?
と、クレアもエリスも、言葉を失う。
そんな二人の反応を見て、ガルャーナは小首を傾げ、
「ん? 何かおかしなことを言ったか?」
きょとんと、無垢な少年のように尋ねる。どうやら、冗談ではなく本気の発言らしい。
極度のナルシストなのか、文化の違いによる感覚の差なのか……いずれにせよ、ここははっきりと言っておく必要がありそうだ。
クレアは、剣から手を離すと……
落ち着いた声で、決定的な一言を放った。
「エリスがあなたに嫁ぐことはありません。彼女は──私の恋人だからです。もしあなたが、領主ではなく恋敵として私と対峙するのなら……私も一人の男として、あなたと戦います。例え、国を敵に回すことになろうとも」
ガルャーナに向け、真っ直ぐに放たれた言葉。
その隣で、エリスは頬を染め、「クレア……」と呟いた。
……わかっている。
反乱を阻止するために"武闘神判"に挑み、『神判の槌』を無力化するために、こうして領主との交渉の場に辿り着いた。
だから、このような態度を取ってしまっては、今までの苦労が全て水の泡になると、わかっている。
それでも、クレアは……
エリスを奪われるよりは良いと、本気で考えていた。
迷いのない、クレアの瞳。
刺すようなその視線を受け、ガルャーナは……何度か瞬きをすると、
「……そうか。なら、お前も一緒に来い。"武闘神判"での立ち回りは、実に見事だった。お前がオゼルトンの一員になれば、武力も強化できて一石二鳥だ」
……なんて、けろっとした口調で言うので。
クレアは、いよいよシリアスな表情を保つことができなくなり、
「…………は??」
と、口を開けて聞き返した。
ガルャーナは顔色一つ変えず、軽く手を広げて言う。
「エリシアには形式上、僕の妻になってもらうが、お前との恋人関係を続けてもらっても構わない。お前もオゼルトンに来て、僕の護衛として働くといい」
「……それ、本気で言っています?」
「うん? 僕はずっと本気だぞ? お前は恋人としてエリシアを愛し、僕は夫として、彼女に跡継ぎを産んでもらう。これなら争うことなく、皆が幸せになれるだろう?」
「あ、跡継ぎ!?」
エリスが顔を引き攣らせる横で、クレアは遂に剣を抜き放ち、
「…………斬ります」
「わぁあっ、早まるな! 大丈夫だから! そんなめちゃくちゃな話にあたしが乗るわけがないでしょ?!」
「む。何故だ、エリシア。オゼルトンには美味い飯がたくさんあるぞ? 僕の妻になれば、好きなものを好きな時に好きなだけ食べさせてやる。こんな具合に」
パチンッ、とガルャーナが指を鳴らす。
すると、即座に部屋の扉が開き、エリスが先ほど注文したウサギ肉のシチューに、ムームーペッカルの丸焼き、加えて豪華なオードブルと、大きな二段ケーキが運ばれて来た。
テーブルに並ぶ料理の数々に、エリスは拳を握り締め、ぷるぷると震え……
「なによ、人をバカにして……こんな手段であたしを思い通りにできると思ったら大間違いなんだからね!!」
「エリス、よだれが垂れています」
「はっ!!」
クレアに指摘され、慌ててよだれをしまうエリス。
戦いを終え、すっかり空腹なのだ。心とは裏腹に、身体が条件反射のように反応してしまった。
その様子を脈ありと受け取ったのか、ガルャーナは腕を組み頷く。
「エリシアは食べることが好きなのだな。食欲は生命力に直結する。実に良いことだ。オゼルトンの食文化を気に入っているようだし、彼女にとっても僕の元に来ることこそが最大の幸せだろう」
「あり得ないと言っているでしょう? 彼女は、私と食べるご飯が一番好きなのです。いくら豪華な料理を並べられたところで、靡きはしません」
「なら、やはりお前にも来てもらおう。お前がいることでエリシアの食が進むのなら、僕もその方がいい。食欲がなくなってしまっては大変だからな」
抑揚のない、ガルャーナの声。
その表情は、相変わらず大真面目だが……
クレアの方は、真面目に取り合うべきか、悩み始めていた。
恐らくガルャーナの思考には、嫉妬や怒りや独占欲といった"負の感情"がないのだ。
幼少期から、それらを"禁呪の武器"に吸い取られてきたから。
だから、エリスを伴侶にしたいと言いながらも、クレアに対する敵意や嫉妬は微塵も見られない。それどころか、クレアまで抱き込もうとしている。
これでは、いくら時間を費やしたとて、話は平行線のままだ。
「……考えをあらためるつもりは、ないようですね」
息を吐きながら、クレアが言う。
ガルャーナは、「あぁ」と答え、
「オゼルトンの国内における立場の保守、武力の強化、そして跡継ぎの問題……この全てを解決する、画期的な案だからな」
「しかし、我々は"武闘神判"に勝利しました。我々の意向は、神の意志として通されるべきではないですか?」
「此度の"武闘神判"で神判にかけたのは、国から独立するか否かについてだ。『神判の槌』の所在については、審議の対象ではない」
「では、どうすればエリスを諦めてくださるのですか?」
その問いに。
ガルャーナは、宝石のように青い瞳をスッと細め、
「この地で、領主に意見するための方法は……既に学んでいるだろう?」
「……"武闘神判"、ですか」
「ちょっ、冗談やめてよ!!」
エリスが、二人の間を遮るように身を乗り出す。
「これ以上『地烈ノ大槌』を使わせないために苦労して勝ったんじゃない! なのにまた"武闘神判"をやるなんて、本末転倒すぎるわよ!」
「しかし、このままでは埒が明きません。オゼルトンの慣習に従い、神の神判を受けなければ、彼は納得しないでしょう」
「でも……だからって、武力行使は……」
……と、エリスが困り果てた、その時。
「──なら、ちょうど良い解決方法があるぞ」
そんな声と共に、部屋の扉が開く。
現れたのはアクサナと、独立反対派の代表・ワトル。そして……
今しがたの声の主、激辛スープ店の店主・トトラだ。
「トトラさん……アクサナさんにワトルさんも。どうしてここに?」
「お前らと同じように召集されていたのさ。アクサナは国の交渉役の一人、ワトルは勝利した派閥の代表だからな。俺はまぁ、ついでだ。それより」
トトラは、ガルャーナに視線を向け、ニッと笑う。
「領主さま、お話はだいたい聞かせてもらいました。俺から、武力を使わないとっておきの決闘方法を提案させてもらいたい」
「とっておきの……」
「決闘方法……?」
エリスとクレアが、交互に言う。
それに続けて、ガルャーナが頷き、
「"武闘神判"に代わる方法があるというなら、言ってみろ」
と、発言を許可するので。
トトラは、豪快な笑みをさらに深め、
「ずばり……『激辛スープ早食い対決』だ!」
その、とっておきの提案を、高らかに発表した。