21 決戦の前夜に
──翌朝。
ぼんやりと、誰かが話すような声が聞こえ、エリスは目を覚ました。
瞼を開けると、そこは、クレアの腕の中で……
どうやって寝付いたのか思い出せないまま、むくりと顔を上げると、クレアと目が合った。
いつものことではあるが、先に起きていたらしい。
「おはようございます、エリス。よく眠れましたか?」
起き抜けに向けられる、完璧な微笑。
その眩しさに、エリスは目を瞬かせながら、
「……なに、あの声」
恐らく、クレアにも聞こえているであろう"声"の正体を尋ねる。
部屋の暗さから察するに、間もなく夜が開ける頃だろうか。
そんな時分に、何者かが、家の外で会話しているようなのだ。
しかし、クレアにはその正体の見当がついているらしく、穏やかに微笑むと、
「恐らく、アクサナさんたちですよ。外へ出て、見てみますか?」
なんて返すので。
エリスは、「アクサナ、たち……?」と、首を傾げた。
ベッドから起き上がり、ローブを羽織って、二人は寝室からリビングへと出る。
すると、ちょうど玄関が開き……アクサナが顔を覗かせた。
「あ、おはよう。悪い、起こしちゃったか?」
帽子と肩に、雪が積もっている。
どうやら、長時間外に出ていたようだ。
「あんた、こんな早くから外で何してんのよ? 風邪引くわよ?」
「何って、決まってるじゃんか。狩りだよ。昨日来た独立反対派の猟師たちが手伝ってくれるって言うから、一緒に出かけていたんだ」
「そんな話、いつの間に……それじゃあ、外から聞こえる声は……」
「うん。今、みんな庭で解体作業をしてる」
「解体作業……ってことは?!」
聞き返すエリスに、アクサナは頷き、
「この辺りをうろついていたケトルルシロクマを捕獲したよ。今日のご馳走は、熊肉だ」
そう、嬉しそうに答えた。
──アクサナの言葉通り、その日は豪勢な熊肉料理が盛大に振る舞われた。
甘辛いタレの煮込み。
唐辛子たっぷりな炒め物。
骨から出汁を取ったシチュー。
そして、豪快な炭火焼きステーキ。
アクサナの祖母・フェドートと、プロの料理人・トトラの手により、巨大なクマは絶品料理の数々となってエリスたちの前に並んだ。
独立反対派の面々も一緒に、庭で焚き火を囲みながら、朝も昼も、宴のように食事を楽しんだ。
その合間に、作戦の再確認や実戦演習、『神手魔符』を大量に描いて用意する作業を進め……
いよいよ明日に迫った"武闘神判"に向け、万全の準備を整えた。
* * * *
「──では、明日の朝、迎えに来る」
「じゃあな、王子と女神。ゆっくり休んで、明日に備えろよ」
日が暮れた後。
ワトルとトトラはそう告げ、独立反対派の男たちと共に宿泊場所へ帰って行った。
手を振る一行に、クレアとエリスも手を振り応え……
「……あんた、いつの間にか『王子』なんて呼ばれていたのね」
男たちが遠ざかったタイミングで、エリスが呟くように言った。
それに、クレアはにこりと笑って答える。
「はい。激辛スープに何度も挑戦していたら、いつしか『激辛王子』と呼ばれるようになっていました」
「……少なくともあたしは、『女神』って呼ばれるのけっこう恥ずかしいんだけど……あんたは平気なの? 『王子』ってあだ名」
「えぇ。むしろ人生で二つ目の愛称なので、呼んでいただけて嬉しいです」
「二つ目ってことは、前に誰かから愛称を付けられたことがあったの?」
「あはは。何を言っているのですか、エリス。付けたのは他でもない、貴女じゃないですか」
「あ、あたし? クレアを愛称で呼んだことなんてあったっけ?」
「何度もありますよ。親しみと愛情を込めて──『変態』と、名付けてくれたではありませんか」
「…………それは愛称じゃなくて、どちらかと言うと蔑称なんだけど」
「ん? 何が違うのです?」
「全然違うでしょ、心持ちが」
「でも、エリスは私のことが大好きですよね? なら、貴女が私を呼ぶ全ては"愛称"になるはずです」
「……あんた、よくそんな恥ずかしいことばっか言えるわね」
「はい。エリスを恥ずかしがらせることが私の趣味であり、生き甲斐なので」
「……わかった。あんたに新しいあだ名を付けてあげる。『ド変態王子』よ」
エリスが淡々と言ったその時、背後で玄関の扉が開き、アクサナが顔を出した。
「見送り終わったか? そろそろ晩飯ができるぞ。凍える前に戻って来い」
「晩ご飯っ!? 戻る戻る!!」
キランッ、と目を輝かせ、エリスはすぐに家の中へ駆け込む。
朝も昼も散々食べたのに、まだ食欲が残っているらしい。さすがエリスだと、その後ろ姿を見つめ、クレアは小さく笑い……
「……エリスの場合は、さしずめ『食いしん坊女神さま』、と言ったところでしょうか」
お返しに、愛情をたっぷり込めた愛称を呟いて。
彼女に続き、家の中へと戻った。
──夕食は、朝昼の熊肉料理の残りがメインだった。
ただし一品だけ、朝食や昼食では見なかった料理が増えていた。
それが……
「クマの、手……?!」
である。
文字通り、指の形がありありと残った左右の熊の手が、毛と爪を抜かれ、よく煮込まれた状態で、食卓にドンと置かれていた。
色味は餡をかけた鶏の丸焼きのように艶々としているが、慣れない者が見れば、その生々しい形に顔を顰めそうなものである。
しかしエリスは、好奇心いっぱいの表情で、
「すごい! 初めて見た! おいしそう!!」
と、皿を覗き込んだ。
その反応に、アクサナの方が驚いて尋ねる。
「え……こんな見た目してるのに、美味しそうって思えるのか?」
「当たり前じゃない。だって、オゼルトンではよく食べられているんでしょ? 内臓だろうが目ん玉だろうが、"食べ物"としての実績があるものなら、あたしは全然平気よ。むしろ興味ある」
食に対する飽くなき探究心に、アクサナは気圧されつつも、「そうかよ」と嬉しそうに笑った。
そうして、"武闘神判"前夜の夕食が始まった。
エリスだけでなくクレアも、フェドートが作る最後の食事をゆっくりと、じっくりと味わった。
「んんっ! クマの手うまっ!! 思ったよりぷるぷるしてる!!」
「おぉ……これは美味しいですね。今まで食べたことのない味です」
初めて食べる熊の手の味に、驚く二人。
にこにこと微笑むだけのフェドートに代わって、アクサナがそれに答える。
「熊の手は下処理と仕込みに時間がかかるから、昼食には間に合わなかったんだ。オゼルトンでも高級食材なんだぞ? 中でもケトルルシロクマは蜂蜜や甘い木の実を好んで食べるから、手にそれらの甘みが染み込んでいるんだって。なんとなく甘い香りがしないか?」
「うんうんっ! 肉の中に甘みがあると思ったら、クマが食べていたものの味だったのね」
「確かケトルルシロクマは、非常食として手に蜂蜜を付けたまま冬眠するのですよね。だからこうして染み込んでいるのですね」
「そうそう。よく知ってるな」
アクサナが感心したように返すと、その向かいで、エリスがはたと動きを止める。
「ハチミツ…………はっ。そういえば!」
ガタッ、と立ち上がると、アクサナとフェドートを交互に見つめ、
「雪飴! 二人に"琥珀の雫"で作ったのを食べてもらおうと思っていたのに、忘れてた!!」
言ってから、最後にクレアの方へ縋るような視線を向けるので、彼は頷き、
「では、食後のデザートに私が作りましょう。フェドートさん、あとでお鍋を貸していただけますか?」
そう、落ち着いた声で申し出た。
食事の後、クレアは"琥珀の雫"を鍋で温め、アクサナとフェドートに振る舞うべく庭へ出た。
雪がしんしんと降り積もる中、アクサナは、雪飴を一口頬張った瞬間「んんっ」と唸り、顔を輝かせた。
「なんだこれ、めちゃくちゃ美味い! こんなハチミツ、食べたことないぞ!」
「ふふーん、でしょでしょ? 花とハチミツの産地・パペルニアの領主の娘から直々にもらったものなのよ。高級食材のお礼にはうってつけでしょ? ほら、おばあちゃんも遠慮なく食べて」
そう言って、エリスはハチミツを乗せたスプーンをフェドートに差し出す。
フェドートはそれを受け取ると、庭先に積もった綺麗な雪に垂らし、慣れた手付きでそれを巻き取っていく。
そして、皺々の口を小さく開け、ぱくっと頬張った。
瞬間、終始微笑むだけだったフェドートが、大きく目を見開き、「おぉ」と声を上げた。
そのまま、美味しさを伝えるように何度も頷く。
その反応に、エリスは笑ってから、
「あー、えっと……みーみーしゅっけ、ぽろっのんいやいらな。こんきぱ、わぁばせんどる。だぁば、えいそこれ」
美味しい料理、たくさんありがとう。
この国は、あたしが護る。
だから、安心して。
そう、オゼルトンの古い方言で、フェドートに伝えた。
『神手魔符』の研究をする中で参照したオゼルトンの辞典から、フェドートにお礼を伝えるためにと覚えておいた言葉だった。
フェドートは、驚いたような顔をした後、その目にうるうると涙を溜め……
小さな身体でエリスをぎゅっと抱き締めると、背中をぽんぽんと、何度も叩いた。
「あ、あれっ? おばあちゃん、大丈夫?」
「あはは。よっぽど嬉しかったんだよ。ありがとうな、オゼルトンの言葉を覚えてくれて」
困惑するエリスに、アクサナが言う。
フェドートは、孫の言葉に同意するようにこくこく頷き、
「えかってらぁばとぷけけすばば……わぁばぬべっぺ?」
エリスの目を見つめながら、そう言うが……
「…………なんて言ってるの?」
「二人が結婚する時は、私も呼んでくれ、ってさ」
「けっっ?!」
アクサナの通訳を聞き、エリスは顔を真っ赤にする。
それに、何故かクレアがキリリと表情を引き締め、
「えかちばはぽだば、やぁやほっむってさ(子どもができたら、ぜひ抱っこしてください)」
「って、なんであんたが喋れるのよ?!」
「近隣のみなさんから情報を聞き取るために、少し勉強しました。それに、毎日皿洗いをしながらフェドートさんとお喋りしていたので、自然と覚えたのです」
と、いつの間にか方言をマスターしていたクレアに、エリスは唖然とする。
その隣で、アクサナは笑って、
「ほんと、さすがだよ、二人とも。この短期間でオゼルトンの言葉を覚えたり、新しい『神手魔符』を開発したり……最高に美味しい雪飴を食べさせてくれたり」
そして、すっかり舐め終えたスプーンに目を落とし、続ける。
「……正直、最初は分かり合えるわけないって思っていたんだ。同じ国の民と言えど、オゼルトンは言葉も文化も違うから。でも、あんたらは……クレアルドとエリシアは、理解しようと歩み寄ってくれて、文化の違いを楽しんでいるようにすら見えた。だから、今は……オゼルトンとアルアビスは、きっと分かり合えると、心から信じてる」
彼女の声が、初めて二人の名を紡ぐ。
それから、アクサナは自嘲気味な笑みを浮かべ、頭を掻く。
「二人の役に立てればと思って、ケトルルシロクマを狩ろうとしたけど……やっぱり、ボク一人じゃ無理だった。みんなに協力してもらって、ようやく成功したよ。ボクも二人みたいに、早く一人前になりたいな。そしたら、ばあちゃんも安心させられるのに……」
その言葉に、クレアとエリスは……
互いの顔を見合わせ、くすっと笑う。
「何言ってんのよ。みんなが協力してくれるのは、あんたが頑張っていたからでしょ? だったら、その人徳も含めて、あんたの力じゃない。他人の善意も協力も、使えるものは何でもありがたく使わせてもらうべきよ」
「えぇ。『独りで何でもできること』だけが"強さ"ではありません。少なくとも私は、独りで戦っていた時よりも、エリスに甘えながら戦う現在の方が強いと確信しています」
「えぇ〜ほんとにぃ〜?」
「本当ですよ。昔と違って、今は長生きしたいですから」
なんて、軽い口調で言い合う二人を見つめ……
アクサナは、小さく笑う。
「ありがとう。でも……みんなが危険を承知で"武闘神判"に参戦するっていうのに、何もできないのは、やっぱりもどかしいな」
なおも申し訳なさそうに呟くアクサナ。
エリスは、暫しそれを見つめた後……
「……だったらさ、ちょっと力を貸してくれない?」
そう、含みのある声で言う。
アクサナは首を傾げ、聞き返す。
「力を、貸す?」
「そ。アクサナに、ぜひお願いしたいことがあるの」
エリスは、にんまりと笑って。
それを、アクサナに伝えた。
第三部・第二章はここまでです。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回より、いよいよ"武闘神判"本番が始まります。
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引き続き、よろしくお願い致します。




