7 オゼルトン式入浴作法
「む……蒸し風呂……?!」
立ちこめる湯気の中、エリスがアクサナに聞き返す。
すると、アクサナは得意げに頷き、
「そう。熱した石に、いろんな薬草を混ぜたお湯をかけて、蒸気を起こすんだ。ほら、いい香りがするだろ?」
確かに、身体に良さそうな薬草の香りが漂ってはいるが……
「で、でも、思っていたのと違うというか……汗や汚れはどうやって流すの?」
「それは、あとでちゃんと流す行程があるから安心しろ。とにかく入ろう。開けっぱなしにしてると、せっかくの蒸気がなくなる」
アクサナに急かされ、エリスは蒸し風呂の中へと足を踏み入れた。
木製の壁に囲まれた、それほど広くはない空間。壁際には階段のような段差があり、座れるようになっている。
部屋の中央には金属製の大きな籠があり、その中に熱せられた石がゴロゴロと入っていた。
さらに、今入ってきた扉の向かいにもう一つ、別の扉がある。アクサナの言った、身体を流すための浴室が続いているのだろうかと、エリスは考えるが……
「あ、あっつい……」
その思考も、すぐにぼんやりと霞む。
外の寒さが嘘のように、締め切られた狭い空間は、猛烈な熱気と湿気に満ちていた。吸い込む空気まで熱く、気管から肺にかけて火傷するのではと思う程だ。
早くも音を上げるエリスに、アクサナは笑う。
「何言ってんだよ、まだ始まってもいないぞ? まずは、部屋をしっかり蒸すよ」
そう言って、部屋の角に置かれた甕から、柄杓でお湯を取り出す。
そしてそれを、中央に積まれた石へ、容赦なくぶっかけた。
瞬間、「ジュウゥゥゥッ!」と音を立て、薬湯が蒸発する。高温の蒸気が、薬草の香りと共に部屋中に充満した。
「ぶわぁああっ! あつっ、あっつい!!」
「まだまだ。もう一回」
──ジュウゥゥウッ!!
たちまち真っ白になる視界に、エリスは思わず目を瞑る。
「ま、こんなもんだろう。さぁ、ここに座って。ゆっくり深呼吸して、身体の芯まで温めよう」
「もうじゅうぶん熱いけど……」
「だめだめ。『もう無理』っていう限界まで温まるんだ。慣れれば気持ち良くなってくるから」
アクサナに言われるがままに、エリスは壁際の段差に座る。
じっとしているだけで、心拍数はみるみる上昇し、全身の毛穴から汗が噴き出す。
しかし、慣れてくると薬草の香りが心地よく感じられ、気持ちが穏やかになってきた。
思えば昨日からずっと、登山で身体を冷やしっぱなしだった。
初めて経験する蒸し風呂に、戸惑いはしたが……
(こうして身体の芯まで温まるのは……けっこう気持ちいいかも)
と、エリスは蒸気をゆっくりと吸い込み、深呼吸した。
そのまま、二人は静かに呼吸を繰り返し、じっくり身体を温めた。
エリスの額から、大粒の汗がいくつも流れる。それを見て、アクサナは、
「……だいぶ温まったんじゃない? 一度、汗を流そうか」
言って、隣で立ち上がる。
エリスは「うん」と返事をし、限界まで身体を温めたことに達成感を感じながら、同じく立ち上がった。
アクサナはそのまま、入ってきた方とは別の扉へと向かう。
やはりこの先に、もう一つ浴室があるようだ。この汗をさっぱり流したら、さぞ気持ちが良いだろう。
そんなことを考え、エリスはアクサナについていく……と。
──ビュウッッ!!
アクサナが扉を開けた瞬間、刺すような冷気が、エリスの裸体に吹き付けた。
開き切っていた毛穴が閉じ、一気に鳥肌へと変わる。
「な、ななな……今度は何?!」
「だから、汗を流すんだよ。この──ハシウチ湖に入って」
アクサナが指さす先──開け放した扉の向こうには、寒々しい湖が続いていた。
扉の先は、完全なる屋外。
一歩足を踏み出せば、青い湖が割れた氷を浮かべながら、ちゃぷちゃぷと波打っている。
木製の壁で囲われてはいるが、それは目隠しのために設置されたもので、吹き付ける風雪を遮ってはくれない。
(…………この湖に、入る……? 裸で立っているだけでも凍りそうなのに、この氷水の中へ、入るって…………??)
エリスは、アクサナの言葉と、目の前の景色の意味を理解できず……否、理解することを脳が拒絶し、固まる。
「……ゴメン。アタシヤッパ、オゼルトンノコトバ、ワカンナイ」
「どうしたんだよ、急に。極限まで温めた身体を、氷水で一気に冷やす。こうすることで代謝が上がり、寒さに負けない丈夫な身体になるんだ」
「ダイジョブ、マニアッテマス。ソレジャア」
「待て待て。風呂なんだから、汗と汚れを流さなきゃ意味がないだろ? こういうのは勢いが大事だから、一緒に入ろう。いくよ? さん、にぃ……」
……と、エリスの手首をガシッと掴み、アクサナがカウントを始めるので、
「いやムリ!! ほんとにほんとにムリだっ……」
「いち! ひゃっほぅ!!」
抵抗も虚しく、エリスの身体は極寒の湖へと引っ張られ……
──ドボンッ!!
「にぎゃぁああああああっ!!」
水飛沫と共に、痛ましい叫び声が上がった……
* * * *
──その絶叫を、隣の男風呂で耳にしたクレアは、
「エリス……大丈夫かな」
凍った湖に浸かりながら、一人呟いた。
男風呂にも、他に客はいなかった。クレアは脱衣所内に記された説明を読み、手順通りに蒸し風呂で温まってから、氷水に浸かりに来たところだった。
どうやらオゼルトンでは、これが一般的な入浴方法らしい。
寒い地域に暮らす彼らにとって、代謝を高めるという点で理に適っているが……王都で暮らす者なら、想像しただけで顔を顰めるような作法だろう。
しかしクレアは、戸惑うことなく淡々と、涼しい顔でこなしていた。
何故なら、この何倍も熱く、何倍も寒い環境に耐えるための訓練を受けてきたから。
一般市民に耐え得る程度の熱さや寒さなら、どうということはなかった。
しかし、エリスは違う。
こんなものは何かの罰ゲームであると、そう思っているに違いない。
湖に飛び込んだ際の絶叫が聞こえてきたが、壁で仕切られているため当然姿は見えない。
説明書きによれば、蒸し風呂から水風呂に入る行程を最低でも三回繰り返さなければならないようだが……エリスに耐えられるだろうか?
などと考えていると、
「えっ?! あと二回もやるの?! ムリムリ! しぬ!!」
という、エリスの絶望たっぷりな声が聞こえてくる。
ちょうどアクサナから説明を受けたのだろう。気の毒だが、止める術はなかった。
(……あとで、うんと慰めてあげよう)
弱り切ったエリスの顔を想像しながら、クレアは湖から上がり、再び蒸し風呂の中へと戻った。
扉を開けると、向かいにある脱衣所に繋がる方の扉が、同時に開いた。
蒸気ではっきりとは見えないが、客が入ってきたようだ。
大柄な男だった。腕や脚、顔だけが日焼けしたように黒い。
……否、顔が黒いのは日焼けだけでなく、髭のせいでもあるようだ。モジャモジャとした口髭が、顎先まで伸びている。
そのシルエットに既視感を覚え、クレアが目を凝らすと……
「……あれ? もしかして……王子か?」
先に男の方が、覚えのある声でそう言った。
『王子』。
自分をその名で呼ぶということは、もう間違いがなかった。
白い蒸気の向こうから、驚いたように現れたその顔は……
「……トトラさん。こんなところでお会いするとは」
あの、王都の激辛スープ店の店主・トトラであった。
クレアであることを確信し、トトラは蒸気を掻き分けるように近付いて来る。
「それはこっちのセリフだよ! どうしてこんなところに……まさか、俺を追って?!」
「ある意味ではそうですが……実は、ここへは仕事で来ました。オゼルトンの反乱を止めに来たのです」
「まさか、軍から派遣された交渉役って……王子のことなのか?!」
どうやらトトラの耳にも、軍部の人間が反乱阻止に来ていることは入っていたようだ。
ならば話は早い。クレアは頷き、肯定する。
「はい。私は、アルアビスの軍人です。トトラさんから"武闘神判"の話を伺った後、すぐに本部へ報告し、こうして派遣されることになりました」
「なんとまぁ……只者ではないと思っていたが、まさか軍部の人間だったとはな」
トトラは驚きと納得が混ざったような顔で、額に手を当てる。
店主と客という立場では何度も顔を合わせている二人だが、当然クレアの素性は明かしていなかった。
もっとも、特殊部隊の所属であるという詳細までは、この先も教えるわけにはいかないが。
しかし、この出会いはクレアにとって僥倖だった。
何故ならトトラは、情報を聞き出すにはうってつけの人物だから。
"武闘神判"や『地烈ノ大槌』らしきハンマーについての情報を集めようにも、アクサナには知識がなく、祖母のフェドートは言葉が聞き取れない。アクサナに通訳を頼むこともできるが、非効率な上、情報に齟齬が生じる可能性もある。
だが、トトラなら……兄が"武闘神判"に参戦するのを止めに来た彼なら、少なくともアクサナよりは大会に関する情報を持っているはずだ。
男二人、蒸し風呂の中、全裸で話し込むのは何とも滑稽だが……情報収集するには、またとない機会だ。
クレアは、壁際の段差に腰掛けると、顎先から汗を落としながら、
「"武闘神判"に参加すると言っていたお兄さまには……お会いできましたか?」
そう、落ち着いた声音で、切り出した。




