4 雪塵を巻き上げて
──翌朝。
三人は山小屋を出発し、アクサナの実家に向け、登山を再開した。
昨夜、"雪飴"の美味さと外気の寒さにより気絶したエリスは、その後ストーブで温められ、無事に意識と体温を取り戻し……
今朝はストーブで焼いたマシュマロを美味しそうに頬張り、クレアたちに元気な姿を見せていた。
その一件を思い出し、一層険しさの増した山道を歩きながら、アクサナは白い息を吐く。
「まったく……一時はどうなるかと思ったよ。雪山では少しの気の緩みが命取りなんだ。今日は気を付けてくれよ」
「えへへ、ごめんごめん。"雪飴"があんまり美味しかったからさぁ。アクサナの実家でも食べていい?」
「ボクの話、聞いてた? 寒さを忘れるくらいに興奮するんだから、もう食べちゃダメ」
「えぇーそんなぁ」
まったく懲りていない様子のエリスを、ジトッと睨み付けるアクサナ。
そんな二人の後ろで、クレアが「あはは」と笑う。
「もし、アクサナさんのご実家でお鍋を借りられるなら、次は私が"雪飴"を作りますよ。エリスには家の中で待っていてもらいます。それなら安全でしょう?」
「えっ、クレアが作ってくれるの?」
「はい。雪で固めたハチミツ、私も作って食べてみたいと思ったので。自分の分とエリスの分を、ぜひ作らせてください。せっかくですから、アクサナさんの分も作りましょうか? ハチミツで作る"雪飴"は食べたことがないでしょう?」
思わぬ申し出に、アクサナは「へっ?」と声を裏返す。
クレアは、にこりと微笑んで、
「本当に稀少で美味しいハチミツなので、召し上がって損はないと思いますよ。物は試しで、ぜひ」
「そうそう! あ、おばあちゃんの分も作りましょ! オゼルトンでは大人も子どもも、"雪飴"には目がないのよね?」
エリスまで、わくわくした表情でそう提案する。
こんな極寒の雪山……それも、山頂付近の厳しい環境にいるというのに、元気に食べ物の話をする二人。
その顔を、アクサナは交互に見つめ……何度目かわからないため息をつく。
「……あんたらといると、何しに帰って来たのか忘れそうになるよ」
「え? オゼルトンの家庭料理を食べに来たのよね?」
「エリス、まさか本当に目的を忘れたのですか?」
「じょ、冗談に決まってるじゃない。あははは」
すかさずツッコむクレアに、乾いた声で笑うエリス。
緊張感のない二人に、アクサナは全身から力が抜けるのを感じ、
「……ま、あんたらみたいな連中なら、ばあちゃんも安心して迎えてくれるだろう。ハチミツの"雪飴"、ボクとばあちゃんの分も頼んだよ」
そう笑って、また先頭を歩き始めた。
アクサナの態度からは、日増しに棘がなくなっていた。
良好な関係が築けていることを実感しながら、クレアはこそっとエリスに耳打ちする。
「よかったですね、エリス。また"雪飴"が食べられますよ」
「うんっ。おばあちゃんの手料理も超楽しみっ。早く着かないかなぁ」
こっちはこっちで、日増しにアクサナへの警戒心がなくなっている気がするが……
と、クレアはエリスを見つめ、思う。
本当に目的を忘れていないか心配になる程、エリスは楽しげに笑う。
その無邪気な笑顔に、クレアは寒さと緊張感が融かされるような、温かな気持ちを覚える。
そして……手袋を嵌めた手で、エリスの手をきゅっと掴むと、
「雪山に来てから、なかなか恋人らしいことができていませんが……『倦怠期』ではないので、心配しないでくださいね?」
そう、囁くように言う。
するとエリスは、目を見開き、バッとクレアの方を見た。
その頬がほんのり火照っているのに気付き、クレアは思わず笑みを浮かべる。
「今も、抱きしめたいのを必死に我慢しているところです。楽しそうに笑うエリスは、堪らなく可愛いので」
「なっ……そんなことわざわざ言わなくても、もう『倦怠期』の心配なんかしていないわよ!」
「『もう』ってことは、やはり以前は心配していたのですね?」
「違っ、そういう意味じゃ……!」
「私が言ったことを覚えていますか? 今回の任務でやりたい、四つのこと」
そう言われ、エリスは思い出す。
三日前、宿の部屋で言われたあのセリフ……
『一つ目は、全ての問題を解決し、あのスープ屋の主人が作る極辛スープを食べ切って、エリスに「カッコいい」と言ってもらうこと。二つ目は、雪で等身大の超リアル・エリス像を造ること。三つ目は、「寒い時は肌と肌で温め合うと良い」という俗説を、エリスと共に検証すること』
エリスの脳裏にその言葉が浮かんでいることを悟り、クレアは握りしめる手に力を込める。
「『うさ耳ローブ』は完了したので、残りは三つ。全て達成してみせますから、そのおつもりで」
その囁きに、エリスは一つ一つを想像し……三つ目を思い浮かべたところで、顔をボッと高潮させた。
「だ、誰も許可してないから! 特に二つ目と三つ目!」
「別に許可などいりません。勝手にやらせていただきます」
「はぁ?! だからダメだって!」
「……ふふふ」
「なんの笑い?! 怖いんだけど!!」
なんて、エリスがつい声を荒らげると、
「おい。何をごちゃごちゃやっているんだ。ちゃんと前を見て歩け」
アクサナが二人の方を振り返り、諌める。
その途端、二人はパッと手を離し、
「ご、ごめん。"雪飴"が楽しみで、つい盛り上がっちゃって……」
「すみません。ちゃんと前を向いて、気を付けて歩きます」
と、即座に謝る。
アクサナは、呆れたように目を細め、
「……わかればいい。この辺は足場に岩が多いから、注意しろよ」
そうぶっきらぼうに言って、視線を進行方向に戻した。
そのことを確認し、クレアはくすりと笑う。
「危なかったですね。手を繋いでいるのがバレるところでした」
「とか言いながら、なんで楽しそうなのよ」
「私はエリスの側にいられれば、いつでもどこでも楽しいですよ? だから……」
……と、静かに手を伸ばし、
「せっかくなので、もう少しだけ……こうさせてください」
そう言って、アクサナの目を盗むように、もう一度エリスの手を握った。
* * * *
──アクサナの忠告通り、頂上に近付くにつれ、山道はゴツゴツとした岩の道へと変わっていった。
同時に、麓から続いていた針葉樹の森が、ある地点から突如として途絶える。
恐らく、樹木が生成することのできない限界地点に到達したのだろう。ここが、雪山の最難所だ。
遮るものがなくなり、風雪がこれまで以上に容赦なく吹き付ける。
その寒さは、まるで氷の矢を全身に浴びているように鋭かった。
「エリス、アクサナさん、大丈夫ですか?」
風避けになるよう先頭に立つクレアが、後方の二人に呼びかける。
それに、二人はすぐに頷いて答える。
「ボクは平気だ」
「あたしも。今さらながら、このフードがありがたいわ」
「よかったです。もう間もなく峰を超えます。そうすれば風も弱まるはずなので、あと少し頑張りましょう」
そう声を掛け合い、三人は一歩、また一歩と、雪を踏み締め峰を目指す。
そして……
ついに、雪山の最高峰へと、辿り着いた。
「はぁ、はぁ……登り切ったぁ……!」
エリスが達成感に満ちた声を上げ、息を整える。
自身が歩んで来た道のりを振り返ると、白い雪雲と、それを貫くように伸びる針葉樹の森が眼下にあった。さらに先にあるはずの麓の街は、白んでいて見えない。
そして、反対側──登り切った山の頂の向こうには、全く別の景色が広がっていた。
窪んだ大地に広がる森。中央には、湖が見える。
その周りに、丸太で組まれた小さな家がいくつも建ち並んでいる。さらに奥には、石で造られた円形の建造物が見えるが、雪のせいで全貌ははっきりとしない。
「あれが……オゼルトンの街……」
エリスが、白い吐息と共にそう溢す。
話には聞いていたが、本当に山の真上に在るのだと、驚きを隠せなかった。
エリスの呟きに、アクサナが頷く。
「そう。あそこが、オゼルトンの民の居住区だ。ボクたちは『神頂住区』と呼んでいる」
「あそこに、アクサナの実家があるの?」
「うん。あの湖の側」
「ってことは、まだまだ歩かなきゃならないのね……登りも大変だったけど、下りは下りでキツそう……」
「いや、ここからはすぐだ。いい方法がある」
そう言って、アクサナが歩き出すので、エリスとクレアは顔を見合わせ、それについて行く。
ほどなくして、小さな山小屋が見えて来た。アクサナはその裏にある納屋を開け、二人の方を振り返る。
「ここからは、この『雪板』で下っていく。あっという間に着くぞ」
「……ユキイタ?」
アクサナが、納屋の中を指さす。
そこには、滑らかな楕円の形をした、薄い木の板がいくつも立てかけられていた。
「雪の上を滑って下るための板だ。『神頂住区』に帰る時は、みんなこれを使っている」
「……待って。あの急な斜面を、この板に乗ってシャーッて滑り下りる、ってこと?」
「そうだ。効率的だろ?」
当然、という表情で答えるアクサナ。
エリスは、先ほど目の当たりにした『神頂住区』へと続く長く急な斜面を思い出し……
ぶんぶんと、首を横に振る。
「む……むりむり! あんな坂を下るなんて怖すぎる!!」
「大丈夫だよ。あんたはボクと二人乗りの板に乗ればいい。取っ手もあるし、座って滑るから安定している。操縦はボクがするから」
「で、でも……」
「これを使わなきゃ、日暮れ前に実家へ着けない。『神頂住区』の周りの森にもウサギやクマがいるんだ。夜に歩くのは危険すぎる」
その言葉に、エリスは縋るような目でクレアの方を見るが……
クレアは心を鬼にし、こう返す。
「アクサナさんの言う通り、日没前に居住区へ到着するべきです。野生動物の脅威に加え、夜は気温がさらに下がります。貴女を危険に晒さないためにも、ここは我慢してください」
「そんなぁ……」
「アクサナさんのご実家に着けば、また"雪飴"が食べられますよ? 早く行きたいでしょう?」
「行きたいっ!」
キランッ、と目を輝かせるエリス。
彼女が食欲に目が眩んでいる隙に、クレアとアクサナは雪板の準備を進める。
「あんたは、この一人乗り用で大丈夫かな? こう、横向きに両足で立って、バランスを取りながら滑るんだ。初心者には難しいかもしれないけど……」
「問題ありません。私のことよりも、エリスをどうかお願いします」
そうして、エリスが"雪飴"に思いを馳せている間に準備は進み……
「それじゃあ、出発するぞ」
いつの間にか、アクサナの後ろに座らせていることに気付き、エリスはハッとなる。
しかし、時既に遅し。心の準備をする間もなく、雪板は動き出し……
「ま、待って! やっぱり怖……ぎゃああぁああぁあぁああ!!」
雪塵を巻き上げながら、『神頂住区』に向け、滑り始めた。




