3 雪山のおいしい夕食
──その後は、野生動物に遭遇することもなく、三人は順調に雪山を登った。
高度が上がれば上がる程、雪は深く、傾斜はきつく、気温は低くなる。
それでも、大きな問題はないまま、中腹にある山小屋へ日没前に辿り着くことができた。
「──はぁ。やっと人心地つけるわね」
床に荷物を下ろしながら、エリスは息を吐く。
そこは、三人で過ごすには十分な広さの、丸太小屋だった。
壁際にある鉄製のストーブと、そこに焚べるために積まれた薪以外は何もない部屋だが、文明のにおいが感じられるだけで安心感があった。
「ここは王都を行き来するのによく使われる山小屋だから、併合する時、アルアビスの偉い人たちが薪ストーブを付けてくれたんだって。オゼルトンの山にはこういう避難小屋がいくつもあるけど、ここはかなり快適な方だよ」
同じく荷物を下ろしながら、アクサナが言う。
「ストーブを点けよう。部屋が暖まるまで時間がかかるから、まだ上着は脱がない方がいい」
と、慣れた手付きでストーブに薪を入れ始めるので、クレアが止める。
「点火は私がやります。アクサナさんもお疲れでしょう。少し休んでいてください」
「何言ってんだよ。これだけのんびり来たんだ、あんたたちの半分も疲れていないよ。でも……そうだね、火起こしはあんたに任せる。ボクはその間に、食材の準備をしてくる」
「食材?!」
キランッ、と目を輝かせるエリス。
アクサナは、毎度のことながらその勢いにビクッと驚いて、
「こ、小屋の裏に備蓄庫があるんだ。小屋を利用する人のために、領が設置してるやつが」
「へー、すごい! なにがあるの?」
「唐辛子とか、キノコとか……冷凍したムームーペッカルの肉とか」
「……むーむー?」
「ムームーペッカル。オゼルトンの養豚だよ。脂の甘みが強くて、美味いんだ」
「……! あたしも見に行く!!」
言うが早いか、小屋の外へと飛び出すエリス。それを、アクサナが「そっちじゃない!」と慌てて追う。
元気そうなエリスたちの姿に、クレアは登山初日を無事終えられたことを実感し、小さく微笑んだ。
アクサナの言う通り、小屋の裏手には倉庫があった。
野生動物の侵入を防ぐためだろう、扉は重厚な金属製だ。
アクサナがゆっくり扉を開けると……中に大きな肉の塊がぶら下がっていた。
皮を剥ぎ、内臓を抜かれた、豚の肉だ。この寒さで凍り付いているのだろう、表面に霜がかかっている。
「おぉ。まさに『天然の冷凍庫』ね」
「肉を削るから、この器を持ってて」
アクサナは、木製のボウルをエリスに託す。そしてナイフを取り出すと、豚の肉を薄く削り始めた。
手際よくスライスされていく肉。
それをエリスは、ボウルで受け止める。
生前の姿が生々しく残る肉塊から、こんな風に削り取る様を見るのは、エリスにとって初めてだった。
あまりにじっと見つめられるので、アクサナはやりづらさを感じ、目を細める。
「……なに? もしかして、『豚が可哀想』とかって思ってる?」
しかしエリスは、首を横に振り、
「ううん、違う。『食べる』って、本当に……"魂をいただく"ことなんだって、実感していたの。食材の魂。それを育てた人の魂。加工する人の魂。調理する人の魂……いろんな魂が繋がって、あたしを生かしている。この上なく有難くて、尊いことよね」
まるで、独り言のように放たれたその言葉に、アクサナは思わず手を止める。
そして……白いため息をついて、
「……あんたって、おかしなことを言うんだな」
そう、呆れたように返すと、
「そんなの…………当たり前の話じゃないか」
ザリッ、と音を立てながら、豚の肉を深く削り取った。
* * * *
夕食の調理は、クレアが担当することになった。
外の綺麗な雪を集め、鍋に入れ、温まった薪ストーブの上に置く。
雪が融け、水になったら、アクサナが備蓄庫から持ち出した唐辛子とキノコを入れる。
しばらく煮立たせ、香りが立ったら、豚肉を投入する。最後に持参した塩と胡椒で味を整えれば、『ムームーペッカルのキノコスープ』の完成だ。
エリスとアクサナは、「いただきます」と手を合わせてから、スープを一口啜る。と、
「んんっ! んまいっ!!」
エリスがすぐに声を上げるので、クレアは微笑む。
「塩と胡椒だけのシンプルな味付けですが、お口に合いましたか?」
「うんうんっ! キノコの出汁と豚の甘みが塩で引き出されてるってかんじ! しっかり深みがあるし、唐辛子の辛さもちょうどいい! はぁ……雪山でこんな美味しいスープが飲めるなんて、あたし幸せ♡」
「ふふ、喜んでいただけてよかったです」
エリスからの高評価を受けたクレアは、隣で黙ってスープを飲むアクサナの反応を伺う。
「アクサナさんは、もう少し辛い方がよかったでしょうか?」
アクサナは、ドキッとした顔をしてから、すっと目を逸らすと、
「そ、そうだな。ボク的にはもっと辛い方が好きだけど、これも、その……悪くはない」
「あのねぇ。美味しい時はおっきな声で『うまっ!』って言うの。それが作ってくれた人への礼儀でしょ?」
エリスに指摘され、アクサナは「そうなのか?」と狼狽える。
「そーよ。ほら、言ってみなさい。『うまっ!』」
「う、うま……」
「もっと大きく!」
「ぅ……うま!!」
言ってから、アクサナはハッと口を閉じ、顔を赤らめる。
想定した以上に大きな声を出してしまい、恥ずかしくなったようだ。
しかし、エリスはにんまりと笑い、
「それそれ。やればできるじゃない」
と、満足そうに言う。
その隣で、クレアも頷き、
「そのように言っていただけるとは、作った甲斐がありました。ありがとうございます」
そう、穏やかに微笑みかけるので……
アクサナは、何だかむず痒いような、妙な気持ちになり、
「別に……本当のことを言ったまでだ」
目を逸らし、呟くように答えた。
──クレアが作ったスープには大満足なエリスだったが、「ごちそうさま」をした後で、小さくため息をついた。
「はぁ……これでデザートに『ハチミツ味のかき氷』が食べられたら最高だったんだけど……まさか雪を食べちゃいけないなんてね」
言って、"琥珀の雫"の入った香水瓶を残念そうに見つめる。
そんなエリスに、クレアはスープに使った鍋を片付けながらこう提案する。
「そんなに楽しみにしていたのなら、王都に帰ってから食べましょう。オゼルトン産の氷を塊で購入して、私がふわっふわに削ってさしあげますよ」
「ほんと?! やった、楽しみ! 嗚呼……想像したらますます食べたくなってきた……早く食べたいなぁ」
キラキラと瞳を輝かせ、よだれを垂らすエリス。
それを、アクサナはじっと見つめ……
「……雪をかき氷みたいに食べるのはダメだけど、"雪飴"にするならいいぞ」
と、あっさりした口調で言うので。
エリスは、首を傾げ、聞き返す。
「ゆきあめ? なにソレ?」
「言葉通り、雪で作る飴だよ。熱してトロトロにしたハチミツを雪の上にかけて、冷えて固まり始めたのを、スプーンにくるくる巻き付けて水飴みたいにするんだ。表面に雪を付けて食うと、何とも言えない食感で美味い。オゼルトンでは樹液で作るけど、ハチミツでもできるんじゃないかな」
その説明を聞き、エリスは……
真顔のまま、スッと立ち上がり、
「クレア、鍋の準備を」
「御意」
「えっ、今から?!」
驚くアクサナを置いて、エリスとクレアは早速ハチミツを鍋に注ぎ、ストーブで温め始める。
「ハチミツは焦げやすいので、加熱具合を気をつけなければなりませんね」
「確かにそうね。アクサナ、とろみがちょっと増すくらいに温めればいい?」
「いやいや、外もう真っ暗だから! 本当にやるのか?!」
「あったり前よ! こんな話聞いて、明日まで我慢できるわけないでしょ?!」
「えぇー……」
せっかく小屋の中が温まったというのに、扉を開け、底冷えする夜の外気を取り込むなんて、どう考えても避けるべきだ。
しかしアクサナは、この三日間でエリスの"食"に対する異常なまでの執着心を散々目の当たりにしてきたため、止めても無駄なのだということがわかっていた。
だから、諦めたように息を吐いて、エリスの後ろから鍋を覗き込み、
「……うん。それくらい温まったら、もういいはずだ」
「よしっ! クレア、スプーン!」
「こちらに」
ハチミツの入った鍋と、クレアから差し出されたスプーンを持ち、エリスは足早に小屋の扉へと向かう。
早くしなければ、寒さでまたハチミツが固まってしまう。クレアは先回りして扉を開き、エリスがスムーズに外に出られるよう補佐した。
外に出た瞬間、肌を刺すような寒さがエリスを襲う。瞬きを少し忘れれば、たちまち眼球が凍ってしまいそうな程の鋭い冷気だ。
しかしエリスは、寒さなど意にも介さず、ハチミツを垂らすのに相応しい雪はないか、キョロキョロと探し回る。
その後ろから、クレアはそっと彼女の肩に、うさ耳付きのローブを羽織らせた。
それを見ていたアクサナは、
(さすが特殊部隊……こんな時でも仲間のサポートは完璧だな)
と、クレアに対し、見当違いな尊敬の念を拗らせていたりした。
そして、
「この辺りの雪がいい。横に、一直線に垂らして」
積もったばかりの綺麗な雪を指し、エリスを誘導する。
エリスは「わかった!」と駆け寄り、言われた通り雪の上にハチミツを垂らした。
小屋から漏れる明かりを反射し、琥珀色に光るハチミツ。
湯気を立てながらとろりと垂れたそれは、降り積もった雪を融かし、沈み込むようにして固まり始めた。
「……今だ。スプーンで端っこから、くるくると巻き取って」
アクサナの指示を受け、エリスは緊張の面持ちで、ハチミツにスプーンを当てる。
冷えたことで粘度の増したハチミツは、表面に雪の結晶を付けながら、まるで水飴のように伸びやかに、スプーンへ纏わりついた。
「そのまま、一気に口に入れて!」
アクサナの声にも、つい熱がこもった。
エリスは返事をする間もなく口を開け、スプーンの先をぱくりと咥え込む。
すると、
「…………んんんむぅぅうううっ♡」
昇天、という形容がぴったりな表情で、エリスはうっとり頬を押さえ、絶叫した。
「ふぁあ……口の中で、ハチミツと雪が溶け合って……シャリとろな飴になってるぅ……こんなの初めて……♡」
恍惚の笑みを浮かべ、美味しさに打ち震えるエリス。
そのオーバーなリアクションに、アクサナは満足そうに笑う。
「へへ、だろ? "雪飴"は、オゼルトンならではの甘味なんだ。大人も子どもも、みんなこれには目がないんだよ」
「これは私も知りませんでした。雪とハチミツを一緒に食べる夢が叶ってよかったですね、エリス」
アクサナの解説に、クレアはそう投げかけるが……
エリスはスプーンを咥えたまま、未だ幸せそうな笑みを浮かべている。
「おいおい。いつまでも咥えていると、スプーンが凍って唇にくっつくぞ?」
アクサナが呆れたように言うが、エリスの反応はなし。
クレアが、顔の前でヒラヒラと手を振ってみても……まったく動かない。
これは……
「……まずい。気絶したまま凍り始めています」
「き、気絶?!」
「美味しさと寒さが同時に限界値へ達したのでしょう。しっかりしてください、エリス。早く小屋の中へ」
エリスを抱き上げ、すぐに小屋へ戻るクレア。
アクサナには、何が何だかわからず、その背中を見つめるばかりだったが……
「……やっぱり、特殊部隊の対応力はすげぇ」
と、クレアに対する謎の株価だけは、またしても上がるのだった。




