2 本音が凍る前に
「……え。なにアレ。クマ?」
突如として現れた、巨大生物。
エリスの呟きの通り、熊のようにずんぐりとした巨体ではあるが……
雪と同色の体毛と、頭上に伸びた長い耳が、別の生物の特徴を彷彿とさせる。
アクサナは後退りしながら、ごくっと喉を鳴らし、言う。
「オゼットユキウサギだ……」
「えっ、ウサギ? 今、ウサギって言った?」
「そうだ。あの耳、誰がどう見てもウサギだろう」
「いや、あんなデカいウサギ、見たことも聞いたこともないんだけど」
「知らないのか? 生き物ってのは、寒い環境下にあるものほど大型化する傾向にあるんだ」
「にしても限度があるでしょ。あれじゃあウサギというよりクマじゃない」
「いいや……性格は、クマより凶暴だ」
「…………それって……」
エリスが震えるのと、クレアが動き出すのと、オゼットユキウサギが駆け出すのは、ほぼ同時だった。
クレアは右脇にエリスを、左脇にアクサナを抱え、全速力で逃げ出す。
その後ろから、オゼットユキウサギが雪を掻き分け、四足歩行で追いかけて来る。
「ぎゃーっ! 来てる来てる! ちょっと! どうすんのよコレ?!」
「逃げるしかない! ここは禁猟区域だ、野生動物に危害は加えられない!!」
「そんなぁ! 逃げるったって、どこに?!」
「ヤツは縄張り意識が強いんだ。縄張りの外へ出ればいい!」
「縄張りってどれくらいの範囲なの?!」
「半径三キロくらいだ!」
「ぜったい逃げ切れないじゃない!!」
騒ぐ二人を抱えながら、クレアは巨大ウサギを横目で確認する。
雪上での移動で野生動物に勝てるわけがない。このままでは、あと数十秒で追い付かれるだろう。
大型化しているとはいえ、ウサギは草食動物。捕食されることはないはずだが……あの巨体に体当たりされ、のしかかられでもしたら、ただでは済まないことは目に見えている。
「エリス、魔法で足止めできませんか?」
雪の上を器用に走りながら、クレアが問う。
エリスは舌を出し、今一度精霊の分布を確認する。そして、
「土の壁を作って、行く手を遮るのはどう?! それならウサギも傷付けないだろうし!」
そう提案する。
それに、アクサナが落ち着いた声で賛同する。
「それでいこう。ボクに考えがある」
どうやらアクサナにもウサギから逃れるための案があるらしい。
クレアは頷き、「エリス」と投げかける。
「任せて! オドゥドア、壁と成って進行を防いで!!」
クレアに抱えられながら、エリスは指を振るい、魔法陣を描く。
その指先が閃いたかと思うと、直後、茶色い土の壁が、白い雪を割るようにして地面から迫り上がった。
突如として現れた障壁に、巨大ウサギは足を止める。
それを確認し、今度はアクサナが手を振るった。
その手から放たれたのは……細長い札のようなもの。それが、ウサギの近くにある木に、ぺたりと張り付いた。
「あの辺りに隠れて!」
アクサナの指示で、クレアは札が貼られた木から少し離れた場所へと退避し、林の中に隠れるようにして、二人を下ろした。
「もっと遠くに逃げなくていいの?!」
「しっ。いいから見てな」
心配するエリスの声を、アクサナは口元に指を当て遮る。
巨大ウサギは、エリスが作った土の壁の向こうをウロウロしているようだ。しかし、未だ興奮状態にあるのか、荒い息遣いが聞こえてくる。
アクサナにどんな策があるのかはわからないが、クレアも次の手を考え始めていた。
手っ取り早く斬ってしまえれば良いのだが、そうもいかない。これから反乱を止めに行くというのに、ここでオゼルトンのルールを無視し、野生動物を傷付けるようなことをしては、交渉に支障が出るだろう。
ならば、エリスが作った壁で足止めをしている内になるべく遠くへ逃げるしかない。途中、木を何本か斬り倒しておけば、簡単には追い付かれないはずだ。
(……いや、駄目だ。この辺りは木を斬り倒すことも禁じられているはず)
と、クレアは遠い昔に身に付けたオゼルトンのルールを思い出す。
やはり、エリスに土の壁を作ってもらいながら地道に逃げるのが良さそうだ。
そう結論付け、クレアが動き出そうとした……その時。
「ブギャオォォオオォンン!!」
けたたましい鳴き声を上げながら、巨大ウサギが、強力な飛び蹴りで土の壁を破壊した。
その圧倒的なパワーに、エリスは目を点にする。
クレアも、思わず笑みを浮かべ、
「……なるほど。これがウサギの鳴き声ですか」
と、昨日の朝、アクサナに言われた言葉を思い出しながら、納得したように言った。
なんて、呑気なことを言っている場合ではない。
障壁を破壊した巨大ウサギは、ふんふんと鼻を鳴らし、クレアたちを探すように辺りを徘徊し始めた。
「どどどどうすんのよ! 見つかったらおしまいよ?!」
「静かに! 大丈夫。動かなければ、こちらには気付かない」
小声で焦るエリスに、やはり小声で答えるアクサナ。
それを聞き、クレアもウサギを観察すると、耳と鼻を頼りに動いていることが見て取れた。どうやら、視力はそれほど良くはないらしい。
しかし、いくら姿を隠し、音を出さぬようにしても、においを嗅ぎ付けられては元も子もない。
一体、アクサナはどうするつもりなのか……
と、クレアたちが固唾を飲んでウサギの動きを見つめていると……
ウサギの鼻が、ピクピクッと、一際大きく動いた。
そのままドスドス跳ねながら、ある場所へ一直線に向かって行く。
その先にあるのは……アクサナが木の幹に貼った、あの札のようなものだった。
何かしらのにおいを発しているのか、ウサギは執拗にその周囲を嗅ぎ回っている。
……要するに、においで引き付ける罠なのだろうか?
あれに気を取られている隙に逃げろと、そういうことか……?
クレアとエリスが、そうアクサナに尋ねようとした──刹那。
「──シンケ・ケワㇰアマ」
アクサナが、聞きなれない言葉を発した。
直後、木に貼り付けた札から、無数の蔓がシュルシュルと飛び出す。
そのまま複雑に絡み合い、ウサギの周囲を覆うように伸び続け……
あっという間に、ウサギを取り囲む木製の檻の形を成した。
「こ、これって……」
エリスは驚き、喉を鳴らす。
札から飛び出した蔓からは、樹木の精霊・ユグノのにおいが感じられる。
……間違いない。魔法だ。
アクサナが魔法を使って、ウサギを捕らえたのだ。
檻は、ウサギの身体に触れるか触れないかの絶妙なサイズ感でウサギを拘束している。
これならウサギを傷付けることなく、且つ暴れても勢いが付けられないため、破壊され難いだろう。
「さぁ、今のうちに縄張りを抜けよう! 早く!」
アクサナに促され、クレアとエリスはウサギから離れるように駆け出した。
* * * *
「はぁ……はぁ……ここまで来れば大丈夫だろう」
しばらく走り続け、ウサギが追って来ていないことを確認し、アクサナは足を止めた。
クレアも周囲の気配を探り、問題がないことを認めてから、白い息を吐く。
「助かりました、アクサナさん。さっきのあれは……」
「魔法よね? 間違いなく!」
クレアの言葉を遮り、エリスがバッと詰め寄る。
「あんなの初めて見た。あんた、魔法が使えるの? あのお札みたいなのは何? どういう仕組みで発動しているの?」
矢継ぎ早に尋ねられ、アクサナは目を回しながら「えっと……」と懐を漁り、
「こ、これは、『神手魔符』っていう、精霊さまを召喚するお札だ。オゼルトンの猟師は、みんなこれを使っている」
言いながら、先ほど木に貼り付けたのと同じ札を取り出した。
エリスは「かんぴしゃし……?」と呟きながら、それを手に取る。
生成り色のそれは、一見紙のようだが、触ると布で出来ていることがわかる。オゼルトンの古代文字だろうか、エリスが用いる魔法陣と似て非なる紋様が、紅い塗料で描かれていた。
そして……
「……うわっ、なにコレ。変なにおいがする」
ツンと鼻を刺す刺激臭を感じ、エリスは思わず顔を背ける。
するとアクサナは、「あぁ」と言って、
「それは、オゼットユキウサギのオスの、フェロモンのにおいだ」
「ふぇ、ふぇろもん?」
「要するに、尿だよ」
……なんて、けろっとした顔で言うので。
エリスは、暫しフリーズしてから……
「ぎゃあああっ! ちょっ、なんつーモン触らせんのよ!!」
押し付けるように札を返し、においの付いた手をクレアの服になすり付けた。
しかしアクサナは、取り乱すことなく札を懐にしまい直す。
「『神手魔符』には、獲物が引き寄せられるにおいを染み込ませてあるんだ。縄張り意識の強いオゼットユキウサギには、別のオスのにおいを。一年中繁殖期のポロコツノシカには、メスのにおいを。食いしん坊なケトルルシロクマには、樹液と果汁を混ぜたにおいを……そうして引き寄せてから、精霊さまへの祝詞を唱え、捕まえるんだ」
「なるほど。においを染み込ませるために、紙じゃなくて布を使っているのね」
「うん。動物の毛で織ってあるから、置き去りにしても自然に還る。さっきの"木の檻"も、時間が経てば解除される。今ごろあのウサギは、自分の巣穴に帰っていると思うよ」
その説明を聞き、クレアも理解する。
描かれた紋様と呪文によって特定の魔法を発動させ、獲物を捕らえる──オゼルトンにおける魔法は、狩りのための手段であるらしい。
一介の魔導士として、エリスは純粋に『神手魔符』の構造に興味を持っているようだが、今はじっくり聞いている暇はなかった。
あの巨大ウサギがいつまた現れるかわからない上、昼休憩を取るどころか余計な体力を消耗してしまった。こうしている今も汗が冷え、寒さが一層増したように感じられる。
早いところ軽食を摂り、目的の山小屋に向け再出発すべきだろう。
エリスも同じように考えたのか、最後に一つだけ、こう尋ねる。
「……今言った、シカだとかクマだとかも、あのウサギ並みにデカイの?」
巨大ウサギの出現に相当驚かされたのだろう。他にもあんな生き物がいるのか、心の準備として聞いておきたいらしい。
その問いに、アクサナは少し苦笑いをして、
「デカイよ。でも…………どの肉もすっごく美味いから、猟師は頑張って捕まえるんだ」
そう、答えるので。
聞いた瞬間、エリスは眉をキリッと吊り上げ、使命感に満ちた表情で、言う。
「早くあなたの実家へ行きましょう。オゼルトンの魔法についての見識を深めるべく、ぜひ現地の狩りに同行したいわ。国を背負う一流魔導士としてね」
などと凛々しく言うが……口の端から本心が溢れていることを、クレアは見逃さなかった。
それが凍ってしまう前に、クレアはハンカチを取り出し、
「では、軽食を摂ったら出発しましょう。このペースなら、予定よりも早く山小屋へ着けるはずです。夕食は、温かいものを食べましょうね」
よだれを拭いながら、穏やかな声で言った。