6-2 帰るべき場所
「──レナードさん……どうしてこんなところに?」
草木も眠る深夜の中庭。
物置小屋の中で、メディアルナは驚きながら振り返る。
発見者であるレナードは、呆れたように息を吐き、
「それはこっちのセリフだ。こんな時間に一体何をしている?」
「えっ、えぇっと…………ちょっとお散歩を……あ、あはは」
後ろ頭を掻きながら、渇いた笑い声をあげる彼女。
明らかに不自然だが、レナードは追求せず、足元に置かれたランタンを持ち上げて、
「明日は大事な日だろう。無理矢理にでも寝て、身体を休めておけ。部屋まで送ってやる」
と、物置小屋から立ち去ろうとするので、
「まっ……待ってください!」
メディアルナは、慌ててそれを引き止める。
レナードが足を止め振り返ると、彼女はもじもじと俯いて、
「……なかなか寝付けなくて、困っていたのです。その……少しだけ、おしゃべりに付き合っていただけませんか? 本当に少しで良いので……」
そう、遠慮がちに尋ねた。
* * * *
レナードとメディアルナは、庭に置いてあるベンチに座った。
二人の頬を、冷たい夜風が撫でる。聞こえるのは草木が揺れる音だけ。足元に置いたランタン以外に灯りはなく、銀色の月と無数の星がよく見えた。
何も言わず隣に座るレナードを、メディアルナは横目でちらりと見る。
「おしゃべりがしたい」という申し出を、レナードは意外なほどあっさりと承諾してくれた。もう最後だからと我儘を聞いてくれたのだろうか。
自分から誘ったのだから、何か話さなければ……
メディアルナは宙を仰ぎ、必死に言葉を探す。
そして、
「い、良いお天気ですね!」
……と、結局そんな言葉しか見つからず、激しく後悔する。
深夜に『良い天気』だなんて、絶対におかしな娘だと思われた。いや、先日の誕生日パーティーの時から既にそう思われているかも……
自己嫌悪に浸るメディアルナに、しかしレナードは空を見上げ、
「そうだな……月が綺麗な、良い夜だ」
そう、穏やかな声で返す。
思いがけず肯定してくれたことに、メディアルナは胸がきゅっとなるのを感じ……
そして、その喉が詰まるような感覚を取り払うように声を絞り出す。
「……本当に、ありがとうございました。レナードさんが丁寧に教えてくださったお陰で、無事に笛が吹けるようになりました。他にも、たくさんお世話になって……感謝してもし切れません」
その言葉に、レナードは月を見上げていた視線を彼女に向けて、微かに笑う。
「……今日は、随分と礼を言われる日だな」
「え?」
「いや、礼なら昼間聞いたからもう充分だ。第一、吹けるようになったのはお前自身の頑張りによるものだろう。俺への礼はいいから、もっと自分を労ってやれ」
その落ち着いた声音が耳に心地良くて、メディアルナは唇をきゅっと結ぶ。
やっぱり、レナードさんは優しい。
一緒にいるとドキドキして、なのに安心感があって、温かな気持ちになる。
こんな人、レナードさんが初めてだ。
だから、明日から会えなくなると考えると……
どうしようもなく、胸が痛い。
「……寂しい、です」
メディアルナは、その気持ちを留めておくことができず、
「明日からみなさんが……レナードさんがいないと思うと、すごく寂しいです。それで、なかなか眠れなくて……ごめんなさい。夜中にこんな場所にいて、驚かせてしまいましたよね」
と、エリスたちには言えなかった本音を、ぽつりとこぼした。
レナードは、俯く彼女を真っ直ぐに見つめ、
「……離れるのが寂しいと思えるくらい、お前はこの短期間で俺たちに心を許してくれたのだな。なら、新しく来た使用人ともすぐに良い関係が築けるだろう。それはお前の長所だ」
そう、言い聞かせるように言う。
「今は不安だろうが、お前なら大丈夫だ。『寂しい』と言えるようになったのだから、その調子でこれからも周りに甘えるといい」
メディアルナは顔を上げ、彼を見つめ返す。
違うのに。
本当に甘えたいのは……
「行かないで」って縋りたいのは、あなたなのに。
言葉を詰まらせるメディアルナだが、レナードは真剣な表情で続ける。
「しかし、他人をすぐに信用してしまうのも、それはそれで心配だな。領主を継ぐつもりなら少しは疑うことも覚えたほうが良い。特に、人の良さそうな顔をしてうまい話を持ちかけてくる奴には注意しろ。あとは……酒にも注意だな。大事な話し合いの場では、酒は控えた方がいい」
なんて、先日のパーティーを振り返りながら真面目にアドバイスをするので……
メディアルナは晒した恥の数々を思い出し、かぁっと顔を赤くする。
「あああ、あの時は申し訳ありませんでした! 無理矢理お酒を飲ませた上、お顔を叩いてしまって……本当に、何とお詫びをすれば良いか……」
「気にするな。あれは酒を飲ませるよう焚き付けたクレアルドが悪い。それに、叩かれて当然のことをしたのだから、むしろ謝るのはこちらの方だ」
「そんな、レナードさんが謝ることなどありません! びっくりしただけで、本当は……!!」
嫌ではなかったです!!
……と言い返す勇気はなく、そこで口を閉ざすメディアルナ。
困ったように目を逸らす彼女の顔を、レナードはぐっと覗き込み、
「ところで……あの時言っていた『すごい秘密』というのは、一体何だったのだ?」
そう尋ねてくるので、メディアルナは「へっ?」と間の抜けた声を上げる。
あれはレナードを引き止めるための出まかせだったので、秘密など何もない。
それはレナードもわかっていると思っていたが……
「えっと……その……」
「女装をしたら教えるという約束だったはずだ。もし本当に重要な情報を持っているというのなら、ぜひ聞かせてほしい」
揶揄われているのか、それとも本気で聞き出そうとしているのか。
紺碧の瞳にじっと覗き込まれ、メディアルナは「うぅ……」と目を泳がせる。
そうして彼女の困り顔をしばらく見つめた後……レナードはすっと離れ、
「……冗談だ。何もないことはわかっている。困らせて悪かったな」
と、笑みを浮かべて言った。
そして、足元に置いていたランタンを手にして立ち上がり、
「お前が書斎を解放してくれたお陰で、最も知りたい情報は既に得られた。感謝している。これで思い残すことなく王都に帰れる」
言いながら、メディアルナに背を向けて、
「お互い、礼も謝罪もできたな。そろそろ部屋へ戻ろう。せっかく笛を吹けるようになったのに、風邪を引いては元も子もない。明日に備えて休むぞ」
と、そのまま歩き出そうとするので……
メディアルナは、すくっと立ち上がり、
「ぁ……ありますっ!!」
と、庭に響き渡る程の声を上げる。
思わず振り返るレナードに、彼女は一歩近付いて、
「じょ、情報ならあります……まだ誰にも言っていない、とびきりの秘密が……」
そう、声を震わせ言う。
ただならぬ雰囲気を感じたレナードは、「ほう」と呟いて、
「それは聞かないわけにいかないな。あの笛に纏わる話か?」
彼女に向き直り、興味深そうに聞き返す。
メディアルナは、ワンピースの裾をきゅっと握り……身体が震えるのを堪える。
……一体、何を言おうとしているのだろう。
こんなこと伝えたって、意味がないのに。
『恋愛感情を抱くことはない』。
そう、はっきりと言われたじゃないか。
優しい言葉も、思いやりも、ただの親切だってわかっている。
自分に特別な感情を抱いていないことなんて、わかっている。
わかっているのに……
彼の言葉に、表情に、いちいち胸が高鳴ってしまう。
これでお別れなら。
もう、会えないっていうのなら。
意味なんかなくてもいい。ただ、この気持ちが確かにここにあったのだと……
あなたの胸に、少しの間だけでも留めて、持ち帰ってほしい。
「…………す、すごい秘密と言うのは……」
声と一緒に心臓が飛び出てしまうのではないかという程に、鼓動が加速していた。
顔が、耳が、胸が熱い。
どうしてか、涙まで込み上げてくる。
でも、言わなきゃ。
もう、明日には会えないのだから。
メディアルナは、ぱっと顔を上げ。
涙に濡れた瞳でレナードを見つめると、
「わたくしが………………レナードさんを、お慕いしているということです……っ!!」
そう、ありったけの想いを込めて、叫んだ。
「好きです、レナードさん……一人の男性として、あなたのことが……好きなんです……っ」
震える声で紡がれる言葉に、レナードは目を見開く。
上気した頬。
強ばった身体。
涙に濡れた瞳。
真っ直ぐに自分を見つめるその姿に、レナードはそれが親愛ではなく恋愛感情による告白であることを悟る。
だからこそ、彼は真っ先に罪悪感を覚えた。何故なら、
「……言ったはずだ。あれは情報を得るための演技だったのだと」
そう、彼女を口説き落とそうと甘い言葉を囁き続けたあの演技が原因だと考えたのだ。
しかしメディアルナは、首を横に振って、
「違いますっ。わたくしが好きになったのは……演技ではない、そのままのレナードさんです」
胸に手を当て否定する彼女に、レナードは耳を疑う。
「……何故だ。お前に好意を抱かせるつもりなどなかった。ましてや、あんな酔った姿まで晒したというのに……」
「それも含めて好きなんです。優しくてかっこよくて、でもお酒には弱い、そんなレナードさんのことが……大好きになってしまったんです」
言いながら、メディアルナの脳裏に彼との思い出が一つずつ甦る。
『自分を責めるな』と言ってくれたこと。
『周りを頼れ』と叱ってくれたこと。
『魅力的だ』と褒めてくれたこと。
父の見舞いに付き添ってくれたこと。
笛の指導をしてくれたこと。
甘え方のコツを教えてくれたこと。
小鳥の巣箱を取り付けてくれたこと。
彼がしてくれた全てが、胸が苦しくなるくらいに嬉しくて。
気が付いたら……生まれて初めて、恋をしていた。
「……レナードさんが誰にも恋愛感情を抱かないことは知っています。好きになってもらえるなんて思っていません。ただ、こんなに好きになってしまったことを伝えずにはいられなくて……」
メディアルナはレナードに近付き、濡れた瞳で見上げる。
「……レナードさん。わたくし……あなたの"情報源"になりたいです」
「……何だと?」
「おっしゃっていましたよね。『恋愛感情を利用して情報源になる女性に近付くことがある』と……わたくしを、その内の一人にしていただけませんか?」
「お前……自分が何を言っているかわかっているのか?」
「わかっています。どんな形でもいいから、わたくしはまたあなたに会いたいのです。たくさん勉強して、立派な領主になって、誰よりもこのパペルニアを知る女になってみせます。だから……また会いに来ていただけませんか?」
そして、彼の手をそっと取ると……
ポケットに隠していたものを取り出し、その手に押し当てた。
レナードが手の中を見ると、そこには見覚えのあるものが握らされていた。
「……これは……」
小鳥の形をした、木彫りの人形。
庭師のロベルが、鳥の巣箱を作った時に番で彫ったものだ。
メディアルナの瞳の色と同じ、海のような淡い青色に塗られている。
「レナードさんに贈り物をしたかったのですが、何がいいかと悩んでしまって……結局、これしか用意できませんでした」
よく見ると彼女の指先にも同じ色の塗料が付いていた。どうやらこれの色付けをするために物置小屋にいたらしい。
メディアルナはレナードの手を離すと、今度は反対のポケットに手を入れる。そして、もう一羽の小鳥の人形──レナードの瞳の色と同じ、夜空のような深い青色に塗られたものを取り出す。
「この子と、レナードさんにお渡ししたその子のお家は、この庭にある巣箱です。どんなに遠くへ飛んで行っても、帰ってくる場所はここです。わたくしの元にいるこの子に寂しい想いをさせないためにも、その子を連れて、時々帰って来てください。わたくしとこの子は、レナードさんとその子を、いつまでもお待ちしています」
そう言って、手のひらに乗せた小鳥に頬を寄せ、困ったように笑う。
「……なんて、すみません。贈り物と言いながら、一方的に押し付けているだけですね。また会えるようにという、おまじないみたいなものです。もしまた会っていただけるのなら、その時はあらためてプレゼントを用意させてください。今回のお礼と、お誕生日のお祝いを」
「……誕生日?」
「はい。エリスとクレアルドさんのお祝いはできましたが、レナードさんのはできなかったので」
「……悪いが、俺には誕生日がない。だから、祝われようがない」
「そんなことありません。お誕生日が決まっていないのなら、逆にいつお祝いしても良いということです。レナードさんが生まれてきてくれたことを、祝福させてください。そして……」
そこまで言うと、メディアルナは恥ずかしそうに顔を背け、
「こっ、今度はちゃんと…………食べられる覚悟でお待ちしていますっ。もう、お顔を叩いたりしませんので……」
……と、自らの平手打ちで未遂に終わったキスのことを思い出しながら、振り絞るように言う。
そのセリフに、レナードは思わず息を止めた。
……まさかとは思うが、情報を得るためには食べる行為が必要だと本気で思っているのか……?
それとも単に、キスを望んでいるということなのだろうか。
レナードは、止めた息をゆっくりと吐き出して、
「……そんなセリフ、他の男には絶対に言うなよ。勘違いされ兼ねない」
「か、勘違い?」
聞き返すメディアルナに、レナードは……
ぐいっと腰を抱き寄せ、顔を近付けて、
「……キスだけでは、済まされないということだ」
低く、囁く。
忠告として、脅かすつもりで言ったその言葉に、しかしメディアルナは眉に皺を寄せて、
「そっ、そんなに心配なら……ちゃんとわたくしに会いに来てくださいっ。でないと……他の人にあげちゃいますからっ」
そう、顔を真っ赤にして言い返した。
必死で強がるその顔を、レナードは呆れたように見下ろす。
「……まったく。いつからそんな我儘になったんだ?」
「甘え方を教えてくれたのはレナードさんです」
確かに。
と、不覚にも納得させられてしまうレナード。
先ほどエリスに「クレアルドをこんな風にした責任を取れ」と言ったばかりだが……まさか自分がこのようなことになるとは。
そう思う一方で、レナードは不思議と胸の奥が温かくなるのを感じていた。
今まで抱いたことのない、初めての感情。
それが何なのかわからないまま、彼は抱き寄せたメディアルナを見つめる。
「……わかった。そこまで言うのなら、時々様子を見に来よう」
「ほ、本当ですかっ?」
「あぁ。その代わり、お前の"情報"は全て俺のものだ。他の誰にも渡すことは許さない。くれぐれも、悪い男に騙されたりするなよ」
「……わかりました。レナードさんのことだけを、いつまでもお待ちしています」
嬉しそうに笑う彼女の瞳を、レナードは覗き込んで、
「メディアルナ」
「は、はいっ」
「目を瞑れ」
「……え?」
「いいから瞑れ」
「…………はい……っ」
初めて名前を呼ばれた嬉しさと、これからされることへの期待に胸を高鳴らせ、彼女は目を閉じる。
きゅっと皺の寄った眉に、少しの愛おしさを感じながら、レナードは……
──ちゅっ。
と。
彼女の無防備な額に、優しくキスを落とした。
てっきり唇にしてもらえると思っていたメディアルナは目を開けて、嬉しさ半分、驚き半分という顔で彼を見上げる。
そのわかりやす過ぎる表情に、レナードは思わず微笑んで、
「……今のは、いつかもらう"情報"の予約だ。続きを望むなら……立派な領主になれるよう、頑張ることだ」
そう、優しい声で言うので。
メディアルナは、また会える日を楽しみに思いながら、
「…………はいっ」
と、眩しい程の笑顔で頷いた。