5 ケーキと独占欲は別腹で
「──はぅ……おいひぃ……♡」
フォークの先を咥えながら、エリスはうっとりと頬を押さえる。
クレアお手製の誕生日ケーキ。その切り分けたひとピースを、まもなく完食しようとしていた。
上品な甘さの生クリームに、瑞々しい苺。なにより、スポンジ生地が美味い。ふわふわと軽くて、ほんのり『琥珀の雫』の香りが漂ってくる……生地だけを食べても上質なスイーツと言える。
同じく取り分けられたケーキを食べながら、メディアルナも目を見張る。
「本当に美味しい……まるでケーキ屋さんが作ったみたいです」
「ディアナ、はちみつ苦手なのにぱくぱく食べてるわね」
「はい。むしろ『琥珀の雫』がとても良い香り付けになっていると感じます。こんなケーキを作れてしまうだなんて、クレアルドさんすごすぎます!」
「でしょでしょ? うちのクレアはすごいんだから」
と、自慢げに答えるエリス。
それに、クレアは「いえいえ」と遠慮がちに微笑んで、
「無事に完成したのは料理長のおかげです。スポンジ生地の泡立ては非常に繊細で、泡をきめ細かく作ることでふわふわに焼き上がるのですが、混ぜすぎると泡が消え、逆に膨らまなくなってしまう……良い塩梅にするにはどうすれば良いかと料理長にアドバイスを求めたら、混ぜ方のコツや温度の加減を丁寧に教えてくださいました」
「へぇー。温度なんて関係あるんだ」
「はい。お風呂より少し熱いくらいのお湯で湯煎しながら生地を泡立てると良いそうです。私も知りませんでした。やはりプロの方はすごいです」
「そっかぁー。じゃあ、あとで料理長にもお礼を言わなきゃね。このジュースもすっごく美味しいし♪」
と、エリスは料理長が作ったはちみつレモンソーダを飲みながら言う。爽やかな甘酸っぱさが炭酸と共に広がる、クセになる味だ。
エリスの言葉に、クレアも自分のグラスを持ち、
「味のベースは同じですが、私とレナードさんのはアルコール入りのカクテルなのですよ。料理長に『大人用のジュースだ』と言われました。ちなみにメディアルナさんの分は、はちみつ抜きのレモネードだそうです」
「さっすが料理長。ドリンクひとつでも気遣いが違うわね。どう? お兄ちゃん、美味しい?」
……と。
先ほどから一言も発さないレナードに、エリスが尋ねるが……
彼はケーキにも飲み物にも手を出さず、腕を組み、だんまりを決め込んでいた。
「……ねぇ。せっかくのパーティーなんだから、少しは参加しなさいよね」
「招待状を受け取った覚えのないパーティーに何故参加しなければならない?」
「さっきちゃんと誘ったじゃない」
「あれは誘致ではなく拉致だろう」
「いいから飲みなさいよ。ケーキも食べて? すっごく美味しいんだから」
「遠慮しておく。そんなに美味いなら自分で食え」
そう言って席を立ち、出て行こうとするので、エリスとメディアルナは慌てて扉の前に立ち塞がる。
「ちょっとちょっと! どこへ行くの?」
「今はケーキよりも情報が欲しい。書斎へ行ってくる」
「やめなさいよ、もう夜遅いし! 暗い中で本読むと目ぇ悪くするわよ?!」
「そっ、そうです! それにあの部屋は、夜になるとおばけが出るんですよ?!」
……と、エリスだけでなく何故かメディアルナまで止めるので、レナードは違和感を覚える。
「暗がりの中での捜索には慣れているし、そもそもちゃんと灯りを点ける。霊障の類いは信じていない。退け」
「やだっ! お兄ちゃんがいてくんなきゃやだっ!!」
「俺がいたところで楽しくはないだろう」
「そんなことない! これから楽しいことするつもりだから! ねっ、ディアナ?」
「はいっ! レナードさんがここに残ってくれるなら、この屋敷のすんごい秘密を教えちゃいます! あの書斎にはない、わたくしだけが知っている情報です!!」
拳をきゅっと握り、必死に引き止めるメディアルナ。
その姿に、レナードの疑念はますます膨らみ……
「……何が目的だ」
「え?」
「それほど重要な情報を交換条件に持ち出すということは、俺がここに残ることにそれだけの価値があるのだろう。何を企んでいる? それとも、その『すんごい秘密』自体が嘘なのか?」
鋭い指摘に、メディアルナは「ゔっ」とあからさまに怯む。
やはり、レナード相手に稚拙な嘘は通用しないようだ。
どうしよう……と、彼女は縋るように隣のエリスを見る。
するとエリスは、すんっと真顔になって、
「女装してほしいのよ。あんたに」
と、完全に開き直って作戦を暴露するので。
メディアルナは、心の中で「えぇぇええぇえええ?!!」と絶叫する。
「お兄ちゃん、言ったわよね? 『女装に関して俺の右に出るものはいない』って。ちゃんと服も買ってきたから、実際に見せてみてよ」
固まるメディアルナの横で、エリスは真っ直ぐにレナードを見上げ、
「あたしの男装を馬鹿にするくらいなんだから、それはそれは綺麗な女装なんでしょうね。ほら、見せてみなさいよ。それとも、笑われるのが怖いの?」
そう、挑発的な態度で言う。
その言葉と視線から、レナードは彼女の思惑を悟る。
毎日大変な思いをして続けてきた男装を馬鹿にされ、よっぽど腹が立ったらしい。誕生日パーティーの余興と称し、レナードに女装をさせ、笑ってやろうという魂胆なのだろう。
それに何故メディアルナが加担しているのかはわからないが……くだらないことに変わりはない。
レナードはため息をつくと、エリスとメディアルナを強引に押しのける。
「まったく、付き合い切れないな」
「あっ、ちょっと! 待ちなさいよ!!」
彼が出て行くのを、エリスが止めようとした──その時。
「待ってください、レナードさん」
そう言ってレナードの肩を掴んだのは……クレアだった。
「今日はエリスの誕生日なのです。もう少しだけ、ここにいてくれませんか?」
その言葉に、レナードはゆっくりと振り返り、目を細める。
「……こんなくだらないお遊びに付き合っている暇はない。この女の相手は、お前の仕事だろう?」
「聞こえませんでしたか?」
ギリ……ッ、と。
クレアは、肩を掴む手に力を込めて、
「エリスが、『女装しろ』と言っているのです。今日、この場において、それに従わないという選択肢はないのですよ……?」
そう、低い声で言う。
……やばい。こいつ……
何としてでも、この女の我儘を叶えてやるつもりか……?
微かな殺気を感じ、レナードは反射的に距離を取ろうとする──が、遅かった。クレアは後ろから腕を回すと、レナードを素早く羽交い締めにする。
「エリス!」
「おーけー!!」
クレアの呼びかけに答えながら、エリスは目にも止まらぬ速さで空中に魔法陣を描く。
呼び出したのは、樹木の精霊と鉄の精霊だ。
「ユグノ! アグノラ! 交われ!!」
生み出された植物の蔓と鉄製のワイヤーが絡み合い、強靭なロープを構成する。
そうして蛇のようにうねりながらレナードへと向かい、彼の身体にぐるりと巻きついた。
さらに、
「レナードさんの弱点はお酒です! メディアルナさん、グラスを!!」
「は、はいっ!」
クレアの指示を受け、メディアルナはテーブルからグラスを引ったくる。
「おい、いい加減にしろ! これ以上馬鹿な真似は……!!」
レナードがロープを解こうともがくが、その正面にメディアルナが立ちはだかり、
「……ごめんなさい、レナードさんっ!」
彼の鼻をぎゅっと摘み、開いた口に……はちみつレモンソーダを、どばどばと注ぎ込んだ。
「おぉ。ディアナ、なかなかやるわね」
その思い切りの良さに、エリスが感心したように呟く。
グラスの中身はみるみる内に減ってゆき……
ごくっ。
と、レナードの喉が最後の一滴を飲み込むと。
彼は、ゆらりと足を絡れさせて、
「…………いいだろう。俺が『完璧な女装』というものを見せてやる……服を持ってこい」
完全に据わり切った目で、やけくそ気味にそう言った。
* * * *
「まさかお兄ちゃんがお酒弱かったとは……意外だったわ」
ぱく、とケーキを頬張りながら、エリスが言う。
メディアルナに酒を一気飲みさせられたレナードは、酔ったのか態度が一変。女装に意欲を見せ、クレアと共に着替えに出て行った。
素直に女装してくれるわけがないとは思っていたが……酒に酔わせて承諾させるなどという展開は、まったく想像だにしていなかった。クレアの協力の賜物である。
先輩を羽交い締めにし、無理矢理酒を飲ませ、酩酊させたところで女装させるという鬼畜の所業をアドリブでやってのけたのには少しの猟奇を感じるが……通常運転といえばそれまでだ。
そんなことを考えるエリスの横で、メディアルナは鼻息を荒らげる。
「おかげで上手くいきましたねっ。今ごろお隣のお部屋であの服に着替えていらっしゃるのでしょうか……? きゃーっ、ドキドキしますっ!」
「って、なんであんたが興奮してんのよ。つーか、そもそもなんでこの作戦にそんなノリ気だったわけ? お兄ちゃんにめちゃくちゃお酒飲ませてたし」
そう。リンナエウスの街でレナードに着せるための服を買った時から、メディアルナはこの作戦にえらく食い付いていたのだ。
エリスの質問に、彼女はぐっと身を乗り出し、
「だって、あんなに顔の良い男性が女の人の格好をするのですよ?! そんなの見たいに決まってるじゃないですか!」
「え。それはあたしと同じで、単純に面白そうっていう気持ち?」
「いえ、美しく尊いものとして、崇め奉りたいという気持ちです」
……つまり、目的は違えど必要となる手段が同じだったため、奇跡的にあの連携プレイが生まれたらしい。
エリスは納得したようなしていないような複雑な気持ちになりつつ、クレアたちの帰りを待つ。
服はレナードの分と、せっかくだからとクレアの分も買ってきた。
いくら変装のプロと言えど、二人ともあの背格好である。女を装うのにも限界があるだろう。
こっちは毎日男装していたのだ。ディアナも今日、身分を隠すために変装した。あの二人にも、その大変さを味わってもらおうじゃないか。
そして、馬鹿にされた分だけ……いや、倍以上に、レナードを馬鹿にしてやるのだ。
「んっふっふ……今まで散々意地悪なこと言われてきたんだもん、ここぞとばかりに仕返ししてやるわ!」
悪い笑みを浮かべ、エリスが苺をはむっと頬張った……その時。
──ガチャッ。
客室の扉が開いた。
来た。
着替えを終えたレナードとクレアが戻って来たのだ。
さぁ、笑ってやるぞ、とエリスは立ち上がり、二人を迎える。
「もう、遅いじゃない! さぁ、早くご自慢の女装を見せて……」
……と、そこまで言いかけたところで。
扉の向こうから現れた二人の姿に……言葉を失う。
先に入って来たのは、レナードだった。自前の長い銀髪を三つ編みにし、肩から前に垂らしている。
その後ろから、クレアが続く。どこから用意したのか、彼の地毛と同じ焦茶色のロングヘアのカツラを被っていた。
何よりエリスが驚いたのは、二人の顔である。ぱっちり上向きになったまつ毛に、目尻に引かれたアイライン。艶のあるリップ。派手すぎない上品なメイクが施されている。
そして、スラリとした長身に纏うのは──丈の長いメイド服。これはエリスが先ほど街中で買って来たものだ。自分が使用人の男装をさせられていたため、彼らにも女性使用人の格好をしてもらおうと考えたのだが……完璧に着こなしている。
……つまり、エリスが何を思ったのかと言うと、
「…………綺麗すぎるだろ!!!!」
である。
「はぁ?! 普通に綺麗なお姉さんじゃん! こんなん笑えないわよ!! なに本気出してんの?!」
「だから言っただろう。『完璧な女装』を見せてやると」
「にしても、もっとこう『男がふりふりメイド服着ちゃいました』みたいなのが来ると思ってたのに! 何これ、生まれてからずっと着てたみたいに違和感ないじゃん!!」
「当たり前だ、何度女装したと思っている。特殊部隊の変装技術を見くびるな」
「逆に女装が必要な任務ってそんなにあるもんなの?! もはや特殊部隊じゃなくて女装集団じゃん!!」
「まぁ、そうだと言っても過言ではないな」
「過言だよ! 普通に喋ってると見せかけて相当酔ってるわねあんた!!」
美しすぎる女装にキレるエリスと、真顔でしっかり酔っているレナードがやり取りする後ろで、クレアが「あのー」と声をあげ、
「メディアルナさん、大丈夫でしょうか? めちゃくちゃ息上がっていますけど」
……と、エリスの後ろで『ハァハァ』と口を押さえるメディアルナを指さした。
エリスが「ディアナ?!」と驚くと、彼女は慌てて手を振り、
「違うんです、これは! お二人の美しすぎる女装×女装プレイを想像したからとかではなく!! ただ酸素を取り込み二酸化炭素を吐き出すという生理現象なのでどうかお気になさらず!!」
「意味わからなすぎて逆に心配なんですけど!?」
エリスがツッコミを入れる中、メイド姿のレナードが彼女へツカツカと近付いて行き、
「さっきはよくも一気飲みさせてくれたな……危ないだろう。急性アルコール中毒になったらどうする」
綺麗な顔を近付け、低い声で言うので、メディアルナはドキッとしながら後退りをする。
「すっ、すすすすみませんでした! 欲望に目がくらんで、つい……」
すると、その返事を聞いたレナードが「ふっ」と笑い、
「そんなに俺の女装が見たかったのか? なら、その目にしっかり焼き付けろ。遠慮はいらない……ほら、もっと近寄れ」
そう囁きながら、さらに顔を近付けて来た。
美しい顔面から放たれる、隠し切れない色気。
酔っているせいか、いつもとは違う雰囲気を醸し出す彼に……メディアルナはぐるぐると目を回す。
彼女が嗜む男性同士の恋愛物語において、女装は外せないシチュエーションの一つだった。
それを、明らかに女装映えするレナードが実演したらどうなるのかと、実物はどんな感じになるのかと、BL的好奇心から見たいと思っていたはずだったのだが……
今、女装したレナードに至近距離で迫られ、彼女は別のドキドキに苛まれていた。
女の人の格好をしていても……
いや、女装をしているからこそ。
レナードさんは"男性"なんだって、意識してしまう。
これってもしかして、BL的シチュエーションに胸が高鳴っているのではなく……
……レナードさんだから、ドキドキしている……?
「あ……あぅぅ……」
顔を真っ赤にし、フリーズするメディアルナ。
そんな二人の様子を目の当たりにしたクレアは、エリスに近付き、
「エリスも、どうです? 私のこの格好」
と、感想を求める。
目の前でくるりと回り、スカートを翻すクレア。
その仕草も、ふわりと揺れる長髪も、悔しいくらいに女の子らしくて……
エリスは頬を染めながら、恨めしそうに彼を見上げる。
「かっ……可愛い」
「きゃーっ、本当ですか?」
「変な声出すなっ! でも……うん、ほんとに可愛いし、綺麗」
そう素直に褒めると、後ろでレナードが「ふん」と鼻を鳴らす。
「昔のクレアルドはもっと可愛かったぞ。本物の少女を超える愛らしさと妖艶さで、何人の権力者を籠絡させたことか」
「って、なんでお兄ちゃんが得意げなのよ!」
「全盛期は七年前だな。まだ声変わりをする前だ。あの時のクレアルドは本当にすごかった。俺と二人で組めば落とせない相手はいなかったからな。その時代を知らないとは、可哀想な奴だ」
「なんなの?! めちゃめちゃ自慢してくるじゃん! ていうか前から思ってたけど、お兄ちゃんてクレアのこと大好きだよね!?」
という、半分挑発のつもりで放ったそのツッコミに……
「当たり前だろう。俺にとってクレアルドは特別だ。幼児の頃から見守ってきた、弟のような存在だからな」
酔ったレナードは、躊躇いもなくそう返した。
その言葉に、クレアは驚いたように目を見開き、エリスは顔を引き攣らせ、メディアルナは……
「……ぶはぁっ!!」
BL成分の過剰摂取で、鼻血を噴き出した。
「えぇぇっ?! ちょっ、ディアナ大丈夫?!」
「こっ、こんな尊いセリフ、現実で聞けるなんて……もう死んでも悔いはないです……っ」
駆け寄るエリスに、幸せそうな顔で鼻を押さえるメディアルナ。
するとレナードが、エリスをずいっと押し退け、
「待て。お前が知る『この屋敷のすんごい秘密』とやらをまだ聞いていない。この"命の水"を飲んで蘇生しろ」
……と。
テーブルの上からはちみつレモンソーダのグラスを取り、メディアルナの口に押し当てると……
自分が先ほどされたのと同じように、グラスの中身を無理矢理飲ませ始めた。
「……んぐっ?! んぐぅうっ!!」
突然のことに抵抗できず、目を白黒させながらそれを飲むメディアルナ。
「あーあー。やめなよ、お兄ちゃん。そんな強引に……」
と、声をかけたところで……エリスは気付く。
テーブルの上──エリスとメディアルナが座っていた場所には、グラスが残っている。
……ということは。
レナードが今、メディアルナに飲ませているのは……
……クレアが飲んでいた、アルコール入りの『大人用ジュース』だ。
「……!! お兄ちゃんだめ! それお酒!!」
しかし、時既に遅し。グラスの半分ほどの量が、メディアルナの喉へと流し込まれた後だった。
制止を聞かずに飲ませ続ける彼の手から、エリスはグラスを奪い取る。
直後、メディアルナは「うーん」と目を回し……その場に倒れ込んだ。
「ディアナ! しっかりして!!」
身体を支え、エリスが呼びかけるが……
「……ぅ……しあわせぇ……」
「え?」
「普段はビジネスライクを装う二人が、実はお互いを兄弟のように大事に思い合っていて……昔を思い出しながら女装プレイに勤しむなんて……うへ、うへへへ……」
「うん、これは放っておいても大丈夫そうね」
幸せそうな顔で放たれた呟きに、エリスは支えていた手をぱっと離した。
それから、テーブルで一人ケーキを食べ始めたレナードを呆れながら眺める。
「っとに……あんな顔してお酒弱いなんて、信じらんないわ。情報引き出すためとか言って酒場の女の人に手出してなかったっけ? 酒場なのにお酒も飲まないで口説いてんの?」
「いつもは飲んだふりをしたりグラスの中身をすり替えたりして、上手く誤魔化しているのです。本当に弱いので、お酒入りのチョコレートを齧っただけでもああなりますよ」
「へぇ……表情変わらないのに言動だけがおかしくなるから、面白いのを通り越してなんだか怖いわ……まぁ、弱みを握れたのはよかったけど」
やれやれ、と息を吐くエリス。
その背後で……
「……ぃや」
そんな声が聞こえ。
エリスが「ん?」と振り返る。
すると、床に倒れていたメディアルナがむくりと起き上がり、
「……聞きたくないです……レナードさんの、そんな話」
そう呟きながら、エリスの方へふらふらと近付いて来る。
そして、
「そんなことを言うお口は…………こうです!」
バッ! と、エリスの手からグラスを奪うと。
そのまま、彼女の口にそれを押し付け、傾けた。
「むぐぅっ?!」
「エリス!」
半分ほど残っていたアルコールが、今度はエリスの口の中へと注がれてゆく。
それを、とろんとした目で見つめるメディアルナ。どうやら彼女もしっかり酔っているようだ。
抵抗しようともがくも、エリスはその美味しさについ喉を鳴らして飲んでしまい……
見兼ねたクレアが素早く近付き、メディアルナからエリスを引き離した。
飲ませる相手を失ったメディアルナは、そのままふらふらとテーブルの席に着き、レナードの隣でケーキの残りを食べ始めた。
「大丈夫ですか? エリス」
腕の中の彼女にクレアが問いかける。
エリスは初めて口にしたアルコールの味に、ぱちくりと瞬きをして、
「……お」
「お?」
「……おぉ、これがお酒……美味しいわね」
「味を覚えるのはまだ早いですよ、もう一年待ってください。それより大丈夫ですか? 頭痛や吐き気は?」
「ない。大丈夫」
けろっと答えるエリスに、クレアは安堵する。
まったく、メディアルナまで酔ってしまうとは……厄介なことになった。
そう考えた矢先、テーブルの方から酔っ払いたちの声が上がる。
「おい、クレアルド。このケーキ、もう一切れ食べてもいいか? なかなかに美味い」
「うふふ。せっかくなので、クレアルドさんからレナードさんに『あーん』してみてくださいよ♡ 網膜に焼き付けます♡」
「ふむ。『この屋敷のすんごい秘密』を教えるというなら、やってやらないこともない」
「教えます教えます♡ めちゃくちゃ教えます♡」
「交渉成立だな。そういうことだ、クレアルド。一つ『あーん』を頼む」
いや、やらねーよ。
と、素でツッコミそうになるのをクレアは堪える。
メディアルナはどうかわからないが、レナードに関しては酔いが回るのが早い分、醒めるのも早いタイプだ。今はとにかく、正気に戻るのを待つしかない。
こんなことになるなら、飲ませるべきではなかったか……と、クレアが少し後悔していると、
「…………だめ」
そんな呟きがエリスの口から漏れ……
クレアは、彼女に目を向ける。
と……
──ぽろっ。
……突然、その目から涙が流れた。
クレアは驚き、その訳を尋ねようとするが……
その前に、エリスがぎゅうっとクレアの首に腕を回し、抱き付いてきた。
「え、エリス……?」
「……だもん」
「え?」
直後、涙で濡らした顔を上げ、
「クレアはあたしのだもん!! お兄ちゃんになんかあげないもん!!!!」
……と。
舌ったらずな声で、そう叫んだ。
思わず動揺するクレアだが、エリスはなおもぎゅうぎゅうと抱き付き、
「お兄ちゃんよりあたしの方がクレアのこと好きだもん!! だから、『あーん』なんかしちゃだめだもんっ!!」
まるで駄々をこねる子どものように言いながら、泣きじゃくる。
加速した心拍。
上昇気味の体温。
紅潮した頬。
……間違いない。酔っている。完全に酔っている。
まさかエリスも、酒に弱いタイプだとは……
しかし、これはこれで非常に可愛い……
戸惑いと嬉しさの狭間で揺れ、彼女を引き剥がそうか抱き寄せようかクレアが大いに悩んでいると、レナードが足を組みながら言い返す。
「ハッ。ついに正体を現したな、ワガママ幼女め。俺よりもクレアルドを好きだと? 笑わせるな。お前みたいなガキがそいつの良さを理解できるはずがあるまい」
「知ってるもん! クレアは優しくてかっこよくて強いんだもん!! ご飯もすっごくおいしいんだもん!!」
「そんなものはこの男が持つポテンシャルのほんの一部に過ぎない。こいつの真価は任務の中でこそ発揮される。敵を欺き、味方を切り捨て、誰よりも冷静に、冷酷に、冷徹に任務を遂行する……そういう一面があることを、お前は知らないだろう?」
「そんなことない! クレアはあたしのことよく騙すし、もう無理って言ってもやめてくれないことあるし、あたしのこと監禁したいって本気で思ってるんだもん!! そういう怖いとこも、ぜんぶぜんぶ好きなんだもん!!」
「エリス、ちょっと一回お口閉じましょうか」
他人には聞かせられないセンシティブなコトまで言いかねないその口を、クレアは思わず手で塞ぐ。
セリフの内容自体は吐血もので、もっと聞いていたいくらいだが、レナードたちにも聞かれると思うと塞ぐより他なかった。
自分以外、全員酔っ払い。
楽しい誕生日パーティーになるはずが、まさかこんなことになるとは……
さて、この状況をどうしてくれようか。
クレアが困り顔で三人を眺めていると……
──かぷ。
という音と共に、手に痛みが走る。
何が起きたのかは、すぐにわかった。
エリスの口を塞いでいる手が、彼女に噛まれたのだ。
それも……結構洒落にならない力で。
「いだだだだだっ! エリス! 千切れます!!」
彼の声にエリスはぱかっと口を開け、手を解放すると、
「クレアはあたしのなのに……あたしだけのものなのに……」
そう言いながら、クレアの身体を押し倒して、
「あたしの知らないクレアがいるっていうなら…………食べてひとつになっちゃえば、知らないことなんてなくなるよね……?」
ぺろっ、と舌なめずりをしながら、興奮気味に囁いた。
その表情に既視感を覚え、クレアは戦慄する。
エリスには何度か、物理的に食べられそうになったことがあるが……
今の彼女の目は、まさにその時のものだった。
「だ……駄目です、エリス! 大丈夫!! 私は間違いなく貴女のものですから!!」
捕食者を前にした小動物の如く、命の危険を本能的に察知したクレアは、必死に彼女を宥めようとする。
しかし彼女は、呼吸を乱しながら恍惚の笑みを浮かべ……
「うん、だから食べるの……クレアのこと、だーいすきだから♡」
そう言うと。
彼の首筋に、がぶっと齧り付いた。
皮膚にギリギリと食い込む犬歯の感触に、「あぁぁああぁ゛っ!!」と情けない声を上げるクレア。
その様を、レナードはじぃっと眺め、
「……食べることで、知識を共有する……なるほど」
と、何かに納得したように呟くと。
隣に座るメディアルナの手首を、がしっと掴み、
「お前が持つ屋敷の情報も、食べれば自ずと手に入るというわけか。なら……」
そう言いながら、口を開け、ゆっくりと顔を近付けて来るので……
酒に侵されたメディアルナの脳が、急速に回転し始める。
……あれ?
なんで、レナードさんが近付いてくるんだろう。
……うそ。これって、まさか……
キ………………
「…………ぅ、うわぁああっ!!」
混乱したメディアルナは、勢い良く手を振り上げると……
──パァンッ!!
……と、レナードの頬に、見事な平手打ちをお見舞いしたのだった。
* * * *
「う〜ん……もう食べられないぃ……」
クレアの背中の上で、エリスが寝ぼけたように呟く。
あの後……
正気を取り戻したメディアルナと、彼女の平手打ちにより酔いが醒めたレナードによって、クレアは捕食者から救出された。
それでも諦めずに食べようとしてくるエリスを何とか押さえ込んでいると、急にこてっと眠ってしまったので、クレアは二人に片付けを任せ彼女を背負って客室を出たのだった。
「すみません、エリス。私のせいでこんなことに……」
聞こえているかはわからないが、クレアは背中の上で脱力しているエリスに謝罪する。
「せっかく料理を喜んでもらえたのに、最後の最後でめちゃくちゃになってしまいましたね。貴女に楽しんでもらいたかったのですが……本当に申し訳ありません」
全ては自分が、レナードに酒を飲ませるよう指示したことが原因だ。レナードもメディアルナも悪くない。
クレアは大いに反省しながら、離れにあるエリスの部屋へと向かう。
とにかく、今日はこのまま寝かせてやろう。そう思いながら、主屋から外の通路へ出ると、
「んーん……楽しかったよ」
という小さな声が、背中から降って来る。
「ご飯はおいしかったし、みんなとわいわい騒いで、すっごく楽しかった…… 朝からずーっとご飯作ってくれてありがとね。昨日のお花畑のプレゼントも嬉しかった……間違いなく、人生で一番幸せな誕生日だったよ」
その言葉に、クレアは思わず足を止める。
初めて一緒に祝う、エリスの誕生日。
喜んでもらいたくて、楽しんでもらいたくて、自分ができるベストを尽くそうと、手探りで準備をした。
最後はぐだぐだになってしまったけれど……
『人生で一番幸せ』と言ってもらえて、クレアは言葉が出ないくらいに嬉しくなる。
エリスは、彼の背中にぎゅっと抱き付くと、
「……でもね。クレア、昨日の夜からずっと厨房にいて、あんま一緒にいられなかったから……それはちょっと寂しかった」
なんて、少し拗ねたように呟く。
それを聞き、クレアは気が付く。
『…………一日中、料理作ってくれるのは嬉しいけど……そうすると、ちょっとアレなのよね……』
夕食を食べている時、エリスが言いかけていたのはこれだったのだ。
確かに昨晩からずっと厨房に篭りきりだった。
彼女に喜んでもらえるよう、料理に力を入れたつもりだったが……まさか『寂しい』と思わせてしまっていたとは。
クレアは、背中から回された彼女の手に、自分のをそっと重ねる。
「……たくさんの料理を作るより、側にいた方が良いのですか?」
「うん。クレアのご飯はすっごく美味しいし、料理できるのはかっこいいって思うけど……一緒にいられれば、それで良いよ」
まだ酔っているのか、エリスは素直に答える。
"美味しい料理を作れる"という特性は、彼女に好かれるための必要な条件だと考えていたが……どうやらそうでもないらしい。
『あたし、たぶんあんたが思っているよりも、あんたのことが好きだからね?』
あの花畑で言われた言葉の意味を、クレアは今、ようやく思い知る。
きっと彼女は、料理ができなくても、自分を好きでいてくれるのだ。
ただ無条件に一緒にいたいと……そう、思ってくれているのだ。
クレアは愛おしさでいっぱいになり、居ても立ってもいられず、エリスを背中から降ろす。
そして、正面からぎゅうっと抱き締めた。
突然のことにエリスが「うわっ」と声を上げるが、クレアはお構いなしに彼女を引き寄せる。
「……エリス」
「……なに?」
「私、エリスのことが大好きなので、貴女のために何かをせずにはいられません。だから、来年以降もお誕生日には美味しいものを作ります。けど……必ず、側にいます。貴女がそれで良いと言ってくれるなら、これからもずっと……貴女の側にいることを約束します」
少し震える、クレアの声。
それを聞き、エリスは彼の背中に腕を回すと、ぎゅっと抱き締め返して、
「……うん、約束。だって、クレアと一緒にいられることが……いちばんの誕生日プレゼントなんだから」
そう言って、彼の胸に甘えるように、そっと頬を擦り寄せた。




