4-4 パーティーが始まる
リンナエウスの街が夕陽に染まる中、エリスとメディアルナは屋敷へ帰り着いた。
「──んもう。歩きながら読むと危ないですよ?」
門を潜り、メディアルナは隣を歩くエリスを嗜める。
エリスは今、一冊の本を集中して読んでいた。
先ほどメディアルナからプレゼントされた、このパペルニア領のグルメ情報をまとめたガイドブックである。
エリスが想像していたよりもずっと分厚く、内容の濃い一冊だった。
もらった瞬間に中身を開き、こうして読みながら帰って来たのだ。
嗜めるメディアルナの方を見ることもせず、エリスはガイドに目を落としたまま、
「うわっ、この『ミニトマトのハチミツ酢漬け』超美味しそう! 今度クレアに作ってもらお……」
などと、一人で盛り上がっている。
その楽しそうな横顔を眺め、想像以上に喜んでもらえたようだとメディアルナは微笑む。
しかし、一方で、
「(……結局、レナードさんへのプレゼントは決められなかったなぁ)」
と、胸の内で呟き、小さくため息をついた。
クレアの誕生日が存在しなかったという話を聞かされて以来、メディアルナはレナードも同じなのではないかと気になっていた。
レナードにはとても世話になっている。誕生日プレゼントという形でなくともお礼を贈りたいと考えているのだが……
エリスやクレアと違い、レナードが喜びそうなものが全く想像できず、何も買えないまま帰って来てしまったのだった。
「(そういえば前に、犬や猫が可愛いと言っていたけれど……あれも嘘だったのかしら?)」
首を傾げ思い出してみるが、答えは出ない。
とにかく、レナードがここを去ってしまう前に何か用意しなければ……
……そう考える一方で。
メディアルナは、いまだガイドブックに釘付け状態なエリスの方を見る。
そして、その腕に提げられた大きな紙袋に目を向ける。
そこには、先ほどエリスが街で買ったあるものが入っていた。
メディアルナはごくっ、と喉を鳴らすと、
「……エリス。先ほど買われたソレ、実行する時には、ぜひわたくしも呼んでくださいね……?」
と、窺うように言う。
するとエリスは顔を上げ、ニヤリと笑って、
「もちろん。なんたって今日は、あたしの誕生日だからね。楽しませてもらうわ」
そう言って、ガイドブックをぱたんと閉じた。
「さーて、クレアはどうしているかなー」
そう呟きながら、表玄関を開け主屋へ入った……刹那。
エリスの鼻が、ぴくぴくっと反応する。
厨房から漂う、美味しそうな香り。
……間違いない。クレアが、夕食を完成させたのだ。
ばびゅんっ! と、反射的にダッシュするエリス。
驚くメディアルナを置いて、一人厨房へと足を踏み入れる。
すると、
「──あぁ、エリス。ちょうど出来上がったところです。今、ご案内しますね」
エプロン姿のクレアがおたまを片手に、振り返りながら微笑んだ。
* * * *
エリスはクレアに導かれ、主屋の一階にある客室へと入った。
いつもは広い客間で他の使用人たちと夕食を共にしているが、今夜は特別だ。エリスだけの誕生日メニューをゆっくり堪能してもらうため、この個室を借りることにした。
「──どうぞ、おかけください」
部屋の真ん中にあるテーブルに近付くと、クレアは椅子を引いて座るよう促す。
彼女が席に着くと、次々に料理が運ばれ、テーブルの上にずらりと並べられた。
「こちらから順に、『蒸し鶏と野菜のハニーマスタードサラダ』、『海老とガーリックのハニーバタースープ』、『はちみつレモンのにんじんグラッセ』、そして『豚ロースのはちみつ漬け焼き』です。事前にお伝えした通り、すべてに『琥珀の雫』を使用しています」
料理を指し示しながら、説明するクレア。
それを聞く毎に、エリスの口内にじゅわじゅわと涎が込み上げてくる。
やばい、美味しそうすぎる。
すべてに『琥珀の雫』を使っているだなんて……なんて贅沢なのだろう。
どれほど手間をかけて作られたのか、口にせずとも見た目と匂いでわかってしまう。
先ほどまで満腹だったのが嘘のように、胃が、脳が、目の前の料理を猛烈に欲していた。白い湯気が「早く召し上がれ」と手招きしているようにさえ見えてくる。
「……た、食べてもいい?」
遠慮がちに尋ねるエリスに、クレアは「もちろん」と微笑む。
彼女は胸の前で丁寧に手を合わせると、
「……いただきますっ」
そう言って、フォークを手に取った。
まずは、『蒸し鶏と野菜のハニーマスタードサラダ』から。
柔らかく蒸した鶏肉と、じゃがいもやにんじん、アスパラガスなどの野菜。それにハニーマスタードソースが絡められている。
エリスは、鶏肉とアスパラガスをフォークで刺し、ぱくっと口に入れた。
瞬間、粒マスタードの香りが鼻に抜ける……が、それをすぐに『琥珀の雫』の甘さが包み込んだ。
美味い。辛さと甘さが絶妙に混ざり合い、食材の旨みを引き出している。エリスは「ん〜っ♡」と唸り、その味を堪能した。
次に、『海老とガーリックのハニーバタースープ』。
スプーンに持ち替え、ボウルを覗き込む。ふわりと漂うバターとガーリックチップの香り……飲まずともその濃厚さが伝わってくる。
スプーンをつけ、ボウルの底から剥き身の海老を掬い上げる。そして、スープと一緒にぱくりと咥え込んだ。
想像通り、まずはガーリックの香ばしさ、その後にバターのコクと『琥珀の雫』のほのかな風味が口いっぱいに広がった。
ぷりぷりの海老を咀嚼すればする程、海老の甘味が濃厚なスープと混ざり合う。
エリスは堪らずパンをちぎり、口の中へと放り込んだ。ほらね、合う。そう言わんばかりに、彼女は目を閉じ、「んんんっ」と悶えた。
続いて、『はちみつレモンのにんじんグラッセ』。
エリスは、この甘く煮詰めたにんじんが大好きだった。肉料理の付け合わせとして出されることが多いが、これだけでも十分なごちそうだ。メインの肉に着手する前に、一かけ食べておくことにする。
フォークを当てると、なんの抵抗もなくスッと刺さった。それだけで、どれほど柔らかく煮込まれているのかがわかる。漂う香りを感じながら、エリスはそれを頬張った。
とろっ、という形容が頭に浮かぶような食感。そして『琥珀の雫』によって増幅されたにんじんそのものの甘さ。さらにレモンの酸味が甘さを引き締め、付け合わせとして最高の味を醸し出している。
文句なしに美味い。彼女が理想とするグラッセだ。「はぅ……」と幸せなため息をこぼしながら、エリスは溶けてしまったそれを飲み込んだ。
そして最後に、メインディッシュ。
『豚ロースのはちみつ漬け焼き』だ。
ナイフとフォークを構え、エリスは息を飲んでそれと対峙する。
クレアが昨日の夜から仕込むと言っていたのは、恐らくこれだ。料理が苦手なエリスだが、知識はあるため作り方の想像はつく。『琥珀の雫』入りのタレに豚ロース肉の塊を一晩漬け込み、じっくりローストしたのだろう。
ちょうど良い厚みにスライスされたそれを、エリスはさらにナイフで一口大に切り、フォークで刺す。
そうして、期待に震える唇をゆっくり開け……口の中へと入れた。
直後、
「ん゛……っ♡」
口を押さえ、恍惚の表情を浮かべた。
柔らかな歯応え。
噛むほどに染み出すタレの味と肉の脂。
質の良い肉を使っていることもあるが、『琥珀の雫』に漬け込んだことでより柔らかくなっている。肉の繊維が解けていくような舌触りだ。
そして、この甘辛いタレ。抜群に美味い。『琥珀の雫』が持つ花の香りがハーブのようなアクセントになっており、豚肉が持つ脂の甘みをより引き立てていた。
美味い。
美味い以外の言葉が見つからない。
美味すぎて、胃がきゅんきゅんする。
ああもう、この男は。一体どれだけあたしの胃をときめかせれば気が済むのだろう?
ごくんっ、と咀嚼していた肉を飲み込み……
エリスは、うっとりとした顔でクレアを見つめ、一言。
「…………好きぃ……」
「ふふ、ありがとうございます」
「本っ当にぜんぶ美味しい…… こんなの作れるなんてかっこよすぎる……世界一のシェフじゃん……」
「愛するエリスのためならば、これくらいいつでも作りますよ」
「いつでも……? こんなに美味しいもの、また作ってくれるの……?」
「えぇ。何せ私は、貴女の恋人ですから。貴女が食べたいと言うのなら毎日でも作ります」
「ふぁあ、やば……幸せ過ぎてどうにかなりそう……」
「エリスの好みは熟知していますからね。どんな一流の料理人よりも、貴女好みの味を作れる自信があります」
「んぁあっ、やめてぇ……これ以上好きにさせないでっ……胃のときめきが止まらないぃ……っ」
「惚れ直しました?」
「うんっ♡」
「私なしじゃ生きていけないです?」
「うんっ♡」
「では、これからもずーっと、死ぬまで一緒にいましょうね。そうすれば、美味しいものをたぁくさん食べさせてあげますよ?」
「うんっ、一生一緒にいる♡ 一生クレアのご飯食べるぅっ♡」
よし、洗脳完了。
……というのは冗談で。さすがにここまでの反応をもらえることは、クレアも予想していなかった。
まるで催眠術にでもかかったかのようにうっとり自分を見つめるエリスに、クレアは口元がニヤつくのを堪えながら、
「おかわりもありますので、たくさん召し上がってくださいね」
と、最高に優しい声で言う。
エリスは「うんっ!」頷き、再びサラダから順番に食べ始めた。
口に入れる度に頬を押さえ、「おいひぃ♡」と笑う彼女。
その姿を見つめ、クレアは自身の心が安堵と幸福感で満たされるを感じる。
よかった。満足してもらえたようだ。
彼女が美味しそうに食べる様を眺めるのは、何物にも変え難い幸せな時間だ。
それが自分が作った料理なら尚更、喜びもひとしおである。
クレアは頬杖を付き、夢中で食べ進めるエリスを愛おしげに見つめる。
「……本当に、夢のようです」
「ん? 何が?」
「こうして貴女の誕生日を一緒に祝えて、作った料理を食べてもらえて、しかもその姿をこんな特等席で眺められるなんて……一年前は、想像すらしていませんでした」
そう。去年までは、ただ遠くから眺めているだけだった。
一輪の花を、父親の代わりに贈るだけ。
学生寮の夕食にケーキが配膳されるよう、こっそり根回ししたこともあったが……
今は、堂々と祝うことができる。
それが、何より嬉しくて。
自分でもやりすぎだと思うくらいに、張り切ってしまった。
「……ありがとうございます。貴女を幸せにするつもりが、また私の方が幸せになってしまいました」
そう言って困ったように笑うクレアの顔を、エリスは肉を頬張りながら覗き込み、
「いや、どう考えたってお礼を言うのはあたしの方だから。それに、さっきも言ったでしょ? 来年も再来年も、その先もずーっと、あんたには美味しいものを作り続けてもらうんだから。こんな一回きりで『夢』だなんて言わせないわよ?」
そう悪戯っぽく言うので、クレアは少し驚く。
先ほどの「一生一緒にいる」という言葉……美味しさのあまりハイになっているだけだと思っていたが、どうやら本気だったらしい。
自分といる未来を疑いもせず語る彼女。その笑顔に、クレアの胸がきゅうっと締め付けられる。
「……そうですね。これからもずっと、最高の料理で貴女をお祝いします。来年はもっと美味しいものを作るので、楽しみにしていてくださいね」
「えっ、これより美味しいもの?! そんなの作られたらまた好きになっちゃうじゃん!」
「えぇ、ぜひなってください。そうして一生、貴女を餌付けし続けるので」
「くっ、『餌付け』って聞くとなんかアレだけど、全然嫌じゃない……むしろして欲しい……ッ」
「あはは。エリスは本当にチョロ可愛いですね」
「ちょ、ちょろかわいい? なによソレ」
「喜んでくれるので作り甲斐があるという意味です。また朝昼晩と作って差し上げますね」
……それを聞いた途端。
エリスは、少し俯いて。
「…………一日中、料理作ってくれるのは嬉しいけど……そうすると、ちょっとアレなのよね……」
ごにょごにょとはっきりしない声で何やら呟くので、クレアは心配になり身を乗り出す。
「すみません、何か至らない点がありましたか?」
しかしエリスは、すぐに顔を上げ手を振る。
「あぁいや、えっと…………そう。美味しいものばっか作ってもらうと、つい食べすぎちゃうなぁって。いい加減太らないように気をつけなきゃね! あはは」
「……それだけですか?」
「そ、そうよ?」
「……本当に?」
「ほんとほんと」
「……なら良いのですが。何かあれば遠慮なく言ってくださいね。あと、貴女が太っても私は全く気にしませんし、ちゃんと健康的なメニューを考えますからご安心ください」
「う、うん。ありがと」
言い聞かせるようなクレアの言葉に、エリスは笑顔で頷いて。
再び目の前の料理を、嬉しそうに食べ始めた。
そうして、二人は誕生日の食事を心ゆくまで楽しんだ。
……が、しかし。
「──うっ、うっ……クレアのご飯こんなに美味しいのに、まだ食べたいのに……なんでお腹いっぱいになっちゃうの……?」
……と、エリスは涙をぽろぽろと流しながら、己の満腹感を嘆いていた。
快調なペースですべての料理を一回ずつおかわりしたエリスだったが、さすがに満腹になってしまった。
目の前に料理が残っているにも関わらず限界を迎えた自分の胃が情けなくて、やるせなくて、エリスは初めて満腹を理由に涙していた。
そんな彼女を、クレアは微笑みながら宥める。
「そんなに食べたいと思っていただけるのは嬉しいですが、無理はしないでください。お腹を壊しては元も子もありません。残った分は私が食べますし、またいつでも作りますから」
「ぐずっ、でも……でもまだ食べたいんだもん……っ」
「困りましたね……デザートにケーキをホールで用意しているのですが、まだこちらを食べると言うのなら、ケーキは明日にしますか?」
「いいえ、今すぐ持って来てちょうだい。ここからはデザートタイムよ」
『ケーキ』と聞いた瞬間、キリッと表情を引き締めるエリス。
いつ何時も、甘いものは別腹だ。満杯だったはずの胃がケーキを入れるためのスペースをぎゅぎゅっと空けるのを感じる。
彼女らしい反応に、クレアは思わず笑って、
「わかりました。では、すぐにお持ちしますね」
と、席を立つ。
すると同時に、エリスも立ち上がり、
「そうだ。お兄ちゃんとディアナも呼んでいい? ケーキはみんなで食べたいの」
そう言うので、クレアはすぐに頷く。
「もちろん。エリスがそうしたいなら、みなさんでお祝いしましょう」
「ありがと。んじゃ、二人を呼んでくるわ」
そうして、クレアは厨房へ、エリスはレナードとメディアルナを探しに客間へと向かった。
* * * *
「──何で俺が……三人で勝手にやっていればいいだろう」
渋い顔をしたレナードの背中を、エリスとメディアルナが押して歩く。
客間での食事を終え、自室へ戻ろうとしていたレナードを二人で捕まえたのだった。
「そんなこと言わないでよ〜今日はあたしの誕生日なんだからさ。みんなでケーキ食べよ?」
「そうですよレナードさん。ケーキは大勢で食べた方が美味しいんですから」
エリスとメディアルナは口々に言いながら、彼を客室へと連行する。
辿り着いた部屋の扉を開けると、既にクレアが戻っていた。テーブルには苺と生クリームで可愛らしくデコレーションされたホールケーキと、グラスに入った飲み物が四つ並べられていた。
エリスは思わずテーブルに飛び付き、目をキラキラと輝かせる。
「うわぁっ、おっきいケーキっ♡ おいしそぉっ♡」
「スポンジ生地に『琥珀の雫』を混ぜて焼きました。中にも苺がたっぷり入っていますよ。こちらの飲み物は、料理長が用意してくださったはちみつレモンソーダです」
「んんんっ、早く食べたいし飲みたいっ♡ ほら、ディアナもお兄ちゃんも座って座って!」
手招きをするエリスに、メディアルナは微笑みながら、レナードはやはり渋々といった表情で席に着く。
それを確認すると、エリスはグラスを手に取り、
「さぁっ、いよいよパーティーの始まりね。美味しいケーキと飲み物を楽しみましょっ。かんぱーいっ☆」
と、自ら音頭を取り、グラスを高く掲げた。