4-3 パーティーが始まる
その日の夕食は、エリスが予告した通り豪華なメニューが並んだ。
料理長からクレアへ、無言の誕生日プレゼントである。
クレアは他の使用人からもお祝いの言葉をもらいながら料理を残さず平げ、おかわりもして、誕生日の晩餐を楽しんだ。
そうして食事が終わった後、食器を片付けながら料理長に丁寧に礼を述べた。
「本当にありがとうございました。とても美味しかったです。明日はエリスの番なので、お話した通り厨房をお借りしますね」
その言葉に、料理長は何も言わずにクレアの背中をばんっ、と叩く。
しっかりやれ。そう言われているようで、クレアはエリスが彼に懐いている理由がわかった気がした。
片付けの後、料理長は厨房を去り、クレアだけが残される。
彼は、ぐいっと腕捲りをして、
「……さて、始めますか」
明日に向けての、料理の仕込みを始めた。
* * * *
──翌朝。
「おはようございます、エリス」
そんな優しい呼びかけで、エリスは目を覚ました。
瞼を開けると、そこにいたのは……案の定、クレアだ。
「んぁ……おはよ」
目を擦りながら、エリスはむくりと起き上がる。
何故、鍵をかけたはずの自室に彼がいるのかは、もはや聞くことすらしない。
それよりも今、彼女が気になるのは……
「……なに、この匂い」
言いながら、くんくんと鼻を鳴らす。
香ばしくて甘い香りが、ふわっと部屋の中に漂っているのだ。
その問いに、クレアは一歩下がって、
「朝食にスコーンを焼きました。紅茶も用意したので、お召し上がりください」
と、テーブルの上を手で示しながら、執事のような立ち振る舞いで言う。
そこには、二種類のスコーンとティーセットが置かれていた。
目にした瞬間、香りがはっきりと認識され、エリスは「スコーンっ?!」と目を輝かせる。
その反応に、クレアはくすりと微笑んで、
「お誕生日おめでとうございます。今日一日、貴女を美味しいものでおもてなししますので、どうぞお楽しみください」
と、やはり執事のように言ってから……
彼女の手を取り、その甲に優しくキスをした。
彼が用意したスコーンは絶品だった。
一つは、チョコチップ味。香ばしい生地の中に、大きめにダイスカットされたチョコレートがたっぷり練り込まれ、咀嚼する度に口の中で甘くとろける。
もう一つは、りんごハチミツ味。りんごジャムのさっぱりとした甘さと、ハチミツの濃厚な甘さが混ざり合い、ほっぺが落ちるような美味しさが口の中に広がる。
エリスは「ん〜♡」と唸りながら食べ進め……ふと、何かに気付いたように顔を上げ、
「これ……もしかして、『琥珀の雫』を使ってる?」
そう尋ねる。
彼は静かに頷き、
「さすがですね、おっしゃる通りです。お土産として持ち帰る分とは別に、メディアルナさんから追加でいただきました」
「やっぱり。普通のハチミツと違って香りが華やかだもん。クレアが作ったりんごジャムと合わさって最強に美味しい……こっちのチョコのも最高……」
「ふふ。喜んでいただけてよかったです」
「でも、こんな貴重なハチミツをたくさんもらっちゃって、なんだか悪いわね」
「どんなに貴重な食材も、食べなければその価値を発揮できません。貴女に食べていただけることをメディアルナさんも喜んでおられましたよ。遠慮せずにお召し上がりください」
「ならいいけど……ていうか、晩ごはんを作ってくれるって話じゃなかったっけ? 朝ごはんまで用意してくれたの?」
「えぇ。朝食も昼食もおやつも、今日は私が作ります。しかも全て、『琥珀の雫』を使用した料理にする予定です」
「えっ、ぜんぶ?!」
「はい。貴女のお誕生日なのですから、最高の食材を惜しみなく使わせていただきます。それに、夕食だけでは私のこの"祝福欲"が治らないので」
「なによ、"祝福欲"って」
真面目な顔で言うクレアに、エリスは思わず笑う。
昨日の花畑のプレゼントで充分だったのに、今日一日の食事を全て作ってくれるなんて……なんて贅沢なのだろう。
思えば、母親が死んでからこんな風に誰かに誕生日を祝ってもらうことはなかった。
それを寂しいと思っていたわけではないが、こうして祝福されるのはやはり嬉しい。
そんなことを考えながら、エリスは花の香りがする紅茶を啜り、至福のため息を溢す。
「……はぁ、全部おいしい。朝早くからありがと。これは夜ご飯までにお腹がパンパンにならないよう気をつけなきゃね」
そう言って、スコーンの最後のひとかけを口の中へ放り込んだ。
* * * *
……が。
結局彼女は、そのセリフ通りの運命を辿ることになった。
クレアが用意した昼食は、トマトとベーコンのパスタ。
酸味の効いたトマトソースに、香ばしく焼いた厚切りベーコン。バジルと黒胡椒、そして『琥珀の雫』を隠し味に加えた絶品の一品だ。
それをエリスは、美味い美味いと感動しながらぺろりと平らげ……
続くおやつのメニューは、ハチミツとチーズのフレンチトースト。
卵と砂糖をたっぷり含んだじゅわじゅわ食感のトーストに、『琥珀の雫』とクリームチーズをかけた上品なスイーツ。
それをエリスは、甘い甘いと悶えながらぺろりと平げ……
結果。
「お腹が!! くるしい!!!!」
主屋一階の客間に、エリスの声が響き渡る。
笛の練習を終えたメディアルナはびくっと驚き、レナードは顔を顰めてエリスの方を振り返った。
「どうでもいいことを無視できない音量で吠えるな、犬女」
「どうでもよくないっ! このままじゃ晩ご飯がマトモに食べられないわ!! 大問題よ!!」
「晩飯を食わなければいいだけの話だろう」
「はぁ?! そんな選択肢あるわけないでしょ?! クレアがあたしのために作ってくれてんのよ?! 今まさに支度を始めたところだし! 何より全部おいしいんだもん、食べるに決まってるわ!!」
「煩いな……なら黙って食え」
「だから、そうしたいけどお腹がいっぱいだから困ってるんじゃない! ああもう、何かお腹が空くようなことをしなくちゃ……」
「犬らしく一人で庭を走り回って来たらどうだ? ここで無意味に吠えられるのは迷惑だ」
「だぁから、犬じゃないってば!」
くわっ、と犬歯を剥き出しにして怒るエリス。
そのやり取りに、メディアルナは「ふふ」と笑って、
「では、わたくしと街へお出かけしませんか?」
そう申し出る。
エリスが「えっ?」と聞き返すと、
「ちょうど買いたいものがあるのです。それに……街の様子も見ておきたくて」
と答えるので、エリスは「なるほど」と納得する。
昨日、領主の病状と今後についての方針が領民に公表された。
それによる混乱が起きていないか、彼女は心配しているのだ。
昨日クレアの画材セットを買いに歩いた限りでは大きな混乱は見られなかったことをエリスは思い出すが……
それでも、自分の目で確かめた方が安心するだろうと思い、
「わかった。ずーっと屋敷の中にいても気が滅入っちゃうしね。一緒に行きましょ」
と、笑顔で返した。
しかしそこで、レナードが腕を組みながら口を挟む。
「俺は反対だ。こんな状況で"領主の娘"が街中に現れたら、それこそ混乱が起きる。領主は大丈夫なのか、これからどうするのかと、質問攻めに遭うのは自明だ」
「た、確かに」
こればかりは素直に同意するエリスだが……
横で肩を落とすメディアルナを見て、何とかならないかと頭を捻る。
そして、
「……そうだ! 変装しましょう!」
ぽん、と手を叩き、言う。
「へんそう?」と首を傾げるメディアルナに、エリスは指を立て、
「あたしが使ってた男装セットがあるわ。それで男の子のフリして出かければいいのよ!」
「えっ?!」
「ふむ……無しではない案だな」
「えぇぇぇっ?!」
声を上げるメディアルナだが、意外にもレナードは肯定的だ。
エリスはパチンと指を鳴らすとすぐに駆け出し、「待ってて!!」と客間を飛び出して行った。
──程なくして、男装道具一式を手に戻ってきたエリスは、客間からレナードを追い出し、メディアルナの着替えを始めた。
眉をメイクし、カツラを被せ、胸は……あまり潰す必要はなかったが、念のため布を巻き付けて。
男性使用人の制服であるシャツとスラックスを穿かせれば、完成である。
「入っていいわよ、お兄ちゃん」
エリスは扉を開け、廊下で待たされていたレナードを招き入れる。
客間に足を踏み入れた彼の目の前にいたのは……
儚げな美少年に変身した、メディアルナだった。
同じカツラと服を使っているというのに、エリスの男装とはまた雰囲気が違う。
想像以上の完成度に、レナードは思わず目を見開き、動きを止める。
「……ど、どうでしょうか、レナードさん」
しかし、恥ずかしそうに尋ねるその声が完全にメディアルナのものだったので、彼はふっと笑って、
「そうだな。そのか細い声を出さなければ、少年として認識されるだろう」
「あっ、声……そうですよね、なるべく話さないようにします」
「冗談だ。あまり気にするな。意識しすぎるとかえって不自然になる。全くの素で喋っていたこいつでも何とかなったんだ、目立つようなことをしなければ問題はない」
「ちょっと! これでもちゃんと声低くしたり喋り方には気をつけていたんですけど!!」
エリスがすかさず反論するが、レナードは「ふん」と鼻を鳴らす。
「あれのどこが『気をつけていた』んだ? お前みたいに自己主張が激しくない分、彼女の方がよっぽど素質がある」
「はぁ?! あたしだって上手くやれてたでしょ?! そんなん言うならお兄ちゃんだって女装してみなさいよ! どーせできないだろうけど!!」
「何を言う。女装に関しては隊の中で俺の右に出るものはいない」
「……え?」
思いがけない返答に、エリスだけでなくメディアルナまでもが目を点にする。
その視線に、レナードは「んんっ」と咳払いをして、
「……とにかく、出かけるなら早くしろ。日暮れ前には戻って来い」
「って、お兄ちゃんは行かないの?」
「あぁ。護衛はお前一人で十分だろう。俺は……他にやることがある」
そう。彼は、笛に纏わるこの屋敷の過去をもう一度調べ、"禁呪の武器"が持つ狂戦士化の呪いの発動条件を明らかにしたいと考えていた。
笛の練習の合間を縫って書斎に出入りしていたが、未だ有力な情報は得られていない。
もちろんメディアルナが笛を習得することも重要だが、彼にとっては呪いに関する調査も急務だった。
そのことをエリスもなんとなく察し、それ以上追求せずに頷く。
「わかった。じゃ、ディアナ連れてちょっと行ってくる」
そう言って、エリスはすたすたと客間を出て行く。
それを慌てて追いかけながら、メディアルナは振り返り、
「い、いってきます!」
と、レナードに言う。
その声に、彼はやはり少し微笑んで、
「あぁ。気を付けてな」
優しい声音で、小さく手を振った。
* * * *
リンナエウスの街は、以前と変わらず活気付いていた。
仕事を終え帰途に就く人や、楽しそうに駆け回る子どもたち。呼び込みをする商人や、夕飯の買い出しに歩く人。
そんな人々で賑わう商店街を眺め、メディアルナはほっと安堵する。
「よかった……大きな混乱は起きていないようですね」
隣を歩くエリスが、その言葉に頷く。
「うん。昨日あたしとクレアが買い物した時も、こんな感じで落ち着いてたわ」
「わたくしが心配しすぎていたのかもしれません。やはりこの街の方々は……ううん、この街だけでなく領全体で見ても、優しくて穏やかな方ばかりなんですよね。不用意に取り乱すことなく、いつもの日常を送ってくれているみたいです」
「うーん、確かにこの地域の人たちの性格もあるかもしれないけど……領主の今までの統治の仕方がよかったからかもしれないわよ?」
何気なく返されたエリスの言葉に、メディアルナは「え?」と聞き返す。
エリスは、穏やかな街の風景を見渡しながら、
「あんたの父親は正直、人としてはどうなの? ってところがあるけど……領主としては、ちゃんと領を治めていたんじゃない? 治安の良さだって、あの笛だけが理由じゃないでしょ? だから、こういう事態になってもデモや暴動が起きない。みんな『大丈夫、なんとかなる』って思っているのよ、きっと」
そう、軽い口調で言うので。
メディアルナは、色々なことに対する不安や責任感が、少し軽くなったような気がして。
込み上げそうになる涙を、ぐっと堪えながら、
「……ありがとうございます。これからも、みなさんの信頼に応えられるよう頑張ります」
そう、力強く答えた。
それから、口元を押さえ楽しそうに笑う。
「うふふ。上手く変装できているみたいですね。誰もわたくしだと気付きません」
「ね。作戦大成功だわ」
「エリスのおかげです。本当にありがとうございます」
「ううん。むしろあたしの腹ごなしに付き合わせちゃって悪いわね」
「いいえ。街の現状を見ることができたので、感謝しています。それに……お友だちと二人で街を歩くのなんて初めてで、さっきからワクワクが止まらないんですよ?」
『お友だち』。
正面からそう呼ばれ、エリスは恥ずかしいようなこそばゆいような気持ちになり、目を逸らしながら呟く。
「あ、あたしも…………」
「え?」
「……何でもないっ。ていうか、今は"男女"で歩いているんだし、ハタから見たらデートって思われてるかもよ?」
「はっ! そそそれはクレアルドさんに申し訳ないです……!!」
「あはは、冗談よ。んで? さっき言ってた『買いたいもの』ってなに?」
エリスが尋ねると、メディアルナは微笑んで、
「エリスとクレアルドさんへの、お誕生日プレゼントです」
「へっ?」
「こんなにお世話になったのに、何も贈らないでいるのは気が済まなくて……お二人が屋敷にいる間に何か用意したいと思っていたのです」
「で、でも、『琥珀の雫』もたくさんもらっちゃったし、これ以上は別に……」
「それはそれ、これはこれですよ。実はもう、贈りたいものは決まっているんです」
「えっ。な、なに……?」
遠慮しつつもつい気になってしまい、窺うように尋ねるエリス。
メディアルナは、穏やかに微笑んで、
「このパペルニア領の、グルメに関するガイドブックです」
そう答える。
瞬間、エリスの耳がぴくぴくっと動き、あからさまに食い付く。
「ガイドブック?! そんなのがあるの?!」
「はい。特産品の歴史や人気のお土産ランキング、郷土料理の紹介やレシピが載っています。毎年最新版が発行されるのですが、わたくしも毎回読むのが楽しみなんです」
「ふわぁ、レシピまで?! 何それ最高じゃん!」
「うふふ。食べるのが大好きなお二人に、王都へ帰られた後もこのパペルニアの食を楽しんでいただきたいと思って。そうして時々思い出して……また来たいなぁと思っていただけたら、わたくしも嬉しいです」
というメディアルナの声に、少しの寂しさのようなものを感じ……
エリスは足を止め、彼女に向かい合う。
「……実はね、これから毎年この時期に、クレアと一緒にここへ来ることにしたの。その度にディアナの家を訪ねて『琥珀の雫』を分けてもらうって、勝手に決めたから」
「え……そうなのですか?」
「うん。あんたが『もうやめて』って言うまで、毎年しつこく顔を出すから。だから、ちゃんとハチミツ用意して待っててよね」
そう言って、悪戯っぽく笑う。
その笑顔を見て、メディアルナは……嬉しさに胸が締め付けられるのを感じる。
特殊な任務に身を置くエリスたちとは、一度別れたらもう会えないような気がしていた。
でも、また会える。会いに来てくれる。
それだけで、それを励みに頑張ることができそうだった。
メディアルナは満面の笑みを浮かべて、エリスの手を取る。
「……はいっ! エリスたちが来てくれるのを、毎年楽しみに待っています!!」
「うん。すぐには無理かもしれないけど、落ち着いたら王都にも遊びに来てよ。美味しいご飯屋さんいっぱい知ってるから、案内してあげる」
「はい! ぜひ!!」
言って、にっこり笑うメディアルナ。
エリスは、握られた手の感触に少し照れながらも、『友だち』と呼べる相手がいるのも悪くないなぁ、と……
胸に温かな感情を抱きながら、微笑み返した。
「……さて。それじゃあお言葉に甘えて、そのガイドブックをプレゼントしてもらおうかな」
「えぇ、さっそく本屋さんへ行きましょう! 他にエリスが行きたい場所はありますか?」
「んー、そうね……服屋かな」
「まぁ。エリスはおしゃれさんですね。昨日着ていた新しいワンピースも素敵でした」
「違う違う。今日買うのはあたしのじゃなくて……」
ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべるエリスに……
メディアルナは無邪気な表情で、「?」と首を傾げるのだった。