3 花束を、君に
ガタゴトという断続的な音。
お尻に響く、鈍い振動。
これは、もしかしなくても馬車に乗せられているな、と……
目を覆われ、鼻を摘まれ、腕を縛られたエリスは、残された聴覚と触覚から、自らが置かれた状況を察していた。
その推察通り、クレアは拉致した彼女を馬車に乗せていた。
リンナエウス家のものではなく、朝一で手配した街の乗合い馬車である。
目的地は、リンナエウスの南にあるペトリスという農園。
それは、エリスも一度聞かされているため把握している。だから、どこへ行くのかということよりも、
「……どーいうつもり?」
と、自分が何故拘束されているのか、という疑問をぶつけた。
その明らかに不機嫌な鼻声を聞き、クレアは思わず笑う。
「すみません。到着するまで内緒にしておきたくて、こうするより他なかったのです」
「ここまでしないと内緒にできないものって逆に何?!」
「だから内緒ですって」
「ていうかいくらなんでも急すぎなのよ! ハタから見たら完全に誘拐じゃない!! せめて心の準備ぐらいさせてくれてもよかったんじゃないの?!」
「だってエリス、事前に予告したら絶対に根掘り葉掘り聞いてくるじゃないですか。『ヒントちょうだい』とか言って」
「そりゃ聞くわ! 気になるもんっ!!」
「だからですよ」
……と。
目を覆われたエリスにはわからないが、クレアは少し落ち着かない様子で、
「あんまり聞かれると、つい言ってしまいそうで……案外大変なのですよ? 内緒にしておくのも。私だって早く教えたいのを我慢しているのですから」
なんて、珍しく余裕なさげに言う。
それを聞き、エリスは、
「……わかったわよ。もう何も聞かない。着くまで大人しくしてるわ」
ため息混じりに言って、椅子に背中を預けた。
にしても……
と、エリスは摘まれた鼻に意識を向け、思う。
こんな風に嗅覚を封じられると、予想以上に周囲の状況を把握できなかった。
今、この馬車がどんな場所を走っているのか想像もできないし、喋ってもらえなければクレアがどこにいるのかもわからない。
視覚もさることながら、普段から如何に嗅覚に頼って生きているかがわかるな……
なんてことを考えていると、
「…………ひゃあっ」
突然、腕にこそばゆさを感じ、エリスは思わず悲鳴をあげる。
いつの間にか隣に移動していたらしいクレアに触られたのだ。
「なっ、何すんのよ!?」
「いえ、せめて腕の縄だけでも解いてさしあげようと思って」
そう言って、クレアはエリスの手首に巻いたロープを解く。
「……はい、取れました。すみません、痛くなかったですか?」
「うん、へーき」
「あ、でも私が良いと言うまで目隠しと鼻の洗濯ばさみは取っちゃだめですよ? 直前まで内緒にしておきたいので」
「わかってる。ちゃんと言う通りにするから安心して」
「ありがとうございます。……それにしても」
つぅ……っと、彼はエリスの太ももを指でなぞりながら、
「こうして視界と匂いを奪うと、貴女も無防備になりますね」
「ちょ……変な触り方するなっ!」
「なんだか本当に誘拐しているみたいですね。どうします? このまま知らないところに連れて行かれて、私に監禁されてしまったら」
「……監禁?」
「そう」
聞き返す彼女の耳元に、クレアは口を近付け、
「一生閉じ込められて、私以外の人間と会えなくなるのです……怖いですか?」
そう、妖しく囁く。
しかし……
エリスは、「んー」と唸りながら少し考え、
「自分でグルメ旅できなくなるのは惜しいけど……代わりにあんたがちゃんとご飯食べさせてくれるなら、別にいいかな」
あっさりと、そう答えた。
クレアが思わず「え?」と聞き返すと、エリスは「だって」と続けて、
「クレア以外に会えなくて困る人なんていないし……外に出られなくても、あんたなら絶対美味しいものを用意して食べさせてくれるでしょ? それはそれで、『今日は何を食べさせてくれるんだろう』って毎日楽しめそうだし、怖くはないかなって」
などと、まったく問題なさそうに言うので。
この人は……時々無自覚で特大のデレをかますんだよなぁ……
と、クレアは胸を押さえ、暫し悶えてから、
「……そんなことを言っていると、いつか本当に監禁してしまいますよ?」
「えー。したいの?」
「したい気持ちは多分にありますが、一方で貴女には貴女らしく自由に生きて欲しいという思いもあります」
「二律背反ね」
「愛とはそういうものなのです。エリスは? 私のことを閉じ込めたいって思ったりしません?」
「はぁ? 思うわけないでしょ」
すぱっと即答され、少しショックを受けるクレアだったが……
……まぁ、そりゃあそうだよな。
と、すぐに納得して。
エリスの頬を、ぷにぷにと指で突く。
「しかし、鼻を摘まれただけでこうも隙だらけになるとは、ちょっと心配ですね。これを機に気配を読む練習をしませんか?」
「けはい?」
「そうです。今から私が貴女のほっぺの右か左、どちらかを指で突きますので、気配を感じたら突かれる前に『右』か『左』かを言い当ててください」
「それくらいさすがにわかるわよ。いいわ、やってやろうじゃな……」
ぷにっ。
……と、言葉半ばで右の頬を突かれ。
エリスは、こめかみをヒクつかせる。
「……ちょっと。まだスタートって言ってないから!」
「それは失礼いたしました。では、あらためてどうぞ」
クレアに促され、エリスは集中力を高めてから……
「……スタート!」
気配当てゲームの火蓋を、切って落とした。
さぁ、右か、左か……
視覚も嗅覚も封じられた今、頼みの綱は己の第六感のみ。
エリスは、極限まで神経を研ぎ澄ませ──
カッ! と心の目を開眼させながら、
「──右ッ!!」
と、感じたままに叫ぶ!
直後!!
──ぷにっ。
と、クレアの指に優しく突かれたのは…………
反対の、左側の頬だった。
* * * * *
そうして、時間と景色はゆっくりと流れ……
「──あ。そろそろ着きますよ、エリス」
窓の外の風景に目を向け、クレアが言う。
しかし、
「だめよ、もう一回! 次こそは当ててみせるんだから!!」
……と、すっかり気配当てゲームのドツボにハマったエリスが、息を荒らげながらそう返した。
視覚と嗅覚を奪った状態での暇潰しになればと思い始めたことだったが……想像以上の効果があったようだと、クレアは笑みをこぼす。
「あはは。じゃあ最後の一回、いきますよ……?」
「…………左ッ!」
「残念。右です」
「ぐわぁあっ、何故ッ!!」
「ほら、もう本当に着きました。降りる準備をしましょう」
その言葉通り、馬車はゆっくりと停車した。
クレアは扉を開けると、目隠しをしたままのエリスの手を取り、慎重に馬車を降りる。
降り立った瞬間、心地よい風がエリスの頬を撫でた。
靴の裏に感じる地面の感触が、舗装された道ではなく土と砂利が混ざったような質感だ。
クレアが言っていた農園に、辿り着いたのだろう。
「こちらへ。ゆっくりで大丈夫です」
エリスの手を引き、クレアは落ち着いてエスコートするが……
一歩、また一歩と進む度に、彼の鼓動は加速していた。
いよいよだ。
数ヶ月前から準備していた、エリスのための計画。
それをついに、彼女に明かす時が来た。
どんな反応をするだろう。
喜んでくれるだろうか。
呆れるだろうか。
これまでにも、彼女に内緒で贈り物を用意することは何度かあったが、今回は今までのものとは比べ物にならない程に緊張している。
それだけ、想いを込めたものだった。
その緊張が握られた手から伝わり、エリスは何も言わず彼について行く。
そして。
二人の足が、その場所に辿り着いた。
心臓が、鼓膜に響く程に高鳴っている。
クレアは、一度呼吸を整えると、
「……着きました。今、取りますので……ゆっくりと、目を開けてください」
そう言って、エリスに着けていたアイマスクと洗濯ばさみを、取り払う。
エリスは、すぅ……っと息を吸いながら…………
静かに、瞼を開けた。
そして。
その瞳に映った光景に……
「………………うわぁ…………」
思わず、感嘆の声を漏らした。
エリスが立っていたのは、広大な花畑の真ん中だった。
十や二十では収まらない。数百株は植えてあるだろうか。
花はすべて輝く程の純白で、青い空に向かって凛と花弁を広げている。
心地よい花の香りに包まれ、エリスは目を見開きながらくるりと周囲を見回した。
まっさらな絨毯のように、一面に咲き誇るその花は──彼女のよく知る花だった。
「これ……全部、マーガレット?」
驚きながら尋ねるエリスに、クレアは頷く。
「そうです。全て、貴女の誕生花です」
そして。
エリスの手を取り、そっと握って。
「一日早いですが…………十七歳のお誕生日、おめでとうございます。エリス」
そう言って、手の甲にそっとキスをした。
……そう。
明日は、エリスの十七回目の誕生日だ。
クレアは彼女の手を握り、赤い瞳を見つめる。
「……覚えていますか? あのイリオンでの一件の後……私は貴女に、全てを打ち明けました。貴女の父親のことも、私がずっと貴女を見ていたことも」
それは、もう四ヶ月も前のこと。
『風別ツ劔』の一件の後、クレアは彼女が知らない過去について話した。
あの時交わした会話を、彼は今も鮮明に覚えている。
「貴女は、私が話したことを全て受け止め、『大好き』だと言ってくれました。そして……次の誕生日には、マーガレットの花を『花束にしてちょうだいね』、と言ったのです」
「……たしかにそんなこと言ったかもしれない。なるほど、それでわざわざ花畑に連れて来てくれたのね。花束を作るために」
納得したようにエリスが言うが……
しかしクレアは、にこっと笑って、
「いいえ。ここから花束を作るのではなく……この花畑すべてが、私から貴女へ贈る花束です」
……それを聞いて。
エリスはぱちくりとまばたきをする。
「…………待って。え? ここにある花、ぜんぶ?」
「はい。すべて私が植えました」
「はぁ?! あんたが植えたの?!」
「そうです。この区画を買い取って、私一人で植えました」
「かかか、買い取って、植えた?!」
「えぇ。なので、この花はすべて貴女のものです。もちろん、毎日の水やりなどはこちらを管理している農園の方にもご協力いただきましたが……無事綺麗に咲かせることができて、本当によかったです」
「いやいやいや! えぇぇ……だってコレもう、花束じゃなくて花畑じゃん!!」
「すみません。私の愛を伝えられるよう、うんと大きな花束にしようと考えていたら、花束の概念がだんだんわからなくなってしまって。花を集めたものを花束と呼ぶなら、その最上級は花畑なのではという考えに至り、結果、畑ごとプレゼントすることにしました」
飛躍しすぎな彼の思考に、エリスは言葉を失うと同時に納得する。
そうか……一緒に暮らしてからも時々泊まりがけでの任務へ赴いていたのは、ここの手入れをするためだったのだ。
絶句して驚くエリスに、クレアは微笑み、
「……私が初めて貴女を見つけた日から、今日でちょうど三年です」
と、穏やかな声で言う。
「今思えば、一目見た時から貴女に恋をしていたのですが……貴女への愛情は、今も募る一方です。多くの時間を共にし、貴女を知れば知る程、貴女のことをもっと好きになる。この大きすぎる気持ちを伝えたくて、伝えなければ破裂してしまいそうで、貴女には理解できないような変態行為に走ってしまっていることは自覚しています」
そして、少し自嘲気味に笑って、
「今回の贈り物も、貴女に引かれるんじゃないかと思ったのですが……それでもやめられませんでした。案の定、びっくりさせてしまいましたね。こんな愛し方しかできなくて、すみません」
と、申し訳無さそうに告げられたその言葉に、エリスは、
「……何言ってんの?」
微かに、声を震わせて、
「あたし今…………すっっごく嬉しいよ?」
と。
クレアの目を、真っ直ぐに見つめ返す。
「……ほんとはね、何か用意してるのかなって、ちょっと気付いてたの。あんたから、マーガレットの花の匂いがしたから」
「え……そんな、いつの間に……?」
「あんた、変な香水の匂いつけて帰って来たことあったでしょ? あの時、微かに花の香りがしたのよ」
そう、あの日……
クレアから女物の香水の匂いがして、レナードに意地悪なことを言われた日。
レナードは、香水の匂いにしか気付かなかったようだが、エリスは違った。
恐らくあの日も、クレアはここへ来ていたのだろう。
香水の香りの奥に、微かにマーガレットの匂いを感じた。
だからきっと、誕生日に向けて何か動いているのだろうと。
レナードが言ったような、女性を誑かすようなことをしてきたはずがないと、確信していたのだ。
「……あんたの愛情表現にはびっくりさせられることもあるけど、こうして伝え続けてくれるおかげで、あたしは不安にならずにいられるのよ?」
「不安……? 何に対してですか?」
「だから、その……クレアは、あたしよりも経験豊富でしょ? ぜんぶ任務のためにしてきたことだってわかってはいるけど……あたしだって、あんたの過去にまったくヤキモチ妬いていないわけじゃないのよ?」
……などと、思いがけない告白をされ、クレアは言葉を失う。
驚いた。
まさか彼女が、自分の過去に嫉妬心を抱いていたとは……
そういえば、先日の"痴話会議"の時にもそんなことを言っていた。
あの時彼女をモヤモヤさせてしまったのも、そんな気持ちが根底にあったからなのかもしれない。
「……けどね、あんたがこうして愛情を伝え続けてくれるから、嫉妬することも忘れちゃうの。だから、さっきも言ったように、あんたを閉じ込めようとは思わない。だってそんなことしなくたって、あんたはずっとあたしの側にいるでしょ?」
と、先ほど馬車の中でした会話を振り返りながら言う。
それから……少し照れ臭そうに目を逸らし、
「言っとくけど……あたし、たぶんあんたが思っているよりも、あんたのことが好きだからね? 上手く伝えられていないのがいけないんだろうけど……好きな人にこんなプレゼントもらって、嬉しくないわけないじゃない。だから、謝ったりしないで?」
そして。
クレアの手を、きゅっと握り返して、
「……ありがとう、クレア。最っ高の誕生日プレゼントよ。あたし今、世界で一番幸せ!!」
眩しいくらいの笑顔で、そう言った。
その瞬間、クレアは苦しい程に胸が締め付けられて。
もう、いても立ってもいられなくなって。
エリスの身体を、ぎゅうっと抱き締めた。
「わわっ、くるしいっ」
「エリス……好きです、大好きです……っ」
「…………あたしも」
と、言いかけて。
エリスは、ぱっと顔を上げると、
「…………あたしも、大好きっ!!」
花畑に響き渡るくらいの大きな声で、そう返した。
不意打ちを喰らい目を丸くするクレアに、エリスは顔を真っ赤にして、
「……た、たまにはあたしからも、気持ちを伝えなくちゃね」
「エリス……」
「……いろいろあったけど、今回の任務、一緒に来れてよかったわ。クレアの仕事のこと、いろいろ知れたし……もっと、好きになったから」
「…………っ」
その言葉に、クレアは泣きそうなくらい嬉しくなって。
彼女の身体を包み込むように、さらに強く抱き締めた──
──しばらく二人は、真っ白な花畑の真ん中で抱き合った。
聞こえるのは、風が花を揺らす優しい音だけ。
お互いの体温が、鼓動が、匂いが混ざり合うのを感じながら……この瞬間が永遠に続けばいいのにと、二人は幸せな気持ちに浸った。
やがて、静かに離れると……エリスが「ふふっ」と笑い出す。
「何ヶ月も前から準備していたなんて、本当にご苦労さま。この数を一人で植えるの、相当大変だったでしょ?」
「いえ。貴女の驚く顔を思い浮かべていたら、いつの間にか植え終わっていました。それに、こうして喜んでもらえたので、内緒にしていた甲斐がありました」
「にしても、これ……土地ごと買っちゃったのよね? そんなことして、これからどうするつもり?」
言葉とは裏腹に、どこか楽しそうな声で尋ねるエリス。
クレアは、彼女と共に白い花々を眺め、
「……毎年、貴女の誕生日にはここへ来ましょう。そして、こんな風に花を眺めるのです。あの辺りにテーブルと椅子を置いて、休めるようにしてもいいかもしれません」
「いいね。この街の美味しいお茶とハチミツのスイーツを持って来たら最高かも」
「なら、メディアルナさんのところに顔を出して、『琥珀の雫』をいただいちゃいましょう。誕生日プレゼントということで、毎年強請りに行くのです」
「それ賛成! んふふ。楽しみね」
そう言って笑うエリスの横顔を、クレアは愛おしげに見つめる。
──来年も、再来年も、その先もずっと。
彼女の誕生日を、一番近くで祝いたい。
だから、いつか枯れてしまう花束ではなく、毎年植え替えることのできる花畑を用意した。
そうすれば、これから先も毎年、"誕生日は二人で過ごす"という未来像を彼女に植え付けることができるから……
……などという重すぎる考えが裏にあることは、彼女には秘密にしておこう。
そんな胸の内を隠すように、クレアは穏やかに笑って、
「明日の誕生日本番は、私が腕によりをかけてご馳走を用意しますからね」
「えっ、ご馳走?!」
「はい。既に料理長に厨房をお借りする許可を得ています。楽しみにしていてください」
「わぁーいっ! ちょー楽しみっ!! クレアのご飯久しぶりだから嬉しいっ♡」
と、ぴょんぴょん跳ねてはしゃぐエリス。
それをクレアが微笑ましく眺めていると……
ぴたっ、と、急にエリスが動きを止めて、
「…………待って。そういえば……」
笑顔から一転、その顔をさーっと青ざめさせ、
「…………あたし、クレアの誕生日がいつなのか、知らない……」
……と、罪悪感に全身を震わせながら言った。
エリス自身が誕生日というものに執着がなく、他人のそれを祝ったこともあまりなかったため、すっかり頭から抜けていたのだ。
「ご、ごごごごめん……あたし、自分ばっか祝ってもらっちゃってた……今さらだけど、クレアの誕生日教えて……?」
そう、泣きそうになりながら尋ねるが……
クレアは、困ったように笑って、
「私に誕生日はありません。自分の生まれた日を知らないので……国の施設に引き取られた時を四歳として、そこから一年ごとに名乗る年齢を増やしてきました。だから、そんなに落ち込まないでください」
さらりとした口調で、とんでもないことを言ってのけた。
それを聞き、エリスは胸が抉られるような衝撃を受ける。
クレアには、誕生日がない。
自分が生まれた日を、知らないから。
きっと、プレゼントをもらったり、お祝いをしてもらったこともないのだろう。
彼の生い立ちが普通でないことは重々承知しているつもりだったが……まさか、これほどまでとは。
こんなに素敵な誕生日プレゼントを用意してくれる彼なのに、彼自身は一度も祝われたことがないなんて……
そんなの、悲しすぎる。
エリスは、バッとクレアの手を握ると、
「誕生日、ちゃんと決めよう。いつがいい?」
真剣な眼差しで彼を見つめ、言う。
しかしクレアは、遠慮がちに笑い、
「いえいえ、いいですよ。貴女のお誕生日を一緒にお祝いできれば、それで充分……」
「ダメ。あたしが嫌なの。クレアが生まれて、生きていることをお祝いする日がなくちゃ……あたしが悲しい」
そう言って、本当に悲しそうな顔をするので……
クレアは胸を打たれ、口を閉ざす。
自分に誕生日がないことで、エリスがこんな顔をするとは思わなかったのだ。
エリスは暫し「んー……」と唸った後、ぱぁっと顔を上げて、
「そうだ、今日にしちゃうのはどう?」
「え? 今日ですか?」
「そう! 今日って、あんたが初めてあたしを見つけた日なんでしょ? あんた言ってたわよね、『その日からまるで別人みたいになった』って。今のクレアに生まれ変わった日ってことで、今日にしない? ね、いいと思うけど」
……と、名案だと信じて疑わない目で、クレアを見上げてくる。
その瞳に映る自分の顔が、ぽかんと口を開けた情けないものだったので、クレアは思わず笑ってしまう。
"自分の誕生日を決める"。
そんなこと、考えたことすらなかった。
しかもそれが、エリスに初めて出会った日になるなんて……
それを、彼女から与えられるだなんて。
きっと、無意識なのだろう。
誕生日という一生付き纏う記念日を『自分と出会った日』にすることが、どれほど相手の人生を束縛するか……彼女は、考えてすらいない。
それくらい、エリスにとって、これから先も自分と一緒にいることは"当たり前"なのだ。
そのことが、何よりも嬉しかった。
クレアは、握られた手を優しく握り返し、
「……はい。今日を誕生日として良いのなら、それが一番嬉しいです。エリスと一日違いですしね」
「うんうんっ。そしたら毎年、二日連続でケーキ食べられるもんね♡」
って、本当の狙いはそこだったのか?
と、彼女らしい発想に、思わず笑みを溢して。
「……ありがとうございます、エリス。貴女へプレゼントをしたつもりが、もっとすごいものをもらってしまいましたね」
「何言ってんのよ。あんたの誕生日はまだ始まったばかりよ? これから街に行って、プレゼントを選んで、お屋敷に帰ったらあたしがケーキ作るから。あとは? なにかしたいことある? 今日だけは何でも言うこと聞いてあげるわよ」
「えっ、本当ですか? それじゃあ……」
「ただし、いやらしいコト以外で」
「………………」
「あからさまに残念そうな顔しない!」
「冗談です。では……キスは、いやらしいコトに含まれますか?」
腰に手を回し、身体を引き寄せながら尋ねるクレアに、エリスは呆れたように笑う。
「それ、こないだも聞いた」
「えぇ。常に貴女の唇を狙っているので」
「怖いなぁ、もう」
「それで、答えは?」
鼻と鼻がくっつきそうな距離で見つめられ、エリスは怯みそうになるが……
「……目、つぶって」
「え?」
「いいからつぶれ!!」
「……こうですか?」
言われるがままに目をつぶるクレアの胸ぐらを手繰り寄せ……
──ちゅっ。
……と、不器用なキスをした。
そしてすぐに離れると、ぽつりと一言。
「……はい。したよ」
「あはは」
「何がおかしいのよ!!」
「すみません、可愛くてつい。でも……ちょっと足りないです」
言った直後、クレアは再び顔を近付け、彼女の瞳を覗き込み、
「今日は誕生日なので…………もう少しだけ、欲しがってもいいですか?」
そう囁く。
エリスは、恥ずかしそうに頬を染めるが……ふっと、小さく笑って。
「……いいよ、誕生日だもん。欲しいなら……好きなだけあげる」
彼の頬を、優しく両手で包み込むと、
「……おめでとう、クレア。生まれてきてくれて……見つけてくれて、本当にありがとう」
照れたように笑いながら。
彼の唇にもう一度、自分のを、そっと重ねた──
(エリスの「花束にしてちょうだいね」発言は、第一部・第三章『18 ずっと貴女を見ていました』でご確認いただけます。
クレアもエリスも、本当におめでとう。)




