2-4 初めての音
エリスの機嫌を損ねることは回避できたが、根本的な問題は解決していなかった。
"音の精霊"の力を引き出すための楽曲──その候補として、メディアルナが毎朝吹いていたあの曲が挙がっているわけだが……
「当然、楽譜などないわけだな?」
「はい。申し訳ないことに、指の動きも覚えていません。あの曲を吹いている時は、毎回頭がふわふわーっとしていたので……」
と、状況を確認し合うレナードとメディアルナ。
頼りになるのは、記憶の中にあるメロディだけのようだ。
「やはり、笛を吹きながら手探りで曲を紡ぐしかないのでしょうか……?」
メディアルナが不安げに言うが……それは現実的ではないと、レナードは思う。
笛が吹ける者であっても、記憶の中にのみある曲を吹きながら再現するのは至難の業だろう。
ましてや、メディアルナは初心者。手探りでやっていては、習得するのにどれほどの時間がかかるかわかったものではない。
そうなると、有効な手段として考えられるのは……あの曲を正確に記憶している音楽家を街で探し、楽譜を作るよう依頼する……などであろうか。
しかしそれも人探しから始まるので、かなりの時間を要することになるだろう。
さて、一体どうしたものか。
……と、レナードが腕を組み打開策を考えていると、
「メディアルナさん。あそこに置いてあるピアノを、少しお借りできませんか?」
クレアが、客間の隅にある黒いピアノを指さしながら申し出だ。
領主が客人を招く際、音楽家を雇って演奏することがあるため、昔から置いてあるものだった。
「もちろんいいですが……クレアルドさん、ピアノが弾けるのですか?」
「いいえ、演奏することはできません。ですが、音に対応する鍵盤の位置は把握しているので、頭の中にあるメロディを出力するだけならできるかもと思いまして」
そう答え、クレアはピアノの方へと向かうので、他の三人もそれについて行く。
年季の入ったピアノだが、大切に手入れされてきたのか、表面が鏡のように綺麗だった。
クレアは椅子に腰掛け、鍵盤の蓋を開ける。
そして……
記憶の中のあの曲を思い出し、微かに鼻歌を歌いながら、鍵盤を叩き始めた。
──人さし指を使った、単音の拙い演奏。
しかしその音階やリズムは正確で、あの曲のメロディを忠実に再現していた。
……そうだ。
確かにあれは、こんな曲だった。
と、聴いているエリスの脳裏に、毎朝聴いていた笛の音が鮮明に蘇ってくる……
──曲を最後まで弾き終え、クレアが指を止める。
「……と、こんな曲だったと思うのですが、いかがでしょう?」
振り返り尋ねる彼に、メディアルナとエリスはパチパチと拍手する。
「すごい! 完璧です!!」
「こういうの、絶対音感っていうんだっけ? 聴いてただけなのによく弾けるわね」
賞賛の言葉に、クレアが「ありがとうございます」と答えた……その時。
──ひゅるる……っ。
……という、隙間風のような、不器用な口笛のような音が響く。
それは、メディアルナが握る笛から発せられたものだった。
「もしかして……精霊さん?」
メディアルナの問いに、エリスはすかさず鼻をくんくん鳴らし、
「……うん。"音の精霊"が一瞬笛の外に出てきたみたい。きっと今の演奏に反応したんだわ」
「では、やはりこの曲がお気に入りなのですね!!」
現状打破の兆しが見え、目を輝かせるメディアルナ。
そこでレナードが、
「なら、今の曲を俺が譜面に起こそう。笛の練習がし易くなるし、何より今後、この家の伝統として永く伝えていくのなら、楽譜があった方が良い」
「って、お兄ちゃんそんなことできるの?」
「読めるなら書けるに決まっているだろう。文字と同じだ。メディアルナ、紙とペンを貸してくれ」
「は、はいっ。お持ちします!」
メディアルナは足早に客間を出て、自室から五線譜が書かれた白紙の楽譜とペンを持ってきた。
* * * *
クレアが引いたピアノの音を、レナードが譜面に起こしていく。
二人がピアノに向き合い集中している様を……
エリスとメディアルナは、少し離れたところから眺めていた。
クレアには聴いた音を正しく把握する才能があり、レナードには楽譜を読み書きする知識がある。
二人の力が上手く合わさったからこそ、状況が打開できたわけだが、
「……あの二人がああしてピアノ触ってるなんて、なんだかヘンなかんじ」
と、エリスは思わず呟く。
レナードはともかく、クレアが音楽に取り組む姿など想像したこともなかったが……
彼がやたらと器用に何でもこなすのは、こうして様々な業を習得しながら任務を乗り越えてきたからなのかもしれない。
そんなことを考える彼女の隣で、しかしメディアルナは、
「そうでしょうか……? わたくしは眼福すぎて、先ほどから湧き上がるよだれを止めることができません……」
「……よだれ?」
その言葉に、エリスが思わずそちらを見ると……
メディアルナが緩み切った顔で両頬を押さえ、ずずっとよだれを啜っていた。
が、エリスの視線に気付くとすぐ我に返り、
「す、すみません! クレアルドさんはエリスの恋人なのに、ついよからぬ妄想を……!!」
「別に妄想するのは自由だからいいけど……逆にあんなの見るだけでよく想像が膨らむわね」
「何を言っているのですか! よく見てください!」
びしっ、とメディアルナはクレアたちを指さし、
「顔の良い男が弾いたピアノを、顔の良い男が楽譜に記していく……まるで小説の一場面のように美しい光景ではありませんか?」
「……そうかなぁ?」
「そうですよ! あの距離感っ。交わる真剣な眼差しっ。嗚呼、あり得ないとはわかっていながらも、お二人の"可能性"を妄想してしまう……っ」
「ごめん、説明されてもさっぱりわかんないわ」
真顔でそう返すエリスに構わず、メディアルナはうっとり頬を押さえ、
「やはりわたくしは、傍観者でいるのが一番幸せです……」
そう言って、小さくため息をついた。
「……ところで、エリスはどうしてレナードさんのことを『お兄ちゃん』と呼んでいるのですか?」
ふと、メディアルナは気になっていたことを尋ねる。
エリスは肩を竦めて、
「クレアがね、あいつのことを『兄みたいな存在』って言ってたの。あの二人、子どもの時からの付き合いなんだって」
「へぇー、そうなのですね」
「で、あいつがあたしのことを『単細胞』とか『犬』とかって呼ぶから、もう意地でも名前呼んでやらないって思って、『お兄ちゃん』って呼ぶことにしたの」
「なるほど。あだ名で呼び合える関係、素敵ですね」
……今の話をどう聞いたら『素敵』って結論になるわけ?
というツッコミが喉まで出掛かるが……純粋なメディアルナには嫌味を言うこと自体理解できないのかもしれないと思い。
代わりに、
「ディアナも呼んでみたら? 『お兄ちゃん』って」
ニヤッ、と悪い笑みを浮かべながら、そう提案する。
それに、メディアルナは「えっ?」と頬を染め、
「そんな……いきなりそんな風に呼ぶなんて、畏れ多いですよ!」
「でもあいつ、そうやって呼ばれると喜ぶのよ? これからしばらく笛を習うんだし、距離を縮めておくに越したことはないじゃない?」
「きょ、距離を……縮める…………」
しゅうぅ、と茹で蛸のように頭から湯気を出し、メディアルナが俯いていると、
「おい。いつまで休憩しているつもりだ? 喋ってばかりいないで、そろそろ練習を再開しろ」
と、レナードが叱りつけてきた。
メディアルナは慌てて立ち上がり、「あ、えぇと……」と、助けを求めるようにエリスを見る。
するとエリスが、「言っちゃえ☆」とウィンクを飛ばしてくるので……
メディアルナは、きゅっと瞼を閉じて、
「……もっ、申し訳ありませんでした! レナードお兄ちゃんっ!!」
と、振り絞るように叫んだ。
瞬間、エリスとクレアが「ぶふっ!」と吹き出す。
レナードは一瞬硬直するが、すぐにエリスが余計なことを吹き込んだのだと察し、笑いを堪えている彼女を睨み付けると……
「…………すまないが、その呼び方だけはやめてくれないか?」
緊張と羞恥に震えるメディアルナに、精一杯優しい声音で、そう願い出た。
* * * *
そうして、クレアとレナードの手により、名もなきあの曲の楽譜が完成した。
しかし、出来上がった頃には既に日が暮れていたので、実際に練習するのはまた明日ということになった。
その日の夕食も、モルガン料理長の計らいで客間に集まり全員で食べることとなった。
揃って「いただきます」をし、料理長の絶品料理をしばらく堪能した後、
「いやぁ。今日は料理長に助けられましたよ」
と、おつかい係のブランカが口を開く。
「午前の買い出しに出かけたら、どのお店に行っても、『領主さまはどうしたのか』、『お嬢さまは大丈夫なのか』って質問攻めをくらってしまって……正直、買い物どころではありませんでした」
確かに、そうなることは予想できなくもなかったなぁと、エリスは口をもぐもぐさせながら他人事のように思う。
「ですが、午後は料理長が買い出しに行ってくださったので、こうして無事に夕食の食材を揃えることができました。本当にありがとうございます」
と、ブランカは相変わらず険しい顔をしたモルガン料理長に礼を述べる。
そこで、エリスが「あれ?」と声を上げ、
「あたしたちがここへ来る前は、料理長も買い物に出かけていたのよね? 街の人たちに屋敷の人間だってバレているなら、同じように質問攻めに……」
遭うんじゃないの?
と言いかけるが……途中で結末が分かり、言葉を止める。
エリスが察したことに気付き、ブランカは頷いて、
「はい。料理長の口の堅さは街の人々も承知なので、気になっても誰も質問しなかったみたいです」
そう、笑いながら答えた。
まぁ料理長の場合、世間で俗に言う『口が堅い』とはちょっと性質が違うが……思わぬところで彼の口下手が役立ったようだ。
その会話に、メディアルナは申し訳なさそうに笑って、
「みなさんにご迷惑をおかけし申し訳ありません。明日、お父さまの書いた文書が領のみなさんに向けて発表される予定なので、そうすれば少しは落ち着くのではないかと思います」
「そんな、謝らないでくださいお嬢さま。僕たちは迷惑だなんて少しも思っていません。しばらくこの状況が続いても、料理長がいてくだされば食べ物には困らないですよ、と言う話です。そうでしょう? 料理長」
ブランカが投げかけると……
モルガン料理長は、重々しく頷いて、
「……任せろ」
とだけ返した。
その不器用な答えがおかしくて、メディアルナは思わず笑い出す。
「ありがとうございます。みなさんがいてくださって本当によかった。明日からも、どうかよろしくお願いします」
その言葉に、使用人たちはしっかりと頷き返した。
「──なんか、大丈夫そうね」
食事と、その後片付けを終え。
自室へと向かいながら、エリスは隣を歩くクレアに言った。
彼も夕食時の会話を思い出しながら「はい」と答える。
「みなさんで上手く協力して、この難局を乗り越えてくださるのではと思いました」
「うん。ディアナほんといい子だから、みんな力を貸したくなっちゃうんだよね。人徳ってやつ? ああいう人間が領主になったら、ここはますます良い領地になるかもね」
「そうですね」
そこまで話したところで。
二人は、離れにある自室の前へ辿り着き、足を止める。
そのまま、暫し沈黙した後、
「…………で。どうするの?」
と、先に切り出したのはエリスだった。
短いその言葉の意味を、しかしクレアは正しく理解する。
昼間、はぐらかしたまま頓挫してしまったあの会話……
クレアが秘密裏に準備を進めてきたある計画について、エリスに話すのか否か、という件だ。
「言った通り、教えてくれるなら一緒に寝るし、教えないなら別々に寝るけど」
確認するように投げかけられた言葉を、クレアは無言で受け止める。
わかりました。言います。だから一緒に寝ましょう。
と、いつもなら当然即答しているだろう。
だが……
今回ばかりは、彼も本気だった。
「……すみません。まだ言えないので、今日は大人しく寝ます」
そう静かに答えるクレアに、緊張しながら返答を待っていたエリスは肩透かしにあったような気分になる。
しかし、残念に思いそうになる気持ちに蓋をし、くるっと背を向けて、
「そ……そう。うん。それじゃあおやすみ」
短く告げて、すぐに自分の部屋へ入った。
そして、一人になった途端……小さくため息をつく。
クレアが何を企んでいるのか、なんとなくではあるが予想がついていた。
一緒に寝ることを拒否してまで黙秘を貫くとは……きっと本気で、何かを準備しているのだろう。
「……ま、近々わかることだし、焦らず待ちますか」
自分に言い聞かせるようにそう言って。
エリスはベッドに潜り込み、目を閉じた────が。
その時は、彼女が想像するよりも早く訪れることになる。
* * * *
──翌朝。
バンッ! と開け放たれたドアの音で、エリスは目を覚ました。
慌てて飛び起きると、鍵をかけたはずのドアから平然と入ってくるクレアの姿があった。
「え、なっ……え……??」
まだ寝ぼけているエリスに、クレアはツカツカと近寄ると、
「失礼します」
と断りを入れて。
彼女の服を、脱がし始めた。
「ひゃっ……ちょ、何すんのよ!?」
さすがに覚醒し、エリスは必死に抵抗しようとするが、手や足を的確に押さえつけられ、思うように動けない。
哀れ彼女は、あれよあれよと言う間にパジャマを脱がされ…………
そのまま、昨日買った可愛らしいブラウスとスカートに着替えさせられていた。
「………………は??」
状況が飲み込めず、きょとんとする彼女の髪を、クレアはテキパキと梳かす。
そして、懐からロープを取り出すと……
エリスの両手首を、後ろ手に縛り始めた。
「は……え?!!」
瞬く間に両手の自由を奪われ、エリスはひたすら混乱する。
そんな彼女をさらに混乱させるかの様に、クレアは取り出したアイマスクで彼女の目を覆う。
「やっ、ちょ……見えない! 何よコレ、外し……ふぎゃっ」
その上、エリスの鼻が何かにぎゅっと摘まれる。
クレアが洗濯ばさみで挟んだのだ。
可愛い服に着替えさせられ、腕を縛られ、視覚と嗅覚を奪われる。
一体、自分の身に何が起きているのか。
いよいよわからなくなり、エリスはキレることにする。
「ちょっど!! ふざげるのもいいがげんにじなざいよ!!!!」
鼻を摘まれているため、情けない鼻声で見えないクレアに怒鳴りつけるが……
そんな彼女を、彼はひょいっと抱き上げると、
「予定より少し早いですが……あの言葉の意味を、今から貴女にお教えします」
そう言って。
ほとんど人攫いのような状態で、クレアは拘束したエリスを連れ、部屋を出た。