2-1 初めての音
──夜が明け、リンナエウスの街に静かな朝が訪れた。
毎日決まった時間に聴こえていた笛の音は、今日は響かない。
領主の屋敷で何かあったに違いないと、街の住民はそこかしこで噂し始めた。
その、噂の渦中にある屋敷の中では。
「…………ん……」
エリスが、遅めの起床をしたところだった。
何度か薄く瞬きをして、目を開ける……と。
「──お目覚めですか?」
そんな声が、すぐ上から降ってくる。
顔を上げると、先に起きていたらしいクレアが、彼女に寄り添うようにベッドへ横たわっていた。
カーテンの向こうに透けて見える陽の明るさから、エリスは普段よりもだいぶ遅く起きてしまったことを悟る。
「うぁ……ごめん、寝過ぎた。報告書は?」
「レナードさんから受け取り済みです」
「ってことは、もうディアナと出発した?」
「はい。昼近くになると街の住民から注目を集めるからと、早めに出て行かれました」
「そう……あんたは? ちゃんと眠れたの?」
「お陰様でぐっすりでしたよ。昨日はすみませんでした。私としたことが、キスの最中に眠気を催すとは……後でお詫びをさせてください」
「いいわよ別に。あんたの寝ぼけた顔……」
けっこう可愛かったから。
という言葉が出かかるが、そんなことを言えばクレアが調子に乗るのは目に見えているので。
「……まぬけで面白かったし」
と、言い換える。
それを聞き、クレアは申し訳なさそうに続ける。
「そんな情けない姿を見せてしまったのなら尚のこと、挽回の機会をください。報告書を郵便役所に出したら、帰りに何か美味しいものを食べましょう。奢ります」
「そういうことなら喜んで。いくらでも挽回させてあげるわ」
「ありがとうございます」
エリスのおでこにキスを一つ落とすと、クレアはベッドから降りてカーテンを開けた。
瞬間、部屋の中に温かな光が入り込む。良く晴れた、気持ちの良い天気だ。
この陽気のせいか、クレアの匂いに安心したせいか、つい寝過ぎてしまったな……
と反省しながら、エリスもベッドを降り、身支度を整えるべくタンスから着替えを取り出す。
すると、
「街に出たら、貴女の服を買いましょうか。女性物の服はほとんど持って来ていないでしょう?」
と、後ろからクレアが言う。
それに、エリスは「んー」と宙を仰いで、
「ここで借りてる使用人の制服でも十分だけど……そうね。せっかくだし、買ってもいいかも」
「では、服屋にも寄りましょう。最新の採寸データがありますので、今の貴女にぴったりなサイズを選んであげますよ」
「ん、ありがと」
そう答え、エリスは着替えを始めようとするが……
「……ん?」
「何か?」
「…………『最新の採寸データ』って、なに?」
まさか、と嫌な予感に震える彼女に……
クレアは、にこりと微笑んで、
「もちろん、今朝測ったばかりの貴女の身体の数値です。男物のシャツでは胸周りが窮屈でしょう? ちゃんとキツくないものを買いましょうね」
と、愛用している巻尺を手にしながら言うので……
エリスは、わなわなと全身を震わせる。
まったく……キスしながら寝落ちてしまうような隙を見せたかと思えば、一晩経てば元通り。油断も隙もあったものではない。
「どうしました? 私のことは気にせず、どうぞ着替えを始めてください。何なら、お手伝いしましょうか?」
怒りと羞恥心に震えるエリスに、爽やかに言うクレア。
そんな彼を、エリスは……
開け放ったドアの向こうへと、ドカッ! と蹴り飛ばし、
「出てけ!! このヘンタイ!!!!」
そう叫んで、ドアをバタンッと閉めた。
* * * *
──一方、その頃。
メディアルナとレナードは、リンナエウスの街外れにある病院を訪れていた。
領主が昨日から入院している病院である。
レナードの提案により郊外の街道を使ったため、人目につくことなく病院へ辿り着くことができた。
ただでさえ昨日は領主の屋敷に役人たちが頻繁に出入りしたのだ。目撃した者は疑問に思ったに違いない。
それに加えて、今朝は笛の音が鳴らなかった。住民たちの間では不安が広がっているはずだ。
そんな中で、この煌びやかな馬車で街中を進めば……間違いなく人々の注目を集めていたことだろう。
今回の件や今後について、領民へはどう説明するのか。
領主とメディアルナの間で、上手く話し合えればいいが……
そう考えながら、レナードは領主がいる病室の扉を見つめる。
中には既にメディアルナが入り、領主と話をしている。レナードは護衛として、廊下で待機していた。
病室から、領主とメディアルナの会話が微かに聞こえてくる。
二人は冷静に、今後について話しているようだった。
そうして、しばらく落ち着いた声が続いた後。
「すまない……本当にすまない。私はお前のことも、母さんのことも裏切った最低な人間だ。こうして毒に蝕まれるのも、当然の報いだろう。どうか気が済むまで罵ってくれ」
そんな、領主の啜り泣く声が響く。
しかし、メディアルナは、
「……お父さまがお母さまを愛していたお気持ちに嘘はないと、わたくしは信じています。ずっと罪の意識を抱えていたからこそ、わたくしに言えなかったのですよね」
「ディアナ……」
「お父さまはもう十分に、ご自身の過ちを悔いたことと思います。だからわたくしは、お父さまを罵ったりしません。だって、憎しみや争いからは、同じ悲劇しか生みませんから。そうですよね?」
そう、凛とした声で答えた。
その言葉に……領主が嗚咽を漏らし泣くのが聞こえる。
「……かえって酷だな」
と、レナードは目を伏せる。
『裏切り者だ』と、『人殺しだ』と罵られた方が、領主としては楽だったかもしれない。
しかし、最も辛い立場にあるはずの娘が、広すぎる心でそれを許してしまった。
これでは領主も、余計に罪悪感が増すだろう。
……いや、それでいいのかもしれない。
優しすぎる娘を持ったことこそが、領主にとって一番の罰なのだ。
領主との別れの言葉が聞こえた後、病室から静かにメディアルナが出てきた。
「……話は済んだか?」
レナードがそう尋ねると、彼女は、
「はい。お待たせいたしました」
と、いつものように笑った。
──病院を後にし、二人は馬車で帰路に就いた。
来た時と同じように街外れの街道を進み、なるべく人目につかないようにして屋敷へ戻る。
馬車の中、向かい合って座る二人の間に、車輪が転がるゴトゴトという音だけが響く。
そうして、しばらくの沈黙の後、
「……領主の様子はどうだった?」
ふと、レナードが尋ねた。
メディアルナは、小さな笑みを浮かべて答える。
「思ったよりもお元気そうでした。ですが……やはり身体から毒が抜けるわけではないので、悪化はしないけれど回復もしないと、お医者様に言われました」
「……そうか」
「公務が全くできない程ではないとお父さまはおっしゃいますが……慢性的な体調不良が付き纏うことになるので、わたくしがお仕事のお手伝いすると伝えました」
「領民への報告は、どうするか話し合えたか?」
「はい。お父さまが文書を用意したので、明日街役場を介して領全体へ発表するとのことです。内容を少し読ませていただきましたが……毒ではなく、治る見込みのない病にかかってしまったことにするそうです」
「真相を隠すことにしたのか」
「そうです。街のお役人さんたちも、その方針に賛成してくれているみたいです」
『使用人に毒を盛られた』と発表すれば、民の不安や混乱をいたずらに招くことになる。
同時に、屋敷からいなくなったアルマたちが犯人であると知らしめることにもなる。
罪を償った後の彼らの生活を守るためにも、毒のことは伏せることにしたと、メディアルナは言う。
「もしアルマたちがいなくなった理由を誰かに聞かれたら、『医療知識を持つ使用人を増やす代わりに彼らを解雇した』ということにするつもりです。お父さまがお手伝いさんを頻繁に入れ替えていることは、街のみなさんにとっても有名なお話ですから」
と、困ったように笑うメディアルナ。
全てを明るみに晒すわけではないが、アルマたちを完全な悪者にするわけでもない。むしろ彼らを守るような説明を選択したようだ。
領主なりの、彼らに対する贖罪なのかもしれない。
だからと言って、領主を殺そうとしたアルマやヴァレリオ、ロベルの罪が消えるわけではないが……民の混乱を避けるためには、ちょうどいい着地点と言えるだろう。
メディアルナたちの選択を理解し、レナードは頷く。
「領内各地の役場がその方向性を徹底して動くのなら、それで良いだろう。我々もその選択を尊重する。軍部としては、あの笛に纏わる情報が隠せるならそれで良いからな」
「ありがとうございます。あとはわたくしが公務を覚えて、笛を吹けるようになれば、みなさんを安心させることができますよね。頑張らなくちゃ」
と、両手をきゅっと握ってメディアルナが言うので……
レナードは、目を細め、
「頑張るのは結構だが、俺が昨日言ったことを忘れるなよ」
そう、釘を刺す。
メディアルナは「昨日……?」と小首を傾げ、記憶を遡るが……答えは、すぐにわかった。
『お前の場合、「周囲を安心させるために頼る」くらいの心持ちでいるのがちょうど良いだろう』
きっとレナードは、あの言葉のことを言っているのだろう。
昨日の晩、彼女は寝る前に何度も何度も心の中でこの言葉を繰り返した。
彼女にとって、とても大事にしたい考え方だと思ったからだ。
しかし、一方で、
「……昨日、あれから考えたのですが、周りを頼るのって結構難しいですよね。迷惑をかけたら申し訳ないし、だったら自分が頑張っちゃえばいいや、なんて思ってしまいそうで……どんな風にお願いすれば良いんだろうって、ちょっと悩んでしまいました」
……と、夜な夜な頭を悩ませていたりもした。
メディアルナ自身が責任感の強い性格ということもあるが、優秀な使用人に囲まれ、頼まずとも必要なものが先に出てくるような環境で育ってきたため、あらためて『頼る』ということになかなかイメージがわかなかったのだ。
レナードは、小さく息を吐くと、
「そうか。なら、笛の練習と並行して、"頼る"特訓をするとしよう」
と、提案する。
「た、頼る特訓、ですか?」
「そうだ。笛の練習中、俺はお前を……徹底的に無視する」
「え?!」
「間違った吹き方をしても一切指摘しない。そもそも初めから教えない。ただ、見ているだけだ」
「そんな……それではいつまで経っても吹けるようになりません!」
「教えて欲しくば、ちゃんと"頼る"ことだな」
「う……ですが、どうやって……」
「…………」
「……あの、レナードさん?」
「………………」
「…………え? ひょっとして、もう無視が始まっているのですか……?」
恐る恐る尋ねるメディアルナに、だんまりを決め込むレナード。
彼女は大いに狼狽え、必死に言葉を探す。
「……れ、レナードさん。わたくしに、笛の吹き方を教えてください」
「………………」
「ちゃんと自分で吹いたことがないので、一から教えていただけると嬉しいです」
「………………」
「自己流でやると効率も悪いと思うし……早く身につけるためにも、詳しい方から指導を受けたいのです」
「………………」
「あのー……レナードさん?」
「………………」
「…………うぅ〜っ。レナードさんが笛を教えてくれなければ困ってしまいます! それに、レナードさんともっといろんなお話がしたいんです! だから、無視しないでくださいっ!!」
耐え切れなくなったメディアルナの叫びが、馬車の中に響く。
眉を垂れ下げ、本気で困った表情を浮かべる彼女を見て……
レナードは、ふっと笑い、
「それでいい。とにかく困っているのだと、大袈裟にアピールするつもりでやれ。そうすれば、お前に手を貸さない者はいないだろう」
と、柔らかな口調で言った。
その不意打ちな笑みに、メディアルナの心臓がドキッと跳ね上がる。
……まただ。
なんだか昨日から、心臓がおかしい。
早鐘を打つ鼓動を誤魔化すように、彼女は手をパンッと合わせて
「な、なるほど! コツが掴めたような気がします!!」
「ん、なら良い。まだまだ先は長いのだから、甘え上手にならないと潰れるぞ? 練習台になってやるから、俺がいる内に甘え方を習得しろ」
「……甘え方…………」
それって……
レナードさんに、いっぱい甘えろ、ってこと……?
そう考えた途端、メディアルナは顔が熱くなるのを感じ、俯く。
急に喋らなくなった彼女を不審に思い、レナードは身を乗り出して、
「……どうした? 気分でも悪いのか?」
顔を覗き込み、そう尋ねてくるので……
メディアルナは目を見開き、唇をきゅっと噛み締める。
真っ直ぐに自分を覗き込む紺碧の瞳。
夜空を溶かしたような色の瞳に、吸い込まれてしまそうになる。
さらりと揺れる銀髪。
低く響く声。
時折見せる、優しい笑み。
彼の全てに、ドキドキしてしまう。
……これは一体、何?
男性同士の恋愛を妄想している時よりもずっと……ずっと、心臓が煩い。
……しかし。
メディアルナは、「はっ!」と我に返った後、ぶんぶん首を振って、
「い、いえ、大丈夫です! ありがとうございます!! 早く着かないですかね〜、あはは」
と、少し上擦った声で返すのだった。




