1-3 残された者たちの晩餐
──夜の帳が下り、リンナエウスの街が温かな灯りに彩られる。
いつもと変わらぬ輝きを放つ街の夜景。
それを、屋根を失くした暗い塔が、静かに見下ろしているようだった。
屋敷の主屋では、風呂から上がったエリスとメディアルナ、そしてクレアの三人が、夕食の仕度を手伝うべく厨房へと向かっていた。
階段を降り、一階へ辿り着いたタイミングでメディアルナは振り返り、
「……本当に大丈夫ですか? お二人ともお疲れでしょうから、やはり誰かに頼んで運んでもらいましょうか?」
と。
『琥珀の雫』が入った大きな瓶を抱えたエリスとクレアに、心配そうに尋ねた。
エリスが一つ、クレアが二つ、二階の浴室からせっせと運んで来たのだ。もちろん、早速夕食時に食べるためである。
メディアルナの心配をよそに、しかし二人はけろっとした顔をして、
「何言ってんのよ。こんな貴重なものをもらったんだもん、ちゃんと自分たちで運ぶわよ。ね、クレア」
「はい。お気遣いありがとうございます。メディアルナさんこそお疲れでしょう。少しお休みになられてはいかがですか? 厨房の手伝いは我々がやりますので」
「そーよ。こんな時くらいみんなに甘えてゆっくりしていればいいのに」
クレアに続けて、エリスが言う。
しかしメディアルナは首を横に振って、
「いいえ。こんな時だからこそお手伝いしたいのです。それに、そう言うお二人だって本当はお手伝いさんではなくお客さまなのですから、お部屋で休んでいても……」
「あたしはただ料理長がご飯作っているのを見たいだけ。手伝いはそのついでよ」
「私も、ただエリスの側にいたいだけなので。お手伝いはそのついでです」
「……お二人ならそうおっしゃるような気がしていました。では、やはり三人で行きましょう」
エリスたちの返答を聞き、メディアルナは楽しそうに言った。
──程なくして辿り着いた厨房からは、既に美味しそうな香りが漂っていた。
それを嗅ぎ付けると、エリスはよだれをじゅるりと啜って、
「料理長、手伝いに来たよ!」
と、元気良く足を踏み入る。すると……
調理台に、既に出来上がった料理がズラリと置かれていた。
カリッと香ばしく揚げた鶏肉のあんかけ……が、皿の上に山のごとく積み上げられ。
魚の切り身とキノコを交互に刺し、塩胡椒をまぶした串焼き……が、井桁型にいくつも組み上げられ。
ゆで卵たっぷり小エビのサラダは、一番大きなボウルいっぱいに。
デザートのりんごと食用花のゼリーは、バケツほどの大きさに。
とにかく全ての料理が、規格外なサイズ感で盛り付けられていた。
しかも、メディアルナのための食事にしては随分と大衆的なメニューである。
「……ど、どうしたの? 今日の話に驚き過ぎて尺度がおかしくなっちゃった?」
明らかにいつもと違う仕上がりに、エリスは料理長へ詰め寄る。
すると彼は、皿洗いをする手を止めて、
「……今夜は、全員で一緒に食べる。お嬢さん、宜しいですか?」
と、メディアルナに尋ねた。
それを聞き、エリスとクレアは理解する。
メディアルナが寂しい思いをしないよう、使用人たちと一緒に食べられる大皿料理をあえて作っていたのだ。
そのことをメディアルナもすぐに察したようで、胸を打たれたような顔をしてから、
「……もちろん! みなさんで一緒に食べましょう!」
満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに答えた。
* * * *
豪快に盛り付けられた大量の料理を、エリスとクレアは厨房の隣にある客間へと運ぶ。
彼らがこの屋敷に来た初日、夕食を振る舞われた広い部屋である。来客があった際に会食をするための部屋なので、長いテーブルとたくさんの椅子が置かれ、大人数で食べるのに適している。
二人が料理を運んでいる間、メディアルナは他の使用人に声をかけて回った。
おつかい係のブランカも御者のハリィも喜んで集まったが、ユーレスだけは深夜の見回りに備え眠っているため、声をかけないことにした。
ユーレスの分の料理は取り分けて、見回りの合間に食べてもらえるよう置いておこう。
さて、残るはレナードのみだ。
主屋では姿を見かけなかったが……彼はどこにいるのだろう?
「……ご自分のお部屋かしら?」
メディアルナは呟きながら、離れの一階をうろうろする。
以前からいる使用人については部屋の場所を把握しているが、レナードたちはつい最近来たばかりなので、それぞれがどの部屋を使っているのかわからなかった。
これは……手当たり次第にノックして回るしかないかしら?
なんて、考えてから。
「…………」
ふと。
メディアルナは、二階へと続く階段に目を向ける。
二階には……ヴァレリオとロベルと、アルマが使っていた部屋がある。
それが、なんとなく気になって。
彼女は静かに……階段を上り始めた。
──辿り着いた二階の廊下は、シンと静まりかえっていた。
廊下に置かれたろうそくの灯りが、メディアルナの影をゆらゆらと揺らす。
彼女はそっと、一番奥にある部屋の前に立つ。
そこは、ロベルが使っていた部屋だ。
ドアノブを握り、静かに捻ると、いとも容易く開く。
ゆっくりと押し開けた扉の先には……主人を失った真っ暗な部屋が広がっていた。
暗くて見えないが、彼女は知っている。
この部屋には、ロベルが持ち込んだ観葉植物がいくつも置いてある。
だから、室内なのに土と葉っぱの匂いがするのだ。
次に彼女は、その隣の部屋を開ける。
そこは、ヴァレリオが使っていた部屋。
同じように灯りがなく見え辛いが、ここには本がたくさんある。ワクワクするような物語も、ちょっと難しい専門書も、本棚にきっちり並べられていて、少しでも順番を入れ替えるとヴァレリオに怒られるのだ。
知っている。
幼い頃、父の目を盗んでは、よく二人の部屋に遊びに来ていたから。
「…………」
最後にメディアルナは、アルマが使っていた部屋の前に立つ。
彼の部屋には入ったことがないため、中がどんな風になっているのか、彼女は知らない。
少し怖いような気持ちを抱きながらも、彼女はその扉を、ゆっくりと開けた。
すると……
そこは、何もない空間だった。
備え付けのベッドやタンス以外にアルマの私物が一切ない、寂しすぎる部屋。
その光景に、メディアルナが立ち尽くしていると……
「何をしている?」
背後からそんな声がし、彼女は振り返る。
声の主は、レナードだった。階段を上り、メディアルナの方へと近付いて来る。
「あ、レナードさん……」
「アルマの部屋で、何か調べたいものでもあったか?」
彼がそう尋ねると、メディアルナは首を振り、
「いえ、そういうわけではなく…………本当にもう、いないんだなぁって思って」
と、困ったように笑う。
「……なんにもないんですね、アルマの部屋。いつか今日みたいな日が来ると……最初からそのつもりでいたからですよね」
「…………」
「逆に、ロベルとヴァレリオの部屋は、昔遊びに来た時とあまり変わっていませんでした。また明日になれば、あの扉から二人が出てきそうな気がして……おかしいですよね。そんなはずないのに」
そこまで言うと。
メディアルナは、スカートの裾をぎゅっと握って、
「……あんなに毎日一緒にいたのに、わたくしは、三人が心に抱えているものにまったく気付かず……幸せだなぁって、呑気に笑っていました。ロベルとヴァレリオが優しさの奥に悲しみを抱えていたことも、アルマの心が、この部屋のように寂しさでいっぱいだったことも……全然、気付けなかった」
そのまま彼女は、握った手に力を込める。
強く、強く、手のひらに爪が食い込んでしまうほどに、握りしめる。
「わたくしが三人の気持ちに気付けていたら、お父さまだってお身体を壊さずに済んだ……和解は難しくても、話し合うことくらいはできていたかもしれません。何かあったはずです、気付くためのヒントが。あの三人をちゃんと見ていれば、あったはずなんです。なのにわたくしは、わたくしは…………っ」
ギリギリと握られる手。
それを、
「やめろ」
レナードは、奪うように掴んで、
「……そんなに自分を責めるな。お前は悪くない」
と、メディアルナの瞳を見つめ、言う。
「今回の件は十五年前に端を発している。そこにあの笛が関わったがために、事態が悪化した。お前にどうこうできる問題ではなかった」
「でも……でも……」
「それに、お前が止めてどうにかなっていたのなら、初めから領主を殺そうとはしなかっただろう。父親を殺せばお前が傷付くことは明白だ。それでも奴らは、憎悪を抑え切れなかった」
「…………」
「……だが、そんな彼らを憎しみの連鎖から解き放ったのは、他でもないお前自身だ。お前が全てを許し、認めたからこそ、彼らは憎むことをやめた。だからもう、そんなに自分を責めるな」
淡々とした、冷静な声。
だけど、とても真剣で、真っ直ぐな言葉。
それに、メディアルナは……
込み上げる涙を堪え、何も言えないまま、レナードを見つめ返す。
「一人の人間にできることには限りがある。全てを救えると思うな。でないと自分を責めることになる。自分を責めれば、次にすべきことを見失う」
強ばったままの彼女の手を、レナードの手が、ゆっくりと解いていく。
「まずは周りを頼れ。その方が、頼られた方も安心する」
「安心……?」
「そうだ。どうやらお前は責任感が強いらしい。一人で抱え込まれると、かえって周りは心配だ。お前の場合、『周囲を安心させるために頼る』くらいの心持ちでいるのがちょうど良いだろう」
"周りを安心させるために、頼る。"
それはメディアルナにとって、考えたことすらない発想だった。
領主であり、屋敷の長である父が不在となった今、自分がしっかりしなければと思っていた。
しかしそれでは、かえって周りを心配させてしまうらしい。
メディアルナは、彼の言葉を真摯に受け止め……しっかりと頷いて、
「……わかりました。ちゃんと、みなさんに頼ろうと思います。ありがとうございます」
そう、微笑み返した。
レナードは彼女の手を離すと、背を向けて、
「明日、領主の見舞いに行くと言っていたが、俺も同行する。万が一に備え、護衛があった方がいいだろう」
「あ、ありがとうございます」
「それから、言うまでもないことだが、明日の朝はいつもの笛の演奏はなしだ。吹きたくとも吹けないだろうからな。今日の疲れもあるだろう、ゆっくり寝ておけ」
「は、はい」
そう言い残し、彼は階段を降りて行った。
その背中を見つめ、メディアルナは……
……本当に、最初と全然印象が違う。
けど……何故だろう。
今の冷たい口調のレナードさんの方が、優しくて、温かい人に思える。
それに……
彼女は、先ほどまで触れられていた彼の手の感触と。
真っ直ぐに自分を見つめる、濃紺の瞳を思い出し。
ゆっくりと、しかし確実に……鼓動が加速するのを感じて。
「…………っ??」
それに戸惑いながら、自分の胸を押さえる。
これは……この胸の高鳴りは、一体何だろう……?
そうして、すっかりレナードの姿が見えなくなってから。
「…………はっ。そうだ、晩ご飯のお知らせに来たのでした。待ってください、レナードさん!!」
と、慌てて彼の後を追いかけた。