10-1 優しいうたを聴かせて
目の前に突き立てられた、銀色の刃。
その向こうに転がる、金色の笛。
それを、アルマは床に伏せたまま、空虚な目で見つめる。
終わった。何もかも。
そのことを悟り、彼は、
「……殺しなよ」
と。
収まりゆく風の音に掻き消されてしまいそうな声で、呟く。
「……この剣で斬ってよ。どうせ死ぬつもりだったんだから、やるなら早くして」
しかし、劔を突き立てるクレアは、それを拒否する。
「残念ながら殺すことはできません。あなたには、生きて罪を償ってもらいます。伺いたいこともたくさんありますし、きちんと話していただきますよ」
「……これ以上何を聞きたいっていうの? もう全部調べがついてるんでしょ」
「いいえ。あなたが何故こんなことをしようと思ったのか、肝心な動機をまだ聞けていません」
言って、クレアは劔を抜き、しゃがみ込むと、
「……教えてください。あなたはどうして、"優しい世界"を望んだのですか?」
そう、穏やかな声で尋ねる。
アルマはもう、何もかもがどうでも良いような空っぽな気持ちになって、
「……そんなの決まってるじゃない。世界が、僕に優しくないからだよ。生まれた時から、ずっと」
低く答えながら、彼は……
生まれ育った家の風景を、思い出していた。
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
暗くて、寒くて、寂しい場所。
それが、アルマの記憶にある家の像だ。
自分という存在を産んだ人間を母親と呼ぶのなら、確かにユノが母親ということになるが、アルマは彼女から母親らしい愛情を感じたことは一度もなかった。
「役立たず」
「あんたなんか産んだ意味なかった」
そんな言葉を、物心ついた時から何度もぶつけられてきた。
自分はパペルニア領の領主の隠し子で、本当なら一生養育費を強請る理由になるはずだったのに、領主の妻が死んだばかりに全ての計画が狂ったと、散々聞かされてきた。
だから、ずっと申し訳なく思っていた。
役立たずでごめんなさいと。生まれてきてごめんなさいと。
そう思いながら、アルマは幼少期を過ごした。
アルマが十歳の誕生日を迎えた時。
初めて、ユノがお祝いをしてくれた。
いつもより少しだけ豪勢な食事。
新しい服のプレゼント。
誕生日は、生まれてきたことを祝福する日。
それを初めてユノに祝ってもらえて、アルマは嬉しくてたまらなかった。
食事を終え、アルマが幸せな気持ちでジュースを飲んでいると、
「じゃあ、明日から働いてもらうから。頑張って稼いできてね」
と、ユノが酒を飲みながら嬉しそうに言うので、アルマは意味がわからず首を傾げた。
そういう反応をすると、いつもなら「察しの悪い子」と舌打ちされるのだか、その日のユノは本当に機嫌が良いらしく、赤ら顔で微笑んで、
「あなたを職業訓練所に入れる手筈を整えておいたの。明日から早速、その服を着て行ってらっしゃい」
そう、プレゼントした服を指さしながら、思いもかけないことを口にした。
「あなたもようやく十歳……やっと働きに出せる年齢になったわ。ここまで長かった。領主からもらった手切れ金も底を尽きたし、今まで育ててやった分、これからしっかり稼いでちょうだいね」
それを聞いて、アルマは理解する。
これは、誕生日祝いなどではない。
ユノが、アルマの養育から解放されたことに対するお祝いなのだ。
やっぱり、愛されてなどいない。
わかっていた。
少しでも期待した僕が馬鹿だった。
アルマは「ごちそうさまでした」と小さく言って、食器を洗うと、一人で静かに床に就いた。
──それから数ヶ月後。
職業訓練所での準備期間を経て、アルマはとある貴族の屋敷に使用人として雇われた。
ユノと暮らした家を離れ、住み込みで働くことになったのだ。
その、出発の前の晩。
アルマが職業訓練所から帰宅すると、ユノは酒に酔ったまま既に眠っていた。
一緒にいられるのも、今日で最後なのに……
そう考えそうになる心を殺して、アルマは家の裏にある小さな庭へと向かう。
最近、ユノはその場所で"植物"を育てていた。
その鉢植えの一つ──小さな紫色の花をつけた植物の鉢を、アルマは手に取る。
この植物には、毒があるらしい。
上手く育てば高く売れるのだと、以前酔ったユノが言っていた。
その鉢植えを、アルマはこっそり持ち出した。
それは、子供のことは大事にしないくせに植物の世話は懸命にするユノへの当て付けだったのかもしれない。
あるいは、自分と他人をいつでも殺せる毒草を手に入れることで、安心感を得たかったからなのかもしれない。
アルマは、寝ているユノに気付かれないように……
明日持ち出す荷物の中に、その鉢植えを忍ばせた。
翌朝。
出発の時間になっても起きる気配のないユノを置いて。
アルマは、「さよなら」と呟き、家を後にした。
アルマの就職先は、レイルートの街にある古い屋敷だった。
それほど大きくはないが、歴史のある貴族の家だ。
使用人の仕事を、アルマは辛いとも楽しいとも思わなかった。
ただ淡々と、言われた通りのことをする。
最初はミスも多く、その度に先輩から厳しく叱られた。
いつも暗い表情でいるため、年の近い使用人たちからは陰口を言われた。
それでも彼は、毎日無心で仕事をこなした。
しかし、同僚からのいじめは日に日にエスカレートしていった。
アルマ同様、十代にして住み込みで働く同僚たちは、それぞれ複雑な家庭の事情を抱えている。
きっとみんな、家族のことで同じような苦労をしているはずなのに。
本当なら分かり合えるはずなのに、人は群れを作ると、その中の最底辺を決めたがる。
底辺の中の最底辺を決めて、みんなで見下して、安心したいのだ。
言葉の暴力は、次第に物理的な暴力を伴うようになっていった。
ある時アルマが、殴ってきた少年を反射的に突き飛ばすと、少年は尻餅をついて「痛ぇ!」と喚いた。
そうして、仕返しと言わんばかりにさらに殴り付けられた。
どうしてだろう。
そんな尻餅より、殴られている僕の方がずっと痛いのに。
仕返しをしていいのなら、僕だってこの痛みを何倍にも変えて返してやりたい。
いつもそうだ。痛いのは僕ばっかり。
どうしてなんだ。僕が何をした?
ただ生きているだけなのに、どうして痛い思いばかりする?
生きていることが、そんなに悪いのか?
だったらもう……みんなに仕返ししてから死んでやるよ。
こいつらやユノが困るよう、散々迷惑をかけてから死んでやる。
僕の痛みが理解れば……僕が本当に死んでしまえば、みんなきっと後悔するだろう。
自分がしてきたことの残酷さに気が付き、心を入れ替えて優しくなるかもしれない。
……そうだ。それがいい。
僕が、世界を優しくするんだ。
しかし、どうやって僕の痛みを理解らせよう?
アルマは考えながら、部屋に置いた鉢植えに水をやる。
この屋敷で働き始めて既に四年が経ち、アルマは十四歳になっていた。
ユノから盗んできた毒草の鉢植えは、花をつけ種を実らせることを繰り返し、順調に育っていた。
するとその日、彼の斡旋元である職業訓練所の職員が彼を訪ねてきた。
そして、ユノが違法な薬草の密売していたために役人に捕まったことを告げた。
それを聞いて、アルマは肩を落とした。
これから迷惑をかけて死んでやろうと思っていたのに、先に捕まってしまうなんて。
そんな心情を知らない職員は、アルマを不憫に思いながらこう続ける。
「それでね、この屋敷のご主人が……その、とても言い辛いんだけど、『犯罪者の息子を置いておくわけにはいかない』って言って、君の解雇を命じたんだ。君は関係ないって言ったんだけど、聞き入れてもらえなくて……ごめんね」
アルマは、いよいよ落胆する。
ここの同僚たちにも仕返ししてやりたかったのに、その機会まで奪われるとは。
職員は、申し訳なさそうにさらに続ける。
「今後についてだけど、また別の場所で住み込みで働くか、国の擁護施設に入るか、どちらがいいかな? と言っても、今紹介できる職場はちょっと厄介なところしかなくて……このパペルニア領の領主のお屋敷で、リンナエウスにあるんだけどね。とにかく人使いが荒くて、みんなすぐに辞めてしまうんだ。だから、どちらかと言えば施設に入ることをおすすめするけど……」
……という言葉を聞き。
アルマは、目を見開く。
領主……?
それは、僕の父親にあたる人間だ。
領主の屋敷?
それは、かつてユノが働いていた場所じゃないか。
嗚呼、神さま。
僕に、最高の死に場所を与えてくれてありがとう。
アルマは、ニヤリと口の端を吊り上げると……
「そこで、働かせてください。お願いします」
と、職員に願い出た。
──そうしてアルマは、このリンナエウスの屋敷に来た。
職業訓練所の職員には、ユノに新しい職場のことを知らせないでほしいと頼んでおいた。
その方が、自分が死んだ時に彼女をより困惑させられると思ったからだ。
屋敷の主人──パペルニア領の領主であるマークスと初めて対面した時、アルマは、彼が自分の父親であるという実感が湧かず、なんとも言えない気持ちになった。
ただ、彼がユノと関係を持たなければ自分は生まれなかったので、そう考えると憎くなった。
無責任に僕を作りやがって。
息子がこんな思いをして生きているのに、自分だけ権力の上でふんぞり返っているのか。
憎い……領主にも"仕返し"をしてやる。
リンナエウス家に来た初日、アルマは父親への復讐を心に誓った。
ユノは、酒に酔う度にこのリンナエウス家のことをアルマに話していた。
その中で聞いていた通り、領主にはメディアルナという娘がいた。
純粋で素直で、天真爛漫な、誰からも愛される少女だ。
いちおう腹違いの姉にあたるわけだが、自分とは似ても似つかない明るい性格の彼女に、アルマは苦手意識を抱いた。
しかし彼女は、そんなことはお構いなしにアルマとの距離を詰めようとしてくる。
年の近い使用人が他にいないので、彼が来てくれたことがよほど嬉しかったようだ。
それを見た領主は、彼女の世話係にアルマを指名する。
アルマは困惑するが……ある意味ではチャンスかもしれないと思った。
メディアルナが毎朝吹く笛の音……あれはきっと、ユノが言っていた"呪いの笛"だ。
演奏者の心理状態を聴いた者に伝播する、不思議な笛。
それにより領主の妻の憎しみが伝染り、使用人二人が互いの首を絞めて死んだらしい。
そうだ。あの笛を使おう。
それで僕の痛みを、悲しみを、みんなに伝えて……それから死のう。
屋敷の人間や領民が笛の音でおかしくなれば、領主は困るだろう。
なにより…… ユノは、領主の妻の死に方に相当なトラウマがあるようだったから。
僕が領主の妻と同じ死に方をしたと知れば、ユノだって……
少しは、僕のことを想ってくれるはずだ。
笛を奪う機会を窺いながら、アルマはメディアルナの世話係を務めた。
しかし、塔の鍵は彼女が肌身離さず持ち歩いていて、彼女以外は入れないよう徹底されている。
塔の扉を無理矢理こじ開けようと、人目を盗み留め具を外すことを試みたが、蝶番が錆付いていて難しかった。
なかなか笛に触れる機会を得られず、アルマの中で焦りが募る。
というのも、この屋敷で働き始めてから、彼の中に渦巻いていたはずの憎しみや『死にたい』という気持ちが、日に日に萎んでいくようなのだ。
メディアルナは、使用人に対しとても謙虚で対等な接し方をする。アルマがする仕事に、いちいち「ありがとうございます」と言うのだ。
一番のベテランである庭師のロベルと、領主の秘書を務めるヴァレリオ──彼らの話もユノから聞いてはいたが、ロベルは新入りのアルマが困っていないかしつこいくらいに声をかけてくれるし、ヴァレリオも厳しいながらもアルマの仕事をよく見ていて、出来ている部分はきちんと褒めてくれた。
自分はここへ、死にに来たはずなのに。
あの笛を使って、世界に自分の辛さを知らしめようとしていたのに。
その気持ちが凪いでしまうような優しい毎日に、アルマは焦っていた。
違う。
こんなことで、僕の悲しみは消えたりしない。
こんなことで満足してしまったら、泣いて過ごした過去の僕が浮かばれない。
何よりまずいのは、あの笛の音だ。
あれを聴くと、まるで生きていることを祝福されているような気持ちになる。
僕をいじめた奴らへの憎しみも、ユノへの悲しみも、全部溶けてしまうような気持ちになる。
駄目だ。早く、早くなんとかしないと──
僕が、僕でなくなってしまう。
そう戒めるように、アルマは他の使用人たちと決して打ち解けなかった。
仕事以外の話はしないし、仕事が終わればすぐに自室へ戻る。
そうやって自ら孤立していくアルマを、お人好しのロベルは放っておけなかった。
だからある晩、ロベルは思い切ってアルマの部屋を訪ねた。
ここでの仕事には慣れたか?
何か悩んでいることはないか?
そんなことを聞こうと、ノックの返事も待たずにアルマの部屋を開ける。
「な、なんですか急に」
突然の訪問に驚くアルマだったが……
部屋に入って来たロベルもまた、驚いていた。
何故ならその部屋には私物がほとんどなく、生活感が見られなかったから。
唯一、出窓に花の鉢植えが一つあるのを見つけて、
「おぉ。アルマ、花を育てているのか。言ってくれれば肥料を……」
と、部屋に入り込み、花に近付くロベルだったが……
その花が、普通の品種ではないことに気がつく。
これは、ベルタリスという名の毒草だ。
そこいらの花屋で買えるような代物ではない。
「お前……どうして、こんなものを……?」
困惑するロベルに、アルマは面倒くさそうにため息を吐く。
そして……もういっそ打ち明けてしまおうと、半ば諦めたような気持ちになって。
彼は、そのまま話し始めた。
自分が、かつてこの屋敷で働いていたユノ・ローダンセと領主との間にできた子どもであること。
この毒草はユノから奪ったもので、ここへは死ぬつもりで来たこと。
そこまで話すと、ロベルは……
信じられないという表情で身体を震わせて、
「旦那さまと、ユノの、子ども……? そんな話、聞いていないぞ……?」
「……そのせいで奥さまが亡くなったので、ずっと隠していたんだと思います」
それを聞くと、ロベルはますます動揺したように冷や汗を流し、一度部屋を出て……
そして、ヴァレリオを連れて戻って来た。
「その話は、本当か?」
ヴァレリオもいつになく困惑した様子で、アルマに尋ねる。
彼は頷き、ロベルにしたのと同じ話を聞かせた。
彼らが動揺したのには理由があった。
領主の妻と同時に死んだ二人の使用人──プリムラとルミア。
その二人と彼らは、恋人同士だったのだ。
幸せだったはずの恋人が、何故領主の妻と共に死んでしまったのか……ロベルとヴァレリオは真相を知らないまま、この屋敷で働き続けていた。
それが、領主が不貞を働き、そのショックで領主の妻が死んだと聞かされて……
こう、考えたのだ。
「もしかすると……ルミアたちも、領主に犯されていて……それに絶望して、奥さまと一緒に死ぬことを選んだんじゃ……」
頭を抱え、声を震わせるロベル。
ヴァレリオも同じ可能性を考えたようで、静かに目を伏せる。
「いずれにせよ、あの領主のせいで奥さまが身を投げ、それがプリムラたちの死にも繋がったことは事実だろう。俺たちは恋人の仇のために、今日まで働いて来たということだ」
「ちくしょう、許せねぇ……っ!」
怒りをあらわにする二人を見て、アルマは……
なんだか面白いことになってきたぞと、小さく口元を歪ませた。
しかしロベルは、ハッとなってアルマを見つめ、
「す、すまんアルマ。お前の気持ちも考えずに、自分のことばっかり……当たり前だが、お前は何も悪くないからな。今まで辛い思いをたくさんしてきただろう。話してくれてありがとう」
「そうだな……こんな毒草を持ち歩くほど、追い込まれていたのだから。すまない、アルマ」
謝罪する二人に、アルマは静かに首を振る。
「いいえ。僕が生まれるべきではなかったことくらい、自分が一番わかっていますから」
「それは違う。そんなことは決して……」
「でも、ユノが僕を孕まなければ領主の妻は絶望しなかった。もしかするとあなたたちの恋人も死ななかったかもしれない。そうでしょう?」
淡々と返すアルマに、ロベルとヴァレリオは一瞬たじろぐが……
すぐに、否定を口にする。
「いいや、お前は悪くない。悪いのは、お前という隠し子を作っておきながら、何事もなかったかのようにのうのうと生きている領主だ」
「そうだ、何もかもあいつが悪い。くそっ、プリムラたちが死んだのはあいつのせいだったなんて……許せねぇ。絶対に許せねぇ!」
「……なら、しますか? 復讐」
「え?」と聞き返すロベルたちに、アルマは小さく笑って、
「この毒草を使って……領主に、復讐しませんか?」
そう、提案する。
それに、ロベルは顔を青くして、
「さ、さすがに殺すのはまずいだろ……その花はたった一〇グラムで死に至る猛毒だ。危険すぎる」
「でも、いきなり致死量を与えなければすぐには死なないですよね?」
「それはそうだが……」
「少しずつ毒を盛って、徐々に弱らせるんですよ。それから、『命が惜しければ己の罪を全て公表し懺悔しろ』と、脅すんです」
「しかし……やるにしても、どうやって……」
「俺がやる」
そこで。
ヴァレリオが、はっきりとした声で、
「俺が、領主に毒を盛る。料理を運ぶのは俺だ、入れる隙はいくらでもある」
と、迷いなく言うので、ロベルは「でも」と躊躇うが、
「俺は、いっそ殺してもいいと思っている。あいつのせいで三人も死んだ。アルマもこんなに苦しんでいる。殺されたって文句は言えないだろう」
「駄目だ、俺はお前を人殺しにはしたくない。プリムラだってきっと、そんなことを望んじゃ……」
「プリムラは死んだんだよ! 意思も何も残っちゃいない! それに、復讐は彼女のためじゃない。俺がやりたいからやるまでだ!」
いつも飄々としたヴァレリオが声を荒らげる様を見て、アルマは不思議とワクワクしていた。
二人は、あの笛が持つ"力"のことを知らないようだ。
領主が恋人に手を出していたのではと、そのせいで死んだのではないかと、勝手に思い込んでくれている。
……これを利用しない手はない。
「……それじゃあ早速、明日から始めるぞ。まずは、その花を増やすところから始めよう。庭に植えて、きちんと育てるんだ。やってくれるよな? ロベル」
ヴァレリオの低い声に、ロベルは……
覚悟を決めたように、鉢植えを手に取った。
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
「──それが、"計画"の始まりだったわけですね」
アルマの独白を静かに聞いていたクレアが尋ねる。
アルマは無表情のまま、それに答える。
「そう。まずはベルタリスの花を増やした。十分に育ったら葉を収穫し、乾燥させる。それを細かくすり潰し、領主の食事に少しずつ、本当に少しずつ混ぜる。それを、約半年間続けた」
「結局、あなたは……領主を殺したかったのですか?」
「どうだろう。正直どっちでもよかったかな。僕の目的は、あくまでこの笛だったから。メディアルナから塔の鍵を奪う隙が作れれば、なんだってよかった」
そして、アルマはふっと自嘲気味に笑って、
「だから、使用人が一気に三人辞めた時はチャンスだったんだよ。本当はね、あなたたちがこの屋敷に来た初日に、今日のこれを実行するつもりだった。それで、リカンデュラの茶葉を買いに出かけることをお嬢さまに持ちかけたんだ。出先でメディアルナを誘拐させて、鍵を奪って屋敷に戻る。ヴァレリオたちが領主を尋問している間に、塔に入って笛を奪う……そのつもりだったのに、あなたたちに邪魔されちゃった。ヴァレリオもロベルも、予定よりも早く着いた新入りにとても焦っていたんだよ?」
やはり、馬車を襲ったあの賊もアルマが用意したものだったのか……
と、クレアは納得する。
ヴァレリオたちはメディアルナを混乱させないために彼女を屋敷から遠ざけたつもりだったのだろうが、アルマはそれを、鍵を奪うために利用しようと考えたのだ。
「……経緯についてはよくわかりました。あなたが世を呪う気持ちも、わからなくはありません。ですが……自分が辛いからといって、その辛さを他人に与えていい理由にはなりません」
そう諭すクレアに対し、アルマは、
「どうして?」
と、すぐに聞き返す。
「どうしてやり返しちゃいけないの? 他人の痛みがわからない奴らには、同じ痛みを与えてわからせるしかないじゃない。でないと、いつまで経っても世界は優しくならないよ?」
それは、本心からそう考えていることが伝わってくるような声音だった。
だからクレアは……ゆっくりと、言い聞かせるように答える。
「言っていて、自己矛盾を感じませんか? そうして傷付けられた人間が、痛みをわからせようとまた別の誰かを気付ける……"痛みには痛みを"。結局はその繰り返しです。それではいつまで経っても優しさなど生まれません」
「じゃあ……どうすればいいの? どうすれば痛みのない世界に、優しい世界になるの?」
クレアは、劔を引いて。
泣き出しそうなアルマの目を、真っ直ぐに見つめると、
「簡単です。まずは自分が、他人を大事にすることです」
と。
たった一つの答えを、彼に伝える。
「優しくされたかったら、優しくする。愛されたかったら、愛するしかないのです。人は、自分を大事にしてくれない人を大事にしようとは思いません。そして何より……自分自身が自分を大事にしなければ、他人を大事にすることはできません」
言いながら、クレアは思う。
確かにこの世界は、憎しみや悲しみで溢れている。
人々の憎悪が引き起こす凄惨な事件を、クレアは腐るほど見てきた。
それは、悪人だけが関係する話ではない。善人であるはずのヴァレリオやロベルですら復讐心に染まり、このような事態を引き起こすことがある。
だけど……
憎しみや悲しみと同じくらい、この世界には愛情や思いやりがある。
クレア自身も、エリスと出会って愛情を知った。
自分が今まで、レナードやジェフリー、隊の仲間からどれだけ大事にされていたのか……今になって、気付くことができた。
「あなたは、ロベルやヴァレリオやメディアルナから優しさを感じ取っていたはずです。だけど、それを受け取ることを恐れた。誰よりも優しくされたいと願っていながら、自分には優しくされる価値がないと思い込んで、拒絶してきた……そうではないですか?」
「……そうだよ。だって、実際そうじゃないか。僕がユノの腹に宿ったせいで、みんな不幸になった。僕には愛される価値なんて……幸せになる価値なんて、最初からないんだよ」
「それは違う!!」
……と。
その声は、少し離れた場所から聞こえてきた。
クレアが振り返ると、そこには塔を駆け上がってきたヴァレリオとロベルが立っていた。
塔の屋根が吹き飛んだことに気付き、様子を見に来たらしい。
「それは違うぞ、アルマ……俺たちが悪かったんだ。復讐からは何も生まれないってわかっていたはずなのに……領主の過ちを憎むのは、お前の存在を否定することにもなるのに、止められなかった俺たちが悪いんだ」
「そう、アルマは悪くない。俺たちが復讐に巻き込んだだけだ。こいつにはまだ幸せになる権利がある。だからどうか、アルマを見逃してやってくれないか?」
ヴァレリオとロベルが、クレアに向かって交互に言う。
アルマは「なんで……」と驚いて、
「違うよ、僕が利用したんだ。ヴァレリオさんたちの恋人はこの笛のせいで気が狂って死んだのに、そのことを僕はわざと隠していた。あなたたちの怒りと憎しみを利用するために……」
「いいや、憎しみに支配され、我を失ったのは俺たち自身の弱さのせいだ。恋人が死んだことを、誰かのせいにしたかった。誰かを憎み、復讐に燃えた方が、悲しみが紛れるから……」
「そう。きっと笛の力について知っていたとしても、領主のせいにして復讐しようとしていたと思う。それよりも、お前がどんな気持ちでこの屋敷に来たのか……どんな思いで実の父親に毒を盛っているか、考えてやるべきだった。すまない、アルマ。本当にすまない」
アルマに近付き、二人は彼の肩を抱く。
その温もりに、アルマは困惑する。
まさか二人が、こんなに自分のことを思いやってくれるとは思わなかったのだ。
……いや、クレアの言う通り、本当は二人の優しさに気付くこともあった。
だけど、それを受け取るのが怖くて。
自分にはそんな資格はないと思い込んで、拒絶していた。
そして、優しさを返す代わりに……彼らの復讐心を煽ったのだ。
そうか。痛みからは、痛みしか生まない。
どこかで止めなければ、その連鎖は永遠に続いていく。
「……もう、やめてもいいのかな?」
不幸な自分は、もうやめてもいいのだろうか?
幸せになりたいと、愛されたいと。
そう、素直に叫んでも……いいのだろうか?
アルマの瞳から、一筋の涙が流れた時……
クレアと、レナードは、ある気配に意識をむける。
その気配は、しばらく前から扉の陰で息を潜め、こちらの話を聞いていた。
その人物に、レナードは近付き、
「……このままそこで、隠れているつもりか?」
と、声をかける。すると……
「……あはは。見つかってしまいました」
頬を掻きながら……メディアルナが姿を現した。
「戻って来たら、塔の屋根がないし、入口が開いていたので、そうっと登ってきたんです。そしたら、アルマの話が聞こえて……入るタイミングを窺っていたらヴァレリオとロベルが駆け込んで来たので、慌てて扉の陰に隠れちゃいました」
と、困ったように笑う彼女。
ヴァレリオとロベルは、今の話を聞かれていたことを悟り、驚きと悲しみが入り混じったような表情を浮かべる。
しかしアルマだけは……彼女から、目を逸らしていた。
「ディアナ……突然こんなことになってすまない。今話した通り、全ては俺たちが引き起こしたことだ」
「お嬢が悲しむことをわかっていながら、止めることができませんでした。ごめんなさい。本当に……取り返しのつかないことをしました」
床に手をつき、心から謝る二人。
メディアルナは……
二人の前にしゃがみ、やはり困ったように笑って、
「……わたくし、本当は知っていたんです。お父さまが、お母さまを悲しませるようなことをして、それが亡くなるきっかけになったこと」
そう、思いがけない告白をした。
ヴァレリオたちは、目を見開いて顔を上げて彼女を見つめる。
「お母さまのお部屋で遺品を眺めていた時、日記帳を見つけたんです。『あの人がそんなことをするはずない。信じたくない。あの人とユノを憎みそうになる自分が怖い』……最後のページには、そんなことが書かれていました」
自分の母親の名前が挙がり、アルマがピクリと反応する。
メディアルナが続ける。
「ユノという女性の名前……お母さまが亡くなってから女性のお手伝いさんがいなくなったこととも関係があると、なんとなくわかっていました。ですが、まさかヴァレリオとロベルの大切な人が亡くなっていただなんて……リンナエウス家を代表して謝罪します。本当に、申し訳ありませんでした」
そう言って深々と頭を下げるメディアルナに、ヴァレリオたちは顔を真っ青にする。
「やめろ、ディアナが謝る必要なんかこれっぽっちもない! 俺たちは、お前の父親を殺そうとしたんだぞ?! お前の幸せを壊すようなことをしたんだ!」
「どうか顔を上げてください、お嬢! こんな形で裏切ったのに、どうしてあなたが謝るんですか?!」
「だって……二人は、わたくしにとって家族だから。わたくし自身の気持ちより、二人が悲しい思いをしていたことの方が、ずっと辛いんです」
メディアルナは、泣くのを堪えるような顔で、二人に微笑む。
「小さい頃から、二人はいつも優しかった……お母さまがいなくても、お父さまが公務で忙しくても、二人がいつもそばにいてくれたから、わたくしは寂しくなかったです。そうしてずっと近くにいたのに、二人が抱える悲しみに気付けなかったことが、悔しくて申し訳ない。だから、裏切られたなんて思いません。今までも、これからも……ありがとうと思い続けます」
そう、穏やかな声で言うので……ヴァレリオとロベルは、目の端から涙を流す。
それから、
「……アルマ」
と。
メディアルナは、うずくまり目を逸らしたままの彼に、呼びかける。
「わたくしとアルマは、母親違いの姉弟だったのですね。わたくしと違ってアルマはしっかりしているし、全然似ていないから、なんだかびっくりですね」
「…………」
「びっくりしたけど……わたくしは、嬉しいです。アルマとの繋がりができて」
『嬉しい』。
自分と血の繋がりがあることが……嬉しい?
彼女の言葉が信じられず、アルマは思わず視線を合わせる。
すると、メディアルナは照れ臭そうに笑って、
「だって、お手伝いさんと雇い主のままだと、アルマは一緒にご飯を食べてくれないのでしょう? なら、姉と弟ではどうですか? 一緒に食事、してくれますか?」
と、この間アルマに断られたことを思い出しながら言うが……
メディアルナはすぐに、自分の言葉を否定するように首を振って、
「ううん。本当は、姉弟じゃなくてもいいんです。わたくしは、"アルマ"と食事がしたい。あなたともっと、仲良くなりたいんですよ」
「……どうして? 僕はあなたを騙して、塔の鍵を奪ったんだ。この笛を使って、何もかもめちゃくちゃにしてやろうと思ったんだ。なのに何故、そんなことを……」
「だって、アルマが好きだから」
その瞬間。
アルマの目が、大きく見開かれる。
「わたくしの忘れ物に気付いてくれたり、『しっかりしろ』って叱ってくれたり、考えるのが苦手なわたくしの代わりにいろいろ心配してくれたり……わたくしにないものをたくさん持っているアルマのことが、大好きなんです。だから、お友だちになれたらいいなって、ずっと思っていました」
「…………うそだ……」
「嘘なんかじゃありません。二人でリカンデュラを買いに出かけたのだって、いろんなお話がしたかったからです。でも……わたくしは、知らない間にあなたをたくさん傷付けていたのかもしれませんね。本当に……本当にごめんなさい」
その言葉に、アルマは……
顔をくしゃっと歪めて、
「だから……なんで、あんたが謝るんだよ。謝るのは僕の方なのに……」
そして。
アルマは、ぽろぽろと涙を零しながら、尋ねる。
「本当に、いいのかな……? 僕なんかが、あなたと一緒にご飯を食べて」
「いいに決まっているじゃないですか。料理長に言って、アルマの好きなものをなんでも作ってもらいましょう。アルマのお誕生日、いつなのか教えてくれないからお祝いできなかったけど、こうなったら盛大にお誕生日パーティー開いちゃいましょう。今まで一緒に祝えなかった十五回分、全部取り返すために、ケーキを十五個作ってもらうんです!」
なんて大真面目に言って。
「ね、アルマ。あなたが『うん』と言うまで、わたくしは何度でも食事に誘います。だから…… もう、『僕なんか』は、言いっこなしですよ?」
いつものように、無邪気な笑みを向けてくるので。
アルマは……泣きながら、呆れたように笑い、
「…………ケーキ、十五個って……そんなに食べられるわけ、ないじゃないですか」
と、いつものように嗜めてながら、思う。
嗚呼、本当だ。
こんなに真っ直ぐ『好きだ』と言われ、優しさを向けられたら……
もう、この人を傷付けようとは思えない。
同じように、温かな気持ちを返さなきゃと思ってしまう。
他者は、自分を映す鏡だ。
愛されたかったら、恐れずに自分から愛を伝えなくちゃいけなかったんだ。
こんな簡単なことに、何故今まで気付けなかったんだろう?
ここでの生活を壊すようなことをしてしまって……できることなら、何もかもやり直したい。
いや……違う。
ここから、今から……変わらなくちゃ。
アルマは、身体中が震えるのを、必死で堪えながら、
「…………ほんとは、僕も…………一緒に、ご飯が食べたかった」
今できる、精一杯の素直な気持ちを、メディアルナに伝える。
「優しくしてもらえて、笑いかけてもらえて、ずっと嬉しかった……あなたのことも、ヴァレリオさんやロベルさんのことも、本当は大好きだった。なのに、こんなことをして…………ごめんなさい、本当にごめんなさい……っ」
心の奥底にしまっていた感情を、全て曝け出すように。
アルマの目から大粒の涙が、止めどなく溢れて、落ちた。