9-2 この手を、離さない
※プロローグ『特別な名前』、第二章『2-2 祝福の音色』、『5-1 詳細は書斎の中に』あたりを読み返していただくと、本話の理解がより深まる……かもしれません。
──クレアが狂戦士化したレナードを止めようと剣を交わしている時……
レナードの精神もまた、己の身体を制御しようと戦っていた。
アルマが奏でる笛の音を聴いた瞬間、レナードは心臓を握られたような感覚に陥った。
あれは、悲しみ。
絶望。諦め。憎悪。
この世の全てを恨むような、猛烈な負の感情。
それが笛の音色に乗って耳から侵入し、脳を、そして心を蝕んだ。
もう、全てがどうでも良いと。
自分以外を殺して、最後に自分も死のうと、そんな考えに支配されて……
そうしたら、何も怖くなくなった。
これが、アルマの心に巣食う"真っ暗闇"。
しかし、常人ならすぐに自我を食われているであろうその力に、レナードはギリギリのところで足掻いていた。
クレアに向けて剣を振り下ろしながら、心の中で叫ぶ。
何をしているんだ、早く俺を斬れ。
この状態で最善なのは、操られた俺を斬って、アルマから笛を取り上げること。
これ以外には考えられない。
なのにお前は、ロクに反撃してこない。
そこの魔導士と協力すればすぐにでも俺を殺せるはずなのに、それを選択しようとしない。
こんなこと、特殊部隊として許されない。
俺たちにとって、任務の遂行こそ最重要。
敵の手の内に堕ちた味方を斬るなんてことは、当たり前にできなければならない。
そうしなければ、もっと大きな被害が出るからだ。
以前のお前なら、躊躇いもなく斬っていたはずなのに……やはりお前は、変わった。
優しくなりすぎた。
だから、俺が代わりに担ってやろうと思ったんだ。
何も知らないお前の代わりに、俺が呪われた武器の解放を請け負ってやろうと、そう思ったのに……
そう叫ぶレナードの自我の横で。
闇に侵食された自分が、妖しく囁く。
「そうだ。俺はあいつから、重要な任務の役を奪ってやりたかった。隊の中で特別視されるあいつが……他とは違うあいつが、ずっと憎かった」
それに、レナードの自我は「違う」と否定するが、闇はなおも囁きかける。
「しかしクレアルドはもう、特別ではない。仲間を斬ることもできなくなった、脆弱な凡人……いや、それ以下だ。生かす価値はない。このまま殺してしまおう」
じわじわと、足先から沼に沈んでいくように纏わり付く闇。
そうかもしれない。
変わってしまったあいつが悪いと、憎んだ方が楽になれるのかもしれない。
だけど……
「…………違うッ!!」
と、レナードは闇を振り払うように叫ぶ。
そして思い出す。
十七年前、幼いクレアと出会ったばかりの頃を──
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
クレアとの出会いは、レナードにとって三度目の実戦任務の最中であった。
任務の目的は、クーデターを目論む組織の取引現場を押さえ、壊滅させること。
その取引道具の運び屋として利用されたのが、幼いクレアだった。
犯罪組織から助け出したのは良かったが、クレアには身寄りがなかった。
だからそのまま、軍事養成施設『箱庭』に入所することになった。
入所に立ち会ったレナードは、事務員のミスで彼が『クレアルド』と名付けられるのを目撃する。
子どもたちの名前を使い回すこの施設において、『クレアルド』は他につけられたことがない特別な名前だった。
その出来事をきっかけに、レナードはクレアのことを意識するようになる。
その頃のレナードは特殊部隊に所属してまだ日が浅く、十歳という年齢もあり、現場で目にするこの国の闇に心をすり減らす毎日を送っていた。
自分たちの仕事は、国にとって脅威となり得る対象を調査し、殲滅すること。時に残酷な手段を選ばなければならないこともある。
だから、感情という不安定なものに判断力を奪われぬよう、『私情は捨てよ』と散々刷り込まれてきた。
レナードは剣の腕もさることながら、その冷静かつ的確な判断力を認められ、十歳という若さで特殊部隊の隊員に抜擢されたのだ。
しかし、レナードだけは知っていた。
自分の中に、捨てきれない"感情"があることを。
人が傷付いたり、死んだりするのは、何度見ても慣れることはない。
自分が人間であるかぎり、感情を完全に捨てることなどできない。
けれど、何も感じていないふりをしなければ。
感情のない戦士でいなければ、居場所がなくなってしまうから。
だから心を殺し、平気なふりをしていた。
ここまで育ててくれた国に対する恩義はある。
だがそれ以上に、子どもたちが捨て駒として扱われている国の現状を、レナードは疑問に思わずにはいられなかった。
自分も、所詮は駒の一つ。
国にとって都合の良い存在である限りは、生かしておいてもらえる。
だから、生きるためには心を殺し続ければならない。
果たしてそれは……『生きている』と言えるのだろうか?
そんなことを考えながら、レナードは自らが育った施設である『箱庭』を訪れる。
わずか十歳で実戦部隊に身を置く優秀な先輩として、後輩の指導を任されているのだ。
装飾のない、無機質で真っ白な建物。
その中にある広い演習場に、大勢の子どもがいた。
ある子どもは剣を振るい、また別の子どもは魔法陣を描き、立派な戦士になれるよう戦闘訓練をしている。
それを、レナードは眺める。
新しい顔も増えたが、全体的な人数は減ったように見える。身体か心のどちらかが壊れ、ついて行けなくなった子どもが複数いるのだろう。そうしてリタイアしていく仲間たちを、レナードは何人も見てきた。
今ここにいる子どもたちの内、何人が生き残れるだろう。
『クレアルド』という、他にはない特別な名前をもらったあの少年も、どれくらい生きられるかわかったものではない。
と、レナードが演習場の隅に目を向けると……
幼いクレアが、自分の背丈ほどもある木刀を必死に振るっていた。
他の子どもたちがレナードの来訪に気付かぬ中、クレアだけはすぐに彼の視線に気付き、真っ先に駆け寄って来た。
「レナードさん、こんにちは」
そう挨拶をしてくるが、声にも目にも感情はない。
ただ、『知っている人に会ったら挨拶する』という教わったばかりの常識を守っているだけなのだろう。
だからレナードも、無表情のままに言葉を返す。
「クレアルド、ここの生活には慣れたか?」
そう尋ねると、彼はこくんと頷く。
レナードは続けて、
「訓練は、辛くないか?」
と尋ねる。
クレアは、今度は首を横に振って、
「ううん。ご飯と、お風呂と、眠る場所があって、とてもありがたいです」
と、答えた。
確かにそうかもしれないと、レナードは思う。
親を亡くし、親戚の家で邪魔者扱いされながら育ち、挙句犯罪組織に売り飛ばされたクレアにとって、衣食住が約束された今の生活の方が快適なのは事実かもしれない。
だが恐らく……それすらもこの施設によって植え付けられた思考なのだ。
"身寄りのない自分に、生きる場を与えてくれた国に感謝を。"
そう思うよう、レナードも幼い頃から教育されてきた。
そういった意味では、クレアは"国の捨て駒"として順調に成長しているらしい。
レナードは、クレアの無感情な瞳を見下ろす。
正確な年齢はわからないが、見た目から推測するに三、四歳くらいだろう。
これくらいの年の子どもは、訓練に慣れない内は泣いたりわめいたりするのがほとんどである。
だが、クレアにはそれがなかった。
最初からずっと、何も感じていないような表情と態度なのだ。
それが、レナードには気がかりだった。
本当に辛いと感じていないのか、それとも辛さを見せぬよう我慢しているのか……
いずれにせよ、使えない者は容赦なく切り捨てられるのがこの施設の常だ。
せっかく特別な名前を与えられたのだから、少しでも長く生きた方がいい。
そうでなければ、なんだかもったいないと……そんなことを、レナードは考えていた。
レナードは「そうか」と返し、クレアに背を向ける。
そして、後輩たちの指導へ向かおうとするが……
「……あの」
後ろから、クレアに呼び止められる。
レナードが無言のまま振り返ると……
幼いクレアは、少し姿勢を正して、
「──ありがとう、レナードさん。僕を助けてくれて」
やはり感情の乏しい表情で、そう言った。
驚き目を見開くレナードに、クレアはさらに続ける。
「ぼく、ここに来られてよかった。はやくレナードさんみたいに、強くなります」
そう言い残すと、クレアはぺこっと頭を下げて、剣の訓練へと戻って行った。
去って行く幼い後ろ姿を見つめ……
レナードは、しばらく立ち尽くしていた。
『ありがとう』
それは、初めて向けられた感謝の言葉だった。
どれほど訓練を頑張っても、国のために働いても、誰からも感謝されることはなかった。
そういうものだと思っていた。誰かに感謝されるためにやっているわけではないと。
しかし……
今、初めて感謝の言葉をかけられ、レナードは自分の仕事が人を助けたことを深く実感した。
そして、そのことを認識した瞬間……たまらなく嬉しくなってしまったのだ。
何のためにここでこうして生きているのかと葛藤していたレナードだったが、この時、自分が護るべきものの具体像がようやく見えた気がした。
あの子を助けることができてよかった。
同じように苦しんでいる人々を、これからも救おう。
たった一言の『ありがとう』で、レナードはまた頑張ろうと思えた。
そして、自らの仕事の意義を忘れそうになる度、レナードはこの日のクレアの姿を思い出した。
──嗚呼、そうだ。
俺は、クレアルドを憎んでなどいない。
あいつは、"護りたいもの"の象徴であり、"良きライバル"なんだ。
同じ部隊に所属するようになり、あいつが目覚ましい活躍を見せるのを、俺は誇らしく感じていた。
自分も負けてはいられないと。もっと頑張らなくてはと、そう思わせてくれることに感謝すらしていた。
この任務に同行したのだって、あいつの足を引っ張るためじゃない。
あいつ自身が気付いていないこの国の謀略から、あいつを護るためだ。
だから……
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
「くっ……」
レナードが放つ重い剣撃を受け止め、クレアは顔を歪める。
隙を見てレナードの体勢を崩そうと試みるが、反応速度も筋力も通常の比ではない程に強化されているため、苦戦を強いられていた。
防戦一方になりつつあるクレアに、レナードの自我が叫ぶ。
早く俺を斬れ。
斬って、アルマを捕らえるのだ、と。
しかし、その叫びが声になることはなく……
彼の自我は、暗い"負の感情"に、間もなく食い尽くされようとしていた──