8-3 怨嗟を断ち切るために
クレアたち三人を乗せた馬車が、リンナエウスの街を進む中──
レナードは馬を走らせ、屋敷へと戻っていた。
大通りを抜け、緩やかな上り坂を抜けると、屋敷の敷地をぐるりと囲む高い壁が見えてくる。
レナードは馬から降り、壁の外側の目立たない場所へ馬を繋いだ。
そして壁に沿って、屋敷の裏手側を目指す。
正面の門から入るわけにはいかない。事前に調べておいた別の侵入経路から屋敷へ入り込むのだ。
しばらく進んだのち、レナードは足を止め、壁と対峙する。
レンガを積み上げ造られた、高い外壁──
その一箇所に、手を当てる。
すると、レンガの一部が「コトッ」と乾いた音を立て、僅かに動いた。
長年雨風に晒されたため、こうして弛んでいる箇所があるのだ。
レナードは弛んだレンガを慎重に引き抜く。
そして、そこから庭の様子を覗く。
庭師であるロベルはいないようだ。他に人の気配もない。
そのことを確認し、レナードはポケットからあるものを取り出す。
先端に鉤針を付けたワイヤーである。これを使って、壁を登るのだ。
レナードはワイヤーを振り回し勢いをつけ、先端の鉤針を壁の向こう側へと放り投げた。
クイッと引いてやると、壁の向こうでレンガの端に鉤針が引っかかる。強めに引いても外れる様子はない。
ワイヤーを手繰り寄せるようにして、レナードは壁に足をかけ垂直に登り始める。
そうして壁の上に到達すると、再度庭を見下ろし、誰もいないことを確認した。
人が少ないとはいえ、やけに静かだ……
既に屋敷の中で、ヴァレリオたちが動き出しているのだろうか?
壁の上から庭へと降り立ち、レナードは駆け出す。
気配を殺しながらも素早く移動し、主屋の建物へと辿り着く。
そして、いくつかある窓の内の一つに近付き、耳を済ませながら慎重に……窓から屋敷の中を覗いた。
そこは、厨房だった。
モルガン料理長が、調理場でフライパンを振るっているのが見える。
さらにもう一人、おつかい係のブランカの姿もあった。料理長に話しかけ、メモのようなものを受け取っている。恐らくこれから午後の買い出しに行くのだろう。
そして……
厨房を去るブランカと入れ替わるようにして、ヴァレリオが厨房に入って来た。
標的の登場に、レナードは緊張を高める。
ヴァレリオは、首を横に振りながら料理長に何かを話している。
声は聞こえないが、口の動きから察するに「領主の昼食はいらない」と話しているようである。
レナードがその様子を観察していると……厨房の外の廊下から、一瞬誰かが顔を覗かせるのが見えた。
今のは……ロベルだ。ロベルが、ヴァレリオのことを待っている。
ということは……
二人はこの後、行動を共にするということ。
領主のところへ向かい、何かする可能性が高い。
レナードは再び動き出し、少し離れた場所で足を止める。
主屋には、バルコニーがいくつかある。領主の寝室がある三階から侵入し、二人の動きを見張ることにする。
先ほどと同じように、レナードはまず二階から突き出したバルコニーへ鉤針付きのワイヤーを放り投げ、それを頼りに壁を登る。
そうして二階へ、さらには三階へとあっという間に駆け上った。
屋敷の構造を把握しているため、レナードにはバルコニーの奥にある部屋がどこなのか、覗かなくともわかっていた。
今、彼が登ったのは、領主の寝室の隣──書斎のバルコニーだ。
念のためカーテンの隙間から中を確認するが、予想通り誰もいない。領主は寝室にいるのだろう。
レナードは窓にかけられた内鍵を針金を使って解錠し、静かに侵入する。
そのまま、書斎の中でしばらく息を潜めていると……部屋の外の廊下から、足音が聞こえて来た。
男のものと思われる、二人分の足音──ヴァレリオと、ロベルだろう。
領主の寝室の前で、足を止めたようだ。
やはり来たか……なんとか間に合った。
レナードは二人の気配に集中し、耳を澄ませる。
すると、
「……覚悟はいいな、ロベル」
という、ヴァレリオの声が聞こえてくる。
その少し後に、
「……あぁ。今日で、全てを終わらせよう」
そう答える、ロベルの声。
微かに震えているようにも聞こえるが、それが怒りによるものなのか躊躇いによるものなのか、表情が見えないため、レナードにはわからなかった。
そうして、
「……いくぞ」
という、強い決意を込めたヴァレリオの声の後。
寝室のドアが開け放たれる音が響いた──
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
──ノックもなく開かれたドアに、領主のマークスは驚き、ベッドから半身を起こす。
しかし部屋に入って来た顔ぶれを見て、すぐに安堵する。
「……なんだ、ヴァレリオか。それに、ロベルも……二人揃って、一体何事だ?」
その安心しきった態度に、ヴァレリオは奥歯を噛み締める。
そして、ベッドに横たわる領主へ一直線に歩いて行き、
「……お前が犯した罪を、裁きに来た」
そう、怒りに満ちた表情で言う。
安堵から一変、攻撃的な態度のヴァレリオに、領主は戸惑いの声を上げる。
「つ、罪……? 何だ急に。私にそのような態度を取って良いと思って……」
「忘れたとは言わせねぇぞ。十五年前……奥さまと、プリムラとルミアが死んだその裏に、お前の身勝手な行動があった。そうだな?」
ハッと目を見開く領主。
「な、何故それを……まさか、ユノから聞いたのか……?」
その問いには答えず、ヴァレリオとロベルは隠し持っていたロープを手に領主へと近付き……彼の身体を押さえ付け、縛り上げた。
抵抗しようと身を捩る領主だが、毒ですっかり弱っているため力が出ず、そのまま身体の自由を奪われてしまう。
「貴様ら、私をどうするつもりだ?!」
ベッドの上で拘束された領主が、怯えた目で二人を見上げる。
ロベルはそれを、悲しげな表情で見下ろし、
「……事件の真相を世間に公表し、謝罪をしてほしい。あの三人は、気が狂って勝手に死んだってことになっている。本当は、あんたが奥さまを裏切ったせいで死んだのに……その事実を知らずに、俺たちは十五年もあんたに仕えてきた」
「お前は知らないだろうが、俺はプリムラの、ロベルはルミアの恋人だった。本当に、愛していた……お前が奥さまを愛していたのと同じようにな」
強く睨み付けながら言うヴァレリオ。
領主は、驚きと絶望が入り混じったような顔でそれを聞く。
そして……ヴァレリオは一度呼吸を整えると、
「……お前の食事に、ひと月前から毒を混ぜていた。その致死量は一〇グラム。あと少しでも口にすれば、お前はすぐに死ぬ」
「ど、毒……?!」
「そうだ。お前が病気だと思っているその症状は、全て毒によるものだ。よかったぜ、お前が医者を追い払ってくれて。お陰で毒を盛っていることがバレずに済んだ」
「そ、そんな……」
ただでさえ青白い顔をさらに青くし、震える領主。
それに追い討ちをかけるように、ロベルはポケットから小瓶を取り出し、
「ここに、その毒が三グラムある。この量を摂取すれば、あんたはここで死ぬ。身体は縛ったし、助けも来ない。俺たちが二人がかりでやれば、あんたの口をこじ開けて飲ませることも容易い」
「ひぃっ……」
「さぁ、死にたくなければお前の罪を認めろ。そして、死んだ三人のために事件の真相を公表し、裁きを受けろ」
威圧的なヴァレリオの声に、全身を震わせる領主。
しかし、領主の口から溢れたのは謝罪の言葉ではなく、
「た……助けてくれ! 誰か!! 殺される!!」
という、必死の叫びだった。
ヴァレリオは舌打ちし、領主の胸ぐらを乱暴に掴む。
「ディアナは新入り三人と出かけた。ハリィもブランカもいねぇ。料理長とアルマは厨房だ。誰も助けになんか来やしない、諦めろ」
その言葉を証明するかのように、誰も部屋の戸を叩きに来てはくれなかった。
領主は観念したのか脱力し、目を伏せ……語り始める。
「……そうだ。私はユノと関係を持ち、セフィリアを絶望させた。彼女を死に追い込んだのは……間違いなく私だろう。だが、プリムラとルミアについては本当に知らないんだ。どうして一緒に死んでしまったのか……私にもそれがずっと疑問で……!」
「この後に及んでまだシラを切るのか? 何故、あの二人が互いの首を絞めて死んだのか……それは、同じ地獄から解放されるためだったんだろう」
「同じ地獄……? 何のことだ……?」
わからないという顔をする領主の胸ぐらを掴んだまま、ヴァレリオはそれを強く揺さぶり、
「とぼけやがって! お前が……あの二人にも手を出していたからだろう?! ユノにしたのと同じことを、プリムラたちにも強要していたんだ!! だから三人は、自ら命を絶った!!」
それを聞いた瞬間、領主は首を何度も横に振る。
「ち、違う! 誤解だ! 私が関係を持ったのはユノだけだ! 他の二人には指一本触れていない!!」
「ならどうして死んだ?! 生きることに絶望していなきゃあんな死に方はしないだろう! 奥さまと一緒にいたことが何よりの証拠だ、三人はお前のせいで死を選んだんだ!!」
「違う! 違うんだ!! 頼む、信じてくれ!!」
目に涙を浮かべ懇願する領主。
その姿は、一つの領地を統治する者としてはあまりにも情けないもので……
ヴァレリオは、胸ぐらを掴んでいた手をふっと離す。
「……もういい。ロベル、やっぱこいつ殺そう」
「ヴァレリオ、落ち着けって」
「落ち着いていられるかよ! 早く毒を寄越せ!!」
「冷静になれ。殺すのは簡単だ。身体に毒を抱えたまま、いつ死ぬかわからない恐怖の中生かす方が罰になると、そう話したじゃねぇか」
「それは罪を認めたらの話だろう? こいつは認めなかった。だから殺す。それが、こいつに与える罰だ」
そうしてヴァレリオは、領主の上に馬乗りになると……
彼の首を、両手で力一杯絞め始めた。
縛られた領主は碌に抵抗も出来ず、喉からくぐもった声を漏らすのみである。
完全に殺意に支配されたヴァレリオの肩を、ロベルは掴んで止めようとする。
「おい、やめろって! こんなクズのせいでお前まで人殺しになることはない!!」
「うるせぇ! こいつは何も知らない俺たちを十五年も騙してきたんだそ?! 殺されて当然だって、お前も思うだろう?!」
その言葉を……ロベルは否定できなかった。
本当は、ロベルだってそう思っている。
ルミアたちの死の真相を知ってから、その首に手をかけることを何度も想像してきた。
何度も何度も、夢の中で殺してきた。
最愛の恋人を絶望の淵に追いやり、優しかった奥さまを裏切った最低な男……
それが、今も領主としてこの地を統治し、のうのうと生きている。
その事実を考えるだけで、怒りと憎しみで吐きそうになる。
だけど。
そんな男のせいで、ヴァレリオを人殺しにはしたくない。
毒を盛っただけでも大罪なのに、これ以上罪を重ねさせるわけにはいかない。
恋人を亡くした傷みを共に乗り越えてきた、唯一無二の親友なのだ。
最後の一線だけは……越えさせるわけにはいかない。
「ヴァレリオ、やめろ……やめてくれ!!」
彼の肩を掴み、ロベルが願うように叫んだ──その時。
「そこまでだ。領主から離れろ」
そんな声と共に、寝室のドアが開け放たれる。
ヴァレリオたちが驚いて振り返ると……
そこにいたのは、銀髪の青年・レナードだった。
「お、お前……ディアナと出かけたはずじゃ……!!」
声を震わせるヴァレリオに、レナードはゆっくりと近付いていく。
「話は全て聞かせてもらった。お前たちが庭でベルタリスを栽培していることも把握済みだ。今すぐその手を離せ」
「なっ……お前、一体……?」
その問いかけに答えるように、レナードは胸元からアルアビスの国章が入った手帳を取り出し、掲げる。
「軍部の特殊捜査官だ。じきにクレアルドたちも役人たちを連れてここへ来る。観念することだな」
「軍部の……?!」
「ど、どうして……いつから目をつけられていた……?!」
驚愕する二人を押しのけるように、領主がレナードに手を伸ばし、
「た、助けてくれ! 早くこいつらを牢屋へぶち込んでくれ!!」
と、必死の形相で言う。
自らの落ち度を省みることもせず、彼らを牢屋に入れろと叫ぶ領主に、レナードは呆れたように息を吐く。
すると、ヴァレリオが再び領主の首に手をかけ、
「てめぇ……やっぱりここで殺す……ッ! でないと、プリムラたちが浮かばれねぇ!!」
と言って、ギリギリと手に力を込め始めるので……
レナードは素早く近付き、領主の首を絞めるヴァレリオの手を掴むと、ぐりんと捻った。
それだけでヴァレリオの身体は軽々と一回転し、ベッドから落下する。
「無駄な足掻きをするな。お前たちの動きを止めることなど雑作もない。どうしてもと言うのなら、手や足を切断し無理矢理止めることも可能だが……それがお望みか?」
言いながら、腰の剣に手を添えるレナード。
今の動きだけで、その実力差は明らかだった。
床に叩き付けられ、ヴァレリオは暫し呆けた後……拳で床を殴りながら、「クソッ」と呟く。
「なんでだよ……なんで、プリムラたちが死んだ時にはきちんと調べなかったくせに、俺たちの計画には気付きやがった……?」
と、レナードのことを強く睨み付ける。
「最初から、俺たちの計画を知っていたのか? 俺たちを捕まえるために、わざわざ新入りを装って屋敷へ来たっていうのかよ?」
その言葉に、レナードは静かに首を横に振る。
「違う。俺たちの目的は、あの奇妙な笛についての調査だ。お前たちの計画も、この屋敷の過去も、調べていく内に偶然知ったまでだ」
「そんな……どこまで運が悪いんだ、俺たちは……」
「だが、まだわからないことがある。お前たちは、十五年前の事件の裏に領主の不貞があったことを、最近まで知らなかったはずだ。いつ、どうやって知った? 誰がそれを、お前たちに教えた?」
「そ、それは……」
レナードの質問に、口籠るヴァレリオ。
ロベルも同じく口を閉し、目を逸らす。
どうやら、言いたくない事情があるらしい。
「……まぁいい。その辺りの話はあとでじっくり聞かせてもらう。代わりに、俺たちが知っていて、お前たちが知らない情報を教えてやろう。それで救われるとは思わないが……知らないよりはマシかもしれない」
「え……?」
ヴァレリオとロベル、そして領主も、神妙な面持ちで彼の言葉を待つ。
それらの視線を受け止め、レナードは一度目を伏せてから、口を開く。
「……プリムラとルミアが死んだのは、彼女たち自身が絶望していたからではない。セフィリアの負の感情が、笛の音によって伝播したからだ」
「負の感情が……伝播……?」
「あぁ。信じ難いかもしれないが、あれはそういう力を持つ笛だ。奏者の感情を増幅させ、聴いた者に感染す……お前たちも普段からあの音色を聴いて、普通ではないと思っていただろう?」
それには心当たりがあるのか、ヴァレリオたちは口を噤む。
レナードが続ける。
「この情報は、事件の当事者であるユノ・ローダンセから得たものだが、彼女から聞いた限りではプリムラたちが領主に陵辱されていたという話はなかった。単純に彼女が知らないだけという可能性もあるが……実際はどうなんだ? 領主」
突然投げかけられ、領主は首をぶんぶん横に振る。
「断じて! 断じてあの二人には手を出していない! 本当だ! 頼む、信じてくれ!!」
「……だそうだ。信じるか否かは、お前たちに任せるが」
レナードの言葉を聞き、ヴァレリオとロベルは顔を見合わせる。
納得いかない、というよりは納得したくないような表情で見つめ合った後……
ロベルが、悲しげに俯いて、
「でも……その笛の話が真実だとしても、領主のせいで三人が死んだことに変わりはない。この男が奥さまを裏切らなければ、あんなことにはならなかった。そうだろう?」
それに、レナードは重々しく頷く。
「その通りだ。領主の裏切りが、セフィリアの絶望を生んだ。そして関係のないプリムラとルミアを殺し……十五年の時を経て、お前たちの殺意へと変わった。負の感情は、今も連鎖し続けている。そして恐らく、これからも……」
「……これから……?」
そう聞き返す領主を、レナードは冷めた目で見下ろし、
「今回の件をメディアルナが知れば、彼女は傷付き絶望するだろう。それが笛の音色となって、聴いた者に伝播していく……同じことの繰り返しだ」
「そんな……ディアナまで奥さまと同じ目に遭うっていうのかよ?!」
掴みかからんばかりの勢いで尋ねるヴァレリオ。
レナードは、眉一つ動かさずに答える。
「そうだ。ここで領主を殺せば、メディアルナはお前たちへの憎しみに一生囚われるだろう。その心理状態であの笛を吹けば、セフィリアと同じように絶望を振りまく"悪意の化身"となる。それが嫌なのであれば……領主の殺害は諦めることだな」
その言葉に、ヴァレリオは……
いよいよ泣きそうな顔をして、床に拳を叩き付けた。
「そんな話を聞いたら……諦めるしか、ねーじゃねぇか」
そして、その目に涙を浮かべながら、ぽつりぽつりと呟く。
「ディアナには……ディアナにだけは、幸せになってほしいんだ。奥さまが死んで、プリムラとルミアも死んで、本当は俺も屋敷を離れようと思った。だけど……『どうしてみんないなくなっちゃうの?』って泣きじゃくる幼いあいつが不憫で……これ以上寂しい思いはさせないと、そのためにここで働き続けてきた。それは、ロベルも同じだ」
その言葉に、ロベルは目を伏せる。
「でも、俺たちはもう十分、お嬢に恨まれるようなことをしてしまった。純粋な彼女を傷付け、憎しみを抱かせるようなことをしてしまった。そのせいで、奥さまと同じ運命を辿ることになるなんて……そんなの、耐えられない……っ」
「なぁ、せめてあの笛をなんとかしてくれないか? もう二度と犠牲者を出さないためにも、ディアナからあの笛を遠ざけて欲しい。頼む、お願いだ」
縋るように言うヴァレリオ。
それに続いて、領主も口を開き、
「私からも頼む。こんなことを言える立場ではないが、あの子がセフィリアのようになることだけは避けたい。たった一人の……大切な娘なんだ」
と、声を震わせる。
レナードは……
この瞬間を待っていたと、内心笑みを浮かべながら、
「当たり前だ。そのためにここへ来た。この醜い"怨嗟の鎖"は、俺が断ち切ってやる」
そう、真っ直ぐに答えた。
「過去は変えられない。だが、未来は変えられる。お前たちが過去の憎しみを断ち、メディアルナの幸せを願うなら……俺が、あの笛の"力"を消滅させてやる」
「消滅……? できるのか、そんなことが」
「あぁ。そうすれば、メディアルナの絶望が増幅し、周囲に伝播することを防げる。これ以上の犠牲者を生むことはなくなるだろう。だから……」
すっ……と。
レナードは彼らに向けて手を差し伸べ、
「あの笛が保管されている塔の鍵を寄越せ」
……そう。
それが、彼の本来の目的。
「メディアルナが鍵を持っているのは知っている。だが、予備の鍵くらいあるだろう。それを貸せ」
言いながら、領主に向けてさらに手を突き出す。
しかし……領主は、困ったように俯き、
「……塔の鍵は、ディアナが持っている一つだけだ。あの事件の後、他の鍵は全て処分した」
「……なんだと?」
「もう二度とあの塔を開けないつもりでいた。だが……セフィリアが、どこかに合鍵を隠していたらしい。それを、ディアナが見つけてしまった。だから、今ある鍵はあの一つだけだ」
レナードは、胸の内で歯を軋ませる。
領主なら合鍵を持っているものと思っていたが……期待外れだったか。
まぁいい。こうなったら力尽くで開けるまでだ。
「……わかった。なら……」
……と、そこで。
レナードは動きを止める。
何故なら……
どこからか、笛の音色が聴こえてきたから。
「こ……この音は……?」
領主たちも、驚いて辺りを見回す。
それは、間違いなくあの塔の方から聴こえてくる。
つまり……
何者かが、あの笛を吹いているということ。
鍵はメディアルナが持っている。
しかし、彼女は今クレアたちと馬車の中だ。
「一体、誰が……」
と、レナードが窓から塔の方に目を向けると、
「うっ……!」
ヴァレリオとロベルが呻き声を上げながら、床にうずくまった。
領主もベッドの上で、苦しげに胸を押さえ始める。
何事かと彼らに尋ねようとして……しかしすぐに、レナードはその理由を悟る。
屋敷に響く、美しい笛の調べ。
だが……
その音色に、心がざわつくのを感じる。
得体の知れない不安、恐怖、悲しみ、憎しみ……
そんな"黒い感情"が、心の奥底から湧き上がるような、奇妙な感覚。
これは……間違いなくあの笛の力だ。
「くっ……」
レナードは、負の感情に飲み込まれないよう意識を保ちながら……
何者かが笛を奏でる塔へと、駆け出した。