8-1 怨嗟を断ち切るために
──レイルートの留置所から馬を走らせ、クレアは夜明け前にリンナエウスの屋敷へと帰り着いた。
暗い庭を抜け、夜回り係のユーレスに見つからないよう離れに戻り、自室の扉を開けようとする……と。
二つ隣の部屋の扉が、静かに開く。
現れたのは、彼の帰りを待っていたレナードだ。
気配を感じ、部屋から出てきたらしい。
クレアは無言のままレナードの方へと近付く。
「……どうだった?」
他の使用人はまだ寝ている時間のため、レナードは小声で尋ねる。
クレアは小さく頷き、同じく小声で返答する。
「領主の妻と、二人の使用人の死についての詳細がわかりました。やはりあの笛が関わっています」
「そうか。では、あのねぼすけを連れて来い。他が起きる前に報告を聞こう」
「わかりました」
一旦彼と別れ、クレアはその隣──エリスの部屋のドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。クレアがいつ帰ってもいいよう、エリスが開けておいたのだろう。
部屋に入ると、彼女はまだベッドの上で眠っていた。
横向きに丸まり、毛布の中ですやすやと寝息を立てている。
起こしてしまう前に……クレアは暫しその寝顔を眺め、微笑む。
まだ、任務は終わっていない。むしろ今日、これからが本番だ。
しかし、ひとまず彼女のところへ帰って来られたのだと、無防備な寝顔に、愛しさと安心感が押し寄せてきた。
その感覚に、彼はアルフレドから「変わった」と言われたのを思い出す。
そして……確かにそうだと、納得してしまう。
先程ユノの話を聞いた時、胸の奥が少しざわついた。
あの感情は、恐らく"嫌悪感"だ。
任務において、捜査対象にそのような感情を抱くのは初めてだった。
ユノのように憎悪に支配され、他人や自分の人生を狂わせた人間を、腐る程見てきた。
どんなに凄惨な場面に遭遇しても、感情移入することなどなかった。国が決めた善悪のものさしに従い、すべきことをするだけだと教わってきたから。
それなのに。
エリスの寝顔を見て、ほっと安堵してしまうくらいには、自分はあの話に"嫌な感情"を抱いていたらしい。
エリスといると、忘れそうになるのだ。
この世は悲しみや憎しみに溢れていて、今もどこかで誰かが誰かを傷付けている。
少し前までは、そういう世界に身を置くことが当たり前だったのに……
エリスといるこの空間が、あまりにも温かくて優しいから、世界の残酷さを忘れそうになる。
本当は、忘れていたい。
彼女といる間は、忘れていたい。
特殊部隊の隊員ではなく……
ただの、"エリシア・エヴァンシスカの恋人"でいたい。
だが、今はまだ忘れてはならない。
悪意は伝播する。ここで対処しなければ、いつか誰かの悪意があの笛によって広がり、エリスとの幸せを壊しに来るかもしれない。
それが"禁呪の武器"なら尚更。「全てを解放する」という"精霊の王"との約束もある。
"禁呪の武器"を放置すれば、巫女の生まれ変わりであるエリスの身にどんな災いが降りかかるかわからない。この仕事は、きちんと終わらせなければ。
そう、だから……
最後の任務に向け、彼女を起こさなければならないのだが……
あまりに気持ち良さそうに眠っているので、クレアは起こすのを躊躇っていた。
長い睫毛。柔らかそうな肌。
赤い唇。少し寝癖のついた前髪。
小さな寝息を立てるその姿は、何度見ても愛おしい。
クレアが、そっとその寝顔を見つめていると……
鼻をひくひくと鳴らした後、エリスがゆっくりと目を開けた。
「むぁ……あれ、クレア。おかえり」
「ただいま、エリス。すみません、早い時間に」
「んーん。ぶじでよかった」
むくりと起き上がり、寝ぼけ眼を擦るエリス。
それに、クレアはまた微笑んで、
「起きたばかりで申し訳ないのですが、レナードさんの部屋で情報の共有をします。行けますか?」
「ん……わかった」
エリスは毛布から出て、ベッドから降りて立ち上がる。
そして、
「……ん」
……と。
クレアの目の前に立ち、両手を広げた。
意図がわからず、クレアが「え?」と首を傾げると、
「……なんか、疲れてるみたいだから、ぎゅってしてあげる」
なんて、まだ半分寝ぼけたような顔でそう言うので……
クレアはもう堪らなくなって、困ったように笑いながら、彼女の身体を抱き締めた。
エリスも、彼の背中にそっと手を回す。
「おつかれさま。身体、冷たいね」
「すみません、貴女まで冷えてしまいますね。離れましょう」
「いいよ、あっためてあげる」
「エリス……」
「むしろあたしだけしっかり寝ちゃってごめん。今日が終わったら、ゆっくり休もうね」
「……はぁ。私、エリスのこと、大好きです」
「なによ急に」
「この気持ちを全人類が忘れなければ、醜い争いなど起きないのに……」
「全人類って……随分なスケールね。世界を救う勇者にでもなるつもり?」
あくび混じりに言うエリスに、クレアは抱き締める腕に力を込めて、
「いいえ。私が救いたいのは、貴女と私の幸せだけです」
「……それ、あんたの仕事的に言っちゃいけないセリフなんじゃない?」
「そうですね。だから……レナードさんには内緒でお願いします」
そう、悪戯っぽく返して。
「……さぁ、そろそろ行きましょうか。今日で、全てを終わらせます」
名残惜しさを振り払うように、彼女の身体を離しながら、言った。
──レナードの部屋に集合した後、クレアはユノから聞いた、この屋敷の過去について話した。
領主とユノが不貞関係にあったこと。
それを知った妻・セフィリアの吹く笛の音が変化したこと。
その音色によって、プリムラとルミアが死んだこと。
セフィリア自身も塔から身を投げ、自殺したこと。
聞き終えたエリスは、「うわぁ」と声を漏らし、
「全っ然理解できない」
と、ドン引きした様子で顔を引き攣らせた。
それに、レナードは眉を顰め、
「今の説明で理解できないとは、どれだけ知能が低いんだお前は」
「違うわよ、話はわかる。登場人物の誰にも共感できないってこと。他人を貶めることに全力なユノも、妻子ある幸せな生活を棒に振った領主も、キレなかったセフィリアも、恋人が死んでるのにここで働き続けるヴァレリオもロベルも、まるで理解できない。みんな気持ち悪い」
という、子どものような語彙力で述べられた感想に、クレアは妙に腑に落ちたような、すとんと納得したような、そんな気持ちになって。
「……やっぱり、エリスのこと大好きです」
「だからなによ急に!?」
「私もまったく同じことを考えていました。一途な愛を貫くラブラブな私たちには到底理解し得ない世界ですよね」
「真顔で恥ずかしいこと言うな!」
「え、でもさっき帰って来た私をぎゅーって抱き締めてくれたじゃないですか。あれをラブラブと言わずに何と呼べばいいのですか?」
「あ、あれは……寝ぼけてただけから!!」
「とにかく。エリスは私が絶対に幸せにしますから、今の話には一生共感できなくて大丈夫です」
「くっ……あ、あたしだけ幸せになっても意味ないじゃない! あんたのことだって、その……あたしが、めちゃくちゃ幸せにしてあげるんだからね!!」
「ぐぼはぁ!!」
「おい。俺が剣を抜く前にこの不毛なやり取りを止めてくれるんだろうな?」
ピリッとした口調で釘を刺すレナードに、クレアとエリスは『すみません……』と小さく謝る。
レナードは、何度目かわからないため息をついて、
「……そもそも共感する必要などない。我々がすべきなのは、情報を元にこれからの行動を考え、実行することのみだ」
と、仕切り直すように言う。
「今の話からわかったことは二つ。一つは、あの笛が持つ能力について。使用者の負の感情を増幅させ、音色を聴いたものにそれを伝播する……"禁呪の武器"に限りなく近い代物だと言える。そしてもう一つ、これは憶測の域を出ないが、ヴァレリオとロベルが領主殺害を目論んだ理由は、恐らく恋人の死の原因が領主にあるからだろう。しかし……」
「知ってたなら、今ごろになって殺そうとするのはおかしいよね? もう十五年も経っているわけだし」
エリスの指摘に、レナードは頷く。
「あぁ。恐らくここ最近で事件の真相を知るきっかけがあったのだろう。それが何かはわからないが……まぁ、それも捕らえてから聞き出せば良い」
という淡々とした返答を聞きながら、エリスは思う。
あのお嬢さまが……メディアルナがこの事実を知ったら、もう立ち直れないかもしれない。
母親が死んだのは父親が浮気していたせいで、しかも巻き込まれるような形でもう二人死んでいるだなんて……
でも、それはメディアルナと領主が解決すべき心の問題だ。
今、自分たちがすべきなのは、あの危険な笛を回収し、メディアルナから遠ざけること。
そして、領主が殺される前にヴァレリオたちを捕らえること。
その目的を、もう見失わない。
エリスは、決意をあらたに顔を上げて、
「……うん。ヴァレリオたちを人殺しにしないためにも、今日絶対に捕まえよう」
そう、力強く言った。
クレアは微笑み、しっかりと頷く。
「はい。ここで、この屋敷の"悲しみの連鎖"を断ち切りましょう。それができるのは、私たちしかいません」
「そう。それが、俺たちの仕事だ。昨晩、ヴァレリオの部屋にロベルが入って行くのを確認した。会話までは聞き取れなかったが、今日動くと見て間違いないだろう。予定していた通りの作戦でいく。頼んだぞ」
レナードのその言葉を最後に、クレアとエリスは自室へと戻り、夜明けを待った。
そして、リンナエウスの街に朝日が昇る頃──
恐らく最期になるであろうメディアルナの笛の音が、街に優しく、降り注いだ。