7-3 葬られたキヲク
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♢♢♢
ユノの生まれた家は、お世辞にも裕福とは言えなかった。
仕事もせず酒浸り、暴力を振るう父親と、朝から晩まで働き詰めな母親。
物心ついた時から、何故母は父と別れないのだろうと疑問に思っていた。
ある時、それを母に尋ねると、
「あの人には、私がいないと駄目だから」
と、疲れた顔で微笑んだ。
それを聞き、ユノは母に期待することを諦めた。
母は、自分を護ってはくれない。駄目な男に頼られ、支えることだけを生き甲斐にする馬鹿な女なのだ。
一刻も早く、この家から離れなければ。
自分だけで生きていく術を見出さなければ。
私は絶対、母さんのような馬鹿な生き方はしない。
そのためには何が必要か。どうすれば家を出て、一人で生きていけるか。
そんなことを考えながら、十歳になったユノは母親に頼まれたおつかいへ向かう。
そこで、八百屋のおじさんが、りんごを一つ手に取りこう言った。
「ユノちゃん、お腹空いていないかい? そんなに痩せちゃって可哀想に。これ、オマケであげるよ。また来てね」
『可哀想』。
そうか。可哀想と思われれば、こうして人に良くしてもらえるんだ。
学も身分もない自分が一人で頑張ったって上手くいくはずがない。
こんな風に親切でお金のある人に助けてもらう方が、何倍も効率がいい。
それからユノは、優しい人に強請り、豊かな人に甘えて生きるようになった。
哀れで貧しい少女を演じるのは、年を追うごとに上手くなっていった。
十五歳になった頃、ユノは時々小遣いをもらっている裕福な商人の家で、自分と変わらない年齢の娘が使用人として働いているのを見かけた。
主人である商人に尋ねると、身寄りがないので住み込みで働かせているのだと言う。
その瞬間、ユノは「これだ」と思った。
お金持ちの家に住み込みで働くことができれば、豪華な住まいと確かな収入を同時に得ることが出来る。
仕事で留守がちな母に代わって家事は一通りこなしてきた。使用人の仕事は天職だと感じた。
さっそくユノは商人に「自分も雇って欲しい」と申し出るが、人手が足りていると断られてしまう。
代わりに商人は、斡旋所への登録を後押ししてくれた。
それが、当時から女性の雇用に力を入れていた『フルーレ斡旋所』。
ユノはワクワクしながら、お金持ちの屋敷に住み込みで働けるような仕事の紹介を待った。
そうして、十七歳になった年。
ユノは、パペルニア領の領主一家であるリンナエウス家の使用人という仕事を手に入れた。
ユノと同時に斡旋されることになった者が、他に二人いた。
プリムラ・ノースポールと、ルミア・アリッサム。
いずれもユノと同じ十七歳の少女だった。
先代が死に、新しく領主になった婿養子が横暴らしく、既に何人もの使用人が辞めたという。
そのため、同時に三人も補充されることになったのだ。
しかしユノは、領主の横暴さなど心配していなかった。
それよりも、領主の屋敷という大豪邸に住めることへの期待の方が大きかった。
勤務初日。
ユノは目にした屋敷の外観に、息を止める。
石造りの白壁、赤いレンガの屋根。
まるで物語の中から飛び出した城のようなその建物に、胸が高鳴った。
同期のプリムラとルミアと共に屋敷の中へ足を踏み入れてからも、ユノは夢見心地だった。
古い建物ではあるが、目につくもの全てが上質で、高級で、美しい。鼻を掠める香りまで華やかだ。
使用人のために用意された離れの部屋も、ユノの生家とは比べ物にならないくらいに上等だった。
ここで働ける。
それも、住み込みで。
ユノは、これから始まる新たな生活に、希望と野心をその胸に抱いた。
ユノたちの主人となるリンナエウス家の人間は三人しかいなかった。
先代領主の娘、セフィリア・マリアン・リンナエウス。
その婿養子で、現領主のマークス・デミオン・リンナエウス。
そして……その娘、メディアルナ・エイレーネ・リンナエウス。
もうすぐ二歳になるというメディアルナは、新しい使用人であるユノたちに興味津々で話しかけてきた。
しかし子どもが苦手なユノは一歩引いて、メディアルナの相手を同期の二人に任せた。
メディアルナの母であり、領主の妻であるセフィリアは、天真爛漫で明るい性格をしていた。
絹糸のように細い髪、海のように青い瞳。聖女のようなたおやかさと、少女のような愛らしさを持つ、美しい女だった。
セフィリアは使用人に対しとても謙虚で親切だったが、ユノにはかえってそれが不愉快だった。
生まれながらに権力と財力持つだけでなく、容姿も心も美しい彼女が、単純に妬ましかったのだ。
その夫にして現領主のマークスは、噂通りの厄介な性格の持ち主だった。
「今日中に手配しろ」と無理な指示を出し、使用人たちが必死で用意した後に「やっぱりいらない」と切り捨てるなど、半刻前に"是"と言っていたものが"非"になるなんてことは日常茶飯事だった。
とにかく直情的で、言っていることが二転三転する。それに振り回される周囲の苦労を理解しようとしない。
しかし、妻のセフィリアと娘のメディアルナには、そのような傍若無人を発揮することはなかった。
愛しているからに他ならないのだろうが……しばらく勤める内に、ユノは領主の為人を理解するようになった。
彼には、格下の貴族の出として婿養子に迎えられた劣等感が常に纏わりついているのだ。
だから、権力を誇示するように横暴な振る舞いをわざと繰り返す。
そのくせ、リンナエウス家の正統な血縁者である妻には引け目を感じ、強く出られない。
そして能天気な妻は、そんな領主の内心の苦悩を知らないのだ。
そう。つまり……
領主のマークスは、自分と同じ人種だ。
劣等感に苛まれ、いつもどこか焦りを感じながら生きている。
その心の闇を理解してくれる者が、周りにいない。
これは、使える。
ユノは自らの野望を果たすべく、領主に付け入る隙を虎視眈々と狙った。
リンナエウス家には、"不思議な笛"があった。
なんでもこの家に古くから伝わる家宝なのだと、妻のセフィリアは言う。
セフィリアは時々、笛を演奏して娘のメディアルナや使用人たちに聴かせた。
その音色を聴くと、不思議と心が穏やかになった。
一時的ではあるが自らの劣等感や野心が鳴りを潜めてしまうその音色に、ユノは自分が自分でなくなるような気持ち悪さを感じ、あまり聴かないようにしていた。
屋敷には、ユノを含め十人の使用人がいた。
その内、二年前から働き始めたという若い男が二人。
ヴァレリオ・ドルシ。
そして、ロベル・バラルディ。
同年代ということもあり、ユノの同期であるプリムラとルミアは彼らとすぐに打ち解けた。
が、ユノは使用人たちと馴れ合うつもりはなかった。
使用人同士の仲を深めても、自分の地位や身分は向上しないからだ。
だから、ヴァレリオがプリムラと、ロベルがルミアと恋仲になったことを知っても、「くだらない」としか思わなかった。
そうして、ユノは次第に孤立していった。
表面上は愛想良くしているが、誰に対しても心を開かない。
使用人仲間が仲良くしようと声をかけても、一線を引くような距離感は保たれたままだった。
そのことが、プリムラとルミアの雑談から領主の妻・セフィリアの耳に入る。
セフィリアは心配した。だから、ユノにこう声をかけた。
「ユノさん、何か困っていることや、悩んでいることはありませんか?」
セフィリアに苦手意識を抱くユノは、少し眉を顰めて、
「特にありませんが……どうしてですか?」
「いえ、お一人でいることが多いようなので、少し心配になったのです。何か悩んでいたりしないかなって」
「別に、一人でいるのが好きなだけです。ご心配いただきありがとうございます」
と、引き攣りそうになる顔を精一杯の笑顔に変え、ユノは答える。
話を切り上げ仕事に戻ろうとするが、セフィリアはなおも尋ねる。
「お休みの日に、ご家族のところへ戻られたりしないのですか?」
その問いに、ユノはいよいよ顔を顰め、「え?」と聞き返す。
セフィリアは、聖女のように穏やかな笑みを讃え、こう続けた。
「他のみなさんは時々ご実家に帰られているのに、ユノさんはこの半年の間、一度も帰省していないですよね? たまには顔を見せに帰ってあげてはいかがですか? ご両親もきっと喜ばれますよ」
それを聞いた瞬間。
ユノは……身体が震える程の怒りを感じた。
この女は、知らないのだ。
世の中には、親に会いたくない子どももいるのだということを。
子どもとの再会ではなく、稼いだ金だけを喜ぶ親もいるのだということを。
あらゆるものに恵まれ生きてきたこの女には、想像すらできないのだろう。
職場で孤立している哀れな使用人も、家族に会えば救われるはずだと信じて疑わない。
だから、こんなセリフが言えるのだ。
本当に……綺麗すぎて、吐き気がする。
ユノは、震える腕を背中に隠し、にこりと笑って、
「ありがとうございます。次のお休みにでも、考えてみます」
と、従順な使用人の面を着けて、そう返した。
──その晩。
ユノは、屋敷の人間が寝静まったのを見計らい、領主の寝室をノックした。
妻のセフィリアは、幼いメディアルナと別室で就寝している。
だから、寝室には領主一人だけ。
……本当は、ここまでするつもりはなかった。
けど、昼間セフィリアに言われたことに対する怒りが収まらなくて……
大切なものを、奪ってやりたくなったのだ。
領主は、突然訪ねてきたユノに驚きながらドアを開ける。
「どうした、こんな時間に。何かあったのか?」
寝ているところを起こされ、やや不機嫌そうに尋ねる領主。
ユノは、ニヤリと笑うと……
領主の身体に、抱き着いた。
そして、
「旦那さま……どうか、お部屋に入れてくださいませんか?」
そう、甘えるように言う。
目を見開く領主を、ユノは上目遣いで見つめ、
「お慕いしているのです。一晩だけでいい。どうか……どうか……」
「な、何を言っているんだ。そんなの駄目に決まって……」
「遊びでいいから。領主たるもの、愛人の一人くらい居て然るべきです。そうでしょう? あなたは……偉い偉い領主さまなのだから」
その妖艶な笑みと、己の劣等感を刺激するような甘い囁きに……
領主は、ごくりと喉を鳴らす。
そして。
ユノを、部屋の中へと招き入れてしまった。
それから、ユノは何度も領主の部屋を訪ねた。
夜を重ねる毎に、ユノは優越感を覚えてゆく。
何も知らずにいるセフィリアを見るのは、とても気分が良かった。
幼いメディアルナの世話をしているため、セフィリアには領主の相手をする時間がないようだ。
初めこそ躊躇っていた領主も、次第にユノとの逢瀬に積極的になっていった。
このまま愛人として小遣いを稼ぐのもいいが……
いっそ妻の座を奪ってしまうのもいいかも。
なんて、さすがにそれは無理か。
そんな悪意に満ちた野心を抱きながら、ユノは数ヶ月を過ごし……
そして、異変は突如として現れた。
いや、ある意味では想定内の出来事だったのかもしれない。
ある朝、ユノは起き抜けに気怠さと吐き気を感じ、洗面所で戻した。
その症状に……ユノは、心当たりがあった。
体調が優れないことを理由に、ユノはその日、自室で休むことにした。
さて、これからどうしてやろうか。
ユノがベッドの中で考えていると、誰かが部屋をノックする。
「ユノ、わたくしです。大丈夫ですか?」
それは、セフィリアの声だった。
孤立しがちなユノのことを、セフィリアは特に気にかけていた。彼女の欠勤を聞きつけ、やって来たのだろう。
ユノは面倒くさそうに舌打ちをしてから、「開いています」と答える。
扉がそっと開き……心配そうな顔をしたセフィリアが現れた。
「お休みのところすみません。体調を崩したと聞いて、心配になり来てしまいました」
「わざわざありがとうございます。少し休めば良くなると思うので、気にしないでください」
「食事は摂りましたか? 何か食べたいものがあれば厨房に依頼しますよ」
「大丈夫です。食欲ないので」
「まぁ、それは良くないですね。胃腸の風邪かしら? 早く治るといいけど……」
そして、セフィリアはベッドに横たわるユノに近付き、
「疲れが出たのかもしれませんね。いつも一生懸命に働いてくれてありがとうございます。体調が良くなったら、しばらくご実家に帰省なさってください。一週間くらいゆっくりしてくるといいわ」
と……
慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、言った。
ユノは……自分の中の真っ黒な感情が、抑え切れないほどに膨れ上がるのを感じる。
……あぁ、これよ。
この笑顔が、大嫌いなの。
妬みや嫉みなんか抱いたことない、綺麗すぎる笑み。
生まれた時から"全て"を持っている者が浮かべる、余裕の笑み。
嫌い。嫌い。だから……
全部、壊してしまおう。
「……奥さま、私ね」
ユノは、くすりと笑って。
内緒話をするように、口の横に手を添えて、
「お腹に、旦那さまの赤ちゃんがいるの。この意味、わかります?」
そう、楽しげな声で、囁いた。
セフィリアが、「え……?」と聞き返すので、ユノはさらに続ける。
「奥さまはメディアルナさまのお世話で忙しいですもんね。そう思って、私が旦那さまの夜のお相手をしていたんですよ。気付きませんでしたか?」
「ゆ、ユノ……何を言って……」
「旦那さま、おへその横にほくろがあるんですね。メディアルナさまも同じところにあると聞きました。可愛いですね。私の赤ちゃんも、同じところにできるかなぁ?」
言いながら、愛おしげに腹をさする。
セフィリアは、信じられないという表情で首を横に振り、
「う……嘘よね、ユノ? あなたもあの人も、そんなことするわけ……」
「奥さまが悪いんですよ」
言葉を遮るように、ユノは強い口調で言う。
「私に『実家』と呼べる場所はないし、あなたが思うような『家族』もいない。それなのに、家族と会えって言うから……だったらここで新しい家族を作っちゃおうって、そう思ったんじゃないですか」
「……嘘……嘘よ……」
「嘘だと思うなら、旦那さまに聞いてみたらどうです? 一昨日、脱いだ下着をそのまま彼の部屋に置いていったから、それを突き付ければ全て話してくれると思いますよ?」
セフィリアは首を振り、泣きそうな顔をして……
ユノの部屋を、飛び出して行った。
再び一人になったユノは、少し後悔する。
あーあ、やっちゃった。
領主が不貞を認めたとしても、隠蔽したとしても、どちらにせよ自分はここを追い出されることになるだろう。
彼は私を、本気で愛しているわけではないから。
今ごろセフィリアは、領主を問い詰めるため彼の元へ向かっているだろう。
普段呑気にヘラヘラしている彼女が取り乱して泣き叫べば、屋敷中が大騒ぎになるはずだ。
そこで私の名前を出そうものなら、使用人たちが血相を変えて私の部屋を叩きに来るに違いない。
この大きなベッドでこうして眠れるのも、今だけの幸せなのかもしれない。
不幸中の幸いと言えるのは、領主の子を妊娠したらしいことだ。
子どもをダシにすれば、養育費として、あるいは口止め料として、一生金を無心することができる。
この豪華な屋敷を離れるのは惜しいが……こうなってしまった以上、その道を選ぶしかない。
さて、誰かが自分を問い詰めに来る前に、一眠りするとしよう。
そう考え、ユノは……無理矢理、目を閉じた。
しかし、ユノの予想は大きくはずれた。
その日、ユノの部屋の扉は、何者にも叩かれなかったのだ。
翌日、仕事に復帰するも、屋敷の人々に変わった様子はなかった。
まさか、セフィリアは……
昨日話したことを、誰にも言わなかったのか?
ショックのあまり領主を問い詰めることもできなかったのか。
それとも、突飛な話すぎて信じられなかったのか。
それならそれで好都合だが……何だかつまらない気もした。
暴露してしまった以上は、この屋敷がめちゃくちゃになればいいと思っていたから。
そんなユノの不満は、廊下ですれ違ったセフィリアの顔を見ることで解消される。
「おはようございます、ユノ。体調はどうですか?」
そう声をかけてきた彼女の目は……泣き腫らしたように赤くなっていた。
それを誤魔化すように微笑む彼女に、ユノは……どうしようもなく満たされる。
「……おはようございます、奥さま。おかげさまで、今朝はだいぶ気分が良いです」
にこりと笑い、そう返した。
そうして、三日が経った。
妻のセフィリアは領主とユノの不貞について、領主を問い詰めることも、ユノを責めることもしなかった。
いつものように穏やかに微笑んで、気にしていないような振る舞いをしていた。
だが、ユノにはわかる。
初めて触れる他者からの悪意に、親しい者からの裏切りに、彼女の心がじわじわと蝕まれていることが。
そう、それでいい。
もっと領主を疑い、私を恨め。
私と同じ、真っ黒な心を持てばいいんだ。
ユノは、自分のせいでセフィリアに"黒い感情"が生まれつつあることに、快感を覚えていた。
だから──
その日、廊下で出くわした領主が、ユノを引き止め、
「最近部屋に来ないじゃないか。どうしたんだ?」
と囁き、腰に手を回してくるのを……
向こうの角で、セフィリアが盗み見ているのに気付きながら。
領主を振り払うどころか、逆に抱き着いて、
「もう、旦那さまったら……こんなところ、誰かに見られたらどうするんですか?」
と、セフィリアの泣きそうな顔を想像しながら、妖しく微笑んだ。
そして。
それは、その日の午後に起きた。
メディアルナがすやすやと昼寝をしている最中、妻のセフィリアは屋敷から姿を消した。
彼女やメディアルナの世話係であるプリムラとルミアは、屋敷中探し回ってセフィリアを探し……
やがて、主屋の裏にある塔の扉が開いていることに気が付き、中へと足を踏み入れた。
長い螺旋階段を上ると、頂上の部屋にセフィリアがいた。開け放った窓から、静かにリンナエウスの街を眺めている。
その手には、彼女がいつも奏でる笛が握られていた。
「奥さま、ここにいらしたのですね」
「もうすぐ午後のお茶をお淹れしますよ。お部屋に戻りましょう」
プリムラとルミアが尋ねると……セフィリアはゆっくりと振り返る。
その表情に、二人は、暫し言葉を失った。
彼女は、穏やかに微笑みながら……
その目から、涙を流していたのだ。
「お……奥さま……」
「どうされたのですか?!」
初めて見る主人の涙に、二人は慌てて駆け寄る。
しかしセフィリアは、それには答えず、
「笛を……」
と。
手にした笛を掲げ。
「……笛を吹けば、落ち着くはずです。よかったら、一緒に聴いていてください」
そう、消え入りそうな声で言った。
事情はわからないが、プリムラとルミアは彼女の演奏を聴くことにした。
だが……
結論から言えば、その判断は間違っていた。
セフィリアは静かに笛を構えると、歌口に唇をつけ、吹き始める。
それは、不思議な笛だった。
彼女が息を吹き込むだけで、指が勝手にキーを押さえ、美しい音色を奏でてくれる。
誰に言っても信じてもらえないが……これはきっと、魔法の笛なのだ。
聴くものの気持ちを浄化する、魔法の笛。
だから……
これを奏でれば、消えるはず。
自分の中に生まれた、この醜い感情も……
美しい音色が、きっと掻き消してくれるはず。
そう、願ったのに。
セフィリアを蝕む悲しみも、憎しみも、消えてはくれなかった。
それどころか、どんどん膨れ上がっていく。
嫌な言葉が、光景が、何度も何度も脳裏を過ぎる。
『お腹に、旦那さまの赤ちゃんがいるの』
『私が旦那さまの夜のお相手をしていたんですよ。気付きませんでしたか?』
『奥さまが悪いんですよ』
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。
そんなこと、あるはずがない。
ユノも、あの人も、とても良い人だもの。
きっとユノを傷付けたばかりに、そんな嘘をつかせてしまったのだ。
謝らなきゃ。ユノに、謝らなきゃ。
そう思って、彼女に近付こうとしたのに……
『最近部屋に来ないじゃないか。どうしたんだ?』
どうして貴方は……
その娘を、抱き寄せているの?
「……ぅ……あぁ……っ」
演奏を聴くプリムラとルミアが、耳を押さえ苦悶の表情を浮かべる。
美しい笛の音……しかし、明らかにいつもと違う。
いつもなら穏やかな気持ちになるはずの音色が……
今は、聴けば聴く程、"黒い感情"に支配されていく。
ざわざわと波打つ心。
過去の悲しみや憎しみが、ずるりと引き摺り出されるような感覚に、吐き気すら覚える。
それに、二人は必死に抗おうとするが……
なす術もなく、闇に飲み込まれる。
──あぁ、そうだ。忘れていた。
この世界は、悪意に満ちている。
傷付け傷付き、裏切り裏切られ。
嫉妬と欲望に満ちた、醜い世界。
その根源は何だ?
人だ。
人間が、この世界を黒く濁らせている。
憎い。
憎い憎い、醜い。
殺そう。全て、殺してしまおう。
ニンゲンを、一人残らず殺して……
浄化された、美しい世界を取り戻そう。
「ぅ……あぁぁ……」
プリムラとルミアは、目から涙を流しながら立ち上がると……
互いの首を掴み、強く、絞め始めた。
ギリギリと音を立てながら、細い指が、白い首に食い込んでいく。
少女の握力とは思えない力で、二人は互いの首を絞める。
それを、取り憑かれたように笛を吹き続けるセフィリアの空虚な瞳が、見つめていた。
──ちょうどその頃、ユノが塔の入口へと辿り着いた。
昼寝から目覚めたメディアルナが、母を求め泣き出した。それなのにセフィリアも、彼女を探しているはずのプリムラとルミアも戻って来ないため、ユノが捜索を任されたのだ。
塔に近付いたユノは、すぐに異変に気付く。
頂上の部屋から、笛の音色が聴こえる。
ということは、ここにセフィリアがいるはずだが……
なんだか、いつもと違う音色のようだ。
それに、唸り声のようなものも聞こえてくる。
ユノは怪訝な顔を浮かべ、塔の階段を上り始めた。
──頂上に近付くに連れ、ユノは気分が悪くなるのを感じる。
何だ、この音色は。
聴けば聴く程、鼓動が嫌な加速の仕方をする。
不審に思いながら、頂上の部屋の扉を開けると……
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
笛を吹くセフィリア。その正面で……
プリムラとルミアが、向かい合って、互いの首を絞めているのだ。
「あ、あんたたち、何やって……!」
耳を塞ぎながらユノが叫ぶのとほぼ同時に……
プリムラとルミアは、糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。
口の端から泡を吹き、薄く開いた瞳が虚空を見つめている。
それでも、セフィリアは笛を吹くのをやめない。
心を乱す音色に吐き気を覚えながらも、ユノは彼女に近付き、その手から笛を払い落とした。
「ちょっと……一体何がどうなってんのよ?!」
音色が止み、額から汗を流しながら、ユノはセフィリアに問う。
セフィリアは焦点の合わない瞳でしばらくぼうっとした後……ハッと正気を取り戻し、
「わ、わたくしは、何を……」
「それはこっちが聞きたいんですけど! 笛の音は気持ち悪いし、この二人はお互いに首絞めてるし……まさかこれ、死んでないよね?」
ユノに言われ、セフィリアは床に目を落とす。
そこには、既に事切れたプリムラとルミアが、重なり合うように倒れていた。
「あ……わたくし……わたくしは……」
セフィリアの身体が、ガタガタと震え出す。
理解したのだ。
自分の中の憎しみが、笛によって増幅し、音色となって二人に"感染"した。
その結果……二人を、殺してしまったことを。
「ぁ……あぁぁ……」
震えながら、後退りするセフィリア。
その目から、涙が溢れ出す。
只事ではない彼女の様子に、さすがのユノも困惑するが……
落ち着くよう諭す前に、セフィリアの腰が、開け放たれた窓の縁に当たった。
「あ、危ないわよ、そんなところにいたら……」
ユノが思わずそう口にすると……
セフィリアは、涙に濡れた瞳で彼女を見つめ。
「……全部、わたくしのせいです」
「え……?」
「……ユノ………………ごめんね」
そう、疲れ果てたような、全てを諦めたような笑みを浮かべて。
高い高い塔の窓から、ふわりと、飛び降りた。
──そうして、セフィリアは死んだ。
プリムラとルミアも死んだ。
現場に居合わせたユノにも殺人の容疑がかけられたが、役人による検証の結果、集団ヒステリーと結論付けられた。
妻を失い、領主は悲しみの底に突き落とされた。
恋人であるプリムラを亡くしたヴァレリオも、同じくルミアを亡くしたロベルも、涙が枯れるほどに泣き明かした。
ただ、事件の真相を知るユノだけが、悲しみとは異なる感情を抱いていた。
悲しみに暮れる領主に、ユノは言う。
「旦那さま。私、旦那さまの子どもを妊娠しました」
しかし、領主は答えない。
椅子に腰掛け、項垂れ、床に目を落とすのみだ。
「どうしますか? 私を妻に迎えますか? それとも追い出しますか?」
淡々と問いかけるユノ。
領主はやはり答えない。
……そんなに大事に思っていたなら、裏切るような真似しなければよかったのに。
ユノは「ふん」と鼻を鳴らし、領主に近付くと、
「奥さまはね、私と旦那さまが不倫していたこと……知っていましたよ。私が教えたから」
彼の耳元で、そう囁いた。
瞬間、領主は目を見開き……
ユノの首を、ぎゅうっと絞めた。
泣き腫らした目が、憎しみで染まっている。
首を絞められながらも、ユノはそれを楽しげに見つめ、
「あは……何も知らないまま死んでいればよかったのにって思いました?」
「……黙れ」
「私の誘いに乗った旦那さまが悪いんじゃないですか……つまんない劣等感から私を抱いたくせに、今になって良夫ぶって、バッカみたい」
掠れた声で、そう言い放った。
領主は、くしゃっと顔を歪めると……
手を離し、ユノを解放した。
ユノは床に座り込み、何度か咳き込んでから、
「どうやら、私を妻にするつもりはないみたいですね」
「…………」
「でも、お腹の子は間違いなくあなたの子ですよ? 私を追い出すにしても、父親としての責任を果たしてもらわないと困ります。"誠意"を見せてくれれば、領主の隠し子であることも内緒にしておいてあげます。言っている意味、わかりますよね? 偉い偉い領主さま」
と、挑発的な声で言う。
領主は、しばらく黙り込み……
やがて、徐ろに立ち上がると、部屋の戸棚から小切手を取り出した。
♢♢♢
「──そうして、養育費兼口止め料をもらって、私はリンナエウスの屋敷を離れたってわけ。これが、あの三人が死んだ経緯の全て。だから、私は殺していない」
真実を語り終え……
ユノは、最後にそう締め括った。
凄惨な事件の全貌を聞き、アルフレドは顔を引き攣らせながら、
「いや、死ぬきっかけ作ったのはあなたでしょ……よく『殺していない』なんて言えますね」
と、呆れたように言う。
その横で、クレアは冷静に問いかける。
「つまり、あの笛は……使用者の心理状況で、発揮される効果が変わるということでしょうか?」
ユノはワインを一口飲むと、「ふっ」と鼻を鳴らして、
「こんな話を聞いたってのに随分と冷静だね。彼のように罵ってくれてもいいんだよ?」
「質問に答えてください」
「……まぁいいや。あんたの言う通りだと思う。演奏者の感情を聴いた人間に伝播する、奇妙な笛なんだと私は解釈している」
「感情を、伝播……」
クレアは考える。
吹いた者の感情を増幅させ、音色として周囲に伝播させる……
使用者の負の感情を引き出し狂戦士化させる"禁呪の武器"と、働きが似ているように思える。
ユノに出会うまで妻・セフィリアが暴走しなかったのは、彼女がそれまで"悪意"とは無縁の性格だったからなのだろうか?
そんな単純な話でもないような気もするが……いずれにせよ、人が持つ"悪意"を依代に凶悪な力を発揮することは確かだ。
メディアルナも、いつそうなるかわからない。一刻も早く、彼女から笛を取り上げなければ。
そう結論付けるクレアの隣で、アルフレドが苦々しい顔で口を開く。
「そんなことがあったから、領主は女の使用人を雇わなくなったんすかね? 亡き妻への罪滅ぼしというか、トラウマというか……」
その言葉に、ユノは楽しげに笑う。
「あはは、あの屋敷は今そんなことになっているのかい? 面白いねぇ。自分の不貞をひた隠しにし、罪悪感にまみれながら生きているんだね、あの男は」
「ということは、あなたと領主が関係を持っていた事実は、他の使用人も知らないのですか?」
「たぶんね。少なくとも私は言っていないよ。あの小心者の領主が自分から懺悔するとも思えないし、誰も知らないままなんじゃないかい?」
つまり、当時屋敷にいたヴァレリオもロベルも、事件の真相を知らない。
恋人だったプリムラとルミアが死んだ裏に、領主の不貞があったことを知らない。
もし知っていたなら、領主毒殺の動機も、恋人が死に至った原因は領主にあると考えてのことだと推察できるのだが……別の動機があるのだろうか?
……あるいは。
最近になって、事件の真相を知る"きっかけ"があったのか。
クレアはさらに尋ねる。
「妊娠した領主との子どもは、どうしたのですか?」
それに、ユノは「チッ」と舌打ちをして、
「十歳になると同時に出稼ぎに出したよ。私の時みたいに貴族サマの小間使いとして就職できたっていうのに、一年前に脱走して……以来、行方知れずになっている。本当、どうしようもない役立たずだよ。領主からもらった金を泣く泣く使って育ててやったのに。あんな子、産まなきゃよかった」
太々しい態度で、そう言った。
それから、すぐに妖しく笑って、
「そんなことより、こうして貴重な情報を提供してやったんだ。報酬として、刑期を短くするよう交渉してくれるんだよな?」
と、期待に満ちた目をクレアに向けるので……
彼は、にこりと微笑み、
「いいえ。交渉はしません」
そう、バッサリ否定する。
ユノは目を丸くし、「え?」と聞き返すが……
「今の話を聞いて思ったのです。あなたは、独りでいるのがよほどお好きなのですね」
「な、何を言って……」
「あなたの出自には同情すべき点もありますが、あなたに純粋な善意や厚意を向けてくれた人たちもいたはずです。しかしあなたは、それらに対し悪意で答えてきた。自ら望んで独りになる道を選んできたとしか思えません」
「そ、それは……」
口籠るユノに、クレアは冷たい瞳で彼女を見下ろし、
「『独房』。あなたにぴったりの場所じゃないですか。ここにいれば、あなたの大嫌いな"優しい人たち"に会わずに済みますよ? よかったですね」
そう微笑んで。
クレアは「ありがとうございました」とだけ言い残すと、背を向けて去って行った。
「ま……待って。待ってくれよ!」
ユノの叫びがこだまするが、クレアは振り向かない。
アルフレドも何も言わずにクレアの後に続き……
ユノは、再び独りになった。
「…………」
十五年前の真実を語ったことで、彼女はセフィリアのことを思い出していた。
いや、本当は……一日だって忘れたことはなかった。
彼女が最期に見せた、あの笑顔……
『……ユノ………………ごめんね』
あの顔が、忘れられなくて。
窓から飛び降りた瞬間も、地面に叩きつけられ真っ赤に染まった髪も、ずっとずっと、網膜に焼き付いたままで。
それを忘れたくて……酒や薬に溺れた。
……なんで。
なんであの時、謝ったんだ。
なんで、私を罵ってくれなかったんだよ。
大嫌い。
そういうところが、大嫌いだ。
優しくて、純粋で、綺麗で……こんな私を、理解しようとしてくれた。
それが怖くて、自分の醜さが強調されるようで、だからいっそ、同じように黒く染めてやろうと思った。
そう、怖いんだ。純粋すぎる存在が怖い。
だから、子どもも手放した。
……あぁ、そうだ。
私は、人一倍誰かに愛されたいと思っているくせに。
いざその愛情を向けられると、怖くなって攻撃してしまうんだ。
だから、独りになった。
あの男の言う通り。
「……ごめんなさい…………ごめんなさい……」
暗い暗い独房の中。
子どものように啜り泣くユノの声が、小さく響いた──
* * * *
「──ありがとうございました、アル。お陰で貴重な情報を手に入れることができました」
留置所の門を出て、クレアはアルフレドに礼を述べる。
彼は肩をすくめ、「いえいえ」と微笑み、
「お役に立てて何よりです。それに、クレアさんのこわーい顔が見れて俺得でした」
「……私、そんな怖い顔をしていましたか?」
「そりゃあもう。正直痺れましたよ。エリスちゃんにも見せたかったなぁー。連れてくればよかったのに」
「こんな世間の闇を掃き溜めたような場所に、彼女を連れて来るわけがないでしょう。あんな話を聞くのは、私やあなただけで十分です」
「確かに、それもそうっすね」
それから、アルフレドはニヤニヤと笑って、
「なんか……変わりましたね、クレアさん」
「え? そうでしょうか。仕事においては今まで通りに振る舞っているつもりなのですが……レナードさんにも叱られてばかりですし、仕事に支障がないよう気をつけます」
「いやいや、今のクレアさん、すげー良いと思いますよ。少なくとも、俺は好きです」
そう言って、ニカッと笑うアルフレドに……
クレアは、「思ってもいないことを」と、困ったように笑い返す。
それから、
「猫のマリーは、元気にしていますか?」
と、少し前に預かった彼の飼い猫について尋ねる。
アルフレドは嬉しそうに笑って、
「はい、今日は別の知人に預けてきました。その節はありがとうございました」
「いいえ、礼を言うのはこちらです。あれからエリスはすっかり猫好きになって、街で野良を見かける度に駆け寄るようになったのですよ。それがもう可愛くて可愛くて……」
「あはは。じゃあ、この件が終わったらマリーに会いに来てくださいよ。いつでも待ってます」
「えぇ、ぜひそうさせていただきます」
そして、クレアはリンナエウスの屋敷に戻るべく、馬に跨り……
アルフレドに別れを告げる前に、あることを思いつく。
「そうだ……アル、もう一つ頼まれてはくれませんか?」
それに、彼は迷うことなく頷き、「クレアさんの頼みなら何なりと」と答える。
「一週間前、このレイルートの街で、リンナエウス家の馬車を襲った賊がいました。恐らくこの留置所に収容されているはずです」
「なるほど。そいつらの素性を調べれば良いわけですね?」
クレアは、静かに頷いて、
「理解の早い後輩を持って、私は幸せです」
「またまた。思ってもいないことを」
「本当ですよ。次に会う時には高級な猫じゃらしを用意しておきますので……どうか、頼みましたよ」
クレアの言葉に、アルフレドは「かしこまりました」と一礼して。
「それじゃあ、また」
「はい。お気を付けて」
短い別れの挨拶の後。
クレアは馬を出し、リンナエウスの屋敷を目指した。