6-3 淀みに浮かぶうたかたは
一体、どういう風の吹き回しだろうか。
今まで散々「一緒には入らない」「覗くな」と言われ続けてきたのに……いきなり「背中を流してあげる」だなんて。
と、クレアは信じられない気持ちで、立ち込める湯気の先──湯に肩まで浸かっているエリスを見つめる。
すると、
「……なに突っ立ってんのよ」
自分を見つめたまま動こうとしない彼に、エリスが恥ずかしそうに言うが……
クレアはそれに答えず、静かに迷っていた。
彼女と風呂に入るのは、これが初めてではない。
共に暮らす中で一緒に入ったことは何度もあるし、裸だって見ている。
しかし、思い返してみると……
こういう状況で、彼女に触れるのを我慢できた試しがない。
だってエリスが、目の前に、全裸でいるのだ。
そんなの、触らずにいられるだろうか(いや、ない)。
何もせずに平常心を保てるなら、それはもう自分ではない別の誰かだ。
だから……
反射的に服を脱ぎ、タオルだけ巻いて風呂に足を踏み入れてしまったが、今になって迷っていた。
今ここで裸のエリスに近付こうものなら、間違いなく理性を失う。
ただでさえこの任務に就いてからずっと"おあずけ状態"なのだ。
空腹な狼の前に、極上の生肉を差し出したらどうなるか。そんなのは、子どもにだってわかることだ。
触れること自体が問題なのではない。仮にも恋人同士、そういうコトだって既に経験済みである。
だが……とにかく今は、状況がまずい。
まず大前提として、今は任務の最中で、ここは潜入先である。
さらに、この後入浴するレナードが風呂の順番を待っている。あまり長引けば、いつものようにいかがわしい気配を察知して止めに来るに違いない。
ならばどうするべきか。
答えは……火を見るよりも明らかだった。
「…………あの、エリス……大変魅力的なお誘いなのですが…………やっぱり、遠慮しておきます」
……と、クレアは血の涙を飲みまくりながら、断腸の念で彼女の誘いを断った。
しかし、そんな葛藤があるとは知らないエリスは、断る彼を不審に思い聞き返す。
「どうしたの? いつもなら飛んで来るのに」
「飛んで行きたいのは山々なのですが、飛んで行ったら戻って来られないというか、別の方向に飛んで行ってしまうというか……」
「何処へ飛んで行くのよ。ただ背中洗うだけでしょ? 終わったらあたしはすぐに上がるから、遠慮しないで」
だから、『ただ背中洗うだけ』では終われないんだって!!!!
という叫びは胸の内に秘めておき。
「逆に、どうしたのですか? あんなに『覗くな』って言っていたのに……」
代わりにそう尋ねると……
エリスは、照れ臭そうにそっぽを向いて、
「別に……ちょっとあんたの顔が見たくなっただけ。なんか企んでるわけじゃないから、そんなに警戒しないでよ」
ぼそっと、呟くように答えた。
……いや、今のセリフでますます大丈夫じゃなくなったのですが??
と、クレアは頭を抱える。
え? 『顔が見たくなった』って何? そんな可愛い理由で混浴許しちゃったの??
待って無理……そんなん言われたらますます触りたくなる……
……駄目だ。このままだと確実に襲ってしまう。
ここはもう素直に限界であることを話して、離脱することにしよう。
そう心に決め、クレアは口を開きかける……が。
──ざばっ。
……と。
身体にタオルを巻いたエリスが、湯から上がり……
彼の方へ、ぺたぺたと歩いて来た。
「ちょっ……エリス、駄目です!」
「何がダメなのよ」
手のひらを向け制止するが、エリスは止まらない。
そのままクレアに近付き、彼の腕をパッと掴んで、
「あーあ、ほんとに鬱血してるじゃない。まったく、どんだけ強くつねってたの?」
……と、つねっていた箇所を眺め、呆れたように言う。
その彼女の姿を……クレアは目を見開き、見つめる。
腕を掴む、柔らかな手の感触。
濡れた髪から滴る雫。
上気した頬。赤い唇。
身体に張り付いた薄いタオル。
その向こうに透けて見える……肌の色。
彼女は、知らないのだ。
その姿が、こちらの目にどれだけ蠱惑的に映っているのか。
タオルで隠せば問題ないと……今さらこれくらいで理性を失ったりしないはずだと、そう思っているのだろう。
甘い。甘すぎる。
何度肌を重ねようが、慣れることなどない。
この熱が冷めることなど、永遠にないのに。
そうやって無防備な姿を晒せば、どんなことをされてしまうのか……
散々、身をもって教えてきたつもりなのに、まだ理解らないのだろうか?
──ガッ。
と、クレアは彼女の腕を掴み返し……風呂場の壁へと彼女を追いやる。
「きゃっ……な、なにす……」
「──早く」
戸惑う自分の声を掻き消すようなクレアの声に。
エリスは、驚いて彼を見上げる。と……
彼は、熱に浮かされたような、切なげな表情で彼女を見下ろしていて。
「……早く、私を燃やすなり沈めるなりしてください。でないと……貴女を、襲ってしまいます」
そう、振り絞るように言う。
「……ただ背中を流すだけで済むと思いましたか? 言ったはずです。私はいつだって、貴女に対して『したい』ことだらけなのだと」
そのままエリスの頬に触れ、瞳を覗き込むように囁く。
「……どうして、こんなにも触れたいと思うのでしょうね。昔の私は、欲しいものなんてなかったのに……今は場所も時間も忘れて、貴女に没頭したくなる」
つぅ……っと頬を撫でられる感触がくすぐったくて、エリスはぴくっと肩を震わす。
その困ったような、恥ずかしがるような表情がまた扇情的で……クレアの瞳に、一層熱が灯る。
「もうずっと貴女に触れることを我慢しているのですから、貴女がいつものように拒絶してくれないと…………本当に、襲ってしまいますよ?」
言いながら、「狡いセリフだな」と自嘲する。
自分から「覗きたい」とけしかけたくせに、いざ誘われたら拒絶を求めるなんて。
挙句、彼女に選択を委ねるような言い方までして……
まぁ、でもこれでいつものように彼女が殴ってくれれば元に戻れる。
「すみませんでした」と風呂を出て、事なきを得られる。
そう、思っていたのに……
エリスは、一度きゅっと口を結ぶと……
「…………なに、自分だけだと思ってるのよ」
なんて、恨めしそうに彼を見上げて言う。
その言葉の意味がわからず、クレアが「え?」と返すと、
「あたしだって、その……………………けっこう、我慢してるんですけど」
……と。
顔を真っ赤にし、目を逸らしながら、呟くので。
クレアは、その意味を考える。
考えて、考えて…………
結果。
「え…………………………え?!」
エリスに負けないくらいに顔を赤らめ、混乱した。
その反応に、エリスは自分が雰囲気に飲まれ大変なことを言ってしまったことに気が付き、慌てて手を振る。
「ち、ちが……違うっ! 間違えた! やっぱ今のナシッ!!」
「え? で、でも今……」
「間違えたの! だからもう意味考えないで! はい、おしまい! 殴ります!!」
「えっ?! えっ?!!」
そう言って、拳を握るエリス。
それを見たクレアは……狼狽えたつつも、何だか妙な安心感を覚える。
「……そうですね。今は、その方がいいでしょう」
「だよね、あたしもそう思う!」
「先ほどの言葉の意味は……任務が終わった後、ゆっくり問い質すことにします」
「ぅ……は、早く忘れてよ!」
「あはは。じゃあ、忘れるくらいの勢いで殴ってください。そうしたら私は出て行きますから、それで終わりにしましょう」
「うん、そうしよう! そうしましょう!!」
殴らず普通に出て行く、という選択肢は、もはや二人の頭になかった。
この定型化したやり取りを挟まなければ、悶々とした甘ったるい空気感を振り払うことができない気がしたのだ。
「じゃあ、殴るわよ!」
「えぇ、思いっきり来てください」
拳を構えるエリスと、手を広げ待ち構えるクレア。
なんともシュールな光景が、浴室内に広がる。
そうだ。今はこれでいい。
代わりに、任務が終わったら思いっきりイチャイチャしよう……
そう心に決め、クレアが静かに目を閉じた……その時。
脱衣所の向こう──
廊下に、何者かの気配。
直後、入り口のドアノブが「ガチャッ」と音を立て、誰かが入って来るので、
「──隠れて!」
とだけエリスに言って、クレアは浴室から脱衣所へと出た。
エリスは「隠れるってどこに?!」と困惑しつつも、とりあえず湯船に浸かることにする。
クレアが待ち構える中、ドアを開け脱衣所に現れたのは……
「……あ、クレアルドさん。すみません、先に来ていたんですね」
と、少し驚いた様子のアルマだった。