6-2 淀みに浮かぶうたかたは
温かな湯に浸かり、「んーっ」と手足を伸ばし。
一日の疲れが解けていくような心地よさに、エリスは思わず目を閉じる。
そして、開けっ放しにした脱衣所の扉の向こうへ、
「この広いお風呂とも、もうすぐお別れね」
と、声をかける。
すると、
「そうですね。恐らく、明日が最後になるでしょう」
という声が返ってきた。
脱衣所で待機するクレアの声だ。「覗くな」という言い付けを守り、声だけで会話をしているところである。
白い湯気が立ち上る浴室に、二人の会話がこだまする。
「料理長の作るご飯も、もう食べられなくなるのかぁ……それはちょっと残念だなぁ」
「なら、重要参考人としてしばらく本部で預かりますか? その間、料理を振る舞っていただくというのは……」
「うそうそ、冗談よ。早く家に帰ってクレアが作るご飯食べたいもん。それに……料理長を連れて行っちゃったら、お嬢さまのご飯を作る人がいなくなっちゃうじゃない」
それを聞き、クレアは思わず笑みを浮かべる。
自分の料理を食べたいと言ってくれたことも嬉しかったが……同時に、こう思ったのだ。
「……エリス、変わりましたね」
「え? なにが?」
「端的に言えば、他人に優しくなりました」
「そうかな……自覚ないけど。気のせいじゃない?」
「いいえ、ずっと貴女を見てきた私が言うのだから間違いありません。最近のエリスには、損得なしに他人を思いやる優しさが見受けられます」
「あんたはあたしをアクマか何かだと思っていたわけ? まぁ、自分でも優しい人間だとは思わないけどさ……」
エリスのむっとした声が返ってきて、クレアはくすりと笑う。
「すみません。私は元々、余計な愛想は振りまかない"孤高の優等生"だった貴女に恋をしたので、優しくなくとももちろん好きなのですが……最近の"他人にちゃんと優しい"貴女も素敵だなぁと思っているのです」
「そ、そんなに優しくしてるつもりはないけど……基本他人のことはどうでもいいし」
「その"他人"のラインが緩くなったのではないですか?」
「……そうかなぁ?」
首を傾げるエリスの声に、クレアは「えぇ、そうです」と答える。
先ほどの、レナードの部屋での話……以前のエリスなら、メディアルナの心配などしなかっただろう。
さっさとヴァレリオたちを捕まえて、笛と『琥珀の雫』を回収して王都に帰ろうと発奮していたはずだ。
それが……
自分たちが目的を果たすことでメディアルナが傷付く未来を予測し、なんとかしたいと考えた。
料理長に対してもそうだ。
"美味しいご飯を作ってくれる人"以上の、"親愛"とも呼べる感情を抱いているように見える。
誤算……とまではいかないが、クレアにとっては少し想定外のことだった。
エリスが、まさかここまで潜入先の人々と打ち解けるとは思わなかったのだ。
まぁ、『琥珀の雫』がなければそもそも関わろうとすら思わなかったはずなので、行動原理が"食"にあるという点は変わらないのだが……
とにかく、この潜入捜査を通じて、クレアはエリスの心の変化を感じていた。
しかし同時に、想定外だったためにエリスに辛い想いをさせることになってしまい、申し訳なく思っていた。
「優しくなればなる程、この仕事は……辛いことが多いと思いますから」
という言葉を、クレアが聞こえないように呟いた直後、
「──あたしもあんたも、ちょっとずつ変わっているってことかな」
そんなセリフが聞こえ、クレアは思わず「え?」と聞き返す。
エリスは「だって」と言葉を続けて、
「クレアもよくそんな話するじゃない。昔は任務が全てだったとか、怒るって感情を知らなかったとか……クレアもあたしも、そうして少しずつ変わっているのかなぁと思って」
「そうですね……私は特に、貴女に出会ってからすっかり別人になってしまったと思いますよ」
「そ、そんなに?」
「えぇ。以前の私には、『したい』がありませんでしたから」
「……シタイ?」
「貴女のことなら何でも知りたいし、できる限り側にいたいし、美味しいものをもっと一緒に食べたい。そういう『したい』がたくさん浮かぶようになったのは、大きな変化です。もっとも、貴女相手にしかそういう感情は生まれないのですが」
「ふ、ふーん……そう」
「同時に、欲求に抗う大変さも知りました……『エリスの風呂を覗きたい』という欲求を抑えるのがこんなに辛いとは。今、自分の腕をつねって必死に堪えているところです」
「は?!」
「このままだと腕の皮が千切れるのも時間の問題です……嗚呼、早く家に帰って思う存分エリスを愛でたい……全身を舐めるように眺めながら隅々まで測りたい……」
「口から欲望が漏れ過ぎなのよあんたは! とりあえず腕つねるのやめなさい!!」
まったく……出会った時から変態だったが、日に日にヤバさが増している気がする……そういった意味でも、変わり続けているのだろうか?
と、エリスは小さく息を吐いて、
「……要するにあんたは、あたしと出会ったせいで欲望剥き出し人間になっちゃったってことね」
「あはは。そうですね」
「それってダメすぎる変化じゃない」
「でも、私は今の自分の方が好きですよ? エリスを好きになったことでいろんな感情に出会うことができて、ようやく人間らしくなれた気がします」
などと、なかなかに闇の深いセリフを吐くが………
エリスには、その言葉が嬉しかった。
国のために生きてきたクレアが、今、自分の感情に従って生きている。
そして、そんな自分を好きだと思っている。
クレアが"好きな自分"に変わるきっかけを作れたなら……こんなに嬉しいことはない。
「……変わる、か……」
そう呟いてから、エリスは以前レナードに言われた言葉を思い出す。
『少し見ない間に随分と変わったと思ったが、それもお前を騙すための演技なのだろう。人は、そう簡単には変われない。あいつの中には元から愛情などないのだからな』
クレアのことを、そう語ったレナード。
あの時は、すぐに言い返してやったが……
なんとなく、エリスの頭の中に残っている言葉だった。
人は、そう簡単には変われない。
確かに、その通りだと思う。
ある日突然、別人のように変わることは恐らくない。
小さな種が芽を出し、水を吸い、太陽を浴び、やがて花を咲かせるように──様々な出会いや経験が、少しずつその人を変えていくのだ。
だから……
「あたしが変わったのも……クレアのせいだと思うけど」
と。
エリスは、クレアとの思い出を一つ一つ振り返りながら、言う。
「誰かと居る楽しさも、誰かに優しくされる嬉しさも……全部、クレアが教えてくれた。だから、あたしが優しくなったんだとしたら、それはクレアのせい」
「エリス……」
「ま、あたしも……どっちかと言えば、今の自分の方が好き、かな」
その、照れているのを誤魔化すような声に、クレアは……
嬉しさに、ぐっと胸を押さえて。
「……はぁ。貴女は本当に、毎日"可愛さ新記録"を更新し続けていきますね」
「かっ……何よそれ!」
「嬉しいです。私という存在が、貴女にそれほどの影響を与えているとは……しかし同時に、心配でもあるのです。貴女がこのまま他人との交流を大事にするようになって、どんどん私から離れて行ってしまうのではないかと……」
「そ、そんなことは、その、心配しなくても……」
「かと言って束縛のしすぎも良くないですし……難しいですね。そうだ、首輪を着けるというのはどうでしょう? それならエリスは飼い犬なのだと一目で判りますし……」
「ちょっと! どこまであたしを犬扱いすれば気が済むわけ?!」
エリスのツッコミが浴室に響き渡り、クレアは「あはは」と笑う。
「すみません、さすがに冗談が過ぎました」
「まったく……あんたの冗談は冗談に聞こえないのよ。今に始まったことじゃないけど」
と、呆れたように言うエリス。
それにクレアは……少し間を置いて。
「……まぁ、あながち冗談でもないんですけどね。一年後には別の輪を着けていただく予定なので」
……などと、意味深なことを言うので。
「はぁ? 別の輪? 何のこと?」
と言いながら、エリスは、その意味を考える。
一年後というと……ちょうど十八歳になっている頃だ。
十八歳といえば成人。飲酒や喫煙、結婚などが認められるようになる歳。
そのタイミングで、輪を着けられる、って……
……ん? 飲酒や喫煙や、結婚……
ケッコン……
別の輪…………
それって、もしかして…………
──かぁあっ。
と、エリスが意味を察して赤面しているとも知らず、クレアは「ふふ」と笑って、
「なんでもありません。いずれわかることですから」
そう、いつものように誤魔化す。
いや、もう気づいちゃったから!!
とは、さすがに言えず……
どうやらクレアでさえ気付かぬ内に自身の恋愛的思考力も変化しているらしいことに、エリスは戸惑う。
そして、案外その輪を楽しみにしている自分がいて……
赤くした顔を湯に沈め、ぶくぶくと泡を吹き出した。
「エリス、どうしました?」
急に黙り込む彼女を不審に思い、クレアが声をかける。
エリスは、ざばっと湯から顔を出すと、
「…………まだ腕、つねってるの?」
そう、クレアに聞き返す。
すると、
「はい。鬱血して変色してきましたが、大丈夫です」
いやそれ全然大丈夫じゃないだろ!!
……と、胸の中でツッコんでから、
「……おいで」
少し震える声で、言う。
それにクレアが、「え?」と聞き返すので、
「だから…………もう、この広いお風呂を使えるのも今日明日くらいだし……最後に背中、流してあげる」
……という、信じられない言葉が聞こえ。
クレアは…………
「…………あぁ、幻聴か。すみません、欲求のあまり耳までおかしくなったみたいです」
「幻聴じゃなくて現実っ! いいから早く来なさいよ!!」
確かに風呂場から聞こえてくるその声に、クレアは暫し放心する。
「……本当に、いいのですか?」
「…………いいよ。タオル巻いてるし、背中流すだけだから。あんまジロジロ見たら沈めるからね」
うわぁ、まじか。やった。
クレアは飛び跳ねそうになるのを堪え、すぐに服を脱ぐ。
そして腰にタオルを巻き、脱衣所から浴室へ、そっと足を踏み入れる。
高鳴る鼓動に喉を鳴らし、風呂場に目を向けると……
白く立ち込める湯気の向こう、湯船に浸かる──裸のエリスと、目が合った。
今回のお話に副題を付けるとしたら、「北風と太陽」ですね。
ほら、「脱げ脱げ!」と直接的に迫ると拒否られるけど、じわじわと遠回しに温めてやったら向こうから脱いだ、的な……
ということで。(?)
次回もお楽しみに。