3-2 見えない悪意を占う
クレアとレナードと別れ、エリスは厨房へと戻った。
料理長に「戻りました」と声をかけるが、やはり返事はない。
包丁を丁寧に研ぐその背中を見つめ……エリスは考える。
リカンデュラから感じられたあの匂いが、本当に毒だったとして。
それを領主に盛った疑いは、料理長にもある。
それは理解している。この屋敷の食事は全て、この料理長によって作られているのだから。
だけど……
『私はお嬢さんに、一番美味しいと思える状況で食事を召し上がっていただきたい』
そう語った料理長が、食事を利用して人を殺そうとするだなんて考えられなかった。
だが、それはただの感情論だ。気持ちや願望を優先させて、物事の本質を見失うことはしたくない。
感情ではなく、明確な根拠を……きちんと調べ、疑わしい部分がないことがわかれば、それが料理長の無実の証明になる。
ならば……
「……お嬢さま、旦那さまに付き添っているので、お昼ご飯召し上がっていないと思うんですよね」
と、エリスは料理長に話しかけながら、片付けをするふりをして戸棚を漁る。
『琥珀の雫』を探した時に一通り見たが……もう一度毒草らしきものがないか探すのだ。
「きっと冷めちゃっているから、せめてスープだけでも温めて直してさしあげたいですね。ちゃんと召し上がっていただかないと、お嬢さままで身体を壊してしまいます。僕、あとで声をかけてきますね」
袋や瓶に入れられた調味料の匂いを、片っ端から嗅いでいく。
が、リカンデュラから漂うあの苦い香りは、どこにも感じられない。
となると、やはりリカンデュラの茶葉そのものに混ざっているのか……
しかし今、その茶葉の袋は厨房になかった。先ほどメディアルナが淹れ直したから、まだ領主の部屋にあるのだろう。
ひとまず毒草らしきものがこの厨房にないことがわかり、エリスは少し安心する。
そもそも、そんなものを料理長が普段から扱っていれば、匂いで気付くはずなのだ。
今まで気付かなかったということは、最近になって茶葉の袋に混ぜられたか、厨房以外の場所から持ち込まれている可能性が高い。
そう考えると……
怪しいのは、ヴァレリオだ。
彼は、領主の好みがあるからといつも自分でリカンデュラを淹れていた。毒を混ぜる機会は、いくらでもある。
あとは……メディアルナも疑うべきだろう。
夜、この主屋にいるのは領主とメディアルナだけ。夜中に厨房へ忍び込み、茶葉の袋に毒草を混ぜることも可能なはずだ。
……あぁ、夜中に見回りをしているおばけみたいなヤツがいることを忘れていた。アイツも怪しいといえば怪しいが、それはクレアに相談するとして。
実の父親を手にかけるなんて普通なら考え難いが、ここは普通の家ではない。『竜殺ノ魔笛』と思しき笛を所有し、過去に死者も出ている曰く付きの屋敷なのだ。
民の精神に作用するあの笛を独り占めするため、父親を亡き者にしようとしている……そう考えることもできる。
……まぁ、あの呑気な笑顔からはなかなか想像し難いが。
「……料理長は、お嬢さまを幼い頃から知っているんですよね?」
ふと、エリスが問いかける。
料理長がいつからこの屋敷にいるのかはわからないが、先日メディアルナが「子どもの頃は頻繁に厨房に遊びに来ていた」と話していた。そして、その時既に料理長がいたような口ぶりだった。
だから……
「お嬢さまは……どんな子どもでしたか?」
そう、思ったままに尋ねてみた。
やたら前向きで能天気な少女に見えるメディアルナだが、本当のところはどうなのか、昔から知る人間に聞いてみようと思ったのだ。
その質問に、料理長は包丁を研ぐ手をぴたりと止め、ゆっくりとエリスの方を振り返る。
彼女は手をわたわたと振り、慌てて補足する。
「いや、あの、お嬢さまってすごく前向きだから、昔からああなのかなぁって。旦那さまが倒れてもあまり取り乱さなかったし、その……すごいなぁと思って」
……って、さすがに無理があるか?
内心冷や汗を流しながら反応を待っていると……
料理長は、ゆっくりと口を開き、
「……私がここで働き始めた時、お嬢さんはまだ三つだったが……当時はもっと、泣き虫だったように思う」
と、例の渋い声で、すぐに答えてくれた。
夕飯の支度がストップしているため、会話に集中できているのだろうか。過去最速の返答に、エリスは驚く。
これは……もしかすると、チャンスなのでは?
料理長がこの屋敷に来たのは、メディアルナが三歳の時……つまり、十三、四年前。メディアルナの母親や、二人の使用人が死んだ後のようだ。
だが、ヴァレリオやロベルに次いでの古株と言える。
そんな彼から、この屋敷やあの笛に関してゆっくり聞き出せるまたとない機会だ。
何か情報を……核心に近付けるような情報を、少しでも引き出したい。
エリスは、緊張しつつも冷静に頭を働かせ、料理長との会話を慎重に進めていく。
「へぇ、あのお嬢さまが泣き虫だったなんて、ちょっと意外です。だんだんと今の明るい感じになったんでしょうか?」
「……今思えば、あの出来事がきっかけだったのではないかと思う」
「あの出来事……?」
首を傾げるエリスに、料理長はしばらく黙り込んでから、
「……お嬢さんが、四つになってすぐの頃。とある事件が起きた」
当時を思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
「お嬢さんは、亡くなった奥さまを……母親を恋しがり、よく泣いていた。面影を求め、当時そのままにしてあった奥さまの部屋に度々潜り込んでいたらしい。そこで……見つけたのだろう」
「……何を?」
「鍵だ。庭に建つ、あの塔の扉の鍵。理由は不明だが、奥さまが亡くなってからあの塔は封鎖されていた。しかしお嬢さんは、その鍵が合う場所を屋敷中探し回り……あの塔に辿り着いた」
これは、ひょっとして……
メディアルナが、あの笛を扱うようになった経緯か……?
ゴクッと喉を鳴らしながら、エリスは話に聞き入る。
「塔には、あの不思議な笛が保管されていた。奥さまも生前演奏されていたと聞く。お嬢さんもそれを覚えていたのだろう、母親の真似をしたかったのか、笛を手に取った。そして……」
「…………」
「そのまま、笛を吹き始めた」
料理長の言葉に、エリスは「え……」と声を漏らす。
やはりメディアルナには、初めから"禁呪の武器"の呪いに対する耐性があったのか……?
考えを巡らせるエリスをよそに、料理長は神妙な面持ちで続ける。
「我々が気付いたのは、その音色を聴いてのことだった。封鎖していたはずの塔から聴こえる笛の音に、旦那さまと共に駆けつけると……お嬢さんが、何かに取り憑かれたように笛を吹いていた」
「取り憑かれたように……」
「そう。四歳の幼子が初めて奏でたとは思えない、見事な音色だった。思わず聴き惚れている内に、気分が良くなってきたのを覚えている。旦那さまも涙を流し聴き入っていたが、演奏が終わると『何故ここにいるのか』とお嬢さんを問い詰めた。しかしお嬢さんは、泣くどころか……」
そこで。
料理長は、一度言葉を止めてから、
「……『お母さまに呼ばれた気がした』と、嬉しそうに笑った」
少し低い声で、そう言った。
その声音が悲しげに聞こえ、エリスは何も返せなくなる。
料理長が続ける。
「これからも笛を吹きたいとせがまれ、旦那さまはあの塔から持ち出さないことを条件にそれを許した。それから、お嬢さんが泣くことはなくなった。だから……今思えばあの出来事が、お嬢さんが明るい性格になるきっかけだったのではないかと思う」
そこで、料理長の話は終わりのようだった。
エリスは、少し間を置いてから、
「……あの笛に、母親の面影を感じられたから……だから、泣かなくなったのでしょうか」
尋ねる。
料理長は、静かに首を振り、
「わからない。奥さまの形見を見つけられて嬉しい気持ちはあったのだろうが……それを差し引いても、あの笛は不思議だ」
「やっぱ料理長もそう思います? 一体何なんですかね、アレ」
「この家に代々伝わるもので、リンナエウス家の正統な血を引く者のみが触れることを許されていると聞いた。だから、婿である旦那さまはあの笛に触れない。触れると災いが起きると云われているため、関わろうとしない」
あの領主が、入り婿……だから、あの笛に一切触れようとしない。
それは、初めて耳にする情報だった。
しかし……
それらを知り、エリスはメディアルナを疑うべきなのかわからなくなっていた。
料理長の話を聞く限りでは、メディアルナが領主を殺そうとする理由が見当たらない。
笛を独占するためという線も考えたが、そもそも領主に触れる権利も意志もないのであれば、殺す必要もない。
だが、同時にもう一つの可能性が浮上した
それは……メディアルナが、あの笛に操られているというもの。
以前レナードが聞き取った情報によれば、メディアルナ自身が演奏しているのではなく、笛が勝手に彼女の指を動かしているらしい。今しがた料理長から聞いた話とも合致する。
あの笛には、人を操る力がある。
"禁呪の武器"自身が人間を操り、災いを振り撒こうとしているのか……?
しかし、"禁呪の武器"を"禁呪の武器"たらしめているのは、その中に封じられた精霊たちだ。
彼らは、人間に悪用されることを望んでいない。人を殺すのが嫌で、解放されることを望んでいるはずなのに……
あぁもう、わけわかんなくなってきた。
とりあえず早くクレアに相談したい……
エリスは一旦考えることをやめ、顔を上げると、
「あの笛のことはよくわからないけど……お嬢さまの笑顔が失われないためにも、旦那さまには早く良くなってもらいたいですね」
と、話を戻すことにした。
それに料理長は深々と頷く。
「あぁ。私には食事を提供することしか出来ないが、旦那さまとお嬢さんの健康と幸せを常に願っている。お嬢さんも不安だろうが、とにかくしっかり食べ、倒れないようにしていただきたい」
「そうですね。食べることは、生きることですから」
エリスは、思わず顔を綻ばせる。
話せば話す程、料理長からは優しい匂いが感じられた。
だから、
「料理長は……お嬢さまのことを、本当に大事に想っているんですね」
微笑みながら、そう言う。すると……
料理長は、少し驚いたような顔をしてから……静かに目を伏せて、
「……私にも、娘がいた。生きていれば、お嬢さんと同い年だった。だから……我が子にしてやれなかった分、お嬢さんのお食事には愛情を注いできた。ただ、それだけだ」
言葉の内容とは裏腹に、落ち着いた声音で、そう答えた。
思いがけない返答に、エリスは言葉を失う。
どうして娘を亡くしたのか。奥さんはどうしているのか。
気になりはしたが、聞くべきではないと思った。
たぶん、料理長の中でとっくに整理のついている話なのだと、声でわかったから。
代わりに、
「……じゃあ、僕も料理長の娘候補になってもいいですか? 料理長の作るご飯、大好きなんで」
……なんて、こんなこと言ったら父さんがヤキモチ妬くかな。
と、ちょうど命日を迎える実父を想いながら、冗談めかして言ってみた。
それに、料理長は……
ふっ、と息を吐いて、
「……変なことを言うやつだ。『息子』の間違いだろう?」
その口に、微かな笑みを見せながら。
優しい父親の顔で、そう答えた。