2-4 崩れ始めた虚構
音の出所はすぐにわかった。
エリスとレナードが三階に上がるのと同時に、メディアルナが領主の寝室へ駆け込んで行くのが見えたからだ。
領主の部屋で、何かあったに違いない。
二人は開いたままの扉をくぐり、寝室の中へと駆け込んだ。
すると……
ベッドの上で苦しげに胸を押さえる領主と、その身体を支えるヴァレリオ、そしてそれを心配そうに見つめるメディアルナの姿があった。
ベッドの横には、割れたティーカップが落ちている。先ほど聞こえたのは、これが割れる音だったらしい。
「旦那さま、大丈夫ですか?」
「しっかりして、お父さま!」
ヴァレリオとメディアルナが呼びかけるが、領主のマークスはぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すのみだ。
土気色をした顔に、汗が滲んでいる。発作を起こしているのか、呼吸も不規則に乱れている。
医者でなくとも、状態が悪いことは一目瞭然だ。
三日前までは、庭に仕掛けた偽物の猫を眺めるまでに体調が回復していたのに……
と、レナードは領主の状態を観察しながらヴァレリオに歩み寄る。
「お水を持ってまいります。あと他に必要なものはありますか?」
レナードの冷静な申し出に、ヴァレリオは振り返り、
「厨房に医者からもらった薬がある。それを一緒に……」
「いらん、あんなもの!」
と、遮るように領主が叫ぶ。
「しばらくすれば治まる……余計なことはするな」
「しかし、旦那さま……」
「うるさい! 私に指図するな!」
直後、激しく咳き込む領主。
メディアルナが困惑した表情を浮かべる中、レナードは「お水だけお持ちします」と言って厨房へと向かった。
残されたエリスは、この雰囲気の中ただ突っ立っているのも気まずく感じ……
とりあえず、割れたカップを片付けることにした。
中身が入った状態で落としたのか、カーペットが濡れている。
まずはカップの破片を拾って、それから雑巾を取りに行くか。
それにしてもこの領主、ほんとキレやすいな……そんなんだから誰にも心配してもらえないんだよ。
などと考えながら、しゃがみ込む。と……
「(……ん?)」
エリスの鼻を、強い香りが掠める。
苦味と渋みのあるこの香り……間違いない、リカンデュラだ。
そういえばこのカップは、リカンデュラを淹れるのに使われていたものだ。食後のお茶を飲んでいる最中に発作を起こしたのだろうか。
しかし……
エリスにはまだ気掛かりなことがあった。
領主たちにバレないよう、床に溢れたお茶の匂いをそっと嗅いでみる。
……やはりそうだ。
リカンデュラの匂いの中に、ほんの僅かではあるが異なる匂いを感じる。
昨日、ヴァレリオから食器を預かった時に感じたものと同じ……
これは一体、何の匂いなのだろう?
なんとなく、良くないものな気がする。
まさか茶葉が古くてカビが生えている、とか?
いや、これはメディアルナが買ってきたばかりの、新しいもののはずだ。
しかし、このお茶が原因で具合が悪くなっているという可能性も……
けどそれを買ってきた当人がいる前で言うのも憚られるし……
うーん……とりあえずクレアたちに相談を……
……と、エリスが考え込んでいると、
「エリック、大丈夫か? 素手で触ると危ないぞ、箒と塵取り持ってこい」
手を止めるエリスに気付き、ヴァレリオが言う。
彼女はハッとなって顔を上げ、
「そ、そうですね。僕、取ってきます」
そう返し、そそくさと部屋を出た。
* * * *
クレアが"おつかい"から帰ったのは、その少し後だった。
食材と、メディアルナから依頼された『鳥の図鑑』を携え、外門から屋敷の敷地へ入る。
ロベルが水やりをしたのだろうか、水滴を纏った庭の花たちが、午後の陽を浴びキラキラと輝いていた。
本部への調査依頼の手紙も、無事に発送した。
十五年前、リンナエウス家で死亡した領主の妻と二人の使用人……その経緯について、当時働いていたはずのユノという女性を探し出し聞き取りをする、という依頼だ。
もし三人の死にあの笛が関係しているのなら、いよいよ"禁呪の武器"である可能性が高まる。
人を死に至らしめる危険な笛と知りながら所有し、娘に扱わせているとあれば、領主に裏があると見て間違いない。
本部の仲間から情報が入り次第、早急に動けるようにしなければ……
そんなことを考えながら、クレアは庭を抜け、表玄関から主屋へと入った。
そのまま買ってきた食材を渡すため、一階奥の厨房へ向かう。
さて、エリスはどうしているかな……と厨房に足を踏み入れると、
「……あ、クレアルドさん」
そこには料理長と……エリスの代わりに、メディアルナの姿があった。
意外な人物との遭遇に、クレアは少し驚く。
「お嬢さま……こんなところでどうされたのですか?」
「実は、お父さまが倒れてしまいまして……」
「え、旦那さまが?」
聞き返すクレアに、泣きそうな顔で頷くメディアルナ。
「昼食の後、急に発作を起こしたみたいなんです。今は少し落ち着いて、リカンデュラを飲み直したいと言うので、取りに来たところです」
そう答える彼女の手には、リカンデュラの茶葉が入った袋が握られていた。
ということは、エリスもそちらの対応に回っているのか?
領主の体調は回復傾向にあると思っていたが……様子を見に行った方がいいだろうか。
そう考えながら、クレアは心配げな表情で彼女を見つめ、
「私がお持ちします。他にも何かお手伝いできることがあるかもしれませんし、お部屋に伺いますよ」
「いえ、実は今ヴァレリオが看病をしていて、レナードさんとエリックさんも割れたカップのお掃除をしてくださっているんです。お三方がいれば十分かと……ありがとうございます」
と、遠慮がちな笑みを浮かべて答えるメディアルナ。
エリスだけでなく、レナードまで現場にいるとは。
なら、行くとかえって邪魔になるか。
あとで二人に状況を聞くとして、ここは大人しく引き下がろう。
クレアは穏やかに微笑むと、手元の荷物を掲げて、
「わかりました。では、せめて買ってきたものを運ばせてください。こちらの図鑑、どちらにお持ちすれば良いでしょうか?」
尋ねる。すると……
「では、わたくしの部屋にお願いできますか? お勉強机の上にでも置いておいてください。わたくしは、お湯が沸くまでもう少しここで待たなければならないので……」
……なんて、迷いのない声音で返され、クレアは思わず瞬きをする。
まさか領主の娘の部屋に入ることを、こんなに容易く許されるとは……
しかし、不用意に聞き返せば「やっぱダメです」と言われかねないので、
「わかりました。では、お部屋に置かせていただきますね」
「はい、お願いします」
無邪気に答えるメディアルナに微笑み返すと、クレアは軽く会釈をして、厨房を出た──
──クレアは階段を上る。
そして、三階にあるメディアルナの部屋を目指しながら、この機会を最大限生かそうと考えていた。
メディアルナは、例の笛を扱う張本人……
無邪気な少女のように見えるが、彼女自身が笛の力を利用しようと手を回している可能性もある。
怪しい点がないが、探れるだけ探るとしよう。
クレアは落ち着いた歩調で進み、誰ともすれ違わないまま三階へ到達する。
廊下にも人はいなかった。領主の寝室の前でしばらく耳を澄ませると……中から誰かの話し声が聞こえる。
これは、ヴァレリオの声だ。どうやら領主と話をしているらしい。
そして、他にも何者かが動く気配と音が……
恐らくエリスとレナードだ。割れたというカップの掃除をしているのか、カチャカチャという音が聞こえる。
領主の部屋にいる人物たちは、もうしばらくは中に居そうだ。
そのことを確認してから、クレアは向かいにあるメディアルナの部屋の前に立つ。
そして……
ゆっくりと、その扉を開けた。
ぬいぐるみや花が飾られた、少女らしい部屋だった。
天蓋付きのベッド、大きなクローゼット、勉強机に本棚……
調度品や家具は、どれも一級品ばかり。しかも、それらを置いてもなお空間に余裕がある。使用人の部屋の倍以上はある広さだ。
静かに部屋の戸を閉め、クレアは買って来た鳥の図鑑を勉強机に置く。
そして、部屋の中をぐるりと見回す。無闇に漁る時間はない。的を絞って手早く見て回るとしよう。
まず、本棚を眺める。
背表紙を見る限りでは、語学や歴史の専門書、少女が好みそうな童話や小説が綺麗に並んでいた。
いくつか取り出し、中身を見てみるが……カバーだけ変えて中身は別物、ということは無さそうだ。
クローゼットも見てみるが、美しいドレスワンピースが並べられているだけ。怪しいものはなかった。
次に、勉強机の引き出しを開けてみる。
全部で三段あるが、一段目と二段目には文房具が入っていた。
そして、一番下の三段目──そこを引こうとして、クレアは動きを止める。
鍵がかかっている。
そのことに、違和感を覚えた。
使用人が部屋に出入りすることを許すほど警戒心のない彼女が、どうしてここだけ施錠をしている?
何かよっぽど隠したいものが入っているに違いない。
クレアは、懐から針金を取り出すと……
引き出しの鍵穴にそれを入れ、何度か動かした。
すると、ものの数秒でカチャッ、という音がする。鍵が開いたのだ。
取手を掴み、そっと引くと……
重い。
その三段目だけ、異様な重さを感じる。
一体、何がしまわれているのか……
彼は、意を決して、それを引き出してみた。
すると、そこには……
紐閉じされた大量のノートが、びっしりと敷き詰められていた。
クレアは、目を見開く。
なんだ、これは……少女らしいもので溢れたこの部屋において、この引き出しの中身だけが明らかに異質だ。
もしかして……
あの笛や、この屋敷の過去にまつわる重要な資料なのでは……?
音を立てぬよう、彼はノートの一つをそっと手に取り……中身をパラパラとめくってみた。
そして、
「(こっ、これは……)」
その内容に、目を見張る。
そこには……こんなことが記されていた。
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ヴァレリオの嫉妬は、募る一方だった。
十数年来の恋人であるロベルに、最近若い男が近付いているからだ。
彼の名は、レナード。
屋敷内の清掃係だというのに、ことあるごとに庭に出てはロベルとの仲を深めようとしている。
若く美しいレナードの接近に、ロベルも満更ではない様子だった。互いの筋肉を褒め称え、触り合うなどしている。
しかし、レナードが本当に好きなのは別の人物だった。
同じ斡旋所から来た、クレアルドだ。
普段は気のないフリをしているが、クレアルドを「あいつ」と呼び、人となりをよく知っていることからも、かなり付き合いが長いことが伺える。
そんな彼への恋が上手くいかず、年上で頼り甲斐のあるロベルに少し気移りしているのかもしれない。
さらに、クレアルドに想いを寄せる人物がもう一人。
おつかい係のブランカだ。
彼は、クレアルドの優しさに惹かれている。
転びそうになったのを助けられた時には、その力強さに「惚れちゃいそうでした」とつい本音を覗かせていた。
周囲にも「人当たりが良い」「気が利く」などと溢し、もう好きの気持ちが抑えられない様子である。
だが。
そんなクレアルドには、恋人がいる。
厨房補佐の、エリックだ。
エリックは言っていた。
独りでいるのが当たり前だったが、クレアルドと出会い誰かと一緒にいる楽しさを知ったと。
クレアルドとはんぶんこするご飯が、すごく美味しいと。
あれは、完全に惚気だった。
付き合っている。二人は間違いなく付き合っている。
さらに、クレアルドを『変態』と呼び、"困らせる行為"を一晩中されたためお詫びにお菓子をもらった、などと証言している。
大方、料理長に懐きすぎなエリックをクレアルドが"お仕置き"したのだろう。嗚呼、見たかった。超見たかった。その部屋の壁になりたかった。
屋敷の男性たちの恋愛模様を観測し続け幾年月。
こんなにも恋仲であることを隠さないカップルは初めてだ。
今後も二人からは目が離せないが、クレアルドを狙うレナードとブランカにも頑張ってもらいたい。
ロベルとヴァレリオにも、ずっとずっと仲良くいてもらいたい。
私はそれを"傍観者"として、温かく見守り続けるのみだ。
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「………………」
そのページを読み終え。
クレアは……静かに衝撃を受けていた。
……なんてことだ。これは…………
メディアルナの、『妄想BLノート』だ。
その他のページも、使用人同士のボーイズなラブの妄想が書き連ねられている。
恐らくこの引き出しにあるノート全てに、似たようなことが書いてあるのだろう。
……え。あの娘、あんな無邪気な顔して頭の中でこんなこと考えてたの?
使用人のこと、そういう目で見てたの?
笛に関する機密文書が保管されているかと思えば……この落差である。まぁ、ある意味もっとも知られなくない秘匿情報なのだろうが。
男×男の恋愛を好む女子がいるのは知っていたが、なるほど、こういう感じなのか……
現実を捻じ曲げてまで妄想するとは、すごい思い込みと熱量だ。
なんか、チェロの部屋で自作の官能百合小説を目の当たりにした時を思い出すな……
変態というのは皆、内なる妄想をこうして外部に出力しなければ気が済まないものなのか? 自分含め。
ていうか……
エリス、いつの間にこんな惚気をメディアルナに話していたんだ?
お陰で(実際には異性だが)恋人であることがバレているじゃないか。
変に怪しまれていないか心配だ。
……などと思いつつ。
クレアは、嬉しさが込み上げるのを抑えられなかった。
エリスが自分のことをこんな風に話してくれていたことがわかり、胸の奥が温かくなる。
嬉しくて愛しくて、今すぐ抱き締めに行きたくなる。
しかし……
と、甘ったるい気持ちに蓋をするように。
クレアはノートを引き出しにしまい、鍵を元通りに閉める。
そんな気分に浸っている場合ではない。
すぐ向かいの部屋に領主たちがいるのだ。メディアルナも、まもなく戻って来るだろう。早くここを出なければ。
にしても、メディアルナが男同士の恋愛に夢を抱いているという事実は、意外と利用できるかもしれない。
上手くいけば彼女と、彼女が扱うあの笛に近付くきっかけになるのではないだろうか……
さて、偶然手に入れたこの弱みをどう活用してやろうか。と、考えを巡らせながら。
クレアは、メディアルナの部屋を、静かに出た。
<変態たちの妄想アウトプット>
・クレアのエリスに言わせたいセリフ集
→随時更新中
・チェロの官能百合小説
→現在更新停止中
・メディアルナの妄想BLノート(NEW!)
→11歳から現在まで毎晩更新中
ということで、ディアナお嬢さまがうっとりする場面には必ず男×男要素があったわけですが、お気付きになられましたでしょうか?
確認したい方は、第二章の3-2と5-1、第三章の1-2と1-3あたりを読み返してみてください。