1-3 気がかりな香り
賄いを食べ終え、エリスと料理長に礼を述べてから。
クレアは厨房を出て、廊下を歩き始めた。
もうしばらくしたら午後の買い出しに行かなければならない。追加で購入が必要なものはないか聞いて回らないと。
メディアルナにも塗料を無事購入できたことを報告したいが……もう家庭教師が来ている頃だろうか?
などと考えていると……廊下の向こうから一人、歩いて来るのが見えた。
長い銀髪。引き締まった長身。そして……彫刻のように美しい顔立ち。
レナードだ。クレアが廊下に出て来るのを待っていたかのように、真っ直ぐに彼の方へ向かって来た。
「クレアルド、買い出しから戻っていたのか。お疲れさま」
と、爽やかな笑みを浮かべながらクレアに近付くと……
「──例の場所へは行けたか?」
周囲に人の気配がないことを確認してから、低い声音でそう尋ねた。
クレアは頷き、同じように声をひそめて、
「はい。オーナーの女性が少々厄介でしたが、過去の経歴書を見ることができました。新たな情報が手に入ったので、夜詳しくお伝えします」
……というクレアの言葉を聞きながら。
レナードは……彼から、普段とは違う香りがするのを感じる。
ツンと鼻をつく、甘ったるい匂い。
レナードのよく知る……女物の、香水の匂いだ。
……なるほど。
と、レナードは何かに納得したような笑みを浮かべ、
「……ジェフリー隊長が死んで、ちょうど三年になるな」
呟くように、言う。
「『使えるものは、なんでも使う』。それが、あの人の口癖だった。自分の持ち得る業を駆使し、利用できるものは全て利用し、任務を遂行する。その理念が……お前の中にも、まだあったのだな」
あの女魔導士にすっかりのぼせていると思っていたが……
任務のために女をたらし込む気概は、まだ失っていなかったらしい。
いや、むしろ……あの女魔導士との関係も、良いように利用するための嘘なのか……?
そんなことを考え。
レナードはクレアの肩に手を置き、くすりと笑う。
「だが、"匂い"には気を付けた方が良い。お前の恋人様は鼻が利くのだろう? 余計な揉め事を招いては面倒だ。あの女魔導士を上手く利用したいのなら、女の匂いは持ち帰らないようにすることだな」
そう言い残し。
レナードは、踵を返し去って行った。
その後ろ姿を見つめ、
「…………」
クレアは、暫し立ち尽くす。
どうやらレナードは、クレアがオーナーの女性に色目を使ったのだと勘違いしたようだが……
彼にどう思われようが、今のクレアにはどうでもよかった。
何故なら……
……やばい。
さっき、エリスにくんくん嗅がれたのって……
もしかして、女物の香水の匂いが残っていたから……?!
ガクッ……! と、クレアは膝から崩れ落ちる。
まずい。まずいまずいまずい。
変な誤解されたかな……めちゃくちゃ匂い嗅いでたもんな……
エリスは、女性と関係を持って情報収集するレナードの姿を見ている。クレアも同じことをして来たのではと疑われてもおかしくない。
しかし、その割には妙にすっきりした表情をしていたような……昨夜の"おばけ騒動"のことも、あっさり許してくれたし……
……とりあえず、彼女の様子を見よう。
いずれにせよ、夜には『斡旋所』で得た情報を共有するのだ。その時に、やましいことはしていないとはっきり言えばいい。
嗚呼、でもエリスに勘違いされているのではと思うと生きた心地がしないな……早く、早く夜になってくれ……
クレアは、震える膝でなんとか立ち上がり、午後の業務へと向かった……
* * * *
──昼過ぎ。
エリスは、じゅうじゅうと音を立てるフライパンを見つめていた。
今日も今日とて、メディアルナと家庭教師のために料理長がパンケーキを焼いているわけだが……
前回同様、料理長は一度火で熱したフライパンを、濡れた布巾の上に置いたのだ。
そうして再び火にかけ、パンケーキのタネを流し焼き始めるのだが……
「(いちいち濡れ布巾の上でじゅうぅってするのが謎なのよね……)」
首を傾げながらも、エリスはパンケーキが膨らんでいく様を眺めた。
生地が焼けるにつれ、甘く香ばしい匂いが立ち込め……
エリスの口内に、じゅわじゅわと涎が溜まってくる。
だめだ、甘いものが食べたい……猛烈に食べたい……っ!!
昨日も結局『琥珀の雫』の在り処はわからなかったし……甘味欲が募る一方だ。
くぅっ、でもこれはお嬢さまのためのパンケーキだから当然食べさせてはもらえないし……
……そうだ。
エリスは、ハッとなってポケットをまさぐる。
さっき、クレアからお菓子の詰め合わせをもらったのだった。
……ちらっ、と料理長の姿を横目で見て、パンケーキを焼くのに集中していることを確認してから。
エリスは厨房の隅にコソコソと移動し、クレアからもらったお菓子の袋を開けた。
彼の言った通り、中にはあめ玉とクッキーとマフィンが入っていた。
どれも美味しそうだが……ここはサクッと食べられるクッキーをいただくとしよう。
もう一度、料理長の方をちらりと盗み見て……
エリスは、クッキーを一枚、頬張った。
瞬間。
「(……んんんんんっ♡)」
瞼をぎゅっと閉じ、無言で悶える。
サクサクした歯触り、ほろほろと解けるような食感……彼女が好きな、バターを多めに使った生地だった。
そのバターの香ばしさに加え、ハチミツのほのかな甘味を感じる。
決して甘くどくない、上品な味わい。美味しい。文句なしに美味しい。
はぁ、口の中が幸せ……
もう一枚いっちゃお……♡
と、彼女が目を開けた……その時。
「──うふふ。エリックさんて、本当に美味しそうに召し上がりますよね」
そんな声が横からして。
エリスは、思わず飛び上がる。
そして、声のした方に目を向けると……
「でぃ、ディアナ……お嬢さま」
こんな厨房にいるはずのない彼女が、そこに立っていた。
「な、ななな、なぜお嬢さまがここに……?」
「アルマがどこかへ行ったっきり戻って来ないので、自分でおやつを取りに来ちゃいました。すみません、つまみ食いしているところを驚かせてしまって」
「これはっ、つまみ食いっていうか……く、クレアにもらったお土産で……!」
料理長のいる場で『つまみ食い』などと言われ、エリスは慌てて誤魔化そうとする。
しかしメディアルナは、声をさらに大きくして、
「えっ、クレアルドさんから? わぁ、お二人は仲がよろしいのですね。素晴らしいことです」
「い、いやまぁ別に、普通ですけど……」
「クレアルドさんって優しいですよね。今日も塗料のおつかいを依頼したのですが、そんなにたくさんは重いからと遠慮していたら『大丈夫ですよ』と言って必要な色を全て買って来てくれました」
「へ、へぇ……」
「五色分も運ぶのは大変だったはずなのに、エリックさんへのお土産まで買ってくるだなんて……優しくて、かっこいい方ですよね」
そう、無邪気に笑うメディアルナに……
エリスは、クレアを褒められて嬉しいような、ちょっと悔しいような複雑な気持ちになって。
「……そうですか? あいつ、ああ見えて変態ですから。気を付けた方がいいですよ」
「え、ヘンタイ?」
「そう。人が困っている姿を見て喜ぶようなやばい性格しているんです。このお菓子だって、僕へのお詫びの品なんですから」
「……ということは、エリックさんが困るようなコトを、クレアルドさんがしたのですか?」
「そうです。そのせいで昨日はほとんど眠れませんでした」
「……ね、眠れなかった……?」
ごくり、と、何故か喉を鳴らすメディアルナ。
エリスは喋りすぎたことを反省しながら、咳払いをする。
「あいつの話は置いておいて……パンケーキ、もう少し時間がかかると思うので、出来上がったら僕が部屋までお持ちしますよ」
その申し出に、メディアルナは首を横に振る。
「いえ、自分で運ぶので、ここで待たせていただけませんか? 実はわたくし、厨房が好きなんです。いつも美味しそうな匂いがして、みなさんが楽しげにご飯を召し上がっていて……子どもの頃はもっと頻繁に遊びに来ていました。ね、モルガン料理長」
と、料理長の背中に投げかけるも……相変わらず無口なままだ。
メディアルナも返事がないのはわかっているようで、そのまま続ける。
「お父さまがお仕事でお忙しいと、ご飯を独りで食べることが多くて……そんな時、厨房に来れば必ず誰かがいて、一緒に食べてくれたから、寂しくありませんでした。『こんなところで食べるな』と一度お父さまに叱られてからは、あまり来なくなってしまいましたが……」
「……そうでしたか」
「最近はお父さまのご体調が優れないので、ご飯も独り……だから、家庭教師の先生と一緒に食べるパンケーキがとっても楽しみなんです。独りで食べるのって、なんだか寂しくて……」
「…………」
「って、すみません。わたくしったら、子どもみたいなこと言って……えへへ」
そう、照れ笑いするメディアルナを……
エリスは、真っ直ぐに見つめ、
「……そんなこと、ないですよ」
真剣な眼差しで、答える。
「……楽しいですよね、誰かとご飯を食べるの。自分が『美味しいなぁ』って思った時に、一緒に『美味しいね』って言ってくれる人がいると、もっと美味しくなる。はんぶんこして同じ味を分かち合うと、心が通じ合えた気がする」
言いながら。
エリスは、お菓子の袋を持つ手に、ぎゅっと力を込める。
「僕も以前は独りで食べるのが当たり前で、子どもじゃないんだし寂しくなんかないって、そう思うようにしていました。けど……クレアに出会って、一緒にご飯を食べるようになって、やっぱり誰かがいてくれるっていいなって思った。あいつとはんぶんこして食べるご飯はすごく美味しくて、楽しいから……ご飯の時間が、もっと好きになった」
そして。
メディアルナに、優しく微笑みかけながら、
「……独りのご飯を寂しいと思うのは、恥ずかしいことじゃないですよ。また厨房に遊びに来て、誰かと一緒に食べたらいい。そうしたら、ただでさえ美味しい料理長のご飯が、もっともっと美味しくなるはずだから」
そう、言った。
その言葉に、メディアルナは……
「…………」
ぽー……っと頬を染め、見惚れるようにエリスを見つめ返した。
いつもの元気な反応が返ってくると思っていたエリスは、その表情に動揺する。
「あ、えと……すみません、偉そうに」
「……いいえ、とっても嬉しいです。ありがとうございます。また厨房にお邪魔させていただきますね」
にっこり笑うメディアルナに、エリスは「やっぱ喋り過ぎたかな……」と後悔した。
「それにしても……エリックさんとクレアルドさんて、本当に仲がよろしいのですね」
「へっ?!」
「ご飯を一緒に食べたり、お菓子をプレゼントしたり……ただの同僚以上の関係に思えます」
「えと、まぁ……トモダチ? みたいな……」
「いいですね、そういう関係。憧れちゃうなぁ。もっとお二人の仲良しエピソード、聞かせてくれませんか?」
「なっ、仲良しエピソード……?」
何故そこに食い付いてくるのか分からず、エリスは大いに狼狽える。
そのままメディアルナにジリジリと詰め寄られ……思わず後退りをした、その時。
「こら、エリック。何ディアナとイチャイチャしてんだ」
すとんっ。と、エリスの頭に手刀が振り下ろされた。
振り返るとそこには……金髪の優男・ヴァレリオが、お盆を手に立っていた。
「ヴァレリオ、さん……」
「他の女をどうしようが構わねーが、うちのお嬢さまだけには手を出すなよ。この女好きが」
「お、女好き?!」
エリスは声を荒らげ、即座に反論しようとするが……
……そうだった。
こいつとは初対面の時に「女の子への迫り方を教えてほしい」なんて話していたんだった……
と、文句の言葉をぐっと飲み込んだ。
「ヴァレリオ、お父さまの昼食のお片付けですか?」
そう尋ねるメディアルナに、ヴァレリオは「あぁ」と答え、
「お仕事の切りが悪くて遅くなってしまったが、今日も全部召し上がっていたよ。ほら」
と、お盆に載せた空の食器を見せる。
メディアルナは、ぱぁあっと顔を輝かせて、
「よかった、やっぱり体調が良くなっているのですね!」
「そうだな。このまま順調にいけばいいが……あ、エリック。これ下げといてくれ」
ずいっ、とお盆を渡され、エリスは慌てて受け取る。
まったく、人使いの荒い……と密かに睨み付けていると、
「(…………ん?)」
エリスの鼻が、ぴくりと反応する。
本当に微かではあるが……
嗅いだことのない、妙な匂いを感じるのだ。
一体、どこから……?
エリスは流し台に向かいながら、鼻をくんくん鳴らして匂いの元を探る。
そして、
「(……この、カップ?)」
と、お盆に乗ったティーカップを見下ろす。
確か、メディアルナが買ってきたあのリカンデュラのお茶を淹れるのに使っているものだ。
薬草みたいに苦い香りのするお茶ではあるが……普段とは少し匂いが違う気がした。
……気のせい、だろうか。
にしても、今日は気になる匂いがあちこちからするな……まぁ、クレアの方はなんとなく予想がついているけど。
そんなことを考えていると、料理長がフライパンをカンカンと叩き、パンケーキの完成を知らせた。
エリスは「はいっ」と返事をして、皿を二枚用意し、盛り付けられた生地にホイップクリームとチョコレートソースをトッピングする。
「お、お待たせしました」
「わぁ! ありがとうございます!」
「なんだ、アルマはいないのか? なら俺が運んでやるよ」
と、ヴァレリオはパンケーキの皿を受け取り、スタスタと厨房を出て行った。
それにメディアルナは慌ててついて行き……厨房を出る直前で、くるっと振り返る。
「料理長にエリックさん、ありがとうございました! また遊びに来ますね!」
ぺこっ、と頭を下げ、「ヴァレリオ待ってー!」と騒がしく去って行った。
……まったく。あの呑気なお嬢さまといると、"禁呪の武器"の調査ということを忘れそうになるな。
はぁ……と、ため息をつき、エリスが目を伏せた──直後。
「──ムラのない、綺麗な焼き色を付けるため」
……という、やけに渋い男の声が聞こえ。
エリスは思わず周囲を見回す。
今のは一体、誰の声だ……?
ヴァレリオが戻って来た様子はないが……
すると、また同じ声が厨房に響く。
「フライパンを濡れ布巾で冷ますのは……温度を一〇〇度まで下げ、気泡や焦げ目のない、美しい焼き色を付けるためだ」
エリスは、自分の耳を疑った。
何故なら、その声は……
今まで一度たりとも言葉を発したことのない、モルガン料理長の口から放たれていたから。
パンケーキ調理の後片付けをしながら、こちらに目を向けることなく発せられた料理長の言葉に……
エリスは、わなわなと全身を震わせて、
「しゃ……しゃ………………しゃべったあぁぁああ!!!!」
廊下にまで響き渡らんばかりに、そう叫んだ。




