1-1 気がかりな香り
リンナエウスの街は、今日も平和だった。
呼び込みをする商人。
世間話をするご婦人方。
笑いながら駆け回る子どもたち。
街行く人々は、皆幸せそうな笑顔を浮かべている。
やはりいい街だと、クレアは買い出しに出る度に思う。
しかし、この街の平和は……メディアルナが奏でるあの笛の音によってもたらされた、偽りのものだ。
もし、あの笛が本当に"禁呪の武器"だったとして、そこに封じられた精霊を解放してしまったら……
あの音色は、もう二度とこの街に響かないだろう。
そうなったら、住民たちはどうなるだろうか。
毎朝訪れていた"心の浄化"がなくなり、本来の精神状態のまま生きることになる。
当然、治安も悪化するだろう。
この穏やかな朝の風景も、きっと変わってしまう。
そう確信しながらも、クレアには精霊の解放に対する迷いも罪悪感もなかった。
クレアの恩師でありエリスの実父であるジェフリーの命を奪った『炎神ノ槍』。
漁師のブルーノと友人・シュプーフを苦しめ続けた『風別ツ劔』。
"禁呪の武器"は、関わった者を不幸にする。
そしてその強大すぎる力が暴走すれば、治安の悪化どころではない被害が出てしまう。
このまま放置する方がよっぽど危険だ。
それに……
約束してしまったから。
"精霊の王"に、全ての武器を解放すると。
その約束を違えば、巫女の生まれ変わりであるエリスにどんな危険が及ぶかわかったものではない。
一旦は手を引いてはくれたが、あれは人間とは異なる存在だ。こちらの常識が通用する相手ではない。
エリスを護るためにも、"禁呪の武器"は絶対に解放する。
他の誰がそれを拒んでも、この手を止めることはない。
そう、たとえ……
エリスに殴られたこの左頬が痛もうとも。
「──あれ? クレアルドさん、なんかほっぺた赤いですよ?」
昼前。
隣を歩くブランカが、ベージュ色の髪を揺らしながらクレアの顔を覗き込んだ。
"おつかい係"として、共に午前の買い出しに街へ出たところである。
今朝方エリスに殴られた頬をさすりながら、クレアは困ったような笑みを浮かべる。
「いやぁ、実は寝ぼけて転んだ拍子に椅子の角へぶつけてしまいまして」
「うわー、それは痛そうですねぇ。ていうかクレアルドさんも寝ぼけることがあるんですね。ちょっと意外です」
「そうですか? よくありますよ、寝ぼけること。今朝もエリックに『しっかりしろ』って怒られちゃいました」
「へぇー。確かにエリックさんは朝からシャキシャキしていそうだもんなぁ」
などと、クレアの適当な誤魔化しを素直に信じるブランカ。穏やかで細かいことをあまり気にしない彼の性格には、クレアもいろいろな意味で助けられていた。
街のメイン通りを歩き、大きな十字路に差し掛かったところで……ブランカが足を止める。
「では、今日も二手に分かれて"おつかい"を済ませましょうか」
「はい。重たい物の買い出しをお任せしてしまってすみません」
「いえいえ。クレアルドさんには遠くのお店まで行ってもらいますから、お互い様です。それじゃあまた後で」
そう言って、ブランカは食材の買い出しに、クレアは手紙の発送と日用品の買い出しに向かうべく別れた。
後ろを振り返り、ブランカの姿が見えなくなったことを確認してから……
クレアは、その歩調を速める。
早く"おつかい"を済ませ、行かねばならない場所がある。
かつて、リンナエウス家に女性の使用人を派遣していた『フルーレ斡旋所』。
そして……
クレアが独自に進めるある計画の"拠点"にも、今日は足を運ぶつもりでいた。
ここからは、時間との戦いだ。
ブランカに不自然に思われないよう、すべきことを最短で終わらせて屋敷に戻らなくては。
クレアは街を行き交う人々の間をスルスルと通り抜け、足早に郵便役所へと向かった。
* * * *
──手紙の発送と、必要なものの買い出しを手早く済ませ……
クレアは、賑やかな中心街から離れた街外れへと急ぐ。
所在地は昨日調査済みだ。頭の中の地図を頼りに、彼は最短ルートで進む。
そうして……人もまばらな裏通りに、それを見つけた。
石造りの、古い建物。
『フルーレ斡旋所』だ。
辿り着いた目的地を見上げ、クレアは一度足を止める。
領主の妻が死に、男性の使用人だけになったのが十五年前……その時期に働いていた女性は、経歴書を探った限りではいなかった。
しかし、雇用の間隔がそこだけ不自然に開いていた。その時期にいたはずの使用人の経歴書を、何者かが抜き出した可能性がある。
だから、派遣元であるここを訪ね、当時あの屋敷で働いていた女性は本当にいなかったのか、確かめるのだ。
もし働いていた者がいれば、いろいろと聞き出すことができる。
特に気になるのが、笛を扱っていたという領主の妻の死だ。具体的な死因は何だったのか、そこにあの笛は関係しているのか。女性の使用人を雇わなくなったことと、何か関係はあるのか。その因果関係を調べたい。
まぁ、それらが全て杞憂で、妻は単なる病死、使用人が男性だけになったのもたまたま、ということもあり得なくはないが……
あの時期の経歴書だけ不自然に間隔が開いていたことが、クレアにはどうにも気がかりだった。
リンナエウス家には、何か秘密がある。
それはまだ根拠のない"予感"でしかないが、それを確信へと変える情報が一つでも手に入ればと思いながら……
彼は鉄製の扉を開け、『フルーレ斡旋所』の中へと足を踏み入れた。
──古めかしい外観と打って変わって、斡旋所の中は綺麗で明るい雰囲気だった。
正面にあるカウンターテーブルや書類を収納している棚は白色で統一され、窓枠や壁紙は薄いピンク色に塗られている。花や絵があちこちに飾られており、華やかで女性らしい印象の内装だった。
そのカウンターテーブルの奥に、一人の女性がいる。
三十代半ばくらいだろうか。頭の天辺で結い上げた艶やかな黒髪、唇を彩る真っ赤な口紅、胸元の開いたブラウスに、ピッタリとしたスーツ……と、なかなかに派手な見た目をした女性である。
そんな女性が、クレアを見るなりにこりと微笑んでカウンターの向こうから出て来た。
「あら、男前なお兄さん。いらっしゃい。働き先のご相談? それとも使用人を雇いたいのかしら?」
「こんにちは。すみません、働くわけでも雇うわけでもないのですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして」
クレアは、アルアビスの国章が入った手帳を掲げ、
「国から派遣されて参りました、治安調査員の者です。こちらの斡旋所に保管されている経歴書を拝見したいのですが、責任者の方はいらっしゃいますか?」
……と、久しぶりに『治安調査員』という肩書きを名乗りながら、爽やかな笑みを浮かべ言う。
当然ながらここで馬鹿正直に『軍部』や『特殊部隊』という所属を名乗ったりはしない。
任務の特性から素性を明かせないということもあるが、仰々しい肩書きは相手の警戒心を高め、萎縮や反発を招くことにも繋がる。そういった意味では、『治安調査員』という身分はちょうど良い強制力を持っているのだ。
女性は、クレアの顔と掲げられた手帳を交互に眺め、眉を顰める。
「治安調査……? オーナーはあたしだけど、ウチが何か問題を起こしたって言うの?」
「いえ、実はある方の消息を追っているのですが、かつてこちらに所属していたとの情報が入りまして。経歴書が残っているなら、内容を改めさせていただきたいのです」
ここでもクレアはフェイクを入れる。
領主とこの『フルーレ斡旋所』が共謀して何かを隠蔽している可能性もある。「十五年前」という具体的な時期や「領主の屋敷」というワードは出さない方が懸命だ。
オーナーの女性は「ふーん」と肩をすくめ、
「いきなり来て『経歴書を見せろ』って言われてもねぇ……協力したところで、何かウチに利益はあるの?」
「申し訳ありません。お仕事のお邪魔にならないよう、すぐ終わらせますので」
「んー、どうしようかしら」
「資料の保管場所さえ教えていただければ、探すのは私がやります。お手間は取らせません。何とかお願いできないでしょうか?」
低姿勢な笑みを浮かべながら、クレアは女性に願い出る。
すると……彼女は、口元をニヤリと歪め、
「……そうねぇ。お兄さんかっこいいから……」
──くいっ。
と、クレアの顎を指で持ち上げて……
「……あたしと遊んでくれるなら、言うこと聞いてあげようかなぁ……?」
そう、色気を含んだ声音で囁いた。
赤い唇。ブラウスの胸元から覗く谷間。ツンとした香水の匂い。
女という性を目一杯強調したその誘いに……クレアは昔を思い出す。
この手の要求をされるのは初めてではなかった。
情報収集をしていれば、往々にしてあることだ。
それで捜査が円滑に進むならと、要求に応じることもあった。
だが、今は違う。
今の自分は、もう……あの頃の自分とは、違うから。
クレアは、左頬に感じる痛みを、少し愛おしく思いながら。
「……わかりました。では…………」
オーナーの女性の手を、そっと掴むと……
そのまま背後の壁へ追いやり、顔を近付ける。
そして……
その顔から、スッと微笑みを消して。
「──その色ボケた脳みそでもわかるように言ってやるからよく聞け。これは命令だ。御託はいいからさっさと経歴書を見せろ。逆らえば国家叛逆の疑いありとして強制捜査に踏み切る。当面の間、業務も停止だ。それが嫌なら……早くしろ」
そう、低い声で、淡々と告げた。
言いながら、クレアは胸中で自嘲する。
嗚呼、結局権力で脅すような真似をしてしまった。
これではわざわざ『治安調査員』を名乗った意味がないではないか。
なんて、自ら生んだ矛盾に呆れる一方で……
エリスに対し不誠実なおこないをするよりはずっと良いと、考えていた。
先ほどまでの低姿勢な雰囲気から一変、刺すように冷たい彼の瞳に、オーナーの女性は小さく悲鳴を上げて、
「…………こ、こちらです」
膝を震わせながら、事務所の奥へと彼を案内した。